白瀬詩音は、金の勘定がまるでできなかった。
いや、正確に言えば、足し算引き算ができないという話じゃない。計算そのものはむしろ俺なんかよりよほど速い。ちゃんとした教育を受けてきたのは間違いないのだ。
できないのは「値段の重さ」のほうだった。
同居して一週間が過ぎたころ、俺は家の金の管理を少しずつこの子にも覚えてもらおうと思い立った。二人で暮らす以上、いつまでも俺ひとりが握っているのも違う気がしたし、「家のことを覚える」の一環としても、金の勘定は避けて通れない。
そこでまず、財布を渡してみた。
「これ、当面の食費な。一週間、これでやりくりする。何をいくらで買うか、自分で考えてみろ」
詩音は渡された数枚の紙幣を、両手でうやうやしく受け取った。まるで賞状か何かみたいに。
「……あの、佐々木さん」
「ん?」
「これは……たくさん、なのでしょうか。それとも、少し、なのでしょうか」
……なるほど。そこからか。
***
この子が「お金を持ったことがない」というのは、拾った夜に思い知らされていた。財布の入っていない鞄。ハンカチと、もう開かない家の鍵しか入っていなかった、あの小さな鞄。
支払いはいつも「家の者」が済ませてくれた。ほしいものは、望めば目の前に現れた。この子の人生に「値札を見る」という工程は、一度も存在しなかったのだ。
だから金額が、ただの数字にしか見えない。百円と一万円の重みの違いが分からない。それがどれだけの労働や我慢や時間と引き換えのものなのか——その感覚がまるごと抜け落ちている。
これは思っていたより根が深いぞ。
俺は方針を変えた。座学より実地だ。
「……よし。買い物、行くか」
言ってから、しまったと思った。この子は外に出られない。玄関の光の前で足がすくむ子だ。
ところが。
「……はい」
詩音はこくりと頷いた。顔は少しこわばっていたけれど。
この一週間、寝る前に二人で近所の自販機まで往復するのが、なんとなくの日課になっていた。人のいない夜道をほんの数十メートル。それでも、はじめは玄関で震えていた子が、少しずつ夜の外気に慣れてきていた。
昼の、人のいる時間はまだ無理だ。でも——夕方の人の少ない時間の、すぐそこのスーパーくらいなら。
「行けそうか」
「……行って、みたいです」
また、その言葉だ。行ってみたい。
拾った夜には絶対に出てこなかった台詞が、この子の口からぽつぽつと増えていく。俺はそれが地味に嬉しかった。
***
夕方のスーパー。
人はまばらだったが、それでも詩音は俺のパーカーの裾を、後ろからきゅっとつまんでいた。はぐれまいとする子犬みたいに。……まあ、実際、拾った身ではあるんだが。
カゴを渡して、俺は言った。
「今夜の晩めしの材料な。予算はこの財布のぶん。何を作るか決めて、材料を集めて、自分で払ってみろ」
「わ、わたしが、ですか」
「そう。俺は口出ししない。……よっぽど変なことしたら止めるけど」
詩音はごくりと唾を飲み、意を決したように売り場へ踏み出した。
……そして最初の棚の前で、さっそく固まった。
「佐々木さん」
「ん?」
「この、お卵は……六個で二百円ですが」
「ああ」
「こちらの、お卵は……十個で二百五十円、です」
「うん」
「……どちらなのでしょう。数が多いほうがよいのか、お安いほうがよいのか……わたし、どちらを選べば正しいのか」
卵ひとパック選ぶのに、この世の真理でも問うような深刻な顔をしている。
俺は笑いをこらえながら教えた。一個あたりの値段を計算するんだ、と。六個入りは一個約三十三円、十個入りは一個二十五円。だからたくさん使うつもりなら、十個入りのほうが「お得」なんだ、と。
「一個あたり……! そういう見かたが……!」
詩音の目がかっと見開かれた。世界の秘密の扉がひとつ開いたみたいに。
「では、こちらのお砂糖も……ええと、こちらがグラムあたり……!」
そこからの詩音は、すごかった。
憑かれたように、あらゆる商品の単価を計算しはじめたのだ。牛乳、豆腐、パン、洗剤。ひとつひとつ真剣な顔で、電卓みたいに弾いていく。もともと計算は速いのだ。武器を手に入れてしまった。
「佐々木さん! こちらのお豆腐、隣の棚の特売品のほうが、グラムあたり四円もお安いです!」
「お、おう。よかったな」
「四円ですよ! ……四円って、どのくらいすごいのでしょう?」
「……いや、それはそんなにすごくはない」
単価の概念は覚えたが、その四円が人生においてどれほどの重みなのかは、まだ分かっていないらしい。片方だけ覚えた。
でも、それでいい。今日はそれでいい。
***
問題は、会計だった。
レジに並ぶ。詩音は生まれてはじめて、自分で「支払い」というものをする。財布を両手でぎゅっと握りしめ、緊張の面持ちで順番を待っていた。
……ここで俺は、少し意地悪をした。
教えなかったのだ。「レジでは店員さんが金額を言うから、それに合わせて払う」という当たり前の手順を。
自分の頭でやらせてみたかった。
順番が来る。店員が商品をスキャンして告げた。
「千二百三十円になります」
詩音は財布を開けて——固まった。
千二百三十円。その金額を、どう紙幣と硬貨で組み立てればいいのか。千円札を出して、二百三十円をどう作るのか。百円玉二枚と十円玉三枚。それをとっさに手のなかで組み立てる。
……それが、できなかった。
この子はこれまで一度も、レジで金を払ったことがないのだ。頭では分かっていても指が動かない。後ろに人が並んでいるというプレッシャーもあった。
「え、ええと……こ、こちらで……」
焦った詩音が、震える手で財布から取り出したのは。
なぜか、あるだけの小銭を両手いっぱいにすくい取った状態だった。
「……これで、足りますでしょうか……!」
じゃら、と大量の小銭をトレーにあけようとする。
「待て待て待て」
俺は慌ててその手を止めた。店員さんが若干引いている。
「……貸してみ」
詩音の財布から千円札を一枚、百円玉を二枚、十円玉を三枚つまみ出して、トレーに並べた。
「ほら、千二百三十円。……こうやって、なるべくぴったりか、お釣りが少なくなるように出すんだ」
「……こんなに、簡単に……」
詩音は俺の手つきを、呆然と見ていた。
お釣りの小銭を店員さんが詩音の手のひらにのせる。詩音はそれを、両手で大事そうに包み込んだ。
はじめての買い物。はじめての支払い。はじめてのお釣り。
傍から見れば、なんてことない夕方のスーパーのワンシーンだ。
でもこの子にとっては、たぶんそのぜんぶが、はじめての冒険だった。
***
帰り道。
夕暮れの人の少ない道を、二人で袋を提げて歩いた。詩音はまだ少し興奮していた。
「佐々木さん。わたし、今日、四円お得にしました」
「おう。やったな」
「それから、単価というものを覚えました」
「うん。えらいえらい」
「……あの」
詩音がふと足を止めた。夕日がその黒い髪を赤く縁取っていた。
「今日、佐々木さんにいただいたお金……あれ、佐々木さんが働いて稼いだお金なのですよね」
どき、とした。
……いや。正確には違う。今の俺は働いていない。あれは貯金だ。会社にいたころに貯めた金を、ただ切り崩しているだけの。
でも詩音はそんな事情を知らない。ただまっすぐに、こう続けた。
「わたし、今日はじめて分かった気がします。お金って……ただの数字じゃないんですね。誰かが頑張った、時間なんですね」
だから、と彼女は袋を抱え直した。
「大事に使わなきゃ、と……思いました」
俺は何も言えなかった。
この子は「お金の重み」を覚えた。誰かの頑張った時間だから大事に使う、と。
……なのに、その「頑張った時間」を稼いでいるはずの俺は、この一年、何も稼いでいない。過去の自分が頑張った時間を、少しずつ切り崩して生きているだけだ。
この子に金の重みを教えながら、俺自身がその重みから、ずっと目を逸らしてきた。
通帳と向き合わないと——そう思って半年ぶりに引き出しを開けたのは、この子が来てすぐの夜だ。数字を見た。見た、けれど。そこから何もしていない。見ただけで満足して、また蓋をしていた。
この子は、こんなに前に進んでいるのに。
***
その夜。
詩音がはじめて自分で買った材料で、はじめて自分で晩めしを作った。卵焼きと味噌汁と白い飯。卵焼きは少し崩れていて、味付けも甘いのかしょっぱいのか、よく分からなかった。
でも、うまかった。
「……四円お得な、卵焼きです」
「最高だな」
二人で笑った。
飯のあと、詩音が風呂に入っているあいだに、俺は久しぶりに机の引き出しを開けた。
通帳を取り出す。
半年ぶりに見たあの夜から、また時間が経っている。数字は当然、あのときより減っていた。二人ぶんの生活はひとりのときより金がかかる。当たり前だ。
俺は電卓を叩いた。
この一週間でいくら使ったか。今のペースだと、あと何ヶ月もつか。詩音に教えたあの単価の計算みたいに、俺は自分の生活のコストを、はじめてまともに計算してみた。
……結果は、思っていたよりシビアだった。
胃の裏がきゅうと鳴る。あの焦り。
でも、今夜は蓋をしなかった。
紙に書き出してみる。ひと月の家賃。食費。光熱費。あとどのくらいで貯金が底をつくか。目を逸らさずに、数字をぜんぶ並べてみた。
並べてみると不思議なもので、漠然とした恐怖は少しだけ薄まった。得体の知れないお化けは、正体を現すと案外ただの数字だったりする。怖いのはいつも「分からない」ことのほうだ。
この子が今日、卵の値段を計算して世界の解像度が少し上がったみたいに。
俺も今夜、自分の生活の解像度を少しだけ上げた。
……そろそろ、なのかもしれない。
何かを始めるべきなのかもしれない。この一年、ずっと目を逸らしてきた「働く」ということから。
まだ怖い。社会に戻るのは、人の波にまた揉まれるのは、考えただけで足がすくむ。
でも。
玄関の光の前で震えながら、それでも「行ってみたい」と言った、あの子の顔が頭をよぎった。
拾ったこっちが、いつまでも扉の内側にいるわけにはいかないよな。
風呂場から、詩音の少し調子っぱずれな鼻歌が聞こえてくる。この一週間で覚えたばかりの、テレビのコマーシャルソングだ。
俺は電卓と通帳を引き出しにしまった。
今夜は蓋をしなかった。それだけでも、昨日までの俺よりほんの少し前に進んでいる。
……たぶん、この子のおかげで。
いや、正確に言えば、足し算引き算ができないという話じゃない。計算そのものはむしろ俺なんかよりよほど速い。ちゃんとした教育を受けてきたのは間違いないのだ。
できないのは「値段の重さ」のほうだった。
同居して一週間が過ぎたころ、俺は家の金の管理を少しずつこの子にも覚えてもらおうと思い立った。二人で暮らす以上、いつまでも俺ひとりが握っているのも違う気がしたし、「家のことを覚える」の一環としても、金の勘定は避けて通れない。
そこでまず、財布を渡してみた。
「これ、当面の食費な。一週間、これでやりくりする。何をいくらで買うか、自分で考えてみろ」
詩音は渡された数枚の紙幣を、両手でうやうやしく受け取った。まるで賞状か何かみたいに。
「……あの、佐々木さん」
「ん?」
「これは……たくさん、なのでしょうか。それとも、少し、なのでしょうか」
……なるほど。そこからか。
***
この子が「お金を持ったことがない」というのは、拾った夜に思い知らされていた。財布の入っていない鞄。ハンカチと、もう開かない家の鍵しか入っていなかった、あの小さな鞄。
支払いはいつも「家の者」が済ませてくれた。ほしいものは、望めば目の前に現れた。この子の人生に「値札を見る」という工程は、一度も存在しなかったのだ。
だから金額が、ただの数字にしか見えない。百円と一万円の重みの違いが分からない。それがどれだけの労働や我慢や時間と引き換えのものなのか——その感覚がまるごと抜け落ちている。
これは思っていたより根が深いぞ。
俺は方針を変えた。座学より実地だ。
「……よし。買い物、行くか」
言ってから、しまったと思った。この子は外に出られない。玄関の光の前で足がすくむ子だ。
ところが。
「……はい」
詩音はこくりと頷いた。顔は少しこわばっていたけれど。
この一週間、寝る前に二人で近所の自販機まで往復するのが、なんとなくの日課になっていた。人のいない夜道をほんの数十メートル。それでも、はじめは玄関で震えていた子が、少しずつ夜の外気に慣れてきていた。
昼の、人のいる時間はまだ無理だ。でも——夕方の人の少ない時間の、すぐそこのスーパーくらいなら。
「行けそうか」
「……行って、みたいです」
また、その言葉だ。行ってみたい。
拾った夜には絶対に出てこなかった台詞が、この子の口からぽつぽつと増えていく。俺はそれが地味に嬉しかった。
***
夕方のスーパー。
人はまばらだったが、それでも詩音は俺のパーカーの裾を、後ろからきゅっとつまんでいた。はぐれまいとする子犬みたいに。……まあ、実際、拾った身ではあるんだが。
カゴを渡して、俺は言った。
「今夜の晩めしの材料な。予算はこの財布のぶん。何を作るか決めて、材料を集めて、自分で払ってみろ」
「わ、わたしが、ですか」
「そう。俺は口出ししない。……よっぽど変なことしたら止めるけど」
詩音はごくりと唾を飲み、意を決したように売り場へ踏み出した。
……そして最初の棚の前で、さっそく固まった。
「佐々木さん」
「ん?」
「この、お卵は……六個で二百円ですが」
「ああ」
「こちらの、お卵は……十個で二百五十円、です」
「うん」
「……どちらなのでしょう。数が多いほうがよいのか、お安いほうがよいのか……わたし、どちらを選べば正しいのか」
卵ひとパック選ぶのに、この世の真理でも問うような深刻な顔をしている。
俺は笑いをこらえながら教えた。一個あたりの値段を計算するんだ、と。六個入りは一個約三十三円、十個入りは一個二十五円。だからたくさん使うつもりなら、十個入りのほうが「お得」なんだ、と。
「一個あたり……! そういう見かたが……!」
詩音の目がかっと見開かれた。世界の秘密の扉がひとつ開いたみたいに。
「では、こちらのお砂糖も……ええと、こちらがグラムあたり……!」
そこからの詩音は、すごかった。
憑かれたように、あらゆる商品の単価を計算しはじめたのだ。牛乳、豆腐、パン、洗剤。ひとつひとつ真剣な顔で、電卓みたいに弾いていく。もともと計算は速いのだ。武器を手に入れてしまった。
「佐々木さん! こちらのお豆腐、隣の棚の特売品のほうが、グラムあたり四円もお安いです!」
「お、おう。よかったな」
「四円ですよ! ……四円って、どのくらいすごいのでしょう?」
「……いや、それはそんなにすごくはない」
単価の概念は覚えたが、その四円が人生においてどれほどの重みなのかは、まだ分かっていないらしい。片方だけ覚えた。
でも、それでいい。今日はそれでいい。
***
問題は、会計だった。
レジに並ぶ。詩音は生まれてはじめて、自分で「支払い」というものをする。財布を両手でぎゅっと握りしめ、緊張の面持ちで順番を待っていた。
……ここで俺は、少し意地悪をした。
教えなかったのだ。「レジでは店員さんが金額を言うから、それに合わせて払う」という当たり前の手順を。
自分の頭でやらせてみたかった。
順番が来る。店員が商品をスキャンして告げた。
「千二百三十円になります」
詩音は財布を開けて——固まった。
千二百三十円。その金額を、どう紙幣と硬貨で組み立てればいいのか。千円札を出して、二百三十円をどう作るのか。百円玉二枚と十円玉三枚。それをとっさに手のなかで組み立てる。
……それが、できなかった。
この子はこれまで一度も、レジで金を払ったことがないのだ。頭では分かっていても指が動かない。後ろに人が並んでいるというプレッシャーもあった。
「え、ええと……こ、こちらで……」
焦った詩音が、震える手で財布から取り出したのは。
なぜか、あるだけの小銭を両手いっぱいにすくい取った状態だった。
「……これで、足りますでしょうか……!」
じゃら、と大量の小銭をトレーにあけようとする。
「待て待て待て」
俺は慌ててその手を止めた。店員さんが若干引いている。
「……貸してみ」
詩音の財布から千円札を一枚、百円玉を二枚、十円玉を三枚つまみ出して、トレーに並べた。
「ほら、千二百三十円。……こうやって、なるべくぴったりか、お釣りが少なくなるように出すんだ」
「……こんなに、簡単に……」
詩音は俺の手つきを、呆然と見ていた。
お釣りの小銭を店員さんが詩音の手のひらにのせる。詩音はそれを、両手で大事そうに包み込んだ。
はじめての買い物。はじめての支払い。はじめてのお釣り。
傍から見れば、なんてことない夕方のスーパーのワンシーンだ。
でもこの子にとっては、たぶんそのぜんぶが、はじめての冒険だった。
***
帰り道。
夕暮れの人の少ない道を、二人で袋を提げて歩いた。詩音はまだ少し興奮していた。
「佐々木さん。わたし、今日、四円お得にしました」
「おう。やったな」
「それから、単価というものを覚えました」
「うん。えらいえらい」
「……あの」
詩音がふと足を止めた。夕日がその黒い髪を赤く縁取っていた。
「今日、佐々木さんにいただいたお金……あれ、佐々木さんが働いて稼いだお金なのですよね」
どき、とした。
……いや。正確には違う。今の俺は働いていない。あれは貯金だ。会社にいたころに貯めた金を、ただ切り崩しているだけの。
でも詩音はそんな事情を知らない。ただまっすぐに、こう続けた。
「わたし、今日はじめて分かった気がします。お金って……ただの数字じゃないんですね。誰かが頑張った、時間なんですね」
だから、と彼女は袋を抱え直した。
「大事に使わなきゃ、と……思いました」
俺は何も言えなかった。
この子は「お金の重み」を覚えた。誰かの頑張った時間だから大事に使う、と。
……なのに、その「頑張った時間」を稼いでいるはずの俺は、この一年、何も稼いでいない。過去の自分が頑張った時間を、少しずつ切り崩して生きているだけだ。
この子に金の重みを教えながら、俺自身がその重みから、ずっと目を逸らしてきた。
通帳と向き合わないと——そう思って半年ぶりに引き出しを開けたのは、この子が来てすぐの夜だ。数字を見た。見た、けれど。そこから何もしていない。見ただけで満足して、また蓋をしていた。
この子は、こんなに前に進んでいるのに。
***
その夜。
詩音がはじめて自分で買った材料で、はじめて自分で晩めしを作った。卵焼きと味噌汁と白い飯。卵焼きは少し崩れていて、味付けも甘いのかしょっぱいのか、よく分からなかった。
でも、うまかった。
「……四円お得な、卵焼きです」
「最高だな」
二人で笑った。
飯のあと、詩音が風呂に入っているあいだに、俺は久しぶりに机の引き出しを開けた。
通帳を取り出す。
半年ぶりに見たあの夜から、また時間が経っている。数字は当然、あのときより減っていた。二人ぶんの生活はひとりのときより金がかかる。当たり前だ。
俺は電卓を叩いた。
この一週間でいくら使ったか。今のペースだと、あと何ヶ月もつか。詩音に教えたあの単価の計算みたいに、俺は自分の生活のコストを、はじめてまともに計算してみた。
……結果は、思っていたよりシビアだった。
胃の裏がきゅうと鳴る。あの焦り。
でも、今夜は蓋をしなかった。
紙に書き出してみる。ひと月の家賃。食費。光熱費。あとどのくらいで貯金が底をつくか。目を逸らさずに、数字をぜんぶ並べてみた。
並べてみると不思議なもので、漠然とした恐怖は少しだけ薄まった。得体の知れないお化けは、正体を現すと案外ただの数字だったりする。怖いのはいつも「分からない」ことのほうだ。
この子が今日、卵の値段を計算して世界の解像度が少し上がったみたいに。
俺も今夜、自分の生活の解像度を少しだけ上げた。
……そろそろ、なのかもしれない。
何かを始めるべきなのかもしれない。この一年、ずっと目を逸らしてきた「働く」ということから。
まだ怖い。社会に戻るのは、人の波にまた揉まれるのは、考えただけで足がすくむ。
でも。
玄関の光の前で震えながら、それでも「行ってみたい」と言った、あの子の顔が頭をよぎった。
拾ったこっちが、いつまでも扉の内側にいるわけにはいかないよな。
風呂場から、詩音の少し調子っぱずれな鼻歌が聞こえてくる。この一週間で覚えたばかりの、テレビのコマーシャルソングだ。
俺は電卓と通帳を引き出しにしまった。
今夜は蓋をしなかった。それだけでも、昨日までの俺よりほんの少し前に進んでいる。
……たぶん、この子のおかげで。
