初出勤の朝。
詩音は緊張で、がちがちになっていた。
「だ、大丈夫でしょうか。わたし、ちゃんとできるでしょうか」
「大丈夫。……失敗して当たり前だ。初日から完璧なやつなんて、いない」
俺はそう言って送り出した。花屋までは電車で二駅。ひとりで行けるように、この一週間、通勤の練習もしておいた。
「……行ってきます、佐々木さん」
「おう、行ってらっしゃい。……何かあったら連絡しろよ」
最近、この子にもようやくスマホを持たせた。連絡手段があれば、俺も少しは安心できる。
詩音はこくりと頷いて、少しこわばった顔で、でもしっかりした足取りで、駅のほうへ歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は祈るような気持ちでいた。
……どうか、うまくいきますように。
***
昼過ぎ。
俺は家で、落ち着かない時間を過ごしていた。
詩音は今ごろどうしているだろう。ちゃんとやれているだろうか。店長さんとうまくいっているだろうか。……お客さんは。女性のお客さんは、来ただろうか。
考えても仕方ないのに、そればかり考えてしまう。
そして俺は、そんな自分に気づいて少し笑った。
一年前の俺は、自分のことすらどうでもよくて、一日中ぼんやりしていた人間だ。それが今は、他人の心配でこんなにそわそわしている。
……変われば変わるもんだ。
この子を拾ったことで、俺の一日は、空っぽじゃなくなった。
夕方。そろそろ詩音が帰ってくるころだ。約束どおりケーキでも買って——いや、初出勤の祝いには気が早いか。でもまあ、頑張ったご褒美に。
そんなことを考えていたとき。
スマホが鳴った。
詩音からの着信だった。
「もしもし? 詩音? どうした、もう上がったのか?」
『……ささ、き、さん』
その声を聞いた瞬間、心臓がひやりとした。
震えていた。泣きじゃくっていた。
『佐々木さん……わたし……わたし……』
「落ち着け。……何があった。今、どこだ」
『……お店の、裏の……路地、です。……わたし……もう、お店に……戻れ、なくて……』
そのときにはもう、俺は上着を掴んで玄関を飛び出していた。
***
電車の中で、切れ切れの詩音の話から、何が起きたのかをなんとか繋ぎ合わせた。
初出勤は、最初は順調だったらしい。店長さんは優しくて、花の名前を教えてもらったり、水やりを手伝ったり。詩音は緊張しながらも一生懸命働いていた。
問題は午後に起きた。
店に、女性の三人組の客が来た。同じくらいの年ごろの、おしゃれな女性たち。
その瞬間から、詩音は動けなくなった。
女子校の記憶が、蘇ってしまったのだ。
自分をいじめたあの女の子たち。冷たい目。くすくすという笑い声。持ち物を隠され、悪口を言われた日々。
目の前の女性客は、もちろんただのお客さんだ。詩音をいじめたわけでも何でもない。
でも、頭では分かっていても、この子の体はそれを区別できなかった。
同じ年ごろの女性の集団。それだけで、この子の心はあの教室に引き戻されてしまった。
手が震えて、花を包む包装紙をぐしゃぐしゃにしてしまった。花瓶の水をひっくり返してしまった。
女性客のひとりが、少し怪訝そうな顔で「……大丈夫ですか?」と言った。
ただそれだけの、悪意など何もないひと言。
でもこの子には、それが、あの教室の「……何、あの子」という声に聞こえてしまった。
そしてこの子は、耐えきれずに、店の裏へ逃げ出してしまったのだ。
***
店の裏の路地に、詩音はしゃがみ込んでいた。
膝を抱えて、小さくなって、震えていた。
——その姿は、拾ったあの夜と、まったく同じだった。
街灯の下で膝を抱えて、世界から置き去りにされていた、あの姿と。
「詩音」
声をかけると、詩音は顔を上げた。ぐしゃぐしゃに泣いた顔で。
「……佐々木、さん」
俺は走り寄って、しゃがみ込んで、この子と目線を合わせた。
「……大丈夫か」
「……ごめん、なさい……ごめん、なさい……」
詩音はうわ言のように謝罪を繰り返した。
「わたし……やっぱり、駄目でした……。お客さんに、ご迷惑を……お店にも……。わたし、何もできなかった……逃げて、しまった……」
「……」
「やっぱり……わたしなんかが、働くなんて、無理だったんです。女の人がいる場所で働くなんて……わたしには、一生……」
この子はまた、あの言葉を言おうとしていた。
わたしには、無理。
拾ったころ、この子が何度も口にした言葉。この二ヶ月で少しずつ消えていったはずの言葉。
それが今日の失敗で、またこの子の口から溢れていた。
振り出しに、戻ってしまったみたいに。
***
俺はこの子の震える背中を見ながら、どう声をかけるべきか、必死に考えていた。
こういうとき、「大丈夫だ」と言うのは簡単だ。「次、頑張ればいい」と励ますのも、「気にするな」と慰めるのも。
でもそんな上っ面の言葉じゃ、この深い傷には届かない気がした。
……ああ、そうか。
ふと、気づいた。
俺はずっと、この子を「教える」立場で見てきた。金の勘定。飯の作り方。外の歩き方。俺が知っていてこの子が知らないことを、教えてやる。そういう関係だった。
でも今この子に必要なのは、たぶんそれじゃない。
教えることでも、励ますことでもない。
ただ——分かってやることだ。
この子の痛みを、否定せずに、ただ隣で分かってやること。
そしてそれは、俺にもできることだった。
だって俺も、同じだったから。
***
「……なあ、詩音」
俺は静かに言った。
「俺さ。……お前に言ってないこと、あるんだ」
詩音が涙に濡れた顔で俺を見た。
「俺が会社を辞めた理由。……前にちらっと話したよな。ブラック企業で馬車馬みたいに働いて、頑張っても報われなくて、嫌になって辞めたって」
「……はい」
「あれ、半分は本当だけど、半分は見栄だ」
俺は自嘲するように笑った。
「本当はさ。……俺、あの会社で潰れたんだ。心が。毎日上司に怒鳴られて、同僚には出し抜かれて。……ある朝起きたら、体が動かなくなってた。会社に行こうとすると、吐き気がして」
この話をするのははじめてだった。誰にも言ったことがなかった。
「逃げるように辞めて、それから一年。俺はずっと部屋に引きこもって、何もできずに——お前を拾うまで、ずっと扉の内側にいた」
詩音はじっと、俺の話を聞いていた。
「だからさ、俺は、お前の気持ちが分かるよ。ある場所が怖くて、体が動かなくなる。逃げ出してしまう。自分は駄目な人間だって思う。……その気持ち、痛いほど分かる」
俺はこの子の目を見て言った。
「お前は弱くなんかない。今日逃げたのだって、当たり前だ。あんなトラウマがあるのに、それでもお前は働きに行ったんだ。面接を受けて、電車に乗って、ひとりで。……それだけで、すげえことなんだよ」
「……でも、わたし……逃げて」
「逃げていい」
俺ははっきりと言った。
「今日は、逃げていい。無理をして壊れるくらいなら、逃げていい。……でも」
少し間を置いて。
「……逃げたまま終わりにするかどうかは、また明日決めればいい。今日はもう、頑張らなくていいから」
その言葉に。
詩音は——堰を切ったように泣いた。
俺の胸に顔を埋めて、子供みたいに声をあげて泣いた。
俺はただ、その背中をさすってやった。
何も解決していない。この子のトラウマは、今日克服できなかった。むしろ手ひどい失敗をして、振り出しに戻ったみたいに見える。
でも、この子はひとりじゃない。
それだけは、分かってほしかった。
***
帰り道。
泣き疲れた詩音が、ぽつりと言った。
「佐々木さん……。お店に、ご迷惑をかけてしまいました。……もう、クビでしょうか」
「……それは分からん」
俺は正直に言った。
「でも、ちゃんと謝りに行こう。逃げたこと、迷惑をかけたこと。それは事実だから、ちゃんと頭を下げよう。俺も一緒に行く」
「……はい」
「そのうえで——もう一度やらせてください、と言えるかどうかは、お前が決めろ。もう無理だと思うならやめてもいい。誰も責めない。……でも、もし、もう一度挑戦したいなら」
俺はこの子を見て言った。
「そのときは、俺もちゃんと考える。お前のその怖さと、どう向き合うか。……一緒に」
詩音はしばらく黙って歩いていた。
それから小さく、でもはっきりと言った。
「……わたし、考えます。ちゃんと。……逃げたままでいいのか。もう一度、やってみたいのか」
「おう。……ゆっくり考えろ」
夕暮れの道を二人で歩いた。
詩音の足取りは行きよりずっと重かった。でもこの子は、ちゃんと自分の足で歩いていた。
この日、この子の社会復帰は大きくつまずいた。
でも俺は、なぜか絶望していなかった。
だって今日、俺ははじめてこの子に、俺のいちばん格好悪い部分を見せた。潰れて逃げた、情けない自分を。
それはたぶん、俺自身が少しだけ前に進んだ証だった。
この子を支えるために、俺は俺自身の傷と向き合わなきゃいけなくなった。
……そうか。
俺たちは、二人で、同じ壁を登っているんだ。
この子がつまずけば俺が支える。俺が迷えば、この子がいる。
ひとりじゃ登れない壁も、二人でなら。
***
その夜。
買って帰ったケーキを二人で食べた。お祝いじゃなくなってしまったけれど。
「……甘い、です」
泣き腫らした顔で、詩音がぽつりと言った。
「……そうだな。甘いな」
その甘さが、今日のこの子に少しだけ染みたらいい。そう思いながら、俺も一口食べた。
窓の外で、夏の終わりの風が吹いていた。
答えを出すのは、明日でいい。
今夜はただ、この甘さだけでいい。
詩音は緊張で、がちがちになっていた。
「だ、大丈夫でしょうか。わたし、ちゃんとできるでしょうか」
「大丈夫。……失敗して当たり前だ。初日から完璧なやつなんて、いない」
俺はそう言って送り出した。花屋までは電車で二駅。ひとりで行けるように、この一週間、通勤の練習もしておいた。
「……行ってきます、佐々木さん」
「おう、行ってらっしゃい。……何かあったら連絡しろよ」
最近、この子にもようやくスマホを持たせた。連絡手段があれば、俺も少しは安心できる。
詩音はこくりと頷いて、少しこわばった顔で、でもしっかりした足取りで、駅のほうへ歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は祈るような気持ちでいた。
……どうか、うまくいきますように。
***
昼過ぎ。
俺は家で、落ち着かない時間を過ごしていた。
詩音は今ごろどうしているだろう。ちゃんとやれているだろうか。店長さんとうまくいっているだろうか。……お客さんは。女性のお客さんは、来ただろうか。
考えても仕方ないのに、そればかり考えてしまう。
そして俺は、そんな自分に気づいて少し笑った。
一年前の俺は、自分のことすらどうでもよくて、一日中ぼんやりしていた人間だ。それが今は、他人の心配でこんなにそわそわしている。
……変われば変わるもんだ。
この子を拾ったことで、俺の一日は、空っぽじゃなくなった。
夕方。そろそろ詩音が帰ってくるころだ。約束どおりケーキでも買って——いや、初出勤の祝いには気が早いか。でもまあ、頑張ったご褒美に。
そんなことを考えていたとき。
スマホが鳴った。
詩音からの着信だった。
「もしもし? 詩音? どうした、もう上がったのか?」
『……ささ、き、さん』
その声を聞いた瞬間、心臓がひやりとした。
震えていた。泣きじゃくっていた。
『佐々木さん……わたし……わたし……』
「落ち着け。……何があった。今、どこだ」
『……お店の、裏の……路地、です。……わたし……もう、お店に……戻れ、なくて……』
そのときにはもう、俺は上着を掴んで玄関を飛び出していた。
***
電車の中で、切れ切れの詩音の話から、何が起きたのかをなんとか繋ぎ合わせた。
初出勤は、最初は順調だったらしい。店長さんは優しくて、花の名前を教えてもらったり、水やりを手伝ったり。詩音は緊張しながらも一生懸命働いていた。
問題は午後に起きた。
店に、女性の三人組の客が来た。同じくらいの年ごろの、おしゃれな女性たち。
その瞬間から、詩音は動けなくなった。
女子校の記憶が、蘇ってしまったのだ。
自分をいじめたあの女の子たち。冷たい目。くすくすという笑い声。持ち物を隠され、悪口を言われた日々。
目の前の女性客は、もちろんただのお客さんだ。詩音をいじめたわけでも何でもない。
でも、頭では分かっていても、この子の体はそれを区別できなかった。
同じ年ごろの女性の集団。それだけで、この子の心はあの教室に引き戻されてしまった。
手が震えて、花を包む包装紙をぐしゃぐしゃにしてしまった。花瓶の水をひっくり返してしまった。
女性客のひとりが、少し怪訝そうな顔で「……大丈夫ですか?」と言った。
ただそれだけの、悪意など何もないひと言。
でもこの子には、それが、あの教室の「……何、あの子」という声に聞こえてしまった。
そしてこの子は、耐えきれずに、店の裏へ逃げ出してしまったのだ。
***
店の裏の路地に、詩音はしゃがみ込んでいた。
膝を抱えて、小さくなって、震えていた。
——その姿は、拾ったあの夜と、まったく同じだった。
街灯の下で膝を抱えて、世界から置き去りにされていた、あの姿と。
「詩音」
声をかけると、詩音は顔を上げた。ぐしゃぐしゃに泣いた顔で。
「……佐々木、さん」
俺は走り寄って、しゃがみ込んで、この子と目線を合わせた。
「……大丈夫か」
「……ごめん、なさい……ごめん、なさい……」
詩音はうわ言のように謝罪を繰り返した。
「わたし……やっぱり、駄目でした……。お客さんに、ご迷惑を……お店にも……。わたし、何もできなかった……逃げて、しまった……」
「……」
「やっぱり……わたしなんかが、働くなんて、無理だったんです。女の人がいる場所で働くなんて……わたしには、一生……」
この子はまた、あの言葉を言おうとしていた。
わたしには、無理。
拾ったころ、この子が何度も口にした言葉。この二ヶ月で少しずつ消えていったはずの言葉。
それが今日の失敗で、またこの子の口から溢れていた。
振り出しに、戻ってしまったみたいに。
***
俺はこの子の震える背中を見ながら、どう声をかけるべきか、必死に考えていた。
こういうとき、「大丈夫だ」と言うのは簡単だ。「次、頑張ればいい」と励ますのも、「気にするな」と慰めるのも。
でもそんな上っ面の言葉じゃ、この深い傷には届かない気がした。
……ああ、そうか。
ふと、気づいた。
俺はずっと、この子を「教える」立場で見てきた。金の勘定。飯の作り方。外の歩き方。俺が知っていてこの子が知らないことを、教えてやる。そういう関係だった。
でも今この子に必要なのは、たぶんそれじゃない。
教えることでも、励ますことでもない。
ただ——分かってやることだ。
この子の痛みを、否定せずに、ただ隣で分かってやること。
そしてそれは、俺にもできることだった。
だって俺も、同じだったから。
***
「……なあ、詩音」
俺は静かに言った。
「俺さ。……お前に言ってないこと、あるんだ」
詩音が涙に濡れた顔で俺を見た。
「俺が会社を辞めた理由。……前にちらっと話したよな。ブラック企業で馬車馬みたいに働いて、頑張っても報われなくて、嫌になって辞めたって」
「……はい」
「あれ、半分は本当だけど、半分は見栄だ」
俺は自嘲するように笑った。
「本当はさ。……俺、あの会社で潰れたんだ。心が。毎日上司に怒鳴られて、同僚には出し抜かれて。……ある朝起きたら、体が動かなくなってた。会社に行こうとすると、吐き気がして」
この話をするのははじめてだった。誰にも言ったことがなかった。
「逃げるように辞めて、それから一年。俺はずっと部屋に引きこもって、何もできずに——お前を拾うまで、ずっと扉の内側にいた」
詩音はじっと、俺の話を聞いていた。
「だからさ、俺は、お前の気持ちが分かるよ。ある場所が怖くて、体が動かなくなる。逃げ出してしまう。自分は駄目な人間だって思う。……その気持ち、痛いほど分かる」
俺はこの子の目を見て言った。
「お前は弱くなんかない。今日逃げたのだって、当たり前だ。あんなトラウマがあるのに、それでもお前は働きに行ったんだ。面接を受けて、電車に乗って、ひとりで。……それだけで、すげえことなんだよ」
「……でも、わたし……逃げて」
「逃げていい」
俺ははっきりと言った。
「今日は、逃げていい。無理をして壊れるくらいなら、逃げていい。……でも」
少し間を置いて。
「……逃げたまま終わりにするかどうかは、また明日決めればいい。今日はもう、頑張らなくていいから」
その言葉に。
詩音は——堰を切ったように泣いた。
俺の胸に顔を埋めて、子供みたいに声をあげて泣いた。
俺はただ、その背中をさすってやった。
何も解決していない。この子のトラウマは、今日克服できなかった。むしろ手ひどい失敗をして、振り出しに戻ったみたいに見える。
でも、この子はひとりじゃない。
それだけは、分かってほしかった。
***
帰り道。
泣き疲れた詩音が、ぽつりと言った。
「佐々木さん……。お店に、ご迷惑をかけてしまいました。……もう、クビでしょうか」
「……それは分からん」
俺は正直に言った。
「でも、ちゃんと謝りに行こう。逃げたこと、迷惑をかけたこと。それは事実だから、ちゃんと頭を下げよう。俺も一緒に行く」
「……はい」
「そのうえで——もう一度やらせてください、と言えるかどうかは、お前が決めろ。もう無理だと思うならやめてもいい。誰も責めない。……でも、もし、もう一度挑戦したいなら」
俺はこの子を見て言った。
「そのときは、俺もちゃんと考える。お前のその怖さと、どう向き合うか。……一緒に」
詩音はしばらく黙って歩いていた。
それから小さく、でもはっきりと言った。
「……わたし、考えます。ちゃんと。……逃げたままでいいのか。もう一度、やってみたいのか」
「おう。……ゆっくり考えろ」
夕暮れの道を二人で歩いた。
詩音の足取りは行きよりずっと重かった。でもこの子は、ちゃんと自分の足で歩いていた。
この日、この子の社会復帰は大きくつまずいた。
でも俺は、なぜか絶望していなかった。
だって今日、俺ははじめてこの子に、俺のいちばん格好悪い部分を見せた。潰れて逃げた、情けない自分を。
それはたぶん、俺自身が少しだけ前に進んだ証だった。
この子を支えるために、俺は俺自身の傷と向き合わなきゃいけなくなった。
……そうか。
俺たちは、二人で、同じ壁を登っているんだ。
この子がつまずけば俺が支える。俺が迷えば、この子がいる。
ひとりじゃ登れない壁も、二人でなら。
***
その夜。
買って帰ったケーキを二人で食べた。お祝いじゃなくなってしまったけれど。
「……甘い、です」
泣き腫らした顔で、詩音がぽつりと言った。
「……そうだな。甘いな」
その甘さが、今日のこの子に少しだけ染みたらいい。そう思いながら、俺も一口食べた。
窓の外で、夏の終わりの風が吹いていた。
答えを出すのは、明日でいい。
今夜はただ、この甘さだけでいい。
