深夜のコンビニというのは、俺みたいな人間にやさしい。
店員は愛想笑いすら寄こさないし、客同士は目も合わせない。おにぎりをふたつ、カップの味噌汁、それに発泡酒を一本。カゴの中身が先週と一言一句同じでも、誰ひとり気に留めない。夜という時間は、人が何者であるかを問わないのだ。だから俺の買い物は、いつも夜だった。
会社を辞めて、一年になる。
佐々木貴司、三十歳。無職。……いや、無職という言葉は、まだ少し前向きすぎる気がする。無職には「次」があるが、俺にはそれもない。ただ口座の数字が、潮が引くみたいに、静かに、確実に減っていくのを、毎月、見て見ぬふりしているだけの男だ。
アパートまで、あとふた筋、という角を曲がったところで、俺は足を止めた。
女の子が、体育座りをしていた。
街灯の、ちょうど真下だった。円く切り取られた光のなかに、膝を抱えて、ちょこんと座っている。まるでそこだけ、世界から切り取られて、置き忘れられた忘れ物みたいに。
黒い髪が、街灯を受けて、つやつやと光っていた。
最初に引っかかったのは、服だった。深夜の路地には、あまりにも場違いな、上等さ。品のいい、清楚なワンピース。きちんと磨かれていたはずの、靴。それが今は、裾のあたりが、うっすらと汚れている。長いあいだ、同じ場所に座っていた者の、汚れかただった。
関わるまい、と思った。
他人と関わるには、体力が要る。いまの俺に、その持ち合わせはない。だいたい、深夜に女の子が座り込んでいるなんて、どう考えても、厄介事の匂いしかしない。見なかったことにして通り過ぎるのが、大人の分別というものだ。
三歩、通り過ぎた。
……四歩目が、出なかった。
なんでか、あの座りかたが、他人事に見えなかったのだ。
どこへも行けなくて、誰も来なくて、それでも立ち上がる理由が、ひとつも見つからなくて、ただ膝を抱えているしかない。あれは——この一年、部屋の畳の上で、俺がやっていた姿勢と、同じだった。
場所が、路上か、六畳一間か。違いは、それだけだ。
「……大丈夫?」
我ながら、間の抜けた第一声だった。
女の子が、顔を上げる。
街灯の下でも分かるくらい、整った顔立ちだった。作りものみたいに、線が細くて、品がいい。けれど、俺の記憶に残ったのは、その造作のほうじゃなかった。
困りはてているのに、どこか申し訳なさそうで——そして「助けを求める」という発想だけが、きれいさっぱり抜け落ちている。そういう顔だった。
「……申し訳ございません」
彼女が発した第一声は、謝罪だった。
「往来の、お邪魔をしてしまって」
……往来の邪魔。
深夜に膝を抱えて座り込んでいる人間の、最初の心配が、それか。腹が減ったとか、寒いとか、そういう言葉が出てくるものだと思っていた俺は、思いきり、面食らった。
「いや、邪魔とかじゃなくてさ。……こんな時間に、こんなとこで、何してんの」
「待って、おりました」
「待ってた? 誰を」
彼女は、膝の上の小さな鞄を、両手でそっと抱え直した。まるでそれが、この世界に残された、最後の持ち場であるかのように。
「……それが、わたしにも、よく」
要領を得ない話を、根気よく繋ぎ合わせていくと、輪郭だけは、見えてきた。
ある日、家に、知らない大人たちが来た。玄関に紙が貼られ、鍵が付け替えられて、中に入れなくなった。父親の姿は、その何日も前から見ていない。家のことをしてくれていた人たちも——彼女は「家の者」と言った——みな、いなくなった。
気づいたときには、彼女はひとり、生まれ育った家から、締め出されていた。
「ですから、ここで待っていれば、そのうち、どなたかが迎えに来てくださるかと」
そう言って、彼女は、うっすらと笑った。困ったときの、行儀のいい笑いかただった。
俺は、二の句が継げなかった。
この子はたぶん、事態の深刻さを分かっていない。いや、違うな。分かっていないんじゃなく、こういうときにどうすればいいのか、という手札を、一枚も配られずに育ったのだ。誰かに電話する、助けを求める、そういう「当たり前」が、抜け落ちている。
「携帯は? 誰か、連絡つく人、いないの」
「携帯電話は……持っておりません。連絡ごとは、いつも、家の者がしてくれましたので」
「じゃあ、親戚とか、友達とか」
親戚のところで、彼女は目を伏せた。
そして、友達、のところで——ほんの一瞬、その表情に、怯えみたいなものが、よぎった気がした。
なんの話もしていないのに。ただ「友達」という単語が、出ただけで。
けれど彼女は、それをすぐに、行儀のいい微笑で覆い隠して、ゆっくりと、首を横に振った。
「……おりません」
その振りかたが、あんまり静かだったので、俺は、それ以上、聞けなかった。
夜風が、出てきた。彼女の薄い肩が、小さく震える。
放っておけ、と、頭の隅で、もうひとりの俺が言った。おまえは自分ひとりすら、持て余しているんだ。他人の面倒を見られる柄か。第一、貯金はあと——
「……とりあえず、うち来るか」
口から出たあとで、自分の台詞に、自分でぎょっとした。
深夜。路上。初対面の、うだつの上がらない男。どこからどう聞いても、控えめに言って、不審者の構文だ。断られて当然だし、なんなら悲鳴を上げられて通報されても、文句は言えない。
「よろしいの、ですか」
ところが、彼女は。
警戒の「け」の字も、見せなかった。
それどころか、ほっとしたように、眉を下げて、こう続けたのだ。
「見ず知らずのわたしなどが、ご迷惑では、ありませんか」
——いや、心配の矛先が、逆なんだよ。
迷惑かどうかを気に病む前に、まず、俺がまともな人間かどうかを、疑ってくれ。ついて行った先で何をされるか、想像のひとつくらい、しろ。深夜に、知らない男についていく危うさを、この子は、これっぽっちも分かっていない。
俺がもし、そういう手合いだったら、どうするつもりなんだ。
……などと、本気で説教したくなって。
しかし、彼女を深夜の路上に置き去りにする、という選択肢を、俺もまた、持ち合わせていないことに、気づいた。
「迷惑かどうかは、こっちが決める。……立てるか」
彼女は、こくりと頷いて、立ち上がろうとして——よろけた。長く座りすぎて、脚が痺れていたらしい。それでも彼女は、痺れた脚で、脱げかけた靴を几帳面にそろえ直し、乱れてもいないスカートの裾を、直した。
……と、そこで。俺は、大事なことを、忘れていたのに、気づいた。
「そうだ。……俺、佐々木な。佐々木貴司。……知らない男に、ついていくにしても、せめて、相手の名前くらいは、聞いてからに、しろよ」
名乗ったところで、不審者が、「名前つきの不審者」に、格上げされるだけの話では、あるのだが。それでも、名無しの男よりは、いくらか、マシだろう。
「……佐々木、さま」
彼女は、その名前を、ひとつぶ、ひとつぶ、確かめるみたいに、口の中で、繰り返した。それから、何かを、言いかけて——たぶん、名乗り返そうと、したんだろう——その前に、ひときわ冷たい、夜風が、吹いた。彼女の薄い肩が、また、震える。
「ほら、冷える。行くぞ。……続きは、あったかいとこで、いい」
「……はい」
彼女は、深々と、頭を下げた。
「お世話になります。……佐々木さま」
こうして俺は、その夜、女の子をひとり、拾って帰った。
***
俺の部屋は、控えめに言って、ひどい。
六畳一間に、一年ぶんの「まあ、いいか」が、そのまま層になって積もっている。カーテンは、閉めっぱなし。床には、脱いだものと、読みかけのものと、食い終わった何かの容器が、地層をなしている。生活というより、沈殿。人を上げるのは、この部屋に越してきてはじめてだった。
いまさらながら、猛烈に恥ずかしくなった。
ところが、玄関で靴をきちんとそろえて上がった彼女は、部屋をぐるりと見回すと、目を丸くして言った。
「わあ……」
感嘆、だった。皮肉でも、ドン引きでもない、正真正銘の。
「おひとりで、暮らしていらっしゃるのですね。……すごい」
「……どこがだよ。見ろよ、この散らかりよう」
「ご自分のことを、ご自分で、ぜんぶ、なさっているのでしょう?」
彼女は、本当に眩しそうに、その六畳間を見ていた。カップ麺の空き容器も、部屋干しのままの洗濯物も、彼女の目には「ひとりで生きている証拠」に映るらしい。
この一年、俺はこの部屋を、敗残の証拠だと思って生きてきた。
同じ景色が、立つ場所を変えれば、偉業に見える人間もいる。……なんだか、調子が狂う。
「腹、減ってんだろ。座って」
俺は、レジ袋の中身を卓に出した。おにぎりふたつ、カップの味噌汁。発泡酒は、こっそり袋に戻した。さすがに、この状況で飲む気には、なれない。
「よろしいのですか。佐々木さまの、お夜食では」
「いいから。……あと、その『さま』はやめてくれ。背中がかゆくなる」
「では……佐々木、さん」
「それでいい」
彼女は、おにぎりをおずおずと両手で受け取ると、その包装フィルムと、しばらくのあいだ、真剣に、見つめ合っていた。
「……あの、佐々木さん」
「ん?」
「これは、どこから、開けるものなのでしょう」
……そこからか。
フィルムに印刷された「①②③」の手順を教えてやると、彼女は、世紀の大発明にでも立ち会ったみたいな顔で、「まあ……!」と、声を上げた。海苔がぱりぱりのまま、くるりと巻き上がる仕組みに、本気で感動している。
たかが、コンビニのおにぎりの包装で。人はここまで、目を輝かせられるものなのか。
食べかたは、綺麗だった。
深夜のワンルームで、コンビニのおにぎりを、彼女はまるで一流ホテルの正餐みたいに、背筋を伸ばして食べた。そして、ふた口目で——その目に、じわりと、膜が張ったのを俺は見なかったことにした。
「……いつから、食ってないんだ」
「きのうの、朝から……だと、思います」
まる一日以上だ。それでもこの子は真っ先に、往来の邪魔を詫びていたのか。
味噌汁を飲み終えると、彼女は居住まいを正し、「あの、せめて、お礼を」と、あの小さな鞄を開けた。
そして、開けたまま——固まった。
俺の位置からも、中身は、見えた。
畳まれたハンカチが、一枚。それから、鍵が、ひとつ。
財布は、なかった。
「……ごめんなさい。わたし、お金を——持ったことが、なくて」
持っていない、ではなく。持ったことが、ない。
その言いかた、ひとつに。彼女の二十年ぶんの育ちが、まるごと詰まっていた。支払いというものは、いつも彼女の見えないところで、誰かが済ませてくれていたのだろう。
鞄の底で、鍵が、鈍く光っていた。
もう、どこの扉も開けられない鍵だ。貼り紙をされ、錠を替えられた、あの家の。それでも彼女は、それを捨てずに、ハンカチと一緒に、世界で最後の持ち場みたいに、抱えて歩いてきた。
俺は、何も言わないことにした。
***
「そういや。さっき、外で名乗りかけてたろ。……途中で、遮っちまって、悪かった。あらためて、聞かせてくれ」
茶を淹れながら訊くと、彼女は、座布団の上で、姿勢を正した。
「白瀬、詩音と申します」
しらせ、しおん。名前まで、育ちがいい。
佐々木貴司と、白瀬詩音。字面からして、住む世界が違いすぎる。
「このたびは」
白瀬詩音は、畳に手をついて、深々と、頭を下げた。
「拾っていただいて、ありがとうございました」
「……拾う、って」
その言葉は、本当なら、俺のほうが、頭のなかでだけ使うつもりの言葉だった。道端で、女の子を拾ってきた、と。まさか、拾われた当人の口から、先に出てくるとは。
犬猫じゃあるまいし——と、言いかけて、やめた。彼女の言い方には、卑屈さが、なかった。ただ、事実を正確に述べただけ、という顔をしていた。
そして、事実、そのとおりだった。
布団は、一組しかない。彼女に貸して、俺は座布団を三枚並べ、上着をかぶって寝ることにした。電気を消すと、狭い部屋の暗がりで、他人の呼吸の音がした。一年ぶりの、自分以外の、音だった。
天井を見上げながら、明日のことを、考える。
朝めしを、どうするか。着替えも、要る。歯ブラシも。金の計算も、そろそろ通帳と向き合わないと、まずい。この子の、これからのことも——いや。それは、追い追いでいい。
……そこまで考えて、気づいた。
明日のことを考えて、胃が重くならなかったのは、一年ぶりだった。
布団のほうから、規則正しい、寝息が聞こえてくる。拾った側の気も知らないで、ずいぶん、無防備に眠る、お嬢様だった。
まあ、いい。明日は、まず、飯だ。
そう決めて、俺は、目を閉じた。
店員は愛想笑いすら寄こさないし、客同士は目も合わせない。おにぎりをふたつ、カップの味噌汁、それに発泡酒を一本。カゴの中身が先週と一言一句同じでも、誰ひとり気に留めない。夜という時間は、人が何者であるかを問わないのだ。だから俺の買い物は、いつも夜だった。
会社を辞めて、一年になる。
佐々木貴司、三十歳。無職。……いや、無職という言葉は、まだ少し前向きすぎる気がする。無職には「次」があるが、俺にはそれもない。ただ口座の数字が、潮が引くみたいに、静かに、確実に減っていくのを、毎月、見て見ぬふりしているだけの男だ。
アパートまで、あとふた筋、という角を曲がったところで、俺は足を止めた。
女の子が、体育座りをしていた。
街灯の、ちょうど真下だった。円く切り取られた光のなかに、膝を抱えて、ちょこんと座っている。まるでそこだけ、世界から切り取られて、置き忘れられた忘れ物みたいに。
黒い髪が、街灯を受けて、つやつやと光っていた。
最初に引っかかったのは、服だった。深夜の路地には、あまりにも場違いな、上等さ。品のいい、清楚なワンピース。きちんと磨かれていたはずの、靴。それが今は、裾のあたりが、うっすらと汚れている。長いあいだ、同じ場所に座っていた者の、汚れかただった。
関わるまい、と思った。
他人と関わるには、体力が要る。いまの俺に、その持ち合わせはない。だいたい、深夜に女の子が座り込んでいるなんて、どう考えても、厄介事の匂いしかしない。見なかったことにして通り過ぎるのが、大人の分別というものだ。
三歩、通り過ぎた。
……四歩目が、出なかった。
なんでか、あの座りかたが、他人事に見えなかったのだ。
どこへも行けなくて、誰も来なくて、それでも立ち上がる理由が、ひとつも見つからなくて、ただ膝を抱えているしかない。あれは——この一年、部屋の畳の上で、俺がやっていた姿勢と、同じだった。
場所が、路上か、六畳一間か。違いは、それだけだ。
「……大丈夫?」
我ながら、間の抜けた第一声だった。
女の子が、顔を上げる。
街灯の下でも分かるくらい、整った顔立ちだった。作りものみたいに、線が細くて、品がいい。けれど、俺の記憶に残ったのは、その造作のほうじゃなかった。
困りはてているのに、どこか申し訳なさそうで——そして「助けを求める」という発想だけが、きれいさっぱり抜け落ちている。そういう顔だった。
「……申し訳ございません」
彼女が発した第一声は、謝罪だった。
「往来の、お邪魔をしてしまって」
……往来の邪魔。
深夜に膝を抱えて座り込んでいる人間の、最初の心配が、それか。腹が減ったとか、寒いとか、そういう言葉が出てくるものだと思っていた俺は、思いきり、面食らった。
「いや、邪魔とかじゃなくてさ。……こんな時間に、こんなとこで、何してんの」
「待って、おりました」
「待ってた? 誰を」
彼女は、膝の上の小さな鞄を、両手でそっと抱え直した。まるでそれが、この世界に残された、最後の持ち場であるかのように。
「……それが、わたしにも、よく」
要領を得ない話を、根気よく繋ぎ合わせていくと、輪郭だけは、見えてきた。
ある日、家に、知らない大人たちが来た。玄関に紙が貼られ、鍵が付け替えられて、中に入れなくなった。父親の姿は、その何日も前から見ていない。家のことをしてくれていた人たちも——彼女は「家の者」と言った——みな、いなくなった。
気づいたときには、彼女はひとり、生まれ育った家から、締め出されていた。
「ですから、ここで待っていれば、そのうち、どなたかが迎えに来てくださるかと」
そう言って、彼女は、うっすらと笑った。困ったときの、行儀のいい笑いかただった。
俺は、二の句が継げなかった。
この子はたぶん、事態の深刻さを分かっていない。いや、違うな。分かっていないんじゃなく、こういうときにどうすればいいのか、という手札を、一枚も配られずに育ったのだ。誰かに電話する、助けを求める、そういう「当たり前」が、抜け落ちている。
「携帯は? 誰か、連絡つく人、いないの」
「携帯電話は……持っておりません。連絡ごとは、いつも、家の者がしてくれましたので」
「じゃあ、親戚とか、友達とか」
親戚のところで、彼女は目を伏せた。
そして、友達、のところで——ほんの一瞬、その表情に、怯えみたいなものが、よぎった気がした。
なんの話もしていないのに。ただ「友達」という単語が、出ただけで。
けれど彼女は、それをすぐに、行儀のいい微笑で覆い隠して、ゆっくりと、首を横に振った。
「……おりません」
その振りかたが、あんまり静かだったので、俺は、それ以上、聞けなかった。
夜風が、出てきた。彼女の薄い肩が、小さく震える。
放っておけ、と、頭の隅で、もうひとりの俺が言った。おまえは自分ひとりすら、持て余しているんだ。他人の面倒を見られる柄か。第一、貯金はあと——
「……とりあえず、うち来るか」
口から出たあとで、自分の台詞に、自分でぎょっとした。
深夜。路上。初対面の、うだつの上がらない男。どこからどう聞いても、控えめに言って、不審者の構文だ。断られて当然だし、なんなら悲鳴を上げられて通報されても、文句は言えない。
「よろしいの、ですか」
ところが、彼女は。
警戒の「け」の字も、見せなかった。
それどころか、ほっとしたように、眉を下げて、こう続けたのだ。
「見ず知らずのわたしなどが、ご迷惑では、ありませんか」
——いや、心配の矛先が、逆なんだよ。
迷惑かどうかを気に病む前に、まず、俺がまともな人間かどうかを、疑ってくれ。ついて行った先で何をされるか、想像のひとつくらい、しろ。深夜に、知らない男についていく危うさを、この子は、これっぽっちも分かっていない。
俺がもし、そういう手合いだったら、どうするつもりなんだ。
……などと、本気で説教したくなって。
しかし、彼女を深夜の路上に置き去りにする、という選択肢を、俺もまた、持ち合わせていないことに、気づいた。
「迷惑かどうかは、こっちが決める。……立てるか」
彼女は、こくりと頷いて、立ち上がろうとして——よろけた。長く座りすぎて、脚が痺れていたらしい。それでも彼女は、痺れた脚で、脱げかけた靴を几帳面にそろえ直し、乱れてもいないスカートの裾を、直した。
……と、そこで。俺は、大事なことを、忘れていたのに、気づいた。
「そうだ。……俺、佐々木な。佐々木貴司。……知らない男に、ついていくにしても、せめて、相手の名前くらいは、聞いてからに、しろよ」
名乗ったところで、不審者が、「名前つきの不審者」に、格上げされるだけの話では、あるのだが。それでも、名無しの男よりは、いくらか、マシだろう。
「……佐々木、さま」
彼女は、その名前を、ひとつぶ、ひとつぶ、確かめるみたいに、口の中で、繰り返した。それから、何かを、言いかけて——たぶん、名乗り返そうと、したんだろう——その前に、ひときわ冷たい、夜風が、吹いた。彼女の薄い肩が、また、震える。
「ほら、冷える。行くぞ。……続きは、あったかいとこで、いい」
「……はい」
彼女は、深々と、頭を下げた。
「お世話になります。……佐々木さま」
こうして俺は、その夜、女の子をひとり、拾って帰った。
***
俺の部屋は、控えめに言って、ひどい。
六畳一間に、一年ぶんの「まあ、いいか」が、そのまま層になって積もっている。カーテンは、閉めっぱなし。床には、脱いだものと、読みかけのものと、食い終わった何かの容器が、地層をなしている。生活というより、沈殿。人を上げるのは、この部屋に越してきてはじめてだった。
いまさらながら、猛烈に恥ずかしくなった。
ところが、玄関で靴をきちんとそろえて上がった彼女は、部屋をぐるりと見回すと、目を丸くして言った。
「わあ……」
感嘆、だった。皮肉でも、ドン引きでもない、正真正銘の。
「おひとりで、暮らしていらっしゃるのですね。……すごい」
「……どこがだよ。見ろよ、この散らかりよう」
「ご自分のことを、ご自分で、ぜんぶ、なさっているのでしょう?」
彼女は、本当に眩しそうに、その六畳間を見ていた。カップ麺の空き容器も、部屋干しのままの洗濯物も、彼女の目には「ひとりで生きている証拠」に映るらしい。
この一年、俺はこの部屋を、敗残の証拠だと思って生きてきた。
同じ景色が、立つ場所を変えれば、偉業に見える人間もいる。……なんだか、調子が狂う。
「腹、減ってんだろ。座って」
俺は、レジ袋の中身を卓に出した。おにぎりふたつ、カップの味噌汁。発泡酒は、こっそり袋に戻した。さすがに、この状況で飲む気には、なれない。
「よろしいのですか。佐々木さまの、お夜食では」
「いいから。……あと、その『さま』はやめてくれ。背中がかゆくなる」
「では……佐々木、さん」
「それでいい」
彼女は、おにぎりをおずおずと両手で受け取ると、その包装フィルムと、しばらくのあいだ、真剣に、見つめ合っていた。
「……あの、佐々木さん」
「ん?」
「これは、どこから、開けるものなのでしょう」
……そこからか。
フィルムに印刷された「①②③」の手順を教えてやると、彼女は、世紀の大発明にでも立ち会ったみたいな顔で、「まあ……!」と、声を上げた。海苔がぱりぱりのまま、くるりと巻き上がる仕組みに、本気で感動している。
たかが、コンビニのおにぎりの包装で。人はここまで、目を輝かせられるものなのか。
食べかたは、綺麗だった。
深夜のワンルームで、コンビニのおにぎりを、彼女はまるで一流ホテルの正餐みたいに、背筋を伸ばして食べた。そして、ふた口目で——その目に、じわりと、膜が張ったのを俺は見なかったことにした。
「……いつから、食ってないんだ」
「きのうの、朝から……だと、思います」
まる一日以上だ。それでもこの子は真っ先に、往来の邪魔を詫びていたのか。
味噌汁を飲み終えると、彼女は居住まいを正し、「あの、せめて、お礼を」と、あの小さな鞄を開けた。
そして、開けたまま——固まった。
俺の位置からも、中身は、見えた。
畳まれたハンカチが、一枚。それから、鍵が、ひとつ。
財布は、なかった。
「……ごめんなさい。わたし、お金を——持ったことが、なくて」
持っていない、ではなく。持ったことが、ない。
その言いかた、ひとつに。彼女の二十年ぶんの育ちが、まるごと詰まっていた。支払いというものは、いつも彼女の見えないところで、誰かが済ませてくれていたのだろう。
鞄の底で、鍵が、鈍く光っていた。
もう、どこの扉も開けられない鍵だ。貼り紙をされ、錠を替えられた、あの家の。それでも彼女は、それを捨てずに、ハンカチと一緒に、世界で最後の持ち場みたいに、抱えて歩いてきた。
俺は、何も言わないことにした。
***
「そういや。さっき、外で名乗りかけてたろ。……途中で、遮っちまって、悪かった。あらためて、聞かせてくれ」
茶を淹れながら訊くと、彼女は、座布団の上で、姿勢を正した。
「白瀬、詩音と申します」
しらせ、しおん。名前まで、育ちがいい。
佐々木貴司と、白瀬詩音。字面からして、住む世界が違いすぎる。
「このたびは」
白瀬詩音は、畳に手をついて、深々と、頭を下げた。
「拾っていただいて、ありがとうございました」
「……拾う、って」
その言葉は、本当なら、俺のほうが、頭のなかでだけ使うつもりの言葉だった。道端で、女の子を拾ってきた、と。まさか、拾われた当人の口から、先に出てくるとは。
犬猫じゃあるまいし——と、言いかけて、やめた。彼女の言い方には、卑屈さが、なかった。ただ、事実を正確に述べただけ、という顔をしていた。
そして、事実、そのとおりだった。
布団は、一組しかない。彼女に貸して、俺は座布団を三枚並べ、上着をかぶって寝ることにした。電気を消すと、狭い部屋の暗がりで、他人の呼吸の音がした。一年ぶりの、自分以外の、音だった。
天井を見上げながら、明日のことを、考える。
朝めしを、どうするか。着替えも、要る。歯ブラシも。金の計算も、そろそろ通帳と向き合わないと、まずい。この子の、これからのことも——いや。それは、追い追いでいい。
……そこまで考えて、気づいた。
明日のことを考えて、胃が重くならなかったのは、一年ぶりだった。
布団のほうから、規則正しい、寝息が聞こえてくる。拾った側の気も知らないで、ずいぶん、無防備に眠る、お嬢様だった。
まあ、いい。明日は、まず、飯だ。
そう決めて、俺は、目を閉じた。
