詩音が花屋で働きはじめて、ひと月が経った。
このひと月で、この子は本当に変わった。
朝、自分で起きて、お弁当を作って、電車に乗って店に行く。葵ちゃんと笑いながら働いて、夕方帰ってくる。ごく普通の、働く人の一日を、この子は送るようになっていた。
拾った夜、路上で膝を抱えて震えていた子だとは、もう誰も思わないだろう。
そしてその日、詩音ははじめての給料をもらった。
***
「佐々木さん……! これ……!」
帰ってきた詩音は、玄関で封筒を両手に握りしめて、頬を紅潮させていた。
「お給料、です……! はじめての……! わたしが、はたらいて、いただいたお金……!」
封筒の中身は、そんなに大きな額じゃない。バイトのひと月ぶんの給料だ。でもこの子にとっては、その一枚一枚が、とてつもなく重い金だった。
拾った夜、財布すら持っていなかったこの子。「お金を持ったことがない」と言ったこの子が、今、自分の力で稼いだ金を握っている。
「すごいな。……よく頑張った」
「はい……! あの、これ、全部わたしが決めていいんですよね?」
「そうだよ。お前が稼いだ金だ。何に使おうと、お前の自由だ」
その言葉に、詩音はぱあっと目を輝かせた。
自分で稼いで、自分で使い道を決める。それはこの子がずっと、できなかったことだった。着るものも食べるものも全部誰かが決めていた、鮭か梅かすら選べなかったこの子が、今、自分の金の使い道を自分で選べる。
「わたし……前から、ほしいものがあったんです」
詩音ははにかんで言った。
「明日お休みなので、買いに行ってきてもいいですか。……午前中は、ひとりで。選びたいものが、あるので」
「おう。……気をつけてな」
ひとりで選びたいもの。なんだろうとは思ったが、訊かなかった。この子が自分の金で、自分で選ぶ。それだけで、じゅうぶんだった。
***
翌日、詩音は朝からいそいそと出かけていった。
何を買うんだろう、とは、やっぱり少し気になった。新しい服だろうか。可愛い雑貨だろうか。
まあ、なんでもいい。この子が自分で稼いだ金で、ほしいものを買う。それができるようになった。それがいちばん大事なことだ。
夕方、詩音が帰ってきた。手にいくつか紙袋を提げて。
「ただいま帰りました……!」
「おかえり。……お、たくさん買ったな」
「はい……! あの、まず、これ見てください」
詩音はひとつ目の紙袋から、可愛い髪飾りと小さな化粧品を取り出した。
「午後から葵ちゃんと合流して、一緒に選んでもらったんです。……女の子とお買い物するの、はじめてで。すごく、楽しかった……!」
そのはしゃいだ顔に、俺はまた、じんと来た。
女の子と買い物。ほんの少し前まで「女の人がこわい」と震えていたこの子が、今は友達と笑いながら買い物をして、こんなに幸せそうな顔をしている。
「よかったな。……似合うよ、その髪飾り」
「ありがとうございます……! それから」
詩音は少しもじもじしながら、ふたつ目の紙袋を俺のほうに差し出した。
「……あの。これ」
「ん?」
「佐々木さんに。……プレゼント、です」
***
俺は一瞬、言葉を失った。
「……俺に?」
「はい」
詩音は頷いた。少し照れたように、でもまっすぐに。
「わたし、ずっと……佐々木さんに、してもらうばかりでした。拾ってもらって。ごはんを作ってもらって。服も買ってもらって。……数えきれないくらい」
「いや、それは……」
「だから、はじめてのお給料で……佐々木さんに、何かお返しがしたくて。これだけは、午前中に、ひとりで選びました」
俺はおそるおそる、その紙袋を受け取った。
中に入っていたのは——エプロンだった。シンプルな、紺色の、料理用のエプロン。
「あの……佐々木さん、いつもわたしにお料理を教えてくれるとき、エプロンしてなくて。よく、服にはねをつけてたから」
詩音は指をもじもじさせながら言った。
「だから……使ってもらえたら、って」
……ああ。
俺はそのエプロンを見ながら、なんだか胸の奥が、妙に熱くなった。
この子はちゃんと見ていた。俺が料理を教えるとき、エプロンもせずに服に油をはねさせていたことを。
そしてはじめての給料で、俺のことを思って、これをひとりで選んでくれた。
もらうばかりだったこの子が、誰かに何かを「与える」。
はじめて誰かに何かを差し出したあの日は、俺が教えて、俺の台所で作らせたものだった。でも今日のこれは違う。この子が自分で稼いだ金で、自分で考えて、自分で選んで買った。正真正銘、この子が自分の力で「与えた」ものだ。
「……ありがとう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「気に入って、もらえましたか……?」
「ああ。……すげえ嬉しい。大事に使う」
その言葉に、詩音はほっとしたように、そして心から嬉しそうに笑った。
「よかった……!」
***
その夜、俺はさっそくもらったエプロンを着けて、夕食を作った。……いや、正確には詩音と二人で作った。
紺色のエプロンは少し照れくさかったけれど、悪くなかった。
詩音はその姿を見て「似合います」と嬉しそうに笑った。
二人で作った飯を、二人で食べる。いつもの光景。でも今日は、少し特別な味がした。
……この子はもう、ちゃんと一人で立てる。
働いて、金を稼いで、友達を作って。自分の力で生きていける。
この子を拾って間もないころ、俺は決めた。この子を社会復帰させる、と。その目標は、もうほとんど、叶いつつあった。
嬉しい。それは本当だ。
……なのに、このエプロンを見ていると、なぜかほんの少しだけ切なかった。名前のつかないあの感覚が、また顔を出す。
一人で立てるということは、いつかこの子は——。
俺はその先を、湯気と一緒に飲み込んでおいた。
まだだ。今はまだ、この子はここにいる。今夜のところは、このあたたかい飯と、似合わないエプロンと、この子の笑顔を、ただ味わっておこう。
「佐々木さん、そのエプロン、本当に似合ってます」
「……そうか? まあ、お前がくれたやつだからな。ずっと使うよ」
「はい……! ぜひ……!」
もらう側だった子が、与える側になった。
その最初のひとつが、この紺色だった。
このひと月で、この子は本当に変わった。
朝、自分で起きて、お弁当を作って、電車に乗って店に行く。葵ちゃんと笑いながら働いて、夕方帰ってくる。ごく普通の、働く人の一日を、この子は送るようになっていた。
拾った夜、路上で膝を抱えて震えていた子だとは、もう誰も思わないだろう。
そしてその日、詩音ははじめての給料をもらった。
***
「佐々木さん……! これ……!」
帰ってきた詩音は、玄関で封筒を両手に握りしめて、頬を紅潮させていた。
「お給料、です……! はじめての……! わたしが、はたらいて、いただいたお金……!」
封筒の中身は、そんなに大きな額じゃない。バイトのひと月ぶんの給料だ。でもこの子にとっては、その一枚一枚が、とてつもなく重い金だった。
拾った夜、財布すら持っていなかったこの子。「お金を持ったことがない」と言ったこの子が、今、自分の力で稼いだ金を握っている。
「すごいな。……よく頑張った」
「はい……! あの、これ、全部わたしが決めていいんですよね?」
「そうだよ。お前が稼いだ金だ。何に使おうと、お前の自由だ」
その言葉に、詩音はぱあっと目を輝かせた。
自分で稼いで、自分で使い道を決める。それはこの子がずっと、できなかったことだった。着るものも食べるものも全部誰かが決めていた、鮭か梅かすら選べなかったこの子が、今、自分の金の使い道を自分で選べる。
「わたし……前から、ほしいものがあったんです」
詩音ははにかんで言った。
「明日お休みなので、買いに行ってきてもいいですか。……午前中は、ひとりで。選びたいものが、あるので」
「おう。……気をつけてな」
ひとりで選びたいもの。なんだろうとは思ったが、訊かなかった。この子が自分の金で、自分で選ぶ。それだけで、じゅうぶんだった。
***
翌日、詩音は朝からいそいそと出かけていった。
何を買うんだろう、とは、やっぱり少し気になった。新しい服だろうか。可愛い雑貨だろうか。
まあ、なんでもいい。この子が自分で稼いだ金で、ほしいものを買う。それができるようになった。それがいちばん大事なことだ。
夕方、詩音が帰ってきた。手にいくつか紙袋を提げて。
「ただいま帰りました……!」
「おかえり。……お、たくさん買ったな」
「はい……! あの、まず、これ見てください」
詩音はひとつ目の紙袋から、可愛い髪飾りと小さな化粧品を取り出した。
「午後から葵ちゃんと合流して、一緒に選んでもらったんです。……女の子とお買い物するの、はじめてで。すごく、楽しかった……!」
そのはしゃいだ顔に、俺はまた、じんと来た。
女の子と買い物。ほんの少し前まで「女の人がこわい」と震えていたこの子が、今は友達と笑いながら買い物をして、こんなに幸せそうな顔をしている。
「よかったな。……似合うよ、その髪飾り」
「ありがとうございます……! それから」
詩音は少しもじもじしながら、ふたつ目の紙袋を俺のほうに差し出した。
「……あの。これ」
「ん?」
「佐々木さんに。……プレゼント、です」
***
俺は一瞬、言葉を失った。
「……俺に?」
「はい」
詩音は頷いた。少し照れたように、でもまっすぐに。
「わたし、ずっと……佐々木さんに、してもらうばかりでした。拾ってもらって。ごはんを作ってもらって。服も買ってもらって。……数えきれないくらい」
「いや、それは……」
「だから、はじめてのお給料で……佐々木さんに、何かお返しがしたくて。これだけは、午前中に、ひとりで選びました」
俺はおそるおそる、その紙袋を受け取った。
中に入っていたのは——エプロンだった。シンプルな、紺色の、料理用のエプロン。
「あの……佐々木さん、いつもわたしにお料理を教えてくれるとき、エプロンしてなくて。よく、服にはねをつけてたから」
詩音は指をもじもじさせながら言った。
「だから……使ってもらえたら、って」
……ああ。
俺はそのエプロンを見ながら、なんだか胸の奥が、妙に熱くなった。
この子はちゃんと見ていた。俺が料理を教えるとき、エプロンもせずに服に油をはねさせていたことを。
そしてはじめての給料で、俺のことを思って、これをひとりで選んでくれた。
もらうばかりだったこの子が、誰かに何かを「与える」。
はじめて誰かに何かを差し出したあの日は、俺が教えて、俺の台所で作らせたものだった。でも今日のこれは違う。この子が自分で稼いだ金で、自分で考えて、自分で選んで買った。正真正銘、この子が自分の力で「与えた」ものだ。
「……ありがとう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「気に入って、もらえましたか……?」
「ああ。……すげえ嬉しい。大事に使う」
その言葉に、詩音はほっとしたように、そして心から嬉しそうに笑った。
「よかった……!」
***
その夜、俺はさっそくもらったエプロンを着けて、夕食を作った。……いや、正確には詩音と二人で作った。
紺色のエプロンは少し照れくさかったけれど、悪くなかった。
詩音はその姿を見て「似合います」と嬉しそうに笑った。
二人で作った飯を、二人で食べる。いつもの光景。でも今日は、少し特別な味がした。
……この子はもう、ちゃんと一人で立てる。
働いて、金を稼いで、友達を作って。自分の力で生きていける。
この子を拾って間もないころ、俺は決めた。この子を社会復帰させる、と。その目標は、もうほとんど、叶いつつあった。
嬉しい。それは本当だ。
……なのに、このエプロンを見ていると、なぜかほんの少しだけ切なかった。名前のつかないあの感覚が、また顔を出す。
一人で立てるということは、いつかこの子は——。
俺はその先を、湯気と一緒に飲み込んでおいた。
まだだ。今はまだ、この子はここにいる。今夜のところは、このあたたかい飯と、似合わないエプロンと、この子の笑顔を、ただ味わっておこう。
「佐々木さん、そのエプロン、本当に似合ってます」
「……そうか? まあ、お前がくれたやつだからな。ずっと使うよ」
「はい……! ぜひ……!」
もらう側だった子が、与える側になった。
その最初のひとつが、この紺色だった。
