引きこもりのお嬢様を拾ったから社会復帰させる

 夜の散歩は、いつのまにか二人の日課になっていた。

 はじまりは、寝る前に近所の自販機まで往復する、ほんの数十メートルの遠征だった。それが角ひとつぶん延び、ふた筋ぶん延びて、気づけば毎晩、寝る前にそのへんをひと回りするのが当たり前になっていた。

 この子はもう、近所になら出られる。夕方の人の少ない時間なら、すぐそこのスーパーまで行って、買い物をして、レジで支払いまでできる。拾った夜、玄関の光の前で足がすくんでいた子が、だ。この一ヶ月ほどで、ずいぶん遠くまで来た。

 とはいえ、それはあくまで「見慣れた近所」の話だった。

 毎日通る道。知っている景色。その範囲でならこの子はもう平気になった。でも一歩その外側に出ると、話は別だった。

 だから俺たちの散歩は、少しずつ「知っている範囲」を広げていく作業でもあった。昨日はいつものスーパーのひとつ先の角まで。今日はそのまたふたつ先、公園の入り口まで。

 この子の歩ける世界は、そうやって一晩に数十メートルずつ広がっていった。

***

 ある晩のことだった。

 いつものように二人で夜道を歩いていた。詩音はもう、俺のパーカーの裾をつままない。隣を、ちゃんと自分の足で歩いている。

 空を見上げると、月がやけに綺麗だった。

「佐々木さん」

「ん?」

「あのお月さま……こうして外で見ると、とても綺麗ですね」

 詩音は月を見上げたまま言った。

「窓越しに見るのとは……ぜんぜん、違います」

 俺はその横顔を見た。

 外の景色にこんなふうに素直に見とれるようになったのも、この一ヶ月の変化のひとつだった。

「……なあ」

 俺は少し思いきって言ってみた。

「今度さ、もう少し遠くまで行ってみるか」

「遠く、ですか?」

「ああ。この辺をぐるっと回るだけじゃなくて……ちょっと歩いた先に、でかい公園があるんだ。夜はほとんど人もいない。そこまで行ってみないか」

 詩音の足が止まった。

 でかい公園。それは今まで歩いてきた「知っている範囲」の、ずっと外側だ。行ったことのない道。見たことのない場所。

 この子にとっては、それがまだ少しこわいのだろう。

 案の定、彼女の顔にためらいがよぎった。

「……そんな遠くまで。わたし、行ったことがなくて」

「無理だと思ったら、途中で引き返せばいい。誰も怒らない」

 俺はできるだけ軽い調子で言った。

「行けるとこまででいいよ。……俺もいるし」

 詩音はしばらく月を見上げていた。

 それから、こくりと頷いた。

「……行って、みたいです」

***

 翌晩。

 俺たちはいつもより少し早めに部屋を出た。公園までは大人の足で十五分ほど。詩音の足だともう少しかかるだろう。

 夜道を二人で歩く。

 最初のうちは詩音も平気そうだった。見慣れた近所、いつもの散歩コース。鼻歌まじりの余裕すらあった。

 でも、いつもの折り返し地点を通り過ぎたあたりから、だんだん口数が減っていった。

 見たことのない景色。歩いたことのない道。街灯の数が減って、暗がりが増える。それだけのことが、この子の緊張を少しずつ高めていくのが分かった。

「……佐々木さん」

「ん?」

「まだ、ですか」

「もうちょいだ。あの角を曲がったら見えてくる」

 詩音の歩調が少し遅くなる。俺はそれに合わせてゆっくり歩いた。急かしてはいけない。この子のペースでいい。

 角を曲がる。

 その先に——夜の公園が広がっていた。

「……わあ」

 詩音が息をのんだ。

 広い芝生。大きな木々。街灯に照らされた遊具のシルエット。昼間は子供たちで賑わうのだろうその場所は、夜にはしんと静まりかえって、まるで二人だけの秘密の庭みたいだった。

 池の水面に、さっきの月が揺れて映っている。

「すごい……こんな場所が、こんな近くに……」

 詩音はふらふらと公園に足を踏み入れた。

 さっきまでの緊張が嘘みたいに、その顔が輝いている。芝生の感触を確かめるように一歩、一歩。それからくるりと振り返って俺を見た。

「佐々木さん! 見てください、月が、池に……!」

「ああ。綺麗だな」

「はい……! とても、綺麗です……!」

 この子がこんなにはしゃぐのを、俺ははじめて見た気がした。

 拾ったころの、あの行儀のいい消え入りそうな笑いかたじゃない。子供みたいに無邪気で、まっすぐな笑顔。

 ……そうか、と思った。

 この子はたぶん、こういう時間を——知らない場所まで来てみたら、そこに綺麗なものがあった、という当たり前の冒険を——ずっと知らないまま生きてきたんだ。

 この子が外を怖がる理由。それがなんなのか、俺はまだ聞いていない。聞いていないけど、きっと何かあるんだろう。これだけ外を避けてきたことには。

 でも今夜は、それを詮索する夜じゃない。

 ただ、この子がひとつ遠くまで来られた。それでいい。

***

 ベンチに並んで座った。

 自販機で買ったあたたかい缶のお茶を、二人で飲む。詩音は両手で缶を包んで、その温かさを大事そうに味わっていた。

「佐々木さん」

「ん?」

「わたし、今日……すごく遠くまで来ました」

「そうだな。よく歩いた」

「はい。……こんなに知らない場所まで来たの、ひさしぶりです」

 詩音は夜空を見上げた。

「家にいたころは……知らない場所なんてこわくて、一歩も踏み出せないと思っていました。わたしには一生、無理なんだと」

 それが、と彼女は俺のほうを見た。

「今日、こんなに遠くまで来られました」

「歩いたのは、お前の足だ」

 俺は言った。

「俺は隣にいただけ。……お前が自分で、ここまで来たんだよ」

 詩音は目を丸くした。

 それからその言葉を噛みしめるように、自分の足元を見つめた。芝生を踏んでいる自分の靴を。

「……わたしの、足で」

「そう」

「わたしが……自分で……」

 じわ、とその目にまた膜が張るのが分かった。この子は本当によく泣く。でも拾ったころの悲しい涙とは、少しずつ種類が変わってきている気がした。

 俺はなんとなくそれを見なかったふりをして、お茶を飲んだ。

 この子はこうやって、少しずつ自分の世界を広げている。

 拾った夜、路上で膝を抱えてうずくまっていた子が、今は自分の足でこんな遠くまで歩いてこられる。

 俺がやっているのは、その世界を広げる手伝いだ。いつか俺がいなくても、この子がどこへでも自分の足で行けるように。

「……そろそろ帰るか」

 俺は立ち上がった。あたたかい缶を握ったまま。

「はい」

 詩音も立ち上がる。その足取りは来たときより、ずっとしっかりしていた。

***

 帰り道。

 詩音は来たときとはうって変わって、ずっと喋っていた。

 あの木が大きかった。池の月が綺麗だった。今度は昼にも来てみたい——あ、でも昼はまだ無理でしょうか。いえ、いつか、きっと。

 その弾んだ声を聞きながら、俺は思っていた。

 この子はもう、俺が思っているよりずっと前に進んでいる。

 拾った夜、路上で震えていた子が、今は夜の公園まで自分の足で歩けるようになった。ほんの一ヶ月ほどで。

 ……なら、俺はどうなんだ。

 この子にあれこれ教えて、前に進めなんて言っておいて。俺自身はいつまで、この扉の内側にうずくまっているつもりだ。

 拾った側の俺が、この子より後ろにいてどうする。

 夜風が二人の間を吹き抜けていった。もう夏の匂いが少し混じっている。

「佐々木さん」

「ん?」

「今日は、ありがとうございました。……わたし、また、ひとつ遠くまで来られました」

 俺は少し笑った。

「おう。また行こうな。……次は、もっと遠くまで」

「はい……!」

 次は、もっと遠くまで。

 それはこの子に言った言葉だった。

 でも同時に、俺自身に言い聞かせた言葉でもあった気がする。

 この子が外へ外へと世界を広げていくなら、俺もそろそろ、この扉の外に——もう一度、出てみなきゃいけない。

 月が俺たちの少し前を照らしていた。二人分の影が、夜道に長く伸びていた。