背中の痛みで目が覚めた。
座布団を三枚並べたところで、大人ひとりの体重を受け止めきれるはずもない。腰は板のように強張り、寝返りを打つたびに畳の匂いが鼻先をかすめた。毛布がわりの上着はいつのまにか足元で丸まっている。
最悪の寝心地だった。この一年、毎晩まっとうに布団で寝ておきながら、それをありがたいと思ったことは一度もなかった。その罰が一晩でまとめて当たったような気がした。
薄目を開けて、妙なことに気づく。
静かなのに、静かじゃない。
部屋のなかに、自分以外の呼吸がある。
昨夜の記憶を順番にたどった。コンビニ、街灯、体育座り、拾って、帰って——ああ、そうだった。
体を起こして振り返る。
白瀬詩音は、もう起きていた。
部屋の隅の畳の上にきちんと正座して、膝の前には昨夜貸した布団が畳んで置いてある。
ただし、その畳みかたが微妙に間違っていた。
三つ折りにしようとして力尽きたのか、二つに折った上からもう一度、妙な角度で折り返してある。四角というより、崩れかけた三角。丁寧に畳もうという意志だけは痛いほど伝わってくるのに、布団を畳んだ経験そのものが、たぶん生まれて一度もない。「畳みかたを知っている」ことと「畳める」ことはまるで別なのだと、その歪んだ三角が静かに語っていた。
「……起きてたのか」
声をかけると、詩音はぴくりと肩を揺らし、それから深々と頭を下げた。
「おはようございます、佐々木さん。あの……お目覚めの前に勝手に動きまわるのも、はしたないかと思いまして」
だから正座で待っていた。俺が起きるのを。
どれくらいそうしていたんだろう。窓の外はもうすっかり明るい。
——待っておりました。昨夜、路上で聞いた台詞が頭のなかで反響した。誰かが指示をくれるまで、この子はきっと、いつまでもそうやって正しく待ち続けるのだ。
俺は立ち上がって、一年ぶりにカーテンを開けた。
閉めっぱなしだった布の向こうから朝の光がまっすぐ射し込んで、部屋の地層を——積み上がったカップ麺の容器や脱ぎ散らかした服を——容赦なく照らし出す。光の筋のなかで埃がきらきらと舞っていた。
この時間の、この光を部屋に入れたのはいつ以来だろう。まぶしくて、少しだけ目を細めた。
***
「腹、減ってるだろ。……って、そういや」
冷蔵庫を開けて、固まった。
中身は発泡酒が三本と、いつ買ったか思い出せない調味料が数本。あとは賞味期限を確かめる気も起きないマヨネーズ。以上だった。
卵ひとつない。米もない。人間の朝食を構成しうる要素が、この冷蔵庫にはひとつも存在しなかった。
「……何もねえや」
この一年、俺はこの冷蔵庫を酒とつまみの保管庫としてしか使ってこなかった。誰かに何かを食わせるという発想が、そもそも生活から抜け落ちていたのだ。
仕方ない、買い出しだ。どのみちこの子には歯ブラシも要るし、着替えも要る。昨夜と同じ服のままなのは、本人がいちばん気にしているはずだった。
「ちょっと出るぞ。近くにスーパーがある。歯ブラシとか着るものも、ついでに買ってくるから。……一緒に来るか?」
軽い気持ちだった。飯を買いに行く。それだけの、なんでもない外出のはずだった。
詩音は「はい」と頷いて立ち上がり、玄関で靴を履いた。昨夜きちんとそろえて脱いだ、あの上等な靴を。
俺がドアを開ける。
朝の光が、玄関の三和土まで四角く射し込んだ。
——その光の手前で、詩音の足が止まった。
一歩が、出ない。
振り返ると、彼女の顔からすうっと色が引いていた。ドアの外の、なんの変哲もない住宅街の景色を見つめたまま、体が石になったように動かない。呼吸が浅く、速くなっていく。胸の前で組んだ指が、白くなるほど握りしめられていた。
「……あ、あの」
声が震えていた。
「も、申し訳ございません。わたし……」
俺はとっさにドアを閉めた。
外の光が遮られ、玄関がもとの薄暗さに戻る。すると詩音の呼吸も少しずつほどけていった。閉じた扉に、すがりつくようにして。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……外、苦手か」
できるだけなんでもない声で訊いた。
詩音はうつむいたまま、こくりと小さく頷いた。
「高校を出てから……ほとんど、家の外に……出て、いなくて」
それだけ言うのが精一杯のようだった。
理由は言わなかった。俺も訊かなかった。
——訊けるわけがなかった。平日の昼の街を、人の波を、まともに歩けないでいるのはこの俺だ。行き先もなく外に出るのが怖くて、買い物はいつも深夜。そういう男に、彼女の玄関先の恐怖を笑う資格などひとかけらもない。
同じなんだ、と思った。高さが違うだけで。彼女は玄関のこちら側にいて、俺は昼の街のこちら側にいる。二人とも、扉の内側の人間だった。
だから俺は、同情のかわりにこう言った。
「分かった。じゃあ——留守番、頼めるか」
詩音が顔を上げた。
「……お留守番、ですか」
「そう。俺が買い出しに行ってるあいだ、部屋にいてくれ。鍵を内側から閉めときゃ安全だから」
彼女の顔に、ほんの少しだけ安堵が差した。役割を与えられた安堵だった。「行けない」ことを責められるかわりに「ここにいてくれ」と頼まれた。その違いが彼女の強張りをほどいていくのが、見ていて分かった。
「……はい。行ってらっしゃいませ、佐々木さん」
深々と、頭を下げられた。
***
平日の午前十時。
アパートの外階段を降りると、通勤の時間はとうに過ぎて、街はどこか気の抜けた明るさに満ちていた。それでも、と思う。このなんでもない朝の光のなかを歩くことすら、この一年の俺にはずっと億劫だったのだ。
昼の街にはちゃんとした人間が歩いている。行き先のある人間が。俺みたいになんの宛先もなくふらついている人間は、それだけで見咎められている気がして、いつも足がすくんだ。
——なのに、今日は。
スーパーの自動ドアをくぐりながら気づいた。今日の俺には、宛先がある。
あの子に飯を食わせる。歯ブラシを買って帰る。たったそれだけのことが、俺の背中をいつもより少しだけまっすぐにしていた。
カゴを持って店内を回る。
米。卵。味噌。朝飯になりそうなものを片端から放り込んでいく。おにぎりのコーナーで、ふと手が止まった。
昨夜、あの子がフィルムと格闘していたおにぎり。夜食用に買った鮭のやつだ。ふた口目で目に膜を張らせて食っていた、あの。
鮭にするか、梅にするか。一瞬迷って、両方カゴに入れた。あの子の好みなんて知るわけがない。どっちが好きかも分からない相手に片方だけ選んで買う勇気は、まだなかった。
歯ブラシは無難な白を。着替えは——女物の服を選ぶ度胸はさすがになかったので、部屋着になりそうな大きめのパーカーとハーフパンツを、いちばん地味なやつで。サイズは勘だ。
レジ袋はふたつになった。
両手に提げるとずしりと重い。ひとり分の、酒とつまみだけの軽い袋とはまるで違う重さだった。
この重さは悪くないな、と思った。
***
部屋に戻ると、鍵はきちんと内側から閉められていた。ノックすると慌てたような足音がして、ドアが細く開く。
「お、おかえりなさいませ、佐々木さん」
俺の顔を確かめて、詩音は心底ほっとしたようにドアを大きく開けた。留守のあいだずっと緊張して待っていたのが、その表情で分かった。
買ってきたパーカーを渡すと、彼女は「よろしいのですか」と何度も確かめてから、それを胸に抱いた。真新しい、たかだか数百円の部屋着を、宝物みたいに。
俺は米を炊いた。
……正確には、炊けるかどうか怪しい炊飯器を一年ぶりに動かした。詩音は俺が米を研ぐ手つきを、手品でも見るようにじっと見ていた。「やってみるか」とはまだ訊かなかった。それは明日以降でいい。
味噌汁をつくり、買ってきたおにぎりを皿に出す。ささやかだが、一年ぶりにこの部屋に湯気の立つものが並んだ。
卓を挟んで向かい合って座る。
「鮭と梅、両方買ってきた」
皿を彼女のほうへ少し押した。
「どっちがいい?」
詩音は皿の上のふたつのおにぎりを見た。
それから、ぴたりと動かなくなった。
鮭を見て、梅を見て、また鮭を見る。視線がふたつのあいだを行ったり来たりする。眉が困ったように寄っていく。手は膝の上で組まれたまま、どちらにも伸びない。
まるで、とてつもない難問を出された子供のようだった。おにぎりをどちらか選ぶ。ただそれだけのことが。
やがて彼女は、消え入りそうな声で言った。
「……あの。どちらをいただくべきか……佐々木さんに、選んでいただけますか」
選んで、いただけますか。
その一言で、なんとなく分かった気がした。
この子はきっと、これまでの人生で自分から何かを「選んだ」ことがほとんどないのだ。着るものも食べるものも行く場所も、ぜんぶ誰かが選んでくれる世界で生きてきた。「お嬢様、本日はこちらを」と差し出されるものを、ただ受け取るだけの二十年。
選ぶという筋肉を、彼女は一度も使ったことがない。
昨夜、路上で誰かを「待って」いたのも、たぶん同じ根っこだ。誰かが決めてくれるのを、指示をくれるのを、待つ。それが彼女の生きかたの初期設定だった。
俺は皿を押し戻さなかった。かわりに、静かに言った。
「いや。……これはお前のめしだ。お前が選べ」
詩音の肩がびくりと震えた。
「わ、わたしが……?」
「そう。どっちが正解とかないから。お前が食いたいほうでいい」
好きなほうを選べと言われることが、この子にとってはこんなにも心細い。それが見ていて伝わってきた。間違えたらどうしよう——そういう恐れが横顔にうっすらと滲んでいる。何をそんなに怖がるのか。その奥のほうにはたぶん、俺の知らない何かがある。けれど今は訊かない。
長い長い沈黙だった。
詩音はうつむいて、膝の上で指を何度も組み替えた。そうしてようやく。
おそるおそる右手が伸びて——鮭のおにぎりに触れた。
「……こちらを。鮭を、お願いします」
消え入りそうな声だったけれど、それは彼女が自分で決めた、はじめての一言だった。
「なんで鮭?」
訊くと、彼女は少しだけはにかんだ。
「昨夜いただいたものが……鮭で。とても、おいしかったので」
——ああ、と思った。
この子の、生まれてはじめての「自分の選択」は、昨夜のたった一個のおにぎりの記憶に支えられていた。誰かがくれた、はじめてのやさしさの味を頼りにして。
なんだか、胸の奥が妙な具合になった。
「そっか。じゃ、俺は梅な」
なんでもない顔をつくって梅のおにぎりを取った。
詩音は両手で鮭のおにぎりを持ち、フィルムを——今朝は少しだけ手つきよく——開けて、ひと口食べた。
その瞬間、彼女の目がふっと見開かれた。
「……どうした」
「……いえ。あの……昨夜のより、少し……おいしい気がして」
同じコンビニの、同じ鮭のおにぎりのはずだった。
でも、たぶん違うのだ。誰かに選ばれて口に入れたものと、自分で選んで手を伸ばしたものは、きっとほんの少しだけ味が違う。
その「少しだけ」を、この子は今朝、生まれてはじめて知ったのだった。
***
その日は、それ以上無理をさせなかった。
詩音は買ってきたパーカーに着替え、部屋の隅で俺の本棚から借りた文庫を読んだり、皿を洗う俺の手元を興味深そうに眺めたりして過ごした。パーカーのサイズは案の定少し大きくて、余った袖から手の先がちょこんと出ているのが妙にあどけなかった。
——ちなみに、その着替えのとき。彼女は俺がすぐそばにいるのに、なんの躊躇もなくその場でワンピースに手をかけようとした。俺は味噌汁の鍋を吹きこぼしかけた勢いで、風呂場のほうへ避難した。
「どうかなさいましたか?」
きょとんとした声が背中にかかる。
「……いや。着替えは、こっちが見てないとこでしてくれ。頼むから」
「? ……はい」
まるで通じていない返事だった。異性に対してまるきり無防備。悪気とか媚びとか、そういうものが一切ない、ただの無頓着。
どういう育ちかたをしたらこうなるんだ。……いや、なんとなく想像はつくが。この感じは、これから先、俺の心臓にじわじわ悪そうだった。今から少し頭が痛い。
夜になって、俺はずっと言いそびれていたことを切り出した。
「なあ。……当分、ここにいろ」
詩音が顔を上げる。
「行くあてもないんだろ。まあ部屋は余ってないけど、ひとりぶんもふたりぶんも大して変わらん」
嘘だった。大して変わらなくないことは、通帳を見るまでもなくうすうす分かっていた。それでも。
「……ただ」
俺は続けた。ここが大事なところだった。
「タダで置いとくわけにもいかない。だから、そのかわり——家のこと、覚えてくれ。飯のつくりかたとか、掃除とか、洗濯とか。おいおい、少しずつでいいから」
施しにはしたくなかった。かわいそうだから置いてやる、では、この子の背筋はいつまでも縮こまったままだ。役割を渡したかった。この部屋にいていい理由を。
詩音はしばらく、その言葉を噛みしめるように黙って——それから目に、ほのかな光を灯した。
「……わたしに、できることがあるでしょうか」
「あるよ。いくらでも」
「……はい」
彼女は深く頷いた。今日いちばん、しっかりした頷きかただった。
「精一杯、覚えます。よろしくお願いいたします」
その夜も布団は詩音に貸した。俺は座布団の上だ。腰は痛いが——まあ、明日もう一組ぶんの布団をなんとか考えよう。
彼女の寝息が規則正しく聞こえはじめたのを確かめてから。
俺は、ずっと開けていなかった机の引き出しを開けた。
半年ぶりだった。通帳がそこにある。開くのが怖くて、ずっと見ないふりをしてきた俺の残高。潮が引くように減っていくあの数字と向き合うのが嫌で、この半年、俺はこの引き出しを開けることすらしていなかった。
深く息を吸って。
開いた。
並んだ数字を目でなぞる。
——ひとりなら、切り詰めてあと一年もつかどうか。ふたりなら……そう長くはもたない。はっきりした数字が、はっきりとそう言っていた。
胃の裏に、あの焦りがまたうっすらと滲んだ。
でも。
半年間、開けることすらできなかった引き出しを、今夜、俺は開けた。数字から目を逸らさなかった。
それはたぶん、俺にとっての——玄関のこちら側から外を見るような、そういう一歩だった。
通帳を閉じて、暗い天井を見上げた。
明日やらなきゃいけないことを指折り数えてみる。布団をもう一組。この子の着替えをもう少し。それから……この子がこの部屋で少しずつできることを増やしていく、その手伝いもおいおい。
昨夜は「明日は、まず飯だ」のひとつしかなかった。
それが今夜は、二つ、三つと増えている。
悪くない、と思った。
やることのある朝を迎えるのは、たぶん一年ぶりだった。
座布団を三枚並べたところで、大人ひとりの体重を受け止めきれるはずもない。腰は板のように強張り、寝返りを打つたびに畳の匂いが鼻先をかすめた。毛布がわりの上着はいつのまにか足元で丸まっている。
最悪の寝心地だった。この一年、毎晩まっとうに布団で寝ておきながら、それをありがたいと思ったことは一度もなかった。その罰が一晩でまとめて当たったような気がした。
薄目を開けて、妙なことに気づく。
静かなのに、静かじゃない。
部屋のなかに、自分以外の呼吸がある。
昨夜の記憶を順番にたどった。コンビニ、街灯、体育座り、拾って、帰って——ああ、そうだった。
体を起こして振り返る。
白瀬詩音は、もう起きていた。
部屋の隅の畳の上にきちんと正座して、膝の前には昨夜貸した布団が畳んで置いてある。
ただし、その畳みかたが微妙に間違っていた。
三つ折りにしようとして力尽きたのか、二つに折った上からもう一度、妙な角度で折り返してある。四角というより、崩れかけた三角。丁寧に畳もうという意志だけは痛いほど伝わってくるのに、布団を畳んだ経験そのものが、たぶん生まれて一度もない。「畳みかたを知っている」ことと「畳める」ことはまるで別なのだと、その歪んだ三角が静かに語っていた。
「……起きてたのか」
声をかけると、詩音はぴくりと肩を揺らし、それから深々と頭を下げた。
「おはようございます、佐々木さん。あの……お目覚めの前に勝手に動きまわるのも、はしたないかと思いまして」
だから正座で待っていた。俺が起きるのを。
どれくらいそうしていたんだろう。窓の外はもうすっかり明るい。
——待っておりました。昨夜、路上で聞いた台詞が頭のなかで反響した。誰かが指示をくれるまで、この子はきっと、いつまでもそうやって正しく待ち続けるのだ。
俺は立ち上がって、一年ぶりにカーテンを開けた。
閉めっぱなしだった布の向こうから朝の光がまっすぐ射し込んで、部屋の地層を——積み上がったカップ麺の容器や脱ぎ散らかした服を——容赦なく照らし出す。光の筋のなかで埃がきらきらと舞っていた。
この時間の、この光を部屋に入れたのはいつ以来だろう。まぶしくて、少しだけ目を細めた。
***
「腹、減ってるだろ。……って、そういや」
冷蔵庫を開けて、固まった。
中身は発泡酒が三本と、いつ買ったか思い出せない調味料が数本。あとは賞味期限を確かめる気も起きないマヨネーズ。以上だった。
卵ひとつない。米もない。人間の朝食を構成しうる要素が、この冷蔵庫にはひとつも存在しなかった。
「……何もねえや」
この一年、俺はこの冷蔵庫を酒とつまみの保管庫としてしか使ってこなかった。誰かに何かを食わせるという発想が、そもそも生活から抜け落ちていたのだ。
仕方ない、買い出しだ。どのみちこの子には歯ブラシも要るし、着替えも要る。昨夜と同じ服のままなのは、本人がいちばん気にしているはずだった。
「ちょっと出るぞ。近くにスーパーがある。歯ブラシとか着るものも、ついでに買ってくるから。……一緒に来るか?」
軽い気持ちだった。飯を買いに行く。それだけの、なんでもない外出のはずだった。
詩音は「はい」と頷いて立ち上がり、玄関で靴を履いた。昨夜きちんとそろえて脱いだ、あの上等な靴を。
俺がドアを開ける。
朝の光が、玄関の三和土まで四角く射し込んだ。
——その光の手前で、詩音の足が止まった。
一歩が、出ない。
振り返ると、彼女の顔からすうっと色が引いていた。ドアの外の、なんの変哲もない住宅街の景色を見つめたまま、体が石になったように動かない。呼吸が浅く、速くなっていく。胸の前で組んだ指が、白くなるほど握りしめられていた。
「……あ、あの」
声が震えていた。
「も、申し訳ございません。わたし……」
俺はとっさにドアを閉めた。
外の光が遮られ、玄関がもとの薄暗さに戻る。すると詩音の呼吸も少しずつほどけていった。閉じた扉に、すがりつくようにして。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……外、苦手か」
できるだけなんでもない声で訊いた。
詩音はうつむいたまま、こくりと小さく頷いた。
「高校を出てから……ほとんど、家の外に……出て、いなくて」
それだけ言うのが精一杯のようだった。
理由は言わなかった。俺も訊かなかった。
——訊けるわけがなかった。平日の昼の街を、人の波を、まともに歩けないでいるのはこの俺だ。行き先もなく外に出るのが怖くて、買い物はいつも深夜。そういう男に、彼女の玄関先の恐怖を笑う資格などひとかけらもない。
同じなんだ、と思った。高さが違うだけで。彼女は玄関のこちら側にいて、俺は昼の街のこちら側にいる。二人とも、扉の内側の人間だった。
だから俺は、同情のかわりにこう言った。
「分かった。じゃあ——留守番、頼めるか」
詩音が顔を上げた。
「……お留守番、ですか」
「そう。俺が買い出しに行ってるあいだ、部屋にいてくれ。鍵を内側から閉めときゃ安全だから」
彼女の顔に、ほんの少しだけ安堵が差した。役割を与えられた安堵だった。「行けない」ことを責められるかわりに「ここにいてくれ」と頼まれた。その違いが彼女の強張りをほどいていくのが、見ていて分かった。
「……はい。行ってらっしゃいませ、佐々木さん」
深々と、頭を下げられた。
***
平日の午前十時。
アパートの外階段を降りると、通勤の時間はとうに過ぎて、街はどこか気の抜けた明るさに満ちていた。それでも、と思う。このなんでもない朝の光のなかを歩くことすら、この一年の俺にはずっと億劫だったのだ。
昼の街にはちゃんとした人間が歩いている。行き先のある人間が。俺みたいになんの宛先もなくふらついている人間は、それだけで見咎められている気がして、いつも足がすくんだ。
——なのに、今日は。
スーパーの自動ドアをくぐりながら気づいた。今日の俺には、宛先がある。
あの子に飯を食わせる。歯ブラシを買って帰る。たったそれだけのことが、俺の背中をいつもより少しだけまっすぐにしていた。
カゴを持って店内を回る。
米。卵。味噌。朝飯になりそうなものを片端から放り込んでいく。おにぎりのコーナーで、ふと手が止まった。
昨夜、あの子がフィルムと格闘していたおにぎり。夜食用に買った鮭のやつだ。ふた口目で目に膜を張らせて食っていた、あの。
鮭にするか、梅にするか。一瞬迷って、両方カゴに入れた。あの子の好みなんて知るわけがない。どっちが好きかも分からない相手に片方だけ選んで買う勇気は、まだなかった。
歯ブラシは無難な白を。着替えは——女物の服を選ぶ度胸はさすがになかったので、部屋着になりそうな大きめのパーカーとハーフパンツを、いちばん地味なやつで。サイズは勘だ。
レジ袋はふたつになった。
両手に提げるとずしりと重い。ひとり分の、酒とつまみだけの軽い袋とはまるで違う重さだった。
この重さは悪くないな、と思った。
***
部屋に戻ると、鍵はきちんと内側から閉められていた。ノックすると慌てたような足音がして、ドアが細く開く。
「お、おかえりなさいませ、佐々木さん」
俺の顔を確かめて、詩音は心底ほっとしたようにドアを大きく開けた。留守のあいだずっと緊張して待っていたのが、その表情で分かった。
買ってきたパーカーを渡すと、彼女は「よろしいのですか」と何度も確かめてから、それを胸に抱いた。真新しい、たかだか数百円の部屋着を、宝物みたいに。
俺は米を炊いた。
……正確には、炊けるかどうか怪しい炊飯器を一年ぶりに動かした。詩音は俺が米を研ぐ手つきを、手品でも見るようにじっと見ていた。「やってみるか」とはまだ訊かなかった。それは明日以降でいい。
味噌汁をつくり、買ってきたおにぎりを皿に出す。ささやかだが、一年ぶりにこの部屋に湯気の立つものが並んだ。
卓を挟んで向かい合って座る。
「鮭と梅、両方買ってきた」
皿を彼女のほうへ少し押した。
「どっちがいい?」
詩音は皿の上のふたつのおにぎりを見た。
それから、ぴたりと動かなくなった。
鮭を見て、梅を見て、また鮭を見る。視線がふたつのあいだを行ったり来たりする。眉が困ったように寄っていく。手は膝の上で組まれたまま、どちらにも伸びない。
まるで、とてつもない難問を出された子供のようだった。おにぎりをどちらか選ぶ。ただそれだけのことが。
やがて彼女は、消え入りそうな声で言った。
「……あの。どちらをいただくべきか……佐々木さんに、選んでいただけますか」
選んで、いただけますか。
その一言で、なんとなく分かった気がした。
この子はきっと、これまでの人生で自分から何かを「選んだ」ことがほとんどないのだ。着るものも食べるものも行く場所も、ぜんぶ誰かが選んでくれる世界で生きてきた。「お嬢様、本日はこちらを」と差し出されるものを、ただ受け取るだけの二十年。
選ぶという筋肉を、彼女は一度も使ったことがない。
昨夜、路上で誰かを「待って」いたのも、たぶん同じ根っこだ。誰かが決めてくれるのを、指示をくれるのを、待つ。それが彼女の生きかたの初期設定だった。
俺は皿を押し戻さなかった。かわりに、静かに言った。
「いや。……これはお前のめしだ。お前が選べ」
詩音の肩がびくりと震えた。
「わ、わたしが……?」
「そう。どっちが正解とかないから。お前が食いたいほうでいい」
好きなほうを選べと言われることが、この子にとってはこんなにも心細い。それが見ていて伝わってきた。間違えたらどうしよう——そういう恐れが横顔にうっすらと滲んでいる。何をそんなに怖がるのか。その奥のほうにはたぶん、俺の知らない何かがある。けれど今は訊かない。
長い長い沈黙だった。
詩音はうつむいて、膝の上で指を何度も組み替えた。そうしてようやく。
おそるおそる右手が伸びて——鮭のおにぎりに触れた。
「……こちらを。鮭を、お願いします」
消え入りそうな声だったけれど、それは彼女が自分で決めた、はじめての一言だった。
「なんで鮭?」
訊くと、彼女は少しだけはにかんだ。
「昨夜いただいたものが……鮭で。とても、おいしかったので」
——ああ、と思った。
この子の、生まれてはじめての「自分の選択」は、昨夜のたった一個のおにぎりの記憶に支えられていた。誰かがくれた、はじめてのやさしさの味を頼りにして。
なんだか、胸の奥が妙な具合になった。
「そっか。じゃ、俺は梅な」
なんでもない顔をつくって梅のおにぎりを取った。
詩音は両手で鮭のおにぎりを持ち、フィルムを——今朝は少しだけ手つきよく——開けて、ひと口食べた。
その瞬間、彼女の目がふっと見開かれた。
「……どうした」
「……いえ。あの……昨夜のより、少し……おいしい気がして」
同じコンビニの、同じ鮭のおにぎりのはずだった。
でも、たぶん違うのだ。誰かに選ばれて口に入れたものと、自分で選んで手を伸ばしたものは、きっとほんの少しだけ味が違う。
その「少しだけ」を、この子は今朝、生まれてはじめて知ったのだった。
***
その日は、それ以上無理をさせなかった。
詩音は買ってきたパーカーに着替え、部屋の隅で俺の本棚から借りた文庫を読んだり、皿を洗う俺の手元を興味深そうに眺めたりして過ごした。パーカーのサイズは案の定少し大きくて、余った袖から手の先がちょこんと出ているのが妙にあどけなかった。
——ちなみに、その着替えのとき。彼女は俺がすぐそばにいるのに、なんの躊躇もなくその場でワンピースに手をかけようとした。俺は味噌汁の鍋を吹きこぼしかけた勢いで、風呂場のほうへ避難した。
「どうかなさいましたか?」
きょとんとした声が背中にかかる。
「……いや。着替えは、こっちが見てないとこでしてくれ。頼むから」
「? ……はい」
まるで通じていない返事だった。異性に対してまるきり無防備。悪気とか媚びとか、そういうものが一切ない、ただの無頓着。
どういう育ちかたをしたらこうなるんだ。……いや、なんとなく想像はつくが。この感じは、これから先、俺の心臓にじわじわ悪そうだった。今から少し頭が痛い。
夜になって、俺はずっと言いそびれていたことを切り出した。
「なあ。……当分、ここにいろ」
詩音が顔を上げる。
「行くあてもないんだろ。まあ部屋は余ってないけど、ひとりぶんもふたりぶんも大して変わらん」
嘘だった。大して変わらなくないことは、通帳を見るまでもなくうすうす分かっていた。それでも。
「……ただ」
俺は続けた。ここが大事なところだった。
「タダで置いとくわけにもいかない。だから、そのかわり——家のこと、覚えてくれ。飯のつくりかたとか、掃除とか、洗濯とか。おいおい、少しずつでいいから」
施しにはしたくなかった。かわいそうだから置いてやる、では、この子の背筋はいつまでも縮こまったままだ。役割を渡したかった。この部屋にいていい理由を。
詩音はしばらく、その言葉を噛みしめるように黙って——それから目に、ほのかな光を灯した。
「……わたしに、できることがあるでしょうか」
「あるよ。いくらでも」
「……はい」
彼女は深く頷いた。今日いちばん、しっかりした頷きかただった。
「精一杯、覚えます。よろしくお願いいたします」
その夜も布団は詩音に貸した。俺は座布団の上だ。腰は痛いが——まあ、明日もう一組ぶんの布団をなんとか考えよう。
彼女の寝息が規則正しく聞こえはじめたのを確かめてから。
俺は、ずっと開けていなかった机の引き出しを開けた。
半年ぶりだった。通帳がそこにある。開くのが怖くて、ずっと見ないふりをしてきた俺の残高。潮が引くように減っていくあの数字と向き合うのが嫌で、この半年、俺はこの引き出しを開けることすらしていなかった。
深く息を吸って。
開いた。
並んだ数字を目でなぞる。
——ひとりなら、切り詰めてあと一年もつかどうか。ふたりなら……そう長くはもたない。はっきりした数字が、はっきりとそう言っていた。
胃の裏に、あの焦りがまたうっすらと滲んだ。
でも。
半年間、開けることすらできなかった引き出しを、今夜、俺は開けた。数字から目を逸らさなかった。
それはたぶん、俺にとっての——玄関のこちら側から外を見るような、そういう一歩だった。
通帳を閉じて、暗い天井を見上げた。
明日やらなきゃいけないことを指折り数えてみる。布団をもう一組。この子の着替えをもう少し。それから……この子がこの部屋で少しずつできることを増やしていく、その手伝いもおいおい。
昨夜は「明日は、まず飯だ」のひとつしかなかった。
それが今夜は、二つ、三つと増えている。
悪くない、と思った。
やることのある朝を迎えるのは、たぶん一年ぶりだった。
