詩音が出ていってから、ひと月が経った。
俺は一人の暮らしに、少しずつ慣れていった。
いや、正確には、慣れるしかなかった。
二人分の癖で多めにといでいた米も、少しずつ一人分に戻せるようになった。がらんとした部屋の静けさも、前ほどはこたえなくなった。
でも台所にかかった、あの紺色のエプロンだけは外せなかった。この子がくれたそれを見るたびに、少し胸があたたかくなって、そして少し、寂しくなる。
俺はそのエプロンを着けて、毎日飯を作った。一人分の飯を。
あの子からの連絡は、なかった。
まあ、そうだろうと思った。あの子はあの子で、新しい暮らしを始めたんだ。俺のことを思い出す暇もないくらい、忙しくやっているなら、それでいい。
……そう思うそばから、スマホを確かめている自分がいて、少し笑った。
***
このひと月、俺はちゃんと動いていた。
求人に応募して、面接を受けて——何社か、落ちた。
落ちるたびに、やっぱり俺なんか、と少し落ち込んだ。あのブラック企業で潰れた記憶がちらついた。
でもそのたびに思い出した。
あの子がバイトの面接に行く前、緊張でがちがちになりながら、それでも深呼吸をして扉を開けた、あの後ろ姿を。
初出勤で失敗して、逃げ出して——それでももう一度、自分から店に戻った、あの子を。
あの子があんなに頑張ったんだ。俺が一回や二回落ちたくらいで、へこたれてどうする。
俺はもう一度、面接を受けた。今度は少し、肩の力を抜いて。
そして、小さなweb制作の会社から、採用の連絡が来た。
会社員時代の経験を、いくらかは買ってくれたらしい。大きな会社じゃない。でも、ちゃんと腰を据えて働ける場所だった。
一年ぶりの、「働く」だった。
通勤にも、少しずつ慣れていった。久しぶりの人の波に、最初は酔いそうになったけれど。あのブラック企業のときみたいに、心がすり減っていく感じはなかった。
たぶん俺も、あの子と暮らした半年で、少し変わったんだろう。
誰かのために動く喜び。崩れかけた自分の毎日が、少しずつ形になっていく感覚。それをあの子が、教えてくれた。
あの子を社会復帰させようとしながら、気づいたら俺自身も、社会に戻っていた。
***
——彼女は、ちゃんとやっていた。
朝、自分で起きて、お弁当を作って、仕事に行く。正社員になって、任される仕事も増えた。花束の注文。店の切り盛り。ひとつずつ、覚えていった。
夜、帰ってきて、一人でごはんを作って食べる。
……ただ。
一人で作るごはんは、なんだか味がしなかった。
佐々木さんと二人で作ったごはんは、あんなに美味しかったのに。一人で作ると、同じはずなのに、何かが足りない。
わたしは、ちゃんとやれている。詩音は自分に、そう言い聞かせた。
仕事も、家事も、一人でこなせている。もう、誰かに頼らなくても大丈夫。それがうれしいはずだった。ずっと、そうなりたかったはずだった。
でも、夜、一人の部屋で、ふと静かになる瞬間があった。
テレビの音もない。誰の気配もない。ただ、一人。
そういうとき、詩音は思い出した。
あの六畳一間。佐々木さんと二人で過ごした半年を。
鮭か梅かで悩んだ朝。夜の公園。夏祭り。料理を教わりながら、二人で笑った夜。
あそこにはいつも、誰かの気配があった。
「佐々木さん」と呼べば、「ん?」と、返事があった。
一人暮らしは快適だった。自由で、誰にも気を遣わなくていい。
……でも、少し、さびしかった。
その寂しさの正体が、詩音には最初、よく分からなかった。
一人がさびしい——それは、そうかもしれない。ずっと二人だったのだから。
でも、それだけじゃない気がした。
葵ちゃんといるときは、楽しい。でも、家に帰って、さびしくなる。その寂しさは、友達では埋まらない種類のものだった。
佐々木さんに、会いたい。
その気持ちが、日に日に大きくなっていった。
困ったことがあるから、じゃない。むしろ、ちゃんと一人でやれている。
うれしいことがあったとき、真っ先に「佐々木さんに報告したい」と思う。
おいしいものを食べたとき、「佐々木さんにも食べさせたい」と思う。
夜、一人でいるとき、「佐々木さんは今ごろ、何をしてるかな」と思う。
……この気持ちは、なんだろう。
その気持ちに、詩音はまだ、名前をつけられずにいた。
***
その日の夜。
仕事から帰って、俺はいつものようにあの紺色のエプロンを着けて、一人分の飯を作っていた。
そのとき、スマホが鳴った。
……詩音からのメッセージだった。
ひと月、何の音沙汰もなかった、あの子から。
俺は少し驚いて、画面を開いた。
そこにあったのは、こんな言葉だった。
『佐々木さん。あの……今度の日曜日、そちらに遊びに行っても、いいですか?』
……ん?
遊びに行きたい、なんて。あの子から、そんな連絡が来るとは思わなかった。
なのにこの子は、自分から——「行きたい」と。
『おう。もちろん。……何かあったか?』
俺がそう返すと、少し間があって、次のメッセージが届いた。
『いえ。何もないんですけど。……ただ、佐々木さんに、会いたくて』
その一文を、俺はしばらく見つめていた。
……会いたくて。
なんでもない言葉のはずだった。でも。
なんでか、その六文字が、俺の胸を妙にざわつかせた。
……いや。
俺はそのざわつきに蓋をしようとして——ふと、手を止めた。
いつまで、自分をごまかし続けるつもりだ?
窓の外は、秋の夜。
あの子が来る日曜日は、もうすぐそこだった。
俺はスマホを握りしめたまま、しばらくその「会いたくて」の文字を見つめていた。
……なんだか。
その夜の味噌汁は、久しぶりに、ちゃんと味がした気がした。
俺は一人の暮らしに、少しずつ慣れていった。
いや、正確には、慣れるしかなかった。
二人分の癖で多めにといでいた米も、少しずつ一人分に戻せるようになった。がらんとした部屋の静けさも、前ほどはこたえなくなった。
でも台所にかかった、あの紺色のエプロンだけは外せなかった。この子がくれたそれを見るたびに、少し胸があたたかくなって、そして少し、寂しくなる。
俺はそのエプロンを着けて、毎日飯を作った。一人分の飯を。
あの子からの連絡は、なかった。
まあ、そうだろうと思った。あの子はあの子で、新しい暮らしを始めたんだ。俺のことを思い出す暇もないくらい、忙しくやっているなら、それでいい。
……そう思うそばから、スマホを確かめている自分がいて、少し笑った。
***
このひと月、俺はちゃんと動いていた。
求人に応募して、面接を受けて——何社か、落ちた。
落ちるたびに、やっぱり俺なんか、と少し落ち込んだ。あのブラック企業で潰れた記憶がちらついた。
でもそのたびに思い出した。
あの子がバイトの面接に行く前、緊張でがちがちになりながら、それでも深呼吸をして扉を開けた、あの後ろ姿を。
初出勤で失敗して、逃げ出して——それでももう一度、自分から店に戻った、あの子を。
あの子があんなに頑張ったんだ。俺が一回や二回落ちたくらいで、へこたれてどうする。
俺はもう一度、面接を受けた。今度は少し、肩の力を抜いて。
そして、小さなweb制作の会社から、採用の連絡が来た。
会社員時代の経験を、いくらかは買ってくれたらしい。大きな会社じゃない。でも、ちゃんと腰を据えて働ける場所だった。
一年ぶりの、「働く」だった。
通勤にも、少しずつ慣れていった。久しぶりの人の波に、最初は酔いそうになったけれど。あのブラック企業のときみたいに、心がすり減っていく感じはなかった。
たぶん俺も、あの子と暮らした半年で、少し変わったんだろう。
誰かのために動く喜び。崩れかけた自分の毎日が、少しずつ形になっていく感覚。それをあの子が、教えてくれた。
あの子を社会復帰させようとしながら、気づいたら俺自身も、社会に戻っていた。
***
——彼女は、ちゃんとやっていた。
朝、自分で起きて、お弁当を作って、仕事に行く。正社員になって、任される仕事も増えた。花束の注文。店の切り盛り。ひとつずつ、覚えていった。
夜、帰ってきて、一人でごはんを作って食べる。
……ただ。
一人で作るごはんは、なんだか味がしなかった。
佐々木さんと二人で作ったごはんは、あんなに美味しかったのに。一人で作ると、同じはずなのに、何かが足りない。
わたしは、ちゃんとやれている。詩音は自分に、そう言い聞かせた。
仕事も、家事も、一人でこなせている。もう、誰かに頼らなくても大丈夫。それがうれしいはずだった。ずっと、そうなりたかったはずだった。
でも、夜、一人の部屋で、ふと静かになる瞬間があった。
テレビの音もない。誰の気配もない。ただ、一人。
そういうとき、詩音は思い出した。
あの六畳一間。佐々木さんと二人で過ごした半年を。
鮭か梅かで悩んだ朝。夜の公園。夏祭り。料理を教わりながら、二人で笑った夜。
あそこにはいつも、誰かの気配があった。
「佐々木さん」と呼べば、「ん?」と、返事があった。
一人暮らしは快適だった。自由で、誰にも気を遣わなくていい。
……でも、少し、さびしかった。
その寂しさの正体が、詩音には最初、よく分からなかった。
一人がさびしい——それは、そうかもしれない。ずっと二人だったのだから。
でも、それだけじゃない気がした。
葵ちゃんといるときは、楽しい。でも、家に帰って、さびしくなる。その寂しさは、友達では埋まらない種類のものだった。
佐々木さんに、会いたい。
その気持ちが、日に日に大きくなっていった。
困ったことがあるから、じゃない。むしろ、ちゃんと一人でやれている。
うれしいことがあったとき、真っ先に「佐々木さんに報告したい」と思う。
おいしいものを食べたとき、「佐々木さんにも食べさせたい」と思う。
夜、一人でいるとき、「佐々木さんは今ごろ、何をしてるかな」と思う。
……この気持ちは、なんだろう。
その気持ちに、詩音はまだ、名前をつけられずにいた。
***
その日の夜。
仕事から帰って、俺はいつものようにあの紺色のエプロンを着けて、一人分の飯を作っていた。
そのとき、スマホが鳴った。
……詩音からのメッセージだった。
ひと月、何の音沙汰もなかった、あの子から。
俺は少し驚いて、画面を開いた。
そこにあったのは、こんな言葉だった。
『佐々木さん。あの……今度の日曜日、そちらに遊びに行っても、いいですか?』
……ん?
遊びに行きたい、なんて。あの子から、そんな連絡が来るとは思わなかった。
なのにこの子は、自分から——「行きたい」と。
『おう。もちろん。……何かあったか?』
俺がそう返すと、少し間があって、次のメッセージが届いた。
『いえ。何もないんですけど。……ただ、佐々木さんに、会いたくて』
その一文を、俺はしばらく見つめていた。
……会いたくて。
なんでもない言葉のはずだった。でも。
なんでか、その六文字が、俺の胸を妙にざわつかせた。
……いや。
俺はそのざわつきに蓋をしようとして——ふと、手を止めた。
いつまで、自分をごまかし続けるつもりだ?
窓の外は、秋の夜。
あの子が来る日曜日は、もうすぐそこだった。
俺はスマホを握りしめたまま、しばらくその「会いたくて」の文字を見つめていた。
……なんだか。
その夜の味噌汁は、久しぶりに、ちゃんと味がした気がした。
