白瀬詩音は、この二ヶ月で本当に変わった。
外に出られるようになった。夕方のスーパーへ、ひとりで買い物にも行ける。金の勘定を覚え、飯を作れるようになり、祭りにも行けた。
拾った夜の、あの消え入りそうな子は、もうどこにもいない。
……だから俺は、少し欲を出したのかもしれない。
「なあ、詩音」
その夜、味噌汁をすすりながら俺は言った。
「お前さ。……友達とか、作ってみたいと思わないか」
その瞬間。
詩音の箸が、ぴたりと止まった。
***
俺がそれを言ったのには、理由があった。
この子はいつも俺と二人きりだ。それはそれでいい。でも、この子の世界が俺ひとりきりというのは、やっぱり健全じゃない。いつか社会に戻るなら、俺以外の繋がりも要る。同じ年ごろの、一緒に笑ったり悩んだりできる相手が。
……それを言うなら、「俺しかいない」ことにどこか安心している俺も、たぶん健全じゃないのだが。
とにかく、この子にそういう当たり前の繋がりを持ってほしかった。それだけの、善意のつもりだった。
でも俺は、この子のいちばん深い傷に、無自覚に触れてしまっていた。
「……友達」
詩音はうつむいたまま、小さく呟いた。
「わたしに……友達、なんて」
「作れるさ。もう外にも出られるし。……ほら、この前の祭りだって、あんなに楽しめたじゃないか」
「……」
詩音は答えなかった。
さっきまで和やかだった食卓の空気が、すうと冷えていく。
「……あの、佐々木さん」
やがて詩音は、消え入りそうな声で言った。
「……お友達って。……男の人でも、いいのでしょうか」
……ん?
質問の意図が掴めなかった。
「男?」
「はい。……その、佐々木さんみたいな……男のお友達なら。わたし、作れるかもしれません」
なんでそこで男限定なんだ。俺は少し面食らいながら言った。
「いや、男でも女でもいいけど……。でもまあ普通、同じくらいの年の女友達のほうが、いろいろ話しやすいんじゃないか?」
その瞬間。
詩音の顔から、さあっと血の気が引いた。
「……っ」
彼女は俯いて、テーブルの下で自分の手を、指が白くなるほど握りしめた。
「……女の、人は」
その声は震えていた。
「……女の人は……こわい、です」
***
俺はその言葉に、はじめてこの子の傷の輪郭に触れた気がした。
「……こわい?」
「……はい」
詩音は俯いたまま、ぽつり、ぽつりと言葉を落とした。
「わたし……女子校に、通っていました。高校を卒業するまで」
高校を出ている、というのは知っていた。でもその先の話を、俺はまだ聞いたことがなかった。
「そこで……その」
声が途切れる。何かを言おうとして、言えなくて、喉の奥でつかえている。
俺は急かさなかった。ただ待った。
「……クラスの女の子たちに」
やがて彼女は、絞り出すように言った。
「……いじめ、られていました」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「わたし……何がいけなかったのか、今でもよく分からないんです。ある日突然、みんながわたしを無視するようになって。持ち物を隠されたり……悪口を、言われたり」
詩音の声は淡々としていた。その淡々さが、かえって痛々しかった。何度も何度も思い出して、感情がすり切れてしまったような。
「……あとで聞いた話では。わたしが、その……駅や通学路で、他校の男子によく声をかけられていたのが、気に入らなかったみたいで」
彼女は自嘲するように微笑んだ。
「でもわたし、そんなつもり全然なくて。ただ、話しかけられたら答えていただけで。……なのに、『男に媚びてる』って。『ぶりっこ』って。……いつのまにか、わたしはそういうことに、なっていました」
……ああ。
俺はなんとなく、この子の「無防備さ」の正体が分かった気がした。
この子は異性に無頓着だ。俺の前で平気で着替えようとする。悪気も媚びもない、ただ鈍い。
でもその鈍さが、同性からは「男に媚びている」と映ってしまった。この子の無自覚な魅力が、周りの女の子たちの嫉妬を買ってしまった。
この子は何もしていない。ただ、そこにいただけなのに。
「それから、わたし……女の人が、怖くなりました」
詩音は言った。
「同じ年ごろの女の人が、いちばん怖いです。……いつ、わたしを嫌いになるか。いつ、あの冷たい目で見てくるか。そう思うと、怖くてたまらなくて」
だから、と彼女は続けた。
「男の人は……平気なんです。むしろ男の人のほうが、優しくしてくれた。だから佐々木さんにも、こうして普通にいられる。でも……女の人は」
彼女は俯いて、首を横に振った。
「……無理、です。考えるだけで……体が、すくんで」
***
俺はしばらく、何も言えなかった。
この子が外に出られなかった本当の理由。俺の前では無防備なのに、「友達」という言葉に怯えていた理由。
全部、ここに繋がっていた。
この子の傷は「外」そのものじゃない。「同性の視線」だったんだ。
俺はなんて無神経なことを言ったんだろう。女友達を作れだなんて。この子のいちばん深い傷を、何も知らずに抉ってしまった。
「……悪い」
俺は言った。
「知らなかったとはいえ、無神経なことを言った。ごめん」
「いえ……! 佐々木さんは悪くありません。わたしが……わたしが、弱いだけで」
「弱くない」
俺は少し強く言った。
「そんな目に遭ったら、怖くなって当たり前だ。……お前は、弱くなんかない」
詩音は俯いたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。
今日の涙は、今までの「嬉しい涙」とは違った。ずっとこの子の奥底に澱んでいた、古い痛みの涙だった。
「……ごめんなさい。せっかく佐々木さんが言ってくれたのに。……やっぱりわたし、駄目ですね。友達なんて。女の人と仲良くなるなんて……わたしには、一生無理です」
***
その夜は、それ以上何も言えなかった。
俺はただ、この子が泣き止むまで隣にいた。何も解決できなかった。何も言ってやれなかった。
詩音が寝たあと、俺は暗い天井を見上げて考えていた。
……この子の傷は、俺が思っていたよりずっと深い。
外に出る。金を数える。飯を作る。そういう「スキル」は教えればできるようになる。現にこの子はどんどんできるようになった。
でもこの心の傷は、そう簡単じゃない。
女の人が、怖い。
それはこの子がこれから生きていくうえで、ずっとこの子を縛り続ける呪いだ。世界の半分は女性なんだ。同性を避けて生きていくなんて、できるわけがない。
いつかこの子が社会に出るなら、働くなら——女性と関わらずに済むわけがない。
この傷を乗り越えないと、この子は本当の意味では社会に戻れない。
……でも、どうやって?
俺は男だ。この子の「女性が怖い」に寄り添うことはできても、俺自身がその「女友達」になってやることはできない。
これは、俺が隣にいて教えてやれることじゃない。
この子自身が乗り越えるしかない壁だ。
そしてそれはたぶん、この子の社会復帰の道のりで、いちばん高い壁だった。
俺は寝返りを打った。
布団のほうから、まだ少ししゃくりあげるような寝息が聞こえてくる。
……焦るな、と自分に言い聞かせた。
この子はここまで来た。一歩ずつ、無理をせずに。この壁もきっと、いつか。少しずつでも。
今夜は駄目でも。
いつか。
俺は目を閉じた。
隣の寝息が、静かになるのを聞きながら。……いつか、この子が「女の人」と笑って話せる日が来ることを、柄にもなく祈った。
外に出られるようになった。夕方のスーパーへ、ひとりで買い物にも行ける。金の勘定を覚え、飯を作れるようになり、祭りにも行けた。
拾った夜の、あの消え入りそうな子は、もうどこにもいない。
……だから俺は、少し欲を出したのかもしれない。
「なあ、詩音」
その夜、味噌汁をすすりながら俺は言った。
「お前さ。……友達とか、作ってみたいと思わないか」
その瞬間。
詩音の箸が、ぴたりと止まった。
***
俺がそれを言ったのには、理由があった。
この子はいつも俺と二人きりだ。それはそれでいい。でも、この子の世界が俺ひとりきりというのは、やっぱり健全じゃない。いつか社会に戻るなら、俺以外の繋がりも要る。同じ年ごろの、一緒に笑ったり悩んだりできる相手が。
……それを言うなら、「俺しかいない」ことにどこか安心している俺も、たぶん健全じゃないのだが。
とにかく、この子にそういう当たり前の繋がりを持ってほしかった。それだけの、善意のつもりだった。
でも俺は、この子のいちばん深い傷に、無自覚に触れてしまっていた。
「……友達」
詩音はうつむいたまま、小さく呟いた。
「わたしに……友達、なんて」
「作れるさ。もう外にも出られるし。……ほら、この前の祭りだって、あんなに楽しめたじゃないか」
「……」
詩音は答えなかった。
さっきまで和やかだった食卓の空気が、すうと冷えていく。
「……あの、佐々木さん」
やがて詩音は、消え入りそうな声で言った。
「……お友達って。……男の人でも、いいのでしょうか」
……ん?
質問の意図が掴めなかった。
「男?」
「はい。……その、佐々木さんみたいな……男のお友達なら。わたし、作れるかもしれません」
なんでそこで男限定なんだ。俺は少し面食らいながら言った。
「いや、男でも女でもいいけど……。でもまあ普通、同じくらいの年の女友達のほうが、いろいろ話しやすいんじゃないか?」
その瞬間。
詩音の顔から、さあっと血の気が引いた。
「……っ」
彼女は俯いて、テーブルの下で自分の手を、指が白くなるほど握りしめた。
「……女の、人は」
その声は震えていた。
「……女の人は……こわい、です」
***
俺はその言葉に、はじめてこの子の傷の輪郭に触れた気がした。
「……こわい?」
「……はい」
詩音は俯いたまま、ぽつり、ぽつりと言葉を落とした。
「わたし……女子校に、通っていました。高校を卒業するまで」
高校を出ている、というのは知っていた。でもその先の話を、俺はまだ聞いたことがなかった。
「そこで……その」
声が途切れる。何かを言おうとして、言えなくて、喉の奥でつかえている。
俺は急かさなかった。ただ待った。
「……クラスの女の子たちに」
やがて彼女は、絞り出すように言った。
「……いじめ、られていました」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「わたし……何がいけなかったのか、今でもよく分からないんです。ある日突然、みんながわたしを無視するようになって。持ち物を隠されたり……悪口を、言われたり」
詩音の声は淡々としていた。その淡々さが、かえって痛々しかった。何度も何度も思い出して、感情がすり切れてしまったような。
「……あとで聞いた話では。わたしが、その……駅や通学路で、他校の男子によく声をかけられていたのが、気に入らなかったみたいで」
彼女は自嘲するように微笑んだ。
「でもわたし、そんなつもり全然なくて。ただ、話しかけられたら答えていただけで。……なのに、『男に媚びてる』って。『ぶりっこ』って。……いつのまにか、わたしはそういうことに、なっていました」
……ああ。
俺はなんとなく、この子の「無防備さ」の正体が分かった気がした。
この子は異性に無頓着だ。俺の前で平気で着替えようとする。悪気も媚びもない、ただ鈍い。
でもその鈍さが、同性からは「男に媚びている」と映ってしまった。この子の無自覚な魅力が、周りの女の子たちの嫉妬を買ってしまった。
この子は何もしていない。ただ、そこにいただけなのに。
「それから、わたし……女の人が、怖くなりました」
詩音は言った。
「同じ年ごろの女の人が、いちばん怖いです。……いつ、わたしを嫌いになるか。いつ、あの冷たい目で見てくるか。そう思うと、怖くてたまらなくて」
だから、と彼女は続けた。
「男の人は……平気なんです。むしろ男の人のほうが、優しくしてくれた。だから佐々木さんにも、こうして普通にいられる。でも……女の人は」
彼女は俯いて、首を横に振った。
「……無理、です。考えるだけで……体が、すくんで」
***
俺はしばらく、何も言えなかった。
この子が外に出られなかった本当の理由。俺の前では無防備なのに、「友達」という言葉に怯えていた理由。
全部、ここに繋がっていた。
この子の傷は「外」そのものじゃない。「同性の視線」だったんだ。
俺はなんて無神経なことを言ったんだろう。女友達を作れだなんて。この子のいちばん深い傷を、何も知らずに抉ってしまった。
「……悪い」
俺は言った。
「知らなかったとはいえ、無神経なことを言った。ごめん」
「いえ……! 佐々木さんは悪くありません。わたしが……わたしが、弱いだけで」
「弱くない」
俺は少し強く言った。
「そんな目に遭ったら、怖くなって当たり前だ。……お前は、弱くなんかない」
詩音は俯いたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。
今日の涙は、今までの「嬉しい涙」とは違った。ずっとこの子の奥底に澱んでいた、古い痛みの涙だった。
「……ごめんなさい。せっかく佐々木さんが言ってくれたのに。……やっぱりわたし、駄目ですね。友達なんて。女の人と仲良くなるなんて……わたしには、一生無理です」
***
その夜は、それ以上何も言えなかった。
俺はただ、この子が泣き止むまで隣にいた。何も解決できなかった。何も言ってやれなかった。
詩音が寝たあと、俺は暗い天井を見上げて考えていた。
……この子の傷は、俺が思っていたよりずっと深い。
外に出る。金を数える。飯を作る。そういう「スキル」は教えればできるようになる。現にこの子はどんどんできるようになった。
でもこの心の傷は、そう簡単じゃない。
女の人が、怖い。
それはこの子がこれから生きていくうえで、ずっとこの子を縛り続ける呪いだ。世界の半分は女性なんだ。同性を避けて生きていくなんて、できるわけがない。
いつかこの子が社会に出るなら、働くなら——女性と関わらずに済むわけがない。
この傷を乗り越えないと、この子は本当の意味では社会に戻れない。
……でも、どうやって?
俺は男だ。この子の「女性が怖い」に寄り添うことはできても、俺自身がその「女友達」になってやることはできない。
これは、俺が隣にいて教えてやれることじゃない。
この子自身が乗り越えるしかない壁だ。
そしてそれはたぶん、この子の社会復帰の道のりで、いちばん高い壁だった。
俺は寝返りを打った。
布団のほうから、まだ少ししゃくりあげるような寝息が聞こえてくる。
……焦るな、と自分に言い聞かせた。
この子はここまで来た。一歩ずつ、無理をせずに。この壁もきっと、いつか。少しずつでも。
今夜は駄目でも。
いつか。
俺は目を閉じた。
隣の寝息が、静かになるのを聞きながら。……いつか、この子が「女の人」と笑って話せる日が来ることを、柄にもなく祈った。
