引きこもりのお嬢様を拾ったから社会復帰させる

 問題が発覚したのは、梅雨の晴れ間のある朝だった。

 洗濯物を干していた詩音が、困った顔で俺のところにやってきた。

「あの、佐々木さん。……わたしの、着るものが、そろそろ」

 言われて気づいた。

 この子が来てから、もうひと月あまり。そのあいだ詩音が着ていたのは、拾った夜のあのワンピースと、俺がはじめての買い出しで適当に見繕った大きすぎるパーカーとハーフパンツ。それだけだった。

 女物の服を選ぶ度胸がなくて、部屋着になりそうなのをいちばん地味なやつで、勘で買ったあれだ。

 足りるわけがない。洗って着回してなんとかしのいでいたけれど、さすがに限界だった。

「……悪い。気が回ってなかった」

 俺は素直に謝った。自分の服なんて何ヶ月も同じのを着回している人間だから、他人の着替えの必要にまで頭がいっていなかった。

「じゃあ、買いに行くか。服」

 言ってから、はたと詰まった。

 服を買う。それはいい。

 でも、女物の服を——この子の服を、俺が選ぶのか?

 ……無理だ。絶対に無理だ。

***

 結論から言うと、俺たちはその日の夕方、二人で服を買いに行った。

 例によって人の少ない時間帯の、駅前のショッピングモール。詩音にとってははじめての「服屋」だった。

 というのも、この子はこれまで、服を自分で買ったことがなかったのだ。

 金の話と同じだった。着るものはいつも誰かが見繕ってくれた。仕立て屋が家に来た。あるいは「お嬢様には、これがお似合いです」と、誰かが選んだものを着せられた。

 だからこの子は知らない。

 自分で服を選ぶ、ということを。自分は何が好きなのか、ということを。

***

 女性もののフロア。

 俺は正直、完全に場違いだった。うだつの上がらない三十男がひとり、色とりどりの服の海のまんなかで浮いている。店員の視線が痛い。

 でも詩音は、それどころじゃなかった。

 棚に並んだ服、服、服。その物量を前に、この子はまたあのフリーズ状態に陥っていた。

「……佐々木さん」

「ん?」

「……どれを選べばいいのか、わかりません」

 やっぱりそうなるか。

「これ、ぜんぶ……わたしが、選んでいいのですか?」

「そうだよ。好きなの選べ」

「好きな、の……」

 詩音は途方に暮れた顔で服の海を見渡した。

 鮭か梅かであんなに悩んだ子だ。何百着のなかから一着を選ぶなんて、この子には天文学的な難題だろう。

 でも、ここは俺が選んじゃいけない気がした。

「時間はいくらでもある」

 俺は言った。

「一個ずつ見ていけ。手に取って、いいなと思ったら鏡で当ててみろ。……ピンと来たやつが、お前の『好き』だ」

「ピンと、来た……」

「そう。理由なんてなくていい。なんかいいな、って思ったら、それが正解」

 詩音はおそるおそる、一着の服に手を伸ばした。

***

 そこからは長かった。

 この子は一着一着、本当に真剣に選んでいた。手に取り、鏡に当て、首をかしげて棚に戻す。また別のを手に取って。

 俺は少し離れたところからそれを見ていた。

 だんだん分かってきたことがあった。

 この子が手を止めるのは、決まって淡い色のシンプルな服だった。派手な色や露出の多いものには目もくれない。清楚で上品で、どこか控えめな——ああ、この子の「好き」はこういうものなんだなと、育ちがそのまま出ている気がした。

 やがて詩音は一着のワンピースを手に取って、長いこと鏡の前でそれを当てていた。

 淡い水色の、袖の長い清楚なワンピース。

「……これ」

 彼女は小さく呟いた。

「これ、なんだか……好き、かもしれません」

 自信なさげな顔だった。でもその目には、さっきまでなかった光があった。

「いいじゃん」

 俺は言った。

「似合うと思うぞ。……試着してみたら?」

「し、試着」

「そこの部屋で実際に着てみるんだ。買う前に確かめられる」

 詩音はこくりと頷いて、店員に案内され、試着室に消えていった。

***

 しばらくして、試着室のカーテンが開いた。

「あの……どう、でしょうか」

 出てきた詩音を見て、俺は——一瞬、言葉を失った。

 淡い水色のワンピース。それは驚くほどこの子に似合っていた。

 大きすぎるパーカーに埋もれていたこの子が、拾った夜の薄汚れたワンピースを着ていたあの子が、まるで別人みたいに——ちゃんとした、育ちのいい、綺麗な女の子に見えた。

 黒い艶やかな髪と淡い水色が、驚くほど合っている。

「……佐々木さん?」

 詩音が不安そうに俺を見た。俺が黙ってしまったから。

「あの……変、でしょうか。似合って、ませんか……?」

「……いや」

 なぜだかまっすぐ見ていられなくて、俺は少し目を逸らした。

「……似合ってる。すげえ似合ってる。うん」

 我ながら間抜けな語彙だった。でも、それしか出てこなかった。

 詩音は俺の言葉を聞いて、ぱあ、と顔を輝かせた。

「……! ほんとう、ですか」

 それから鏡の中の自分を見て、少し照れたように笑った。

***

 結局、その水色のワンピースと、あと何着か普段使いの服を買った。

 会計は当然俺がした。詩音はしきりに「こんなにいいのでしょうか」「高すぎませんか」と恐縮していたけれど——まあ、これくらいは。減っていく通帳のことは、いったん頭の隅に押しやった。

 帰り道。

 詩音は新しい服の入った袋を、それはもう大事そうに抱えていた。宝物みたいに。

「佐々木さん」

「ん?」

「わたし、はじめて……自分で、服を選びました」

「おう」

「自分の『好き』で選んだ服、はじめてです。……着るの、楽しみです」

 そのはしゃいだ横顔を、俺は隣で見ていた。

 この子は変わっていく。外に出られるようになって、自分で服を選べるようになって、日に日に。

 その変化は俺が望んだことのはずだ。この子を社会に戻すこと。ちゃんとひとりで生きていけるようにすること。

 なのに、なぜだろう。素直に喜んでいる自分の隅っこに、ほんの少しだけ、名前のつかない何かがちくりと引っかかった。

 ……気のせいだ。

 俺はその小さな引っかかりを、とりあえず見ないふりをして歩いた。

「よかったな。……似合ってたよ、ほんと」

「はい……! ありがとうございます」

***

 その日の夜。

 詩音はさっそく新しい服の一着に着替えようとして——俺の目の前で、また無防備にパーカーを脱ごうとした。

「わー! だから、着替えはあっちでって言ってるだろ!」

「あ……! も、申し訳ございません、つい……!」

 慌てて風呂場に逃げる俺。きょとんとする詩音。

 いつものやりとり、のはずだった。

 でも今日は、なんだか。いつもよりずっと心臓に悪かった。

 昼間のあの試着室の水色が、妙に目に焼きついて離れなかったせいだろうか。

 ……まったく。

 俺は風呂場の壁にもたれて、ひとつ大きなため息をついた。

 変なため息だと自分でも思った。その理由を、俺は深くは考えないことにした。