七月の終わり。
近所の神社で夏祭りがあると知ったのは、電柱に貼られたポスターからだった。
「祭り、か……」
思わず足を止めた。
夏祭り。屋台。花火。……人混み。
この一年、俺自身そういう賑やかな場所とはまるで縁がなかった。人の多いところはそれだけで疲れる。行く理由も、一緒に行く相手もいなかった。
でも。
ふと思ったのだ。詩音を連れて行ったら、どうだろうと。
夜の祭りなら、人混みではあるけれど夜の暗がりの中だ。みんな祭りに夢中で、他人のことなど気にしていない。この子が苦手にしている人の多さも人の目も、比較的薄い場所。
そして何より——祭りは「楽しい」場所だ。
この子に教えたかった。外に出るのは怖いことばかりじゃない。人がたくさんいる場所にも、こんなに楽しいことがあるんだと。
夜の公園で「外は綺麗だ」を知ったあの子に、次は「外は楽しい」を。
「詩音」
その夜、俺は切り出した。
「今度の土曜、近くで夏祭りがあるんだ。……行ってみないか」
***
当日。
詩音は朝からそわそわしていた。
というのも、祭りに着ていく服をどうするかで大騒ぎだったのだ。……いや、正確には俺が余計なことを言ったせいだ。
「祭りって、浴衣とか着るもんじゃないのか?」
何気なく言ったら、詩音が目を輝かせてしまった。
「浴衣……! 着て、みたいです……!」
……で、結局その日の昼、人の少ない時間を狙って、二人でまた買いに行く羽目になった。
安物の既製品だったけれど、淡い紺地に白い朝顔の柄の浴衣。
着付けが、また大変だった。俺は当然、浴衣の着付けなんてできない。詩音もできない。二人でスマホの動画とにらめっこしながら四苦八苦して、帯が曲がったり緩んだり。半分諦めかけたころに、なんとか形になった。
「……で、できました、佐々木さん」
鏡の前で、少し着崩れた浴衣を着た詩音が振り返る。
紺地に朝顔。黒い髪を慣れない手つきで結い上げて、うなじが少し覗いている。
……この子は、こういう格好も似合うんだなと思った。
「……似合ってる。行くか」
俺は努めて短く言った。長く喋ると、なんかボロが出そうだった。
***
神社は思ったより賑わっていた。
参道にずらりと並んだ屋台。提灯のあかり。焼きそばやたこ焼きの匂い。子供たちのはしゃぐ声。浴衣姿の人々。
その人混みを見た瞬間。
詩音の足が、止まった。
……やっぱりか。俺は少し緊張した。人の多さにこの子がまたすくんでしまうかもしれない。無理ならすぐ引き返そう。そう思っていた。
でも。
「……佐々木さん」
詩音は人混みを見つめたまま言った。その声は震えて——いなかった。
「なんだか……いい匂いが、します」
彼女の目は、恐怖じゃなく好奇心で輝いていた。
屋台のあかり。楽しげな喧騒。それを見るこの子の目にあったのは、怯えじゃなかった。
「あれは……なんのお店でしょう」
「あれはたこ焼き。……食ったことないか」
「たこ焼き……! 名前は知っています……! 食べて、みたいです……!」
その瞬間、俺は確信した。
ああ、この子は大丈夫だ。
この場所を、この子は怖い場所じゃなく、楽しい場所だと感じている。
***
そこからの詩音は、もう止まらなかった。
たこ焼きを頬張って、熱さにはふはふして。りんご飴のあまりの赤さに感動して。金魚すくいで一匹もすくえずに半泣きになって。射的で俺が景品を外しまくるのを見て、けらけら笑って。
その笑顔を、俺はずっと隣で見ていた。
拾ったあの夜、街灯の下で消え入りそうに「往来のお邪魔でしたでしょうか」と詫びていたあの子と、同じ人間とは思えなかった。
今、俺の隣でたこ焼きを頬張り、りんご飴を掲げて無邪気に笑っているこの子は、どこにでもいる幸せそうな女の子だった。
「佐々木さん! さっきの金魚すくい、もう一回やったら、今度こそすくえるでしょうか」
「どうかな。さっきは紙を水につけすぎてたぞ」
「……! そうなんですね。次は、そっとやってみます」
次は。
その言葉を、この子がこんなに楽しそうに言うようになった。それだけで、なんだか俺まで嬉しくなる。
***
祭りの終わり。
境内の奥のほうの、少し人の少ない石段に二人で腰を下ろした。
もうすぐ花火が上がるらしい。
詩音はまだ祭りの余韻に、頬を上気させていた。
「佐々木さん」
「ん?」
「わたし、今日……生まれてはじめて、お祭りに来ました」
彼女は夜空を見上げて言った。
「家にいたころは……こんな賑やかな場所、一生来られないと思っていました。人がたくさんいる場所は……怖くて、たまらなかったので」
それが、と彼女は微笑んだ。
「今日は……全然、怖くなかったです。……ううん。楽しかった。すごく、すごく、楽しかった」
その横顔を、提灯のあかりがやわらかく照らしていた。
「……外の世界って」
詩音はぽつりと言った。
「こんなに楽しいこと、たくさんあったんですね。わたし……ずっと、知らないでいました」
俺はその言葉を聞きながら、胸の奥がじんとするのを感じた。
この子が変わっていく。俺の隣で。外の世界を知って、人生を取り戻していく。
……嬉しい。
嬉しいはずなのに、そのすぐ隣で、またあの名前のつかない小さな寂しさみたいなものが、ほんの一瞬顔をのぞかせて、すぐに引っ込んだ。
……なんだ、これは。
俺はその得体の知れない感覚をうまく言葉にできなくて、とりあえず脇に置いた。
「佐々木さん?」
「……ん?」
「どうかしましたか。難しいお顔をして」
詩音が俺の顔を覗き込んでいた。
「……いや」
俺は首を振って言った。
「なんでもない。……お前が楽しそうで、よかったなって思ってた」
嘘じゃない。それは本心だった。
「はい……! 佐々木さんの、おかげです」
詩音が笑った。
その瞬間。
どん、と。
夜空に大きな花火が上がった。
「わあ……!」
詩音が空を見上げる。
赤、青、金。次々と夜空に花が咲いては散る。その光が、この子の上気した頬を色とりどりに照らしていた。
俺は花火じゃなくて、その花火を見上げるこの子の横顔ばかり見ていた。
拾った夜、路上で膝を抱えて震えていた子が、今こんなに綺麗な顔で笑って、空を見上げている。
それを隣で見られて——よかったと、素直に思った。
「綺麗ですね! 佐々木さん!」
「……ああ。綺麗だ」
俺はそう答えた。
夜空にまた大きな花火が咲いた。その光と音の中で、俺はただ、この子の隣に座っていた。
近所の神社で夏祭りがあると知ったのは、電柱に貼られたポスターからだった。
「祭り、か……」
思わず足を止めた。
夏祭り。屋台。花火。……人混み。
この一年、俺自身そういう賑やかな場所とはまるで縁がなかった。人の多いところはそれだけで疲れる。行く理由も、一緒に行く相手もいなかった。
でも。
ふと思ったのだ。詩音を連れて行ったら、どうだろうと。
夜の祭りなら、人混みではあるけれど夜の暗がりの中だ。みんな祭りに夢中で、他人のことなど気にしていない。この子が苦手にしている人の多さも人の目も、比較的薄い場所。
そして何より——祭りは「楽しい」場所だ。
この子に教えたかった。外に出るのは怖いことばかりじゃない。人がたくさんいる場所にも、こんなに楽しいことがあるんだと。
夜の公園で「外は綺麗だ」を知ったあの子に、次は「外は楽しい」を。
「詩音」
その夜、俺は切り出した。
「今度の土曜、近くで夏祭りがあるんだ。……行ってみないか」
***
当日。
詩音は朝からそわそわしていた。
というのも、祭りに着ていく服をどうするかで大騒ぎだったのだ。……いや、正確には俺が余計なことを言ったせいだ。
「祭りって、浴衣とか着るもんじゃないのか?」
何気なく言ったら、詩音が目を輝かせてしまった。
「浴衣……! 着て、みたいです……!」
……で、結局その日の昼、人の少ない時間を狙って、二人でまた買いに行く羽目になった。
安物の既製品だったけれど、淡い紺地に白い朝顔の柄の浴衣。
着付けが、また大変だった。俺は当然、浴衣の着付けなんてできない。詩音もできない。二人でスマホの動画とにらめっこしながら四苦八苦して、帯が曲がったり緩んだり。半分諦めかけたころに、なんとか形になった。
「……で、できました、佐々木さん」
鏡の前で、少し着崩れた浴衣を着た詩音が振り返る。
紺地に朝顔。黒い髪を慣れない手つきで結い上げて、うなじが少し覗いている。
……この子は、こういう格好も似合うんだなと思った。
「……似合ってる。行くか」
俺は努めて短く言った。長く喋ると、なんかボロが出そうだった。
***
神社は思ったより賑わっていた。
参道にずらりと並んだ屋台。提灯のあかり。焼きそばやたこ焼きの匂い。子供たちのはしゃぐ声。浴衣姿の人々。
その人混みを見た瞬間。
詩音の足が、止まった。
……やっぱりか。俺は少し緊張した。人の多さにこの子がまたすくんでしまうかもしれない。無理ならすぐ引き返そう。そう思っていた。
でも。
「……佐々木さん」
詩音は人混みを見つめたまま言った。その声は震えて——いなかった。
「なんだか……いい匂いが、します」
彼女の目は、恐怖じゃなく好奇心で輝いていた。
屋台のあかり。楽しげな喧騒。それを見るこの子の目にあったのは、怯えじゃなかった。
「あれは……なんのお店でしょう」
「あれはたこ焼き。……食ったことないか」
「たこ焼き……! 名前は知っています……! 食べて、みたいです……!」
その瞬間、俺は確信した。
ああ、この子は大丈夫だ。
この場所を、この子は怖い場所じゃなく、楽しい場所だと感じている。
***
そこからの詩音は、もう止まらなかった。
たこ焼きを頬張って、熱さにはふはふして。りんご飴のあまりの赤さに感動して。金魚すくいで一匹もすくえずに半泣きになって。射的で俺が景品を外しまくるのを見て、けらけら笑って。
その笑顔を、俺はずっと隣で見ていた。
拾ったあの夜、街灯の下で消え入りそうに「往来のお邪魔でしたでしょうか」と詫びていたあの子と、同じ人間とは思えなかった。
今、俺の隣でたこ焼きを頬張り、りんご飴を掲げて無邪気に笑っているこの子は、どこにでもいる幸せそうな女の子だった。
「佐々木さん! さっきの金魚すくい、もう一回やったら、今度こそすくえるでしょうか」
「どうかな。さっきは紙を水につけすぎてたぞ」
「……! そうなんですね。次は、そっとやってみます」
次は。
その言葉を、この子がこんなに楽しそうに言うようになった。それだけで、なんだか俺まで嬉しくなる。
***
祭りの終わり。
境内の奥のほうの、少し人の少ない石段に二人で腰を下ろした。
もうすぐ花火が上がるらしい。
詩音はまだ祭りの余韻に、頬を上気させていた。
「佐々木さん」
「ん?」
「わたし、今日……生まれてはじめて、お祭りに来ました」
彼女は夜空を見上げて言った。
「家にいたころは……こんな賑やかな場所、一生来られないと思っていました。人がたくさんいる場所は……怖くて、たまらなかったので」
それが、と彼女は微笑んだ。
「今日は……全然、怖くなかったです。……ううん。楽しかった。すごく、すごく、楽しかった」
その横顔を、提灯のあかりがやわらかく照らしていた。
「……外の世界って」
詩音はぽつりと言った。
「こんなに楽しいこと、たくさんあったんですね。わたし……ずっと、知らないでいました」
俺はその言葉を聞きながら、胸の奥がじんとするのを感じた。
この子が変わっていく。俺の隣で。外の世界を知って、人生を取り戻していく。
……嬉しい。
嬉しいはずなのに、そのすぐ隣で、またあの名前のつかない小さな寂しさみたいなものが、ほんの一瞬顔をのぞかせて、すぐに引っ込んだ。
……なんだ、これは。
俺はその得体の知れない感覚をうまく言葉にできなくて、とりあえず脇に置いた。
「佐々木さん?」
「……ん?」
「どうかしましたか。難しいお顔をして」
詩音が俺の顔を覗き込んでいた。
「……いや」
俺は首を振って言った。
「なんでもない。……お前が楽しそうで、よかったなって思ってた」
嘘じゃない。それは本心だった。
「はい……! 佐々木さんの、おかげです」
詩音が笑った。
その瞬間。
どん、と。
夜空に大きな花火が上がった。
「わあ……!」
詩音が空を見上げる。
赤、青、金。次々と夜空に花が咲いては散る。その光が、この子の上気した頬を色とりどりに照らしていた。
俺は花火じゃなくて、その花火を見上げるこの子の横顔ばかり見ていた。
拾った夜、路上で膝を抱えて震えていた子が、今こんなに綺麗な顔で笑って、空を見上げている。
それを隣で見られて——よかったと、素直に思った。
「綺麗ですね! 佐々木さん!」
「……ああ。綺麗だ」
俺はそう答えた。
夜空にまた大きな花火が咲いた。その光と音の中で、俺はただ、この子の隣に座っていた。
