引きこもりのお嬢様を拾ったから社会復帰させる

 その報せは、ある日の夕方にやってきた。

 詩音が帰ってくるなり、少し興奮した様子で言ったのだ。

「佐々木さん……! あの、お話があって」

「ん? どうした」

「店長さんが……その。わたしに……正社員に、ならないかって」

 俺は手を止めた。

「正社員?」

「はい……!」

 詩音はこくこくと頷いた。

「店長さんが、わたしの働きぶりを見て……もしよかったら、バイトじゃなくて、ちゃんとうちで社員として働かないかって。そう、言ってくださって」

***

 詳しく聞くと、こういうことらしい。

 あの花屋は、店長さんがひとりで切り盛りしてきた店だった。でも店長さんも、もう若くはない。いずれは誰か信頼できる人に店を任せていきたい——そう考えていたところに、詩音が来た。

 花を心から大事にする。仕事も丁寧。お客さんにも少しずつ心を開けるようになった。何よりこの子は、花屋の仕事が好きだ。

 店長さんはそんな詩音を見て、この子になら、と思ったらしい。

「もちろん、すぐにじゃなくて。まずはしっかり仕事を覚えて、少しずつでいいって。でも、いつか……この店を任せられるようになってほしい、って」

 詩音はまるで夢でも見ているような顔で言った。

「わたしみたいなのを……そんなふうに言ってくださって。信じられなくて」

 俺はその言葉を聞きながら、胸がいっぱいになった。

 正社員。それはこの子が、本当の意味で「自分の力で生きていく」ということだ。

 バイトならまだ、どこか「お試し」のところがある。でも正社員は違う。腰を据えて、ひとつの仕事で生計を立てていく。

 拾った夜に何もできなかったこの子が、「お金を持ったことがない」と言ったこの子が——今、ひとつの店を任される話まで来ている。

「……すごいじゃないか」

 俺は言った。

「よくここまで来たな。……本当に」

「はい……! あの、でも」

 詩音はふと、不安そうな顔になった。

「わたしに、できるでしょうか。正社員なんて。責任も重くなるし、もっとたくさん、お客さんとも話さないといけないし」

「できるさ」

 俺は迷わず言った。

「お前はもうじゅうぶんやれてる。こわがってた女の人とも、ちゃんと友達になれた。お客さんとも話せるようになった。……あとは、お前がやりたいかどうか。それだけだ」

 詩音はしばらく考えて、それからこくりと、しっかり頷いた。

「……やって、みたいです。わたし、お花の仕事……もっとちゃんと、やりたい」

 その目にはもう、あの怯えはなかった。自分の行きたい道を見つけた——そういう目だった。

***

 その夜、詩音が寝たあと。

 俺はひとり台所で、もらったあの紺色のエプロンをたたみながら、考えていた。

 この子はもう、大丈夫だ。

 正社員になって、ちゃんと自分の力で生きていける。拾って間もないころに決めた「この子を社会復帰させる」という目標は、もう叶ったと言っていい。

 嬉しい。本当に、嬉しい。

 ……なのに。

 胸の奥のあの名前のつかない感覚が、今夜はもう、脇に置いておけないくらい大きくなっていた。

 この子が自立するということは、いつかこの子は、この六畳一間を出ていくということだ。

 正社員になって、ちゃんと給料をもらえるようになったら、一人暮らしだってできる。むしろそれが、本当の意味での「自立」だ。いつまでも俺の部屋にいるわけにはいかない。

 分かっている。それが正しいことは。

 俺がやってきたのは、この子をそうやって一人で立てるようにすることだった。いつか俺がいなくても、どこへでも行けるように。

 それができた。大成功だ。

 ……なのに、なんで俺は、こんなに胸がざわつくんだろう。

 この二人の暮らしが、終わってほしくない——なんて。

 俺はたたんだエプロンを見つめた。この子がはじめての給料で、俺のために選んでくれたエプロン。

 これをもらったとき、思ったんだ。この子はもう一人で立てる、と。それは嬉しいはずのことだった。

 なのに今、その同じ事実が、少し苦しい。

***

 次の朝、俺はひとつ決めた。

 この子ばかりに前に進ませて、俺だけ立ち止まっているわけにはいかない。

 この子が正社員になって次の一歩を踏み出すなら、俺もそろそろ、俺の一歩を踏み出さないと。

 この一年ずっと逃げてきた「働く」ということに、もう一度ちゃんと向き合うときだ。

 俺は久しぶりにパソコンを開いた。

 求人サイト。この一年、開くのもこわくて避けてきた画面。ずらりと並んだ仕事の募集を見ると、やっぱり少し、胃がきゅっとなる。

 でも。

 玄関の光の前で足をすくませながら、それでも「行ってみたい」と言った、あの子の顔が頭をよぎった。

 面接で緊張しながら、それでも扉を開けた、あの子の後ろ姿が。

 あの子があんなに頑張ったんだ。俺が逃げてて、どうする。

 俺は求人をひとつひとつ、こわごわながらも見はじめた。

「佐々木さん? 何を見てるんですか」

 いつのまにか起きてきた詩音が、俺の手元を覗き込んでいた。

 画面を見て、詩音の目が丸くなる。

「これ……お仕事の、募集?」

「……ああ」

 俺は少し照れくさくて、ぶっきらぼうに言った。

「お前ばっかり前に進んでたら、俺も置いてかれるからな。……そろそろ俺も、ちゃんと働こうかと思って」

 その言葉に、詩音は——ぱあっと、花が咲くみたいに笑った。

「……! よかった……! わたし、応援します……!」

「おう。……まあ、うまくいくか分からんけどな」

「大丈夫です……! 佐々木さんなら、絶対!」

 ……こいつは。

 俺がこいつを励ましてきたみたいに、今度は俺を励ましてくれる。

 いつのまにか、そういう対等な関係になっていた。

 俺は少し笑って、もう一度画面に向き直った。

 二人で、前に進もう。

 この子は次の場所へ。俺は、久しぶりの場所へ。

 それがこの二人の暮らしの終わりに近づくことだとしても——前に進むしかない。それが、俺がこの子に教えてきたことなんだから。

 窓の外はよく晴れていた。秋の始まりの空だった。