引きこもりのお嬢様を拾ったから社会復帰させる

 朝、目が覚めても背中が痛くなかった。

 昨日ようやく、もう一組ぶんの布団を買ったのだ。座布団三枚の刑からやっと解放された。畳の上でまっとうに寝られる朝が、こんなにありがたいものだとは思わなかった。

 ……というのも妙な話ではある。この一年、毎晩まっとうに布団で寝ていたときは、それをありがたいと思ったことなど一度もなかった。それがたった数日、座布団で寝ただけで、布団のありがたみを噛みしめている。

 失ってはじめて分かる、というやつだろうか。あるいは——誰かのために少し我慢して、それがちょっとだけ報われたときの、あの感じに似ていた。

 白瀬詩音を拾ってから、五日が経っていた。

 最初はぎこちなかった二人の暮らしにも、うっすらと型のようなものができはじめていた。朝、俺が起きると詩音はもう起きていて、正座で待っている。そこは相変わらずだ。けれど彼女の膝の前に畳まれた布団は、いつのまにか、きちんと四角くなっていた。

 あの崩れかけた三角が、今朝は角のそろった四角になっている。

 誰に教わったわけでもないだろうに。たぶん俺が寝ているあいだに、何度も畳み直して練習したのだ。畳みかたを「知っている」だけだった彼女が、この五日で少しだけ「畳める」ようになっていた。

 そういう豆粒みたいな変化を、俺はこのところよく見つけるようになっていた。

 この五日、詩音は本当によく俺の手元を見ていた。米を研ぐとき。味噌汁をつくるとき。皿を洗うとき。そのたびに身を乗り出すようにして、じっと。ときどき「あの、佐々木さん、それは……」と遠慮がちに小さな質問をした。俺の答えを、彼女は一言一句逃すまいという顔で聞いた。

 夜、本棚から借りていったのは、いつか買って一度も開かなかった料理本だった。彼女の枕元で、そのページの端が少しずつ折れていくのを俺は知っていた。

 覚えたい、とこの子は思っている。

 言葉にはしないけれど、その全身がそう言っていた。

「なあ」

 その朝、味噌汁をよそいながら俺は切り出した。

「『家のこと覚える』って言ってたよな」

 詩音の肩がぴくりと跳ねた。

「……はい」

「今日、やってみるか。飯づくり」

 彼女ははっと顔を上げ、それから——ぱっとその目に灯った光を、慌てて抑え込むようにうつむいた。

「わ、わたしに……できるでしょうか」

「できるかどうかは、やってみてから考えろ」

 詩音は膝の上でぎゅっと両手を握りしめて、それから深く頷いた。

「……はい。やって、みたいです」

 やってみたい、とこの子が自分から言った。

 拾った夜、路上で「どなたかを待っていた」子が。指示を待つことしか知らなかった子が。五日で「やってみたい」と言うようになっていた。

 それだけのことが、なんだかやけに嬉しかった。

***

 昼めしを二人でつくることにした。

 といっても大したものじゃない。炊いた米でおにぎりを握り、味噌汁をつける。それだけの簡単な献立だ。はじめてには、簡単なやつのほうがいい。

 詩音は俺の大きすぎるパーカーの袖を、几帳面に折り返してまくり上げた。袖口から細い手首が覗く。……この子の手を、俺ははじめてまともに見た気がした。

 白くて、傷ひとつない、やわらかそうな手だった。水仕事も庭いじりも、たぶん何ひとつしたことのない手。これまでこの手が握ってきたものといえば、せいぜい紅茶のカップくらいのものだろう。

 その手で、これから飯を握る。

 まずは味噌汁だ。出汁の取りかたを教え、味噌を溶く。詩音は菜箸で味噌をかき混ぜるだけのことに額に汗を浮かべて、真剣そのものだった。味見をさせると、彼女は「……あ」と目を丸くした。

「わたしがつくったものなのに……ちゃんと、お味噌汁の味がします」

「そりゃそうだろ」

「すごい……! 佐々木さん、すごいです、これ」

「いや、すごいのはお前な。作ったの」

「そう……なのでしょうか」

 自分の手が生み出したものがちゃんと「食べ物」になっている。その当たり前が、この子にはいちいち奇跡だった。

 問題は、おにぎりだった。

 炊きたての米を茶碗によそって渡す。

「これを手で握る。三角でも丸でもいいから」

 詩音はごくりと唾を飲み、意を決したように両手を熱々の米へ——。

「あっ……!」

 途端に小さく声を上げて手を引っ込めた。

「熱い、です……」

「あー……そうか。素手じゃ熱いよな」

 当たり前だった。炊きたての米は熱い。俺なんかはもう手が慣れてしまって忘れていたけれど、はじめてのやわらかい手には、あれは火傷しそうな熱さなのだ。

 それでも彼女は諦めなかった。今度は覚悟を決めて、熱いのを我慢して米を両手で包み込み——ぎゅっと握った。

 ……握ったそばから。

 米は、まとまらなかった。

 力を入れれば指のあいだからぐにゅりとはみ出す。やさしく持てばほろほろと崩れて落ちる。三角になるはずだった米の塊は、どちらでもない正体不明の何かになって、彼女の手のなかでぼろぼろと形を失っていった。

「あ……あの……」

 詩音の顔がみるみる青ざめていく。

「ちが……こんな、はずでは……申し訳ございません、わたし、こんな簡単なことも……」

 声が上ずっていた。手のなかの崩れた米を見つめる目に、じわりと膜が張っていく。

「わたし……やっぱり、何も……できなくて……」

 ——ああ、そうか、と思った。

 この子にとってこれは、ただ「おにぎりが崩れた」という話じゃないのだ。

 自分は何もできない。誰かの世話になるばかりで何ひとつ返せない。役に立たない。そういうもっと深いところの怖さに、崩れた米が触れてしまっている。何をそんなに恐れるのか——その奥にあるものを俺はまだ知らない。けれどこの子が「できない」ということを人一倍恐れているのは、分かった。

***

 俺は彼女の手からそっと茶碗を取り上げた。

「貸してみ」

「……え」

「はじめてでうまく握れるやつなんて、いないんだよ」

 俺は自分の手を水で濡らして見せた。

「まず、手を濡らす。こうすれば米が手にくっつかないし、熱さも少しマシになる」

 それから塩を手のひらに、ぱらり。

「で、塩。味がつくし、傷みにくくもなる」

 濡らした手に米を取り、握ってみせる。

「握るときは——強すぎても駄目だ。ぎゅうぎゅうに潰すと飯が団子になってうまくない。かといって、ゆるすぎるとまとまらない」

 ころん、と俺の手のなかで三角のおにぎりが形になる。

「ちょうどいい力で、三回くらい。……握るっていうより、形をそっと決めてやる感じだ」

 詩音は俺の手元を、瞬きも惜しむように見つめていた。

「……そっと、決めてやる」

「そう。強すぎず、ゆるすぎず」

 彼女はもう一度手を濡らした。塩を、ぱらり。それから熱いのを今度はぐっとこらえて。

 両手のなかに米を包んで。

 強すぎず、ゆるすぎず——そっと、形を決めるように。

 ころん。

 彼女の手のなかに。

 ……不格好な、けれどちゃんと崩れずに形を保った三角のおにぎりが、ひとつ生まれた。

「……で、きました」

 詩音が呆然と呟いた。

「できました……! 佐々木さん、崩れてません……!」

 いびつだった。角のひとつは丸くつぶれているし、大きさも俺のよりずいぶん小さい。お手本にはほど遠い、世界一不格好なおにぎりだった。

 でもそれは間違いなく、彼女がはじめて自分の手で握ったひとつだった。

***

「……あの、佐々木さん」

 彼女はその不格好な三角を両手で大事そうに包んで。

 それから、おずおずと俺のほうへ差し出した。

「……食べて、いただけますか」

 自分が食べるより、先に。

 彼女は俺に、食べてほしいと言った。

 俺は少し面食らった。この五日、飯をつくって食わせてやるのはずっと俺の役目だった。拾った夜もそうだ。この子は俺に、食べさせてもらう側だった。

 それが今。

 この子ははじめて、誰かに食べさせる側に立とうとしていた。

「……いただきます」

 俺はそのいびつなおにぎりを受け取り、ひと口食べた。

 塩が少し多い。握りもまだ甘くて、口のなかでほろりと崩れる。正直に言えば、俺が握ったやつのほうがずっとうまい。

 でも。

「……うまいよ」

 それは嘘じゃなかった。

 なんでか、そのいびつなおにぎりは、俺がこの一年ひとりで食ってきたどんな飯より——たぶん、拾った夜にこの子と分けたあのコンビニのおにぎりよりも、うまかった。

 詩音はその言葉を聞いて。

 しばらくぽかんとして。

 それからゆっくりと、その目に涙が盛り上がって、ぽろりとこぼれた。

「……よかった」

 泣きながら、彼女は笑っていた。

「わたし……人に、何かを……してさしあげられたの……はじめて、かもしれません」

 その言葉の重さを、俺はうまく量れなかった。

 してもらうばかりだった。この子はたぶん二十年ずっと、誰かにしてもらうばかりで——自分が誰かのために何かをする側に立ったことが、ほとんどなかったのだ。

 崩れやすい米をそっとまとめるみたいに。

 この子は今はじめて、自分のなかに、誰かに手渡せるものを握った。

 その頬を伝う涙を、俺はいつもみたいに見なかったことに——しようとして、やめた。

 かわりに二つ目のおにぎりに手を伸ばした。

「ほら、まだあるだろ。次はお前も食え。自分で握ったやつ」

「……はい」

 涙を大きすぎる袖で拭いて、詩音は自分のおにぎりを両手で持って食べた。

 ひと口食べて、また少し泣いて。それからはにかんで言った。

「……しょっぱい、です。お塩、入れすぎました」

「だな。次はもうちょい控えめにな」

「はい。……次は」

 次は。

 その言葉を彼女がこんなに自然に口にしたのを、俺ははじめて聞いた気がした。

***

 その日の夜。

 二組の布団を狭い部屋に並べて敷いた。

 少し前までひとりぶんの布団しかなかった部屋だ。それが今は二組。畳の上に二人分の寝床が、肩を寄せるように並んでいる。

 電気を消すと、暗がりのなかに詩音の規則正しい寝息が聞こえてきた。もう五日目だ。一年ぶりに聞いた他人の呼吸は、いつのまにかこの部屋の当たり前の音になりつつあった。

 天井を見上げながら、ぼんやりと考えていた。

 この五日、俺はずいぶんいろんなことをした。

 飯をつくった。買い出しに行った。布団を買った。米の研ぎかたを教え、おにぎりの握りかたを教えた。この一年、指一本動かすのも億劫だった俺が、だ。

 誰かに必要とされる。誰かのために手を動かす。

 ——それがこんなに人を動かすものだとは思わなかった。

 崩れかけた米が握られて形になるみたいに。ばらばらにほどけていた俺の毎日も、この子を拾ってから少しずつ、何かの形にまとまりかけている気がした。

 胃の裏に貼りついていたあの焦りを、この数日ほとんど感じていないことに気づいた。

 誰かのために動く気力なんて、とっくに枯れ果てたと思っていた。

 でも案外、まだ——残っていたのかもしれない。この子のやわらかい手に、握りかたを教えられるくらいには。

 ……なあ、と。俺は暗い天井に、心のなかで話しかけた。

 今日、この子は「人に何かをしてさしあげられたの、はじめて」と泣いた。たかが崩れかけのおにぎりひとつで、あんなに嬉しそうに。

 あの顔を見てしまったら、もう知らんぷりはできなかった。

 この子のなかにはちゃんと火がある。誰かの役に立ちたい、前を向きたい——そういう火が。ただ、外に出るきっかけを一度ももらえなかっただけで。

 俺にはもう、その火はない。一年かけて自分でも確かめた。社会に戻るのも働くのも、考えただけで足がすくむ。俺はたぶん、もう駄目なほうの人間だ。

 でも、だからこそなのかもしれない。

 自分がもう戻れないぶん——せめてこの子だけは、ちゃんと本物の世界に還してやりたい。外に出て、人と笑って、自分の足で生きていけるように。この子のその火を、消さないように。

 半分はこの子のため。もう半分はたぶん、俺自身のための身勝手だ。自分にできなかったことを、この子に託しているだけ。

 それでもいい。

 決めた。この子を社会復帰させる。この子がちゃんと自分の足で世の中に立てるように、俺がそのために動く。

 この一年ではじめて、俺は自分の意志でひとつ「やること」を決めた。

 布団のほうで詩音が小さく寝返りを打った。

 明日は何を教えようか。味噌汁をひとりで作れるようになりたいと彼女は言っていた。それから卵焼きも、いつか。……ずいぶん欲が出てきたものだ。悪くない。

 俺は目を閉じた。

 やわらかい手のなかで、いびつな三角が崩れずに形になった、あの瞬間を思い出しながら。

 なんだか久しぶりに——明日が来るのが、少しだけ楽しみだった。