その話を詩音が切り出したのは、よく晴れた秋の夜だった。
夕食のあと、詩音は少しあらたまった様子で、俺に向き直った。
「佐々木さん。……あの、ずっと考えていたことが、あって」
「ん?」
「わたし……正社員として、働かせていただくことに、決めました」
「おう。……それはいいことだ」
俺は頷いた。それはもう聞いていた。この子がそう決めたことは、喜ばしいことだ。
「それで……その」
詩音は膝の上で指をもじもじさせながら、意を決したように言った。
「わたし……そろそろ、一人暮らしを、してみようかと思うんです」
——その瞬間。
俺の心臓が、どくんと嫌な音を立てた。
***
「ずっと、佐々木さんに甘えてばかりでした」
詩音は俯きながら続けた。
「拾ってもらって。ここに置いてもらって。……もう半年近く、わたし、すっかりここでの暮らしに甘えてしまって」
「甘えてなんか……」
「でもわたし、正社員になって、ちゃんとお給料もいただけるようになります。そうしたら、自分の力で暮らしていけるはずで」
詩音は顔を上げた。その目には少し寂しさもあったけれど、それ以上に、まっすぐな決意があった。
「いつまでも佐々木さんに頼っていては……本当の意味で、自立したことにはならないと思うんです。……だから」
だから、この子はここを出ていく、と。
「わたし……一人で、暮らしてみたいです。ちゃんと、自分の足で立ってみたい」
***
俺はその言葉を聞きながら、口の中がからからになるのを感じていた。
……ああ。
ついに、この日が来た。
分かっていた。いつかこうなることは。俺がやってきたのは、まさにこの子をこうやって、一人で立てるようにすることだった。
この子が「一人で暮らしてみたい」と言う。それは俺の目標が、完全に達成されたということだ。
拾った夜、路上で膝を抱えて震えていた子が、「一人で生きていく」と自分の口で言えるようになった。
これ以上の成功が、あるか?
……なのに。
なんで俺は——「行くな」と叫びたくなっているんだ。
***
その夜、俺は布団の中で、ずっと眠れずにいた。
隣から規則正しく聞こえる、この子の寝息。もう半年近く、当たり前になった音。
この音が、もうすぐこの部屋から消える。
そう思うと、胸が締めつけられた。
……なあ、と、俺は暗い天井に心の中で話しかけた。
本当にいいのか? このまま、この子を行かせて。
心のいちばん奥の暗いところで、ずっと蓋をしてきた声が、とうとう溢れ出してきた。
この子を、行かせたくない。
俺は、この子のことが好きなんだ。とっくに、ずっと前から。
この子と暮らした半年が、俺の空っぽだった毎日を、あたたかいものに変えてくれた。この子の笑顔。「佐々木さん」と呼ぶ声。二人で作る飯。……全部、手放したくない。
……もし。
もし俺がここで「行くな」と言ったら、どうなる?
この子はたぶん、俺の言うことを聞くだろう。この子は俺に恩を感じている。俺が望めば、この子はここに残るかもしれない。
あるいは、もっとずるい手だってある。
「一人暮らしはまだ早い」と。「お前には無理だ」と。この子の不安を煽れば、この子はきっとまた自信をなくして、ここに留まる。
この子をずっと、俺の隣に置いておける。
***
……そこまで考えて。
俺は、ぞっとした。
自分の心の、あまりの醜さに。
何を考えてるんだ、俺は。
この子の不安を煽って、自信を奪って、縛りつける?
それは——この子をいちばん傷つけてきた、あの連中と、何が違う?
この子はこの半年、あんなに頑張った。こわいものと一つ一つ向き合って、外に出て、友達を作って、仕事を覚えて。やっと、やっとここまで来たんだ。
自分の足で、前に進めるようになった。
その翼を、俺のくだらない独占欲で——へし折る?
……冗談じゃない。
俺は、そんなことをするために、この子を拾ったんじゃない。
***
この子を拾って間もないころ、俺は決めた。この子を社会復帰させる、と。
半分はこの子のため。半分は——自分がもう戻れないぶん、せめてこの子だけは本物の世界に還してやりたいという、身勝手な願いだった。
あのとき俺は、この子の幸せを願ったはずだ。
外に出て、人と笑って、自分の足で生きていけるように。
それが今、叶おうとしている。
なのに俺は、その叶う瞬間に、この子を引き止めようとしている。自分の寂しさのために。
……駄目だ。
それだけは、絶対に駄目だ。
本当にこの子のことを想うなら——送り出すことだ。笑って、「行ってこい」と。
たとえそれが、どんなに寂しくても。
***
俺は布団の中で、ぎゅっと目をつぶった。
……決めた。
この気持ちは、言わない。
この子が自立するこの瞬間に、俺の好意なんか告げたら、この子は迷う。せっかく決めた一人暮らしを、ためらうかもしれない。
背中を押すべきときに、俺の感情で引き止めるわけにはいかない。
だからこの気持ちは、俺の胸の中にしまっておく。
この子がちゃんと一人で立って——そのうえで、もし、いつか。この子自身が何かを感じてくれることがあるなら。
そのときまで、俺は待とう。
何も言わずに。ただ、この子の幸せを願いながら。
それが、この子を拾った俺の、せめてものけじめだ。
***
次の朝。
俺はいつも通りの顔で、詩音に言った。
「昨日の、一人暮らしの話だけどさ」
詩音が少し緊張した顔で俺を見た。反対されるかも、と思っていたんだろう。
「……いいと思う。やってみろ」
俺は笑って言った。我ながら、ちゃんと笑えているか少し不安だったけど。
「お前はもう、一人で立てる。胸を張っていい。部屋探しとか手続きとか、分からないことは俺が手伝うから」
その言葉に、詩音の顔がぱあっと明るくなった。
「……! いいん、ですか……!」
「おう。お前が自分で決めたことだ。……胸を張って、行ってこい」
詩音は心から嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は——ああ、これでよかった、と自分に言い聞かせた。
この子は前に進む。それがいちばん大事なことだ。
胸の奥にしまったこの気持ちは、たぶん一生。……いや。
もしいつか、この子が自分の足で歩いて、そのうえでまた、この場所に戻ってきてくれることがあるなら。
そのときは、そのときに考えよう。
今はただ、この子の旅立ちを、笑って見送る。
それが俺にできる、精一杯の愛情だった。
窓の外は今日もよく晴れていた。……でもその青空が、なんだか少し、にじんで見えた。
俺は気づかれないように、そっと目元をこすった。
夕食のあと、詩音は少しあらたまった様子で、俺に向き直った。
「佐々木さん。……あの、ずっと考えていたことが、あって」
「ん?」
「わたし……正社員として、働かせていただくことに、決めました」
「おう。……それはいいことだ」
俺は頷いた。それはもう聞いていた。この子がそう決めたことは、喜ばしいことだ。
「それで……その」
詩音は膝の上で指をもじもじさせながら、意を決したように言った。
「わたし……そろそろ、一人暮らしを、してみようかと思うんです」
——その瞬間。
俺の心臓が、どくんと嫌な音を立てた。
***
「ずっと、佐々木さんに甘えてばかりでした」
詩音は俯きながら続けた。
「拾ってもらって。ここに置いてもらって。……もう半年近く、わたし、すっかりここでの暮らしに甘えてしまって」
「甘えてなんか……」
「でもわたし、正社員になって、ちゃんとお給料もいただけるようになります。そうしたら、自分の力で暮らしていけるはずで」
詩音は顔を上げた。その目には少し寂しさもあったけれど、それ以上に、まっすぐな決意があった。
「いつまでも佐々木さんに頼っていては……本当の意味で、自立したことにはならないと思うんです。……だから」
だから、この子はここを出ていく、と。
「わたし……一人で、暮らしてみたいです。ちゃんと、自分の足で立ってみたい」
***
俺はその言葉を聞きながら、口の中がからからになるのを感じていた。
……ああ。
ついに、この日が来た。
分かっていた。いつかこうなることは。俺がやってきたのは、まさにこの子をこうやって、一人で立てるようにすることだった。
この子が「一人で暮らしてみたい」と言う。それは俺の目標が、完全に達成されたということだ。
拾った夜、路上で膝を抱えて震えていた子が、「一人で生きていく」と自分の口で言えるようになった。
これ以上の成功が、あるか?
……なのに。
なんで俺は——「行くな」と叫びたくなっているんだ。
***
その夜、俺は布団の中で、ずっと眠れずにいた。
隣から規則正しく聞こえる、この子の寝息。もう半年近く、当たり前になった音。
この音が、もうすぐこの部屋から消える。
そう思うと、胸が締めつけられた。
……なあ、と、俺は暗い天井に心の中で話しかけた。
本当にいいのか? このまま、この子を行かせて。
心のいちばん奥の暗いところで、ずっと蓋をしてきた声が、とうとう溢れ出してきた。
この子を、行かせたくない。
俺は、この子のことが好きなんだ。とっくに、ずっと前から。
この子と暮らした半年が、俺の空っぽだった毎日を、あたたかいものに変えてくれた。この子の笑顔。「佐々木さん」と呼ぶ声。二人で作る飯。……全部、手放したくない。
……もし。
もし俺がここで「行くな」と言ったら、どうなる?
この子はたぶん、俺の言うことを聞くだろう。この子は俺に恩を感じている。俺が望めば、この子はここに残るかもしれない。
あるいは、もっとずるい手だってある。
「一人暮らしはまだ早い」と。「お前には無理だ」と。この子の不安を煽れば、この子はきっとまた自信をなくして、ここに留まる。
この子をずっと、俺の隣に置いておける。
***
……そこまで考えて。
俺は、ぞっとした。
自分の心の、あまりの醜さに。
何を考えてるんだ、俺は。
この子の不安を煽って、自信を奪って、縛りつける?
それは——この子をいちばん傷つけてきた、あの連中と、何が違う?
この子はこの半年、あんなに頑張った。こわいものと一つ一つ向き合って、外に出て、友達を作って、仕事を覚えて。やっと、やっとここまで来たんだ。
自分の足で、前に進めるようになった。
その翼を、俺のくだらない独占欲で——へし折る?
……冗談じゃない。
俺は、そんなことをするために、この子を拾ったんじゃない。
***
この子を拾って間もないころ、俺は決めた。この子を社会復帰させる、と。
半分はこの子のため。半分は——自分がもう戻れないぶん、せめてこの子だけは本物の世界に還してやりたいという、身勝手な願いだった。
あのとき俺は、この子の幸せを願ったはずだ。
外に出て、人と笑って、自分の足で生きていけるように。
それが今、叶おうとしている。
なのに俺は、その叶う瞬間に、この子を引き止めようとしている。自分の寂しさのために。
……駄目だ。
それだけは、絶対に駄目だ。
本当にこの子のことを想うなら——送り出すことだ。笑って、「行ってこい」と。
たとえそれが、どんなに寂しくても。
***
俺は布団の中で、ぎゅっと目をつぶった。
……決めた。
この気持ちは、言わない。
この子が自立するこの瞬間に、俺の好意なんか告げたら、この子は迷う。せっかく決めた一人暮らしを、ためらうかもしれない。
背中を押すべきときに、俺の感情で引き止めるわけにはいかない。
だからこの気持ちは、俺の胸の中にしまっておく。
この子がちゃんと一人で立って——そのうえで、もし、いつか。この子自身が何かを感じてくれることがあるなら。
そのときまで、俺は待とう。
何も言わずに。ただ、この子の幸せを願いながら。
それが、この子を拾った俺の、せめてものけじめだ。
***
次の朝。
俺はいつも通りの顔で、詩音に言った。
「昨日の、一人暮らしの話だけどさ」
詩音が少し緊張した顔で俺を見た。反対されるかも、と思っていたんだろう。
「……いいと思う。やってみろ」
俺は笑って言った。我ながら、ちゃんと笑えているか少し不安だったけど。
「お前はもう、一人で立てる。胸を張っていい。部屋探しとか手続きとか、分からないことは俺が手伝うから」
その言葉に、詩音の顔がぱあっと明るくなった。
「……! いいん、ですか……!」
「おう。お前が自分で決めたことだ。……胸を張って、行ってこい」
詩音は心から嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は——ああ、これでよかった、と自分に言い聞かせた。
この子は前に進む。それがいちばん大事なことだ。
胸の奥にしまったこの気持ちは、たぶん一生。……いや。
もしいつか、この子が自分の足で歩いて、そのうえでまた、この場所に戻ってきてくれることがあるなら。
そのときは、そのときに考えよう。
今はただ、この子の旅立ちを、笑って見送る。
それが俺にできる、精一杯の愛情だった。
窓の外は今日もよく晴れていた。……でもその青空が、なんだか少し、にじんで見えた。
俺は気づかれないように、そっと目元をこすった。
