初出勤で逃げ出した、あの日から。
詩音はまた少し、元の場所に戻ってしまっていた。
朝起きてもぼんやりしている。飯もあまり食べない。外に出るのもまたこわくなったみたいで、せっかく行けるようになっていた夕方のスーパーにも、足が向かない。
振り出しに戻ったわけじゃない。それは分かっている。この二ヶ月でこの子が積み上げてきたものは消えていない。ただ大きくつまずいて、立ち上がるきっかけを掴めずにいるだけだ。
俺は焦らなかった。……いや、焦らないようにした。
夜の散歩で覚えたことだ。急かしてはいけない。この子のペースでいい。俺にできるのは、隣で歩幅を合わせて、この子が自分で歩き出すのを待つことだけだった。
***
三日ほど経った夜。
詩音が夕食の席で、ぽつりと切り出した。
「佐々木さん。……あの、お花屋さん。……わたし、ご迷惑をおかけしたままで」
声は小さかったけれど、逃げていた話題に自分から触れた。それだけで俺は、少しほっとした。
「……ちゃんと、謝りに行きたいです」
詩音は俯いたまま続けた。
「逃げたこと。花瓶のお水をこぼしたこと。ご挨拶もしないで帰ってしまったこと。……全部、ちゃんと謝りたい。そのままにするの、いやなんです」
俺は少し驚いた。
拾ったころのこの子なら、こういうとき、ただうずくまって「わたしなんかが行っても」と逃げていたはずだ。
でも今のこの子は、逃げたその場所に、もう一度自分から向き合おうとしている。
「……分かった」
俺は言った。
「一緒に行こう。俺も付き添う」
「……はい。ありがとうございます」
***
翌日、俺たちはあの花屋を訪ねた。
道中、詩音はずっと緊張していた。手が少し震えていた。……そりゃそうだ。逃げ出した場所に、もう一度行くんだ。よっぽど勇気がいる。
花屋の扉を、詩音はごくりと唾を飲んで押した。
「……ごめん、ください」
店の奥から出てきたのは、あの初老の店長さんだった。詩音を見て、その顔がぱっとほころぶ。
「あら。……よかった。あなた、あの後どうしたかって、心配してたのよ」
その第一声に、詩音ははっと顔を上げた。
怒られると思っていたんだろう。迷惑をかけて逃げたんだから、責められて当然だと。……でも店長さんの口から出たのは、心配だった。
「あ、あの……! このたびは……!」
詩音は深々と頭を下げた。
「わたし、ご迷惑を……おかけして。お花瓶のお水もこぼして。ご挨拶もしないで逃げてしまって……! 本当に、申し訳ございませんでした……!」
声は震えていた。でも、最後まで言い切った。
店長さんはそんな詩音をしばらく見て、それから穏やかに笑った。
「顔を上げてちょうだい。……水の一つや二つ、こぼしたっていいのよ。あなたが無事でよかった」
「……でも」
「初めての日に緊張しない子なんて、いないわ。……それにね」
店長さんは言った。
「あなた、花の水やり、とっても丁寧だったでしょう。一つ一つの花を、大事に扱ってた。……ああ、この子は花が本当に好きなんだなって、すぐ分かったわ」
その言葉に、詩音の目に、じわりと涙が滲んだ。
***
店長さんは俺にもお茶を出してくれた。
狭い店の奥の、小さな休憩スペースで、三人で少し話した。
詩音はぽつりぽつりと、自分のことを話した。長く外に出られなかったこと。人がこわいこと。——「女の人が、こわい」とまでは言わなかったけれど、うまく人と関われないこと。
店長さんはそれを急かさず、否定せず、うんうんと聞いていた。
「……そう。いろいろ、あったのねえ」
湯呑みを両手で包んで、店長さんは言った。
「でもね、うちはこんな小さな店だから、お客さんもそんなに多くないの。一日のんびりよ。……焦らなくていい。少しずつ、慣れていけば」
それから、ふと思いついたように。
「そうだ。うちにはもう一人、バイトの子がいてね。あなたと同じくらいの年の子。今日はお休みだけど……今度、紹介するわ。明るくて、いい子よ」
その瞬間。
詩音の肩が、ぴくりとこわばった。
同じ年ごろの、女の子。この子がいちばんこわいと感じる相手だ。
でも今日は、それ以上何も言わなかった。詩音はこわばった顔のまま、店長さんの「いい子よ」を、小さく聞いていた。
***
帰り道。
詩音はしばらく黙って歩いていた。
「……佐々木さん」
やがて彼女は口を開いた。
「わたし……もう一度、あのお店で働かせていただこうと思います」
俺はその横顔を見た。
「店長さん、あんなに優しくて。わたしみたいなのでも、いいって言ってくださって。……逃げたまま終わるの、やっぱりいやです」
詩音はぎゅっと手を握って言った。
「わたし……『次は』って、言いたいんです。逃げて終わり、じゃなくて。……次は、ちゃんと、って」
……ああ。
次は。
この子が前を向くとき、いつも口にしてきた言葉だ。しょっぱすぎた卵焼きのときも、一匹もすくえなかった金魚すくいのときも。この子は失敗のあとに、その二文字を置いてきた。
その言葉が今日、いちばん大きな失敗のあとに、ちゃんと出てきた。
「……いいと思う」
俺は言った。
「何回でも言え、それ。転んでも、『次は』って言ってるうちは、終わりじゃない」
「はい……!」
その返事は、三日ぶりに、ちゃんと前を向いた声だった。
「……でも」
詩音は少し俯いて続けた。
「もう一人のバイトの女の子……わたし、ちゃんと話せるでしょうか。またこわくなって、逃げたりしないでしょうか」
その不安はまだ消えていない。この子のいちばん深い壁は、まだそこにある。
「……分からん」
俺は正直に言った。
「こわくなるかもしれない。うまく話せないかもしれない。……でも」
この子を見て言った。
「今日、お前は逃げた店にもう一度戻って、ちゃんと謝れた。それができたんだ。次もきっと大丈夫、とは言えないけど……お前はもう、逃げるだけのお前じゃないよ」
詩音はその言葉を噛みしめるように、こくりと頷いた。
夕暮れの商店街を、二人で歩いた。
三日前までうつむいていたこの子の背中が、今日は少しだけ、まっすぐになっていた。
この子は、逃げた場所へ自分から戻ることを選んだ。その先には、この子のいちばん高い壁が待っている。越えられるかどうかは、まだ分からない。
でも今は、この子がもう一度立ち上がった。それでじゅうぶんだ。
次の一歩は——また、明日から。
詩音はまた少し、元の場所に戻ってしまっていた。
朝起きてもぼんやりしている。飯もあまり食べない。外に出るのもまたこわくなったみたいで、せっかく行けるようになっていた夕方のスーパーにも、足が向かない。
振り出しに戻ったわけじゃない。それは分かっている。この二ヶ月でこの子が積み上げてきたものは消えていない。ただ大きくつまずいて、立ち上がるきっかけを掴めずにいるだけだ。
俺は焦らなかった。……いや、焦らないようにした。
夜の散歩で覚えたことだ。急かしてはいけない。この子のペースでいい。俺にできるのは、隣で歩幅を合わせて、この子が自分で歩き出すのを待つことだけだった。
***
三日ほど経った夜。
詩音が夕食の席で、ぽつりと切り出した。
「佐々木さん。……あの、お花屋さん。……わたし、ご迷惑をおかけしたままで」
声は小さかったけれど、逃げていた話題に自分から触れた。それだけで俺は、少しほっとした。
「……ちゃんと、謝りに行きたいです」
詩音は俯いたまま続けた。
「逃げたこと。花瓶のお水をこぼしたこと。ご挨拶もしないで帰ってしまったこと。……全部、ちゃんと謝りたい。そのままにするの、いやなんです」
俺は少し驚いた。
拾ったころのこの子なら、こういうとき、ただうずくまって「わたしなんかが行っても」と逃げていたはずだ。
でも今のこの子は、逃げたその場所に、もう一度自分から向き合おうとしている。
「……分かった」
俺は言った。
「一緒に行こう。俺も付き添う」
「……はい。ありがとうございます」
***
翌日、俺たちはあの花屋を訪ねた。
道中、詩音はずっと緊張していた。手が少し震えていた。……そりゃそうだ。逃げ出した場所に、もう一度行くんだ。よっぽど勇気がいる。
花屋の扉を、詩音はごくりと唾を飲んで押した。
「……ごめん、ください」
店の奥から出てきたのは、あの初老の店長さんだった。詩音を見て、その顔がぱっとほころぶ。
「あら。……よかった。あなた、あの後どうしたかって、心配してたのよ」
その第一声に、詩音ははっと顔を上げた。
怒られると思っていたんだろう。迷惑をかけて逃げたんだから、責められて当然だと。……でも店長さんの口から出たのは、心配だった。
「あ、あの……! このたびは……!」
詩音は深々と頭を下げた。
「わたし、ご迷惑を……おかけして。お花瓶のお水もこぼして。ご挨拶もしないで逃げてしまって……! 本当に、申し訳ございませんでした……!」
声は震えていた。でも、最後まで言い切った。
店長さんはそんな詩音をしばらく見て、それから穏やかに笑った。
「顔を上げてちょうだい。……水の一つや二つ、こぼしたっていいのよ。あなたが無事でよかった」
「……でも」
「初めての日に緊張しない子なんて、いないわ。……それにね」
店長さんは言った。
「あなた、花の水やり、とっても丁寧だったでしょう。一つ一つの花を、大事に扱ってた。……ああ、この子は花が本当に好きなんだなって、すぐ分かったわ」
その言葉に、詩音の目に、じわりと涙が滲んだ。
***
店長さんは俺にもお茶を出してくれた。
狭い店の奥の、小さな休憩スペースで、三人で少し話した。
詩音はぽつりぽつりと、自分のことを話した。長く外に出られなかったこと。人がこわいこと。——「女の人が、こわい」とまでは言わなかったけれど、うまく人と関われないこと。
店長さんはそれを急かさず、否定せず、うんうんと聞いていた。
「……そう。いろいろ、あったのねえ」
湯呑みを両手で包んで、店長さんは言った。
「でもね、うちはこんな小さな店だから、お客さんもそんなに多くないの。一日のんびりよ。……焦らなくていい。少しずつ、慣れていけば」
それから、ふと思いついたように。
「そうだ。うちにはもう一人、バイトの子がいてね。あなたと同じくらいの年の子。今日はお休みだけど……今度、紹介するわ。明るくて、いい子よ」
その瞬間。
詩音の肩が、ぴくりとこわばった。
同じ年ごろの、女の子。この子がいちばんこわいと感じる相手だ。
でも今日は、それ以上何も言わなかった。詩音はこわばった顔のまま、店長さんの「いい子よ」を、小さく聞いていた。
***
帰り道。
詩音はしばらく黙って歩いていた。
「……佐々木さん」
やがて彼女は口を開いた。
「わたし……もう一度、あのお店で働かせていただこうと思います」
俺はその横顔を見た。
「店長さん、あんなに優しくて。わたしみたいなのでも、いいって言ってくださって。……逃げたまま終わるの、やっぱりいやです」
詩音はぎゅっと手を握って言った。
「わたし……『次は』って、言いたいんです。逃げて終わり、じゃなくて。……次は、ちゃんと、って」
……ああ。
次は。
この子が前を向くとき、いつも口にしてきた言葉だ。しょっぱすぎた卵焼きのときも、一匹もすくえなかった金魚すくいのときも。この子は失敗のあとに、その二文字を置いてきた。
その言葉が今日、いちばん大きな失敗のあとに、ちゃんと出てきた。
「……いいと思う」
俺は言った。
「何回でも言え、それ。転んでも、『次は』って言ってるうちは、終わりじゃない」
「はい……!」
その返事は、三日ぶりに、ちゃんと前を向いた声だった。
「……でも」
詩音は少し俯いて続けた。
「もう一人のバイトの女の子……わたし、ちゃんと話せるでしょうか。またこわくなって、逃げたりしないでしょうか」
その不安はまだ消えていない。この子のいちばん深い壁は、まだそこにある。
「……分からん」
俺は正直に言った。
「こわくなるかもしれない。うまく話せないかもしれない。……でも」
この子を見て言った。
「今日、お前は逃げた店にもう一度戻って、ちゃんと謝れた。それができたんだ。次もきっと大丈夫、とは言えないけど……お前はもう、逃げるだけのお前じゃないよ」
詩音はその言葉を噛みしめるように、こくりと頷いた。
夕暮れの商店街を、二人で歩いた。
三日前までうつむいていたこの子の背中が、今日は少しだけ、まっすぐになっていた。
この子は、逃げた場所へ自分から戻ることを選んだ。その先には、この子のいちばん高い壁が待っている。越えられるかどうかは、まだ分からない。
でも今は、この子がもう一度立ち上がった。それでじゅうぶんだ。
次の一歩は——また、明日から。
