引きこもりのお嬢様を拾ったから社会復帰させる

 部屋探しは、思ったより順調に進んだ。

 詩音の新しい職場——正社員になる、あの花屋。そこから電車で二駅ほどの場所に、手頃なアパートが見つかった。

 日当たりのいい、小さな部屋。詩音は内見に行って、「ここが、いいです」と自分で決めた。

 鮭か梅かすら選べなかった子が、自分の住む場所を自分で選んだ。それだけで俺は、なんだか胸がいっぱいになった。

 それから数週間、二人で少しずつ、引っ越しの準備をした。

***

 新しい部屋に必要なものを、二人で買いに行った。

 布団。カーテン。小さなテーブル。食器。この子がはじめて持つ「自分の家のもの」たち。

 詩音はその一つ一つを真剣に選んだ。もう、迷ってフリーズしたりはしなかった。「これが好き」「これがいい」と、ちゃんと自分で選べるようになっていた。

 半年前、この子は何ひとつ自分で選べなかった。

 今は、自分の暮らしを自分で作ろうとしている。

 その姿を見ていると、嬉しさと寂しさが同時にこみ上げてきた。

「佐々木さん。このお鍋、どうでしょう。お味噌汁とか、作るのに」

「……ああ。いいんじゃないか」

 この子は俺が教えた料理を、新しい部屋でも作るんだろう。俺のいない台所で。一人で。

 その想像は、なんだか少し切なかった。

***

 引っ越しの前の夜。

 最後の荷造りをしながら、俺たちは少ししんみりしていた。

 この部屋で過ごした半年。いろんなことがあった。

 何も持たずに来た夜。鮭か梅かで悩んだ朝。夜の公園。夏祭り。バイトの失敗。友達ができた日。

 全部、この六畳一間で始まったことだった。

「佐々木さん」

 荷物をまとめながら、詩音がぽつりと言った。

「わたし、ここに来た日のこと……今でも、はっきり覚えてます」

「……ああ」

「道端で膝を抱えて。もうどうしたらいいか分からなくて。世界に一人ぼっちだって……そう、思ってました」

 詩音は手を止めて、部屋を見回した。

「そんなときに、佐々木さんが……『うち来るか』って、声をかけてくれた」

 その目に、じわりと涙が滲んだ。

「あのとき佐々木さんが拾ってくれなかったら、わたし、今どうなっていたか。……考えると、こわいです」

「……大げさだよ」

 俺は照れくさくて、ぶっきらぼうに言った。

「拾ったのは俺だけど、歩いたのはお前の足だ。外に出たのも、友達を作ったのも、仕事を覚えたのも……全部、お前が自分でやったことだよ」

「……でも、きっかけをくれたのは、佐々木さんです」

 詩音は涙を拭いて、微笑んだ。

「わたしの世界を、こんなに広げてくれて。……本当に、ありがとうございました」

 その笑顔を見て、俺はぐっと来るものを、必死にこらえた。

 ……ずるいな、こいつは。そんな顔で礼を言われたら——行くな、なんて、言えるわけがない。

***

 引っ越しの当日は、朝からよく晴れていた。

 少ない荷物を二人で運び出す。半年前、この部屋に何も持たずに来た子が、今は自分の荷物を持って出ていく。

 全部運び終えて、新しい部屋に荷物を運び込んで、簡単な片付けをして——気づいたらもう、夕方になっていた。

 詩音の新しい部屋。日当たりのいい、小さな部屋。まだがらんとしているけれど、これからこの子が、自分の暮らしを作っていく場所。

「……なんとか形になったな」

「はい……! 佐々木さん、今日は本当に、ありがとうございました」

 さて。

 もう、俺がここにいる理由は、なくなった。

「じゃあ……俺はそろそろ、帰るわ」

 俺がそう言うと、詩音の顔が一瞬寂しそうに——でもすぐに、笑顔を作って頷いた。

「……はい。あの、本当に、いろいろ……ありがとうございました」

「おう。……一人でも、ちゃんとやってけるよ。お前なら」

「はい」

 玄関で、俺たちは少しぎこちなく、別れの挨拶をした。

 半年間、毎日一緒にいた二人が、今日から別々の場所で暮らす。

 その実感が、じわじわとこみ上げてきた。

「……じゃあな、詩音。元気で」

「はい。……佐々木さんも。お体、大事にしてくださいね」

 俺はその新しい部屋を出た。

 扉が、ぱたんと閉まる。

 その音を背中で聞きながら、俺は一人で、夕暮れの道を歩き出した。

***

 自分の部屋に帰ってきて、電気をつけた。

 ……がらんとしていた。

 六畳一間。いつもの部屋。でも。

 半年間二人だった部屋が、今は一人分の空間に戻っていた。

 詩音の荷物がなくなっている。この子が使っていた布団も、この子の服がかかっていた場所も、全部空っぽに。

 ……そうか。

 もう、いないんだ。

 俺はなんとなく、畳の上に腰を下ろした。

 半年前まで、俺はこのがらんとした部屋で一人、何もせずに、ただ口座の数字が減っていくのを見ていた。

 あのころはこの静けさが当たり前だった。一人でいることを、なんとも思わなかった。

 なのに今は、この静けさが、こんなにこたえる。

 二組あった布団を、一組しまう。

 この作業が、こんなに寂しいものだとは思わなかった。

 台所には、あの紺色のエプロンがかかっている。この子がはじめての給料で、俺にくれたエプロン。

 それだけが、この部屋に残った、この子のいた証だった。

***

 その夜、俺は一人で飯を作った。

 ……いや、作ろうとした。

 でも二人分の癖が抜けなくて、つい多めに米をといでしまった。

 ……一人だった。

 そうだ。もう、一人なんだ。

 一人分の味噌汁をすすった。なんだか、味がしなかった。

 あんなに、この子の社会復帰を目標にして頑張ってきたのに。いざそれが叶ったら、こんなに空っぽになるなんて。

 ……なあ。

 誰もいない部屋で、俺はつぶやいた。

 お前は今ごろ、新しい部屋で、ちゃんと飯食ってるか? 寂しくないか?

 ……いや。

 あいつはきっと大丈夫だ。だってあんなに、強くなったんだから。

 寂しがってるのは、俺のほうか。

 俺は一人で少し笑った。情けなくて。

 ……でも、これでいいんだ。

 この子は前に進んだ。自分の足で、自分の人生を歩き始めた。それを俺は、ちゃんと送り出せた。

 胸の奥にしまったこの気持ちも、このまましまっておこう。

 この子が自分の足で歩いて、そのうえで——もしいつか、この場所を思い出してくれることがあるなら。

 そのときまで、俺は待とう。

 窓の外はもうすっかり夜だった。秋の夜。一人分の静けさが、部屋に満ちていた。

 ……明日からまた、俺の社会復帰も、ちゃんとやらないとな。

 この子に胸を張れる自分でいるために。

 俺は冷めた味噌汁を、最後まで飲み干した。

 ……やっぱり少し、しょっぱい気がした。