もう一度働きはじめて、最初の数日、詩音はその子と会わなかった。
シフトがずれていて、詩音が入る日は店長さんと二人だったのだ。
おかげで詩音は、少しずつ花屋の仕事に慣れていった。花の水やり。店先の掃除。花束の包み方。お客さんの少ないのんびりした店で、この子はまたゆっくりと前に進みはじめた。
でも俺は知っていた。
この子が本当に向き合わなきゃいけない壁は、まだ来ていない。
***
その日、詩音は朝からいつもより、ずっと緊張していた。
「……今日、あの子と、はじめて一緒のシフトなんです」
朝食の席で、詩音は青い顔で言った。
もう一人のバイトの女の子。詩音と同じくらいの年の子。この子がいちばんこわいと感じる相手。
「無理そうだったら、いつでも連絡しろ」
俺は言った。初出勤の日の、あの泣きじゃくった電話を思い出しながら。あのときみたいに、また逃げ出してしまうかもしれない。
「……はい」
詩音は頷いた。でもその頷きは、逃げるためのものじゃなかった。
「でもわたし、今日は……逃げたくないんです。ちゃんと、向き合ってみたい。……こわいけど」
頑張れ、とは言わなかった。ただ。
「……いってらっしゃい」
とだけ、言った。
***
その日、俺は一日中落ち着かなかった。
スマホを何度も見た。詩音から連絡が来ていないか。SOSの電話が。
でも、スマホは鳴らなかった。昼が過ぎても、夕方になっても。
それがいい報せなのか悪い報せなのか、俺には分からなかった。ただ待つしかなかった。
夕方、約束の時間より少し遅れて、玄関の扉が開いた。
「……ただいま、帰りました」
その声を聞いて、俺ははっとした。
泣いている声じゃなかった。むしろ少し、上ずったような。
「おかえり。……どうだった」
詩音は玄関で靴を脱ぎながら、少しはにかんだ顔で言った。
「あの……佐々木さん。わたし、今日」
その頬が、ほんのり赤い。
「……お友達が。……できた、かもしれません」
***
その夜、詩音は夕食を食べながら、ぽつりぽつりと今日あったことを話してくれた。
その子は——葵ちゃん、という名前らしい。詩音より一つ年下の、明るくてよく笑う子。
最初はやっぱりこわくて、ろくに目も合わせられなかったという。挨拶をするだけで声が震えた。……ああ、また女子校の記憶が蘇りかけていたんだろう。
でも。
「……葵ちゃんが。わたしの包んだ花束を見て、『わあ、すごく丁寧!』って……褒めて、くれたんです」
詩音は言った。
「わたし、びっくりして。『え、あの、変じゃないですか』って訊いたら、『全然! むしろ私より上手! どうやったの、教えて』って……」
そこから、少しずつ話すようになったという。
葵ちゃんは詩音の丁寧な仕事を素直に褒めた。詩音が緊張してうまく話せなくても、気にせず明るく話しかけてくれた。花のこと、お客さんのこと、他愛のないおしゃべりを。
「わたし……ずっと、女の人はこわいって。いつ冷たい目で見られるか、いつ嫌われるか。そればっかり、考えていました」
詩音は湯呑みを両手で包んで言った。
「でも葵ちゃんは……そんなふうに見てこなくて。ただ普通に、わたしと話してくれて」
その目に、じわりと涙が滲んだ。
今までのどの涙とも違う。悲しい涙でも、悔しい涙でもない。
ずっとこわかったものが、こわくなくなった。その驚きと安堵の涙だった。
***
「あのね、佐々木さん」
詩音は涙を拭いて言った。
「わたし、今日はじめて、気づいたことがあるんです」
「ん?」
「わたしをいじめた、あの子たちは……確かに、女の子でした。でも……『女の子だから』わたしをいじめたわけじゃ、なかったのかもしれない」
詩音はゆっくりと、言葉を選びながら続けた。
「たまたま……わたしは、あの子たちと、上手くいかなかった。それだけ、だったのかもしれません。……女の人がみんな、そうなわけじゃ、ない」
その言葉に、俺ははっとした。
……そうだ。
この子はずっと「女の人がこわい」と思ってきた。でも本当にこわかったのは、女の人そのものじゃない。あの教室で、あの子たちとのあいだに起きたこと——その記憶だったんだ。
たまたま相手が女の子たちだったから、この子はその怖さを「女の人ぜんぶ」に広げてしまっていた。
でも葵ちゃんという一人の優しい女の子に出会って、この子ははじめて気づいた。女の人にも優しい人がいる——その、当たり前のことに。
「葵ちゃんは、いい人です。女の人だけど。……ううん」
詩音は微笑んで、言い直した。
「女の人とか男の人とか、じゃなくて。……ただ、いい人なんだって、思いました」
***
俺はその言葉を聞きながら、この子は今日、いちばん高い壁を越えはじめたのかもしれない、と思った。
外に出る。金を数える。飯を作る。そういう目に見える階段は、この子は一段ずつ登ってきた。
でもこの「女の人がこわい」という壁は、目に見えない。心のいちばん奥に、ずっと居座っていた。
それを今日、この子は自分の力で越えはじめた。
俺でも、店長さんでもなく——葵ちゃんという、この子が自分で出会って、自分で心を開いた相手と。
これは俺が教えてやれることじゃなかった。俺は男だから、この子の「女の人がこわい」には、寄り添うことしかできなかった。
でもこの子は、自分の力で、その壁の向こう側にちゃんと手を伸ばした。
——いつかこの子が「女の人」と笑って話せる日が来ることを、柄にもなく祈った夜があった。
その「いつか」は、思っていたよりずっと早く来た。
「……よかったな、詩音」
俺はそれだけ言った。それ以上の言葉が、うまく出てこなかった。
「はい……! ありがとうございます」
詩音はぱあっと、今日いちばんの笑顔で頷いた。
「あのね、佐々木さん。葵ちゃんが、今度一緒にお昼ごはん食べようって、誘ってくれたんです。わたし、お弁当を作っていこうと思って。……あの卵焼き、上手に作れるようになりたいです」
そのはしゃいだ声を聞きながら。
俺は嬉しい気持ちの隣で、またあの名前のつかない感覚が、今日は少しだけ長く胸に留まるのを感じた。
この子の世界に、俺以外の居場所ができていく。
……いいことだ。いちばん、いいことだ。
俺はそう自分に言って、その先は考えないことにした。
「卵焼きな。……よし、明日練習するか。今度は砂糖の入れすぎに気をつけろよ」
「はい……! 頑張ります!」
この子のはじめての友達。
それはこの子が自分の力で掴んだ、いちばん大きな宝物だった。
シフトがずれていて、詩音が入る日は店長さんと二人だったのだ。
おかげで詩音は、少しずつ花屋の仕事に慣れていった。花の水やり。店先の掃除。花束の包み方。お客さんの少ないのんびりした店で、この子はまたゆっくりと前に進みはじめた。
でも俺は知っていた。
この子が本当に向き合わなきゃいけない壁は、まだ来ていない。
***
その日、詩音は朝からいつもより、ずっと緊張していた。
「……今日、あの子と、はじめて一緒のシフトなんです」
朝食の席で、詩音は青い顔で言った。
もう一人のバイトの女の子。詩音と同じくらいの年の子。この子がいちばんこわいと感じる相手。
「無理そうだったら、いつでも連絡しろ」
俺は言った。初出勤の日の、あの泣きじゃくった電話を思い出しながら。あのときみたいに、また逃げ出してしまうかもしれない。
「……はい」
詩音は頷いた。でもその頷きは、逃げるためのものじゃなかった。
「でもわたし、今日は……逃げたくないんです。ちゃんと、向き合ってみたい。……こわいけど」
頑張れ、とは言わなかった。ただ。
「……いってらっしゃい」
とだけ、言った。
***
その日、俺は一日中落ち着かなかった。
スマホを何度も見た。詩音から連絡が来ていないか。SOSの電話が。
でも、スマホは鳴らなかった。昼が過ぎても、夕方になっても。
それがいい報せなのか悪い報せなのか、俺には分からなかった。ただ待つしかなかった。
夕方、約束の時間より少し遅れて、玄関の扉が開いた。
「……ただいま、帰りました」
その声を聞いて、俺ははっとした。
泣いている声じゃなかった。むしろ少し、上ずったような。
「おかえり。……どうだった」
詩音は玄関で靴を脱ぎながら、少しはにかんだ顔で言った。
「あの……佐々木さん。わたし、今日」
その頬が、ほんのり赤い。
「……お友達が。……できた、かもしれません」
***
その夜、詩音は夕食を食べながら、ぽつりぽつりと今日あったことを話してくれた。
その子は——葵ちゃん、という名前らしい。詩音より一つ年下の、明るくてよく笑う子。
最初はやっぱりこわくて、ろくに目も合わせられなかったという。挨拶をするだけで声が震えた。……ああ、また女子校の記憶が蘇りかけていたんだろう。
でも。
「……葵ちゃんが。わたしの包んだ花束を見て、『わあ、すごく丁寧!』って……褒めて、くれたんです」
詩音は言った。
「わたし、びっくりして。『え、あの、変じゃないですか』って訊いたら、『全然! むしろ私より上手! どうやったの、教えて』って……」
そこから、少しずつ話すようになったという。
葵ちゃんは詩音の丁寧な仕事を素直に褒めた。詩音が緊張してうまく話せなくても、気にせず明るく話しかけてくれた。花のこと、お客さんのこと、他愛のないおしゃべりを。
「わたし……ずっと、女の人はこわいって。いつ冷たい目で見られるか、いつ嫌われるか。そればっかり、考えていました」
詩音は湯呑みを両手で包んで言った。
「でも葵ちゃんは……そんなふうに見てこなくて。ただ普通に、わたしと話してくれて」
その目に、じわりと涙が滲んだ。
今までのどの涙とも違う。悲しい涙でも、悔しい涙でもない。
ずっとこわかったものが、こわくなくなった。その驚きと安堵の涙だった。
***
「あのね、佐々木さん」
詩音は涙を拭いて言った。
「わたし、今日はじめて、気づいたことがあるんです」
「ん?」
「わたしをいじめた、あの子たちは……確かに、女の子でした。でも……『女の子だから』わたしをいじめたわけじゃ、なかったのかもしれない」
詩音はゆっくりと、言葉を選びながら続けた。
「たまたま……わたしは、あの子たちと、上手くいかなかった。それだけ、だったのかもしれません。……女の人がみんな、そうなわけじゃ、ない」
その言葉に、俺ははっとした。
……そうだ。
この子はずっと「女の人がこわい」と思ってきた。でも本当にこわかったのは、女の人そのものじゃない。あの教室で、あの子たちとのあいだに起きたこと——その記憶だったんだ。
たまたま相手が女の子たちだったから、この子はその怖さを「女の人ぜんぶ」に広げてしまっていた。
でも葵ちゃんという一人の優しい女の子に出会って、この子ははじめて気づいた。女の人にも優しい人がいる——その、当たり前のことに。
「葵ちゃんは、いい人です。女の人だけど。……ううん」
詩音は微笑んで、言い直した。
「女の人とか男の人とか、じゃなくて。……ただ、いい人なんだって、思いました」
***
俺はその言葉を聞きながら、この子は今日、いちばん高い壁を越えはじめたのかもしれない、と思った。
外に出る。金を数える。飯を作る。そういう目に見える階段は、この子は一段ずつ登ってきた。
でもこの「女の人がこわい」という壁は、目に見えない。心のいちばん奥に、ずっと居座っていた。
それを今日、この子は自分の力で越えはじめた。
俺でも、店長さんでもなく——葵ちゃんという、この子が自分で出会って、自分で心を開いた相手と。
これは俺が教えてやれることじゃなかった。俺は男だから、この子の「女の人がこわい」には、寄り添うことしかできなかった。
でもこの子は、自分の力で、その壁の向こう側にちゃんと手を伸ばした。
——いつかこの子が「女の人」と笑って話せる日が来ることを、柄にもなく祈った夜があった。
その「いつか」は、思っていたよりずっと早く来た。
「……よかったな、詩音」
俺はそれだけ言った。それ以上の言葉が、うまく出てこなかった。
「はい……! ありがとうございます」
詩音はぱあっと、今日いちばんの笑顔で頷いた。
「あのね、佐々木さん。葵ちゃんが、今度一緒にお昼ごはん食べようって、誘ってくれたんです。わたし、お弁当を作っていこうと思って。……あの卵焼き、上手に作れるようになりたいです」
そのはしゃいだ声を聞きながら。
俺は嬉しい気持ちの隣で、またあの名前のつかない感覚が、今日は少しだけ長く胸に留まるのを感じた。
この子の世界に、俺以外の居場所ができていく。
……いいことだ。いちばん、いいことだ。
俺はそう自分に言って、その先は考えないことにした。
「卵焼きな。……よし、明日練習するか。今度は砂糖の入れすぎに気をつけろよ」
「はい……! 頑張ります!」
この子のはじめての友達。
それはこの子が自分の力で掴んだ、いちばん大きな宝物だった。
