日曜日。
俺は朝から、なんだかそわそわしていた。
部屋を片付けて——いや、この一年でいちばん真面目に掃除をした気がする。二人で暮らしていたころはあんなに綺麗だった部屋が、あの子が出ていってから、また少しずつ散らかっていたのだ。
それを今日は、念入りに片付けた。
……なんで俺は、こんなに緊張してるんだ。
あの子は半年も、ここに住んでいた相手だ。今さら遊びに来るくらいで、緊張するようなことじゃない。
……なのに。
あの「会いたくて」の一文が、ずっと頭から離れなかった。
***
昼過ぎ。
ピンポン、とチャイムが鳴った。
俺は深呼吸をひとつして、玄関の扉を開けた。
そこに、詩音が立っていた。
「……こんにちは、佐々木さん」
ひと月ぶりに見るこの子は、なんだか少し、大人びて見えた。
ちゃんとした服を着て、少し化粧もして、手に小さな紙袋を提げて。
拾った夜のあの消え入りそうな子とも、この部屋を出ていったころのこの子とも、また少し違う。
……ちゃんと自分の足で立っている、一人の女性の顔をしていた。
「……おう。久しぶり。……入れよ」
「はい。……お邪魔します」
***
部屋に上がった詩音は、懐かしそうに部屋を見回した。
「……変わってないですね。この部屋」
「まあな。……って、いや。今日は頑張って掃除したんだぞ」
「ふふ。……ありがとうございます」
詩音は笑って、それから台所のほうを見て——あ、と小さく声を上げた。
「……エプロン。使ってくれてるんですね」
台所にかかった、あの紺色のエプロン。この子がはじめての給料で、俺にくれたやつ。
「……ああ。毎日使ってる。……気に入ってるからな」
その言葉に、詩音はなんだか嬉しそうに、そして少し泣きそうな顔で微笑んだ。
「……よかった」
***
二人でお茶を飲みながら、少し話した。
詩音は新しい生活のことを話してくれた。
正社員になって任される仕事が増えたこと。花束の注文を一人でこなせるようになったこと。葵ちゃんと休みの日に出かけたこと。一人暮らしにも慣れて、家事もちゃんとできていること。
その一つ一つが、この子がちゃんと一人で、立派にやれていることを伝えていた。
……ああ。
俺はその話を聞きながら、改めて思った。
この子はもう、俺の助けなんて必要ない。
ちゃんと自分の足で歩いている。仕事も、暮らしも、友達も、全部自分で手に入れている。
俺が拾って、教えて、そしてこの子はちゃんと巣立っていった。それは俺の目標が、完全に叶ったということだ。
……よかった、と心から思った。思った、けど。
じゃあなんで、この子は今日、ここに来たんだろう?
困ったことがあるわけでもない。ちゃんと一人でやれている。……なのに、「会いたくて」と。
***
「あの、佐々木さん」
ひとしきり話したあと、詩音が少しあらたまった様子で、あの紙袋を差し出した。
「これ。……よかったら」
「ん? なんだ、これ」
「……作ってきたんです。……お昼、まだですよね?」
紙袋の中を見て——俺は思わず、言葉を失った。
入っていたのは、おにぎりだった。
ラップに包まれた、いくつかのおにぎり。三角の、綺麗な形の。
「……これ」
「はい。……わたしが握りました」
詩音は少し照れたように言った。
「あの……はじめてここで、佐々木さんに握りかたを教わった、おにぎり。あのとき、わたし、ぐしゃぐしゃに崩して……泣いちゃって」
「……ああ。覚えてる」
「あれから……わたし、時々、一人で握るんです」
詩音はそのおにぎりを見つめながら言った。
「一人の部屋で、夜、ふと寂しくなると、おにぎりを握るんです。あの日、佐々木さんに教わった通りに。手を濡らして、お塩をつけて。……そっと、形を決めるように」
この子は、俺が教えたあのおにぎりを、一人になっても握り続けていた。
「今では……ちゃんと、崩れずに握れます。お塩の加減も、ちょうどよく」
彼女は顔を上げて、俺をまっすぐ見た。
「でも……一人で食べるおにぎりは、なんだか、美味しくないんです」
***
俺はそのおにぎりを受け取って、ひと口食べた。
……美味かった。
あの日のいびつな、しょっぱいおにぎりとは比べ物にならない。ちゃんと握れていて、塩加減もちょうどいい。
この子はちゃんと、一人で握れるようになった。
でも。
「……美味いよ」
俺がそう言うと、詩音はぽろりと涙をこぼした。
……あの日と同じだ。
はじめておにぎりを握ったあの日も、この子は俺が「美味い」と言ったら、泣いた。
でも、あの日の涙と、今日の涙は、少し違う気がした。
「……あの。佐々木さん」
詩音は涙を拭いて、ぎゅっと手を握って、意を決したように言った。
「わたし……ずっと考えていたんです。一人になってから」
「……ああ」
「なんでこんなに寂しいんだろう、って。ちゃんと一人でやれてるのに。仕事も順調で、葵ちゃんもいて。何も困ってないのに。……どうしてこんなに、佐々木さんに会いたいんだろう、って」
詩音の声が、少し震えていた。
「一人でおにぎりを握るたびに、あの六畳一間を思い出して。佐々木さんと二人でいた、あの毎日が、たまらなく恋しくなって」
彼女はまっすぐ俺を見て言った。
「わたし……やっと、分かったんです。」
***
俺は息をのんで、この子の言葉を待った。
心臓が、うるさいくらい鳴っていた。
「わたし……佐々木さんのことが、好きです」
その言葉が、部屋に静かに落ちた。
「拾ってもらったから、じゃなくて。お世話になったから、でもなくて。……ただ、佐々木さんと、一緒にいたい。それが……わたしの、気持ちです」
詩音は一気に言って、それから真っ赤な顔で俯いた。
「……ごめんなさい。こんなこと。せっかく自立できたのに、また佐々木さんに頼るみたいで。……でも」
「……頼るのと、好きなのは、違うだろ」
俺は気づいたら、そう言っていた。
詩音がはっと顔を上げる。
「お前はちゃんと、一人で立ってる。仕事も暮らしも、全部自分でやれてる。……それは俺が、いちばんよく分かってる」
俺はこの子の目を見て言った。
「そのうえで、それでも俺に会いたいって……そう言ってくれるなら」
俺はこの一年半、ずっと胸の奥にしまい続けてきた言葉を、とうとう口にした。
「……俺も、だよ。詩音」
詩音の目が、大きく見開かれた。
「俺も、ずっと……お前のことが、好きだった」
***
俺はぽつりぽつりと、胸の内を話した。
いつからか自分でも、はっきりとは分からない。でも、気づいたときにはもう、この子のことを目で追っていた。
「でも、言えなかった。お前が自立しようと頑張ってるときに、俺の気持ちなんか告げたら、邪魔になると思って」
ずっと蓋をしてきた。
この子が外に出られるようになっても。友達ができても。一人暮らしを始めるときも。
あの旅立ちの夜も——本当は「行くな」と叫びたかった。
でも言わなかった。この子の翼を、折りたくなかったから。
「だから、お前がちゃんと自分の足で立って、そのうえで、もしいつか、お前自身が何かを感じてくれることがあるなら。そのときまで待とうって、決めてた」
俺は少し笑って言った。
「……まさか本当に、こんな日が来るとは思わなかったけど」
詩音はぼろぼろと涙をこぼしながら、笑った。
「……佐々木さん、ずるいです。そんなこと、ずっと一人で抱えてたなんて」
「……悪い」
「……でも。嬉しい」
詩音は涙を拭いて、今日いちばんの、とびきりの笑顔で言った。
「わたし……ここに、戻ってきても、いいですか?」
……ああ、と俺は思った。
この子は自分の足で歩いて、そして自分の意志で、もう一度この場所に戻ってきてくれた。
拾った夜、俺が路上から連れて帰ったこの子が、今日は自分の足で、自分の意志で、会いに来てくれた。
……あのときとは、逆だ。
あのとき扉を開けて「うち来るか」と言ったのは、俺だった。
今日、その扉を自分で叩いて「戻ってきてもいいですか」と言ってくれたのは、この子のほうだった。
「……ああ」
俺は頷いた。
「おかえり。……詩音」
その言葉に、詩音はくしゃっと顔を歪めて、そして子供みたいに泣いた。
「……ただいま。佐々木さん」
***
窓の外は、秋のよく晴れた空だった。
テーブルの上には、食べかけのおにぎりが、ちょこんと残っていた。
あの日この子がはじめて握った、いびつなおにぎりから、ずいぶん遠くまで来た。
……二人で、ここまで来た。
俺はもう一つ、おにぎりに手を伸ばして、ひと口食べた。
……やっぱり、美味かった。
今度は、しょっぱくなんて、なかった。
俺は朝から、なんだかそわそわしていた。
部屋を片付けて——いや、この一年でいちばん真面目に掃除をした気がする。二人で暮らしていたころはあんなに綺麗だった部屋が、あの子が出ていってから、また少しずつ散らかっていたのだ。
それを今日は、念入りに片付けた。
……なんで俺は、こんなに緊張してるんだ。
あの子は半年も、ここに住んでいた相手だ。今さら遊びに来るくらいで、緊張するようなことじゃない。
……なのに。
あの「会いたくて」の一文が、ずっと頭から離れなかった。
***
昼過ぎ。
ピンポン、とチャイムが鳴った。
俺は深呼吸をひとつして、玄関の扉を開けた。
そこに、詩音が立っていた。
「……こんにちは、佐々木さん」
ひと月ぶりに見るこの子は、なんだか少し、大人びて見えた。
ちゃんとした服を着て、少し化粧もして、手に小さな紙袋を提げて。
拾った夜のあの消え入りそうな子とも、この部屋を出ていったころのこの子とも、また少し違う。
……ちゃんと自分の足で立っている、一人の女性の顔をしていた。
「……おう。久しぶり。……入れよ」
「はい。……お邪魔します」
***
部屋に上がった詩音は、懐かしそうに部屋を見回した。
「……変わってないですね。この部屋」
「まあな。……って、いや。今日は頑張って掃除したんだぞ」
「ふふ。……ありがとうございます」
詩音は笑って、それから台所のほうを見て——あ、と小さく声を上げた。
「……エプロン。使ってくれてるんですね」
台所にかかった、あの紺色のエプロン。この子がはじめての給料で、俺にくれたやつ。
「……ああ。毎日使ってる。……気に入ってるからな」
その言葉に、詩音はなんだか嬉しそうに、そして少し泣きそうな顔で微笑んだ。
「……よかった」
***
二人でお茶を飲みながら、少し話した。
詩音は新しい生活のことを話してくれた。
正社員になって任される仕事が増えたこと。花束の注文を一人でこなせるようになったこと。葵ちゃんと休みの日に出かけたこと。一人暮らしにも慣れて、家事もちゃんとできていること。
その一つ一つが、この子がちゃんと一人で、立派にやれていることを伝えていた。
……ああ。
俺はその話を聞きながら、改めて思った。
この子はもう、俺の助けなんて必要ない。
ちゃんと自分の足で歩いている。仕事も、暮らしも、友達も、全部自分で手に入れている。
俺が拾って、教えて、そしてこの子はちゃんと巣立っていった。それは俺の目標が、完全に叶ったということだ。
……よかった、と心から思った。思った、けど。
じゃあなんで、この子は今日、ここに来たんだろう?
困ったことがあるわけでもない。ちゃんと一人でやれている。……なのに、「会いたくて」と。
***
「あの、佐々木さん」
ひとしきり話したあと、詩音が少しあらたまった様子で、あの紙袋を差し出した。
「これ。……よかったら」
「ん? なんだ、これ」
「……作ってきたんです。……お昼、まだですよね?」
紙袋の中を見て——俺は思わず、言葉を失った。
入っていたのは、おにぎりだった。
ラップに包まれた、いくつかのおにぎり。三角の、綺麗な形の。
「……これ」
「はい。……わたしが握りました」
詩音は少し照れたように言った。
「あの……はじめてここで、佐々木さんに握りかたを教わった、おにぎり。あのとき、わたし、ぐしゃぐしゃに崩して……泣いちゃって」
「……ああ。覚えてる」
「あれから……わたし、時々、一人で握るんです」
詩音はそのおにぎりを見つめながら言った。
「一人の部屋で、夜、ふと寂しくなると、おにぎりを握るんです。あの日、佐々木さんに教わった通りに。手を濡らして、お塩をつけて。……そっと、形を決めるように」
この子は、俺が教えたあのおにぎりを、一人になっても握り続けていた。
「今では……ちゃんと、崩れずに握れます。お塩の加減も、ちょうどよく」
彼女は顔を上げて、俺をまっすぐ見た。
「でも……一人で食べるおにぎりは、なんだか、美味しくないんです」
***
俺はそのおにぎりを受け取って、ひと口食べた。
……美味かった。
あの日のいびつな、しょっぱいおにぎりとは比べ物にならない。ちゃんと握れていて、塩加減もちょうどいい。
この子はちゃんと、一人で握れるようになった。
でも。
「……美味いよ」
俺がそう言うと、詩音はぽろりと涙をこぼした。
……あの日と同じだ。
はじめておにぎりを握ったあの日も、この子は俺が「美味い」と言ったら、泣いた。
でも、あの日の涙と、今日の涙は、少し違う気がした。
「……あの。佐々木さん」
詩音は涙を拭いて、ぎゅっと手を握って、意を決したように言った。
「わたし……ずっと考えていたんです。一人になってから」
「……ああ」
「なんでこんなに寂しいんだろう、って。ちゃんと一人でやれてるのに。仕事も順調で、葵ちゃんもいて。何も困ってないのに。……どうしてこんなに、佐々木さんに会いたいんだろう、って」
詩音の声が、少し震えていた。
「一人でおにぎりを握るたびに、あの六畳一間を思い出して。佐々木さんと二人でいた、あの毎日が、たまらなく恋しくなって」
彼女はまっすぐ俺を見て言った。
「わたし……やっと、分かったんです。」
***
俺は息をのんで、この子の言葉を待った。
心臓が、うるさいくらい鳴っていた。
「わたし……佐々木さんのことが、好きです」
その言葉が、部屋に静かに落ちた。
「拾ってもらったから、じゃなくて。お世話になったから、でもなくて。……ただ、佐々木さんと、一緒にいたい。それが……わたしの、気持ちです」
詩音は一気に言って、それから真っ赤な顔で俯いた。
「……ごめんなさい。こんなこと。せっかく自立できたのに、また佐々木さんに頼るみたいで。……でも」
「……頼るのと、好きなのは、違うだろ」
俺は気づいたら、そう言っていた。
詩音がはっと顔を上げる。
「お前はちゃんと、一人で立ってる。仕事も暮らしも、全部自分でやれてる。……それは俺が、いちばんよく分かってる」
俺はこの子の目を見て言った。
「そのうえで、それでも俺に会いたいって……そう言ってくれるなら」
俺はこの一年半、ずっと胸の奥にしまい続けてきた言葉を、とうとう口にした。
「……俺も、だよ。詩音」
詩音の目が、大きく見開かれた。
「俺も、ずっと……お前のことが、好きだった」
***
俺はぽつりぽつりと、胸の内を話した。
いつからか自分でも、はっきりとは分からない。でも、気づいたときにはもう、この子のことを目で追っていた。
「でも、言えなかった。お前が自立しようと頑張ってるときに、俺の気持ちなんか告げたら、邪魔になると思って」
ずっと蓋をしてきた。
この子が外に出られるようになっても。友達ができても。一人暮らしを始めるときも。
あの旅立ちの夜も——本当は「行くな」と叫びたかった。
でも言わなかった。この子の翼を、折りたくなかったから。
「だから、お前がちゃんと自分の足で立って、そのうえで、もしいつか、お前自身が何かを感じてくれることがあるなら。そのときまで待とうって、決めてた」
俺は少し笑って言った。
「……まさか本当に、こんな日が来るとは思わなかったけど」
詩音はぼろぼろと涙をこぼしながら、笑った。
「……佐々木さん、ずるいです。そんなこと、ずっと一人で抱えてたなんて」
「……悪い」
「……でも。嬉しい」
詩音は涙を拭いて、今日いちばんの、とびきりの笑顔で言った。
「わたし……ここに、戻ってきても、いいですか?」
……ああ、と俺は思った。
この子は自分の足で歩いて、そして自分の意志で、もう一度この場所に戻ってきてくれた。
拾った夜、俺が路上から連れて帰ったこの子が、今日は自分の足で、自分の意志で、会いに来てくれた。
……あのときとは、逆だ。
あのとき扉を開けて「うち来るか」と言ったのは、俺だった。
今日、その扉を自分で叩いて「戻ってきてもいいですか」と言ってくれたのは、この子のほうだった。
「……ああ」
俺は頷いた。
「おかえり。……詩音」
その言葉に、詩音はくしゃっと顔を歪めて、そして子供みたいに泣いた。
「……ただいま。佐々木さん」
***
窓の外は、秋のよく晴れた空だった。
テーブルの上には、食べかけのおにぎりが、ちょこんと残っていた。
あの日この子がはじめて握った、いびつなおにぎりから、ずいぶん遠くまで来た。
……二人で、ここまで来た。
俺はもう一つ、おにぎりに手を伸ばして、ひと口食べた。
……やっぱり、美味かった。
今度は、しょっぱくなんて、なかった。
