中庭の木々が徐々に色づいてくる。涼しさが目立つようになってきた朝。安倍邸にて。
「晴明様」
「んう…?」
欠伸混じりに、晴明は振り返った。
彼を呼んだのは、妻の琴子だ。20年以上の幼馴染であり、許嫁を経ての婚姻。
これまで年に数回しか顔を合わせていなかった女性と、同じ部屋での寝起き。
夫婦となって1ヶ月が経ったが、まだ緊張とむず痒さが残る。
そんな妻は、晴明に仕事着のシャツを差し出しながら話し始めた。
「実は、妙な予知を見まして……」
「……どんなだ」
彼女の持つシャツに袖を通す晴明。着替えながらではあるが、話の先を促す彼の声は真剣だ。
「葛原院様の……右側に、黒いモヤがありました」
「アイツの右にモヤ……?」
「はい……。そのモヤを、何者かが暴こうとする……そんな景色で……」
「それは、確かに妙だな……」
琴子からジレを着せられ、自分でボタンを止めていく。そうやって準備を進めながら、晴明は考えを巡らせる。
(真誠の右……美雪殿から刺されたのも、斬られた脚もそちら側だが……。そこにモヤ、か)
琴子の予知は的中する。だがここまで曖昧なのは、久しぶりだ。
ネクタイを整えて貰い、フロックコートを着る。そして晴明は、見送りに来てくれる妻へ伝えた。
「ありがとう、こっちでも占ってみる。また何か見えたら教えてくれ」
「かしこまりました」
靴を履くと、琴子から渡される鞄。晴明がそれを受け取るのを見届けて、彼女は微笑んだ。
「いってらっしゃいませ、晴明様」
「……ん」
朝日に輝く黒髪。膝まで届く艶やかなそれは、霊力の高さの象徴だ。何よりも美しい。
晴明をわずかに見上げる意志の強い瞳に、白い肌。
自分にはもったいないほどの美人だと、晴明は思う。昔から。
「……いってくる。留守を頼んだ」
結局いつものようにそう言って、彼は戸を閉めた。
脳裏に浮かぶのは、いつ訪れても2人ひっついている悪友夫婦。
いずれ、あんな風になれるのだろうか。そう思う度に、晴明は身震いする。
とてもじゃないが、真誠のような溺愛を自分ができるとは思えなかった。
◇
窓から注ぐ風は、まだ湿気を含んで暑い。朝方の涼しさも、お天道様がてっぺんに昇る頃には泡沫の夢だ。
別荘の自室でそんな風を受けながら、百合は英国にいた頃と同じように、机に広げた手紙へと目を落としていた。
木箱に収められているのは、山積みの封筒。
どれも差出人は、葛原院真誠だ。
百合は目を細めて、律儀さの滲み出る柔らかい文字をなぞる。
季節の挨拶
横浜の様子
最近気にかけている政治動向への見解
まだ学生だった頃でさえ、こんな話題ばかりだ。
その字が滑らかな達筆になっていくと、手紙のやりとりは一層討論めいてくる。
欧米列強の動向への意見
経済の状況
会社の運営…
だがこれが、西洋へ留学している百合にとって何よりの支えだった。
数少ない日本語。祖国の様子を知る便り。
そして何より、百合の送った西洋の様子に必ず彼は感想や意見をくれた。
ほう…と、小さく漏れるため息。何を学べば彼の妻に相応しいか。それに胸を躍らせていたあの頃。
胸元に輝くブローチに、無意識に触れる。真珠と翡翠の百合の花。留学前、1度だけ彼が神戸に来てくれた時に貰ったもの。
(あの時……わたくしの乗る船の時間まで、覚えてて下さったのに……。)
そう思い出を振り返りながら、彼女は手紙をめくっていく。
清との戦争で帰国が伸びたことを心配する言葉が綴られている。
しかし三国干渉や台湾統治が始まった辺りから、徐々に文量が減っている。これまでの真誠なら、筆が乗った話題のはずなのに。
「……」
当時は忙しいのだろうと思っていた。だがこうして見返すと、百合に向けてくれていた気配りはもう消えていたのではないか。
文字の中にあった温かさが、今はもう分からない。
最後の手紙は、今年のお正月の挨拶だ。半年以上、前。
「お姉様」
扉の向こうから急に聞こえてきた満の声。それに百合はハッとした。
「何かしら、満」
手紙を封筒に入れながら答える。
「ご出発のお時間まで、あと30分ほどです。お姉様」
「ありがとう。すぐに向かうわ」
「かしこまりました」
短い会話。満はいつものように、準備へ向かったのだろう。
宝物を丁寧に仕舞う。窓を閉めて、彼女は身だしなみを確認し始める。
百合の花のブローチは、今日も曇り1つなく輝いていた。
◇
山手の外国人居住区。そこにある最先端医療の病院が、真誠の入院先だ。
すっかり顔なじみになった看護婦たちに挨拶をする百合。
静かな院内では、噂話は嫌でも耳に入った。
ーー葛原院様の奥様よ。
ーー毎日いらして、ご立派よね。
ーーでも旦那から聞いた話じゃ、葛原院様の奥様って、背丈の低い可愛らしい印象の方って……。
華族のゴシップにしか興味はないのだろう。そんな看護婦たちを、満はキッと睨みつけた。
「お止めなさい、満」
「でもお姉様!!あいつら無礼過ぎますわ!!」
百合が冷たく告げても、満の熱は収まらない。そんな彼女に、わずかに上がる口角。けれど百合は、満をたしなめた。
「堂々としてればいい。市井の噂に目くじらをたてるなど、図星を告げて己の愚を立てるだけですわ」
「お姉様……」
すみません、と萎んだ声を背中に受ける。
満への礼は、心の内に留めていた。
階段を昇る。3階の入口に満を待たせ、彼女から鞄を受け取った。
そして百合は真誠の病室へ。
医師の部屋の角を曲がる。開けたままの扉から見えたのは、彼の姿。
「っ……!」
その様子に、百合は思わず息を飲んだ。
寝台の手すりに掴まり、立ち上がろうとする真誠。その手は小さく震えている。苦痛に歪む青白い顔に、滝のような脂汗。
「っぅ…ぐ…!」
低いうめき声が、百合の耳を打つ。
だが何よりも目を離せなかったのは、彼の右脚だ。
ナイトシャツから覗く膝。その先は不自然に細くなり、まるで棒だ。
そこに巻き付く皮ベルト。受け止めているソケット。
そして続く、足を模した木。
噂には聞いていた。けれどずっと信じられなかった。
あるべき場所になかった、布団のふくらみ。そこから百合は、目を背けていた。
(あれが、義足……)
そう思う百合の胸が、ズキズキと痛む。地面に縫い付けられたように、足が動かない。
真誠は、やっと立ち上がった。肩で息をする彼。猫背なまま、そおっと支えから手を離す。指先が震えていた。
手を胸の前に添えて、真誠の動きが止まる。
木の足がわずかに地面から離れた。そして半歩、前へ。
もう一度床に触れる。彼の上半身が、それに続こうとした。
「ッぐ…!うっ、あ…!」
「真誠様…!!」
真誠の身体がぐらりと右前方へ揺れる。その瞬間、百合は鞄を投げ捨て駆け出していた。
ずしりと、重たい身体を全身で受け止める。
揺れた木の足が、コツンと無機質に百合のつま先にぶつかった。
彼の足がたたらを踏む。百合の肩にしがみつく彼の手。浅く、荒い呼吸。
彼のつむじを百合が見るのは、初めてだ。
「真誠、様……」
思わず、百合は弱った侯爵を抱きしめる。
ゆっくりとこちらを向いた真誠。
唇が触れそうな距離。
百合の心臓が早鐘を打つ。
しかし彼の瞳は暗く、揺れていた。
「あの……どのように、お支えすれば……」
「……あぁ」
百合の声が上擦る。真誠は緩慢な返事をしながら、視線を落とした。
「右、を……」
「はい」
数少ない言葉を拾い、彼の頼み通りに動く百合。
慎重に寝台へ戻る。真誠の重みを布団が受け取った時、やっと2人は胸をなで下ろした。
「すまん……助かった」
「いえ……」
ゆっくり、真誠の綺麗な指が百合から離れていく。
彼が触れていた箇所がじわりと熱い。
真誠の手が義足へ伸びる。そこへ、百合は声をかけた。
「あの……わたくしがお外ししてもいいですか?」
「……いや」
だが、彼からの答えは拒絶。
「見ていて気分のいいものじゃない」
「それは……」
手際よく外されていく革ベルト。義足が彼の身体から離れると、すかさず真誠は羽織を膝にかけてしまった。
「脚のこと、お伺いしても……?」
椅子に腰掛けながら、静かに尋ねる百合。
真誠はそんな彼女を一瞥する。目を逸らして、彼は重い口を開いた。
「……なんだ」
「……!」
真誠は慎重に身体を寝台の奥へ動かし、足を乗せ、布団を被る。
横になっていく彼を見ながら、百合は尋ねた。
「……脚のお怪我は……いつ……」
「10の時だ」
「……」
言い淀む彼女に、冷たい即答。
出会った頃には既に、真誠はこの傷を抱えていたのだ。
「……お家騒動と……お聞きしたことが、ありますが……」
「そうだ」
「………」
足を失うほどの騒動とは、いったい。
話は終わりだと言うように、真誠は目を閉じる。
「……鞄」
「……!」
「せっかくのお気に入りが汚れるぞ」
「……」
すっかり忘れていた。
そんなものよりも、百合は真誠のことが気がかりで視線を落とす。
彼はすっと、毛布を頭まで被ってしまった。
「……また、来ます」
そう声をかけて、百合は立ち上がる。
病室の扉を閉め、放り出した鞄を拾った。
仏蘭西で買った、ヴィトンの革手提げ。
最新のデザインを買えた高揚感も、手紙にそれを綴った心躍る感覚も、簡単にこの手に戻ってくる。
そんな些細なことを、真誠は覚えていてくれた。
その一言だけで、百合の胸は再び駆け足を始めていた。
「晴明様」
「んう…?」
欠伸混じりに、晴明は振り返った。
彼を呼んだのは、妻の琴子だ。20年以上の幼馴染であり、許嫁を経ての婚姻。
これまで年に数回しか顔を合わせていなかった女性と、同じ部屋での寝起き。
夫婦となって1ヶ月が経ったが、まだ緊張とむず痒さが残る。
そんな妻は、晴明に仕事着のシャツを差し出しながら話し始めた。
「実は、妙な予知を見まして……」
「……どんなだ」
彼女の持つシャツに袖を通す晴明。着替えながらではあるが、話の先を促す彼の声は真剣だ。
「葛原院様の……右側に、黒いモヤがありました」
「アイツの右にモヤ……?」
「はい……。そのモヤを、何者かが暴こうとする……そんな景色で……」
「それは、確かに妙だな……」
琴子からジレを着せられ、自分でボタンを止めていく。そうやって準備を進めながら、晴明は考えを巡らせる。
(真誠の右……美雪殿から刺されたのも、斬られた脚もそちら側だが……。そこにモヤ、か)
琴子の予知は的中する。だがここまで曖昧なのは、久しぶりだ。
ネクタイを整えて貰い、フロックコートを着る。そして晴明は、見送りに来てくれる妻へ伝えた。
「ありがとう、こっちでも占ってみる。また何か見えたら教えてくれ」
「かしこまりました」
靴を履くと、琴子から渡される鞄。晴明がそれを受け取るのを見届けて、彼女は微笑んだ。
「いってらっしゃいませ、晴明様」
「……ん」
朝日に輝く黒髪。膝まで届く艶やかなそれは、霊力の高さの象徴だ。何よりも美しい。
晴明をわずかに見上げる意志の強い瞳に、白い肌。
自分にはもったいないほどの美人だと、晴明は思う。昔から。
「……いってくる。留守を頼んだ」
結局いつものようにそう言って、彼は戸を閉めた。
脳裏に浮かぶのは、いつ訪れても2人ひっついている悪友夫婦。
いずれ、あんな風になれるのだろうか。そう思う度に、晴明は身震いする。
とてもじゃないが、真誠のような溺愛を自分ができるとは思えなかった。
◇
窓から注ぐ風は、まだ湿気を含んで暑い。朝方の涼しさも、お天道様がてっぺんに昇る頃には泡沫の夢だ。
別荘の自室でそんな風を受けながら、百合は英国にいた頃と同じように、机に広げた手紙へと目を落としていた。
木箱に収められているのは、山積みの封筒。
どれも差出人は、葛原院真誠だ。
百合は目を細めて、律儀さの滲み出る柔らかい文字をなぞる。
季節の挨拶
横浜の様子
最近気にかけている政治動向への見解
まだ学生だった頃でさえ、こんな話題ばかりだ。
その字が滑らかな達筆になっていくと、手紙のやりとりは一層討論めいてくる。
欧米列強の動向への意見
経済の状況
会社の運営…
だがこれが、西洋へ留学している百合にとって何よりの支えだった。
数少ない日本語。祖国の様子を知る便り。
そして何より、百合の送った西洋の様子に必ず彼は感想や意見をくれた。
ほう…と、小さく漏れるため息。何を学べば彼の妻に相応しいか。それに胸を躍らせていたあの頃。
胸元に輝くブローチに、無意識に触れる。真珠と翡翠の百合の花。留学前、1度だけ彼が神戸に来てくれた時に貰ったもの。
(あの時……わたくしの乗る船の時間まで、覚えてて下さったのに……。)
そう思い出を振り返りながら、彼女は手紙をめくっていく。
清との戦争で帰国が伸びたことを心配する言葉が綴られている。
しかし三国干渉や台湾統治が始まった辺りから、徐々に文量が減っている。これまでの真誠なら、筆が乗った話題のはずなのに。
「……」
当時は忙しいのだろうと思っていた。だがこうして見返すと、百合に向けてくれていた気配りはもう消えていたのではないか。
文字の中にあった温かさが、今はもう分からない。
最後の手紙は、今年のお正月の挨拶だ。半年以上、前。
「お姉様」
扉の向こうから急に聞こえてきた満の声。それに百合はハッとした。
「何かしら、満」
手紙を封筒に入れながら答える。
「ご出発のお時間まで、あと30分ほどです。お姉様」
「ありがとう。すぐに向かうわ」
「かしこまりました」
短い会話。満はいつものように、準備へ向かったのだろう。
宝物を丁寧に仕舞う。窓を閉めて、彼女は身だしなみを確認し始める。
百合の花のブローチは、今日も曇り1つなく輝いていた。
◇
山手の外国人居住区。そこにある最先端医療の病院が、真誠の入院先だ。
すっかり顔なじみになった看護婦たちに挨拶をする百合。
静かな院内では、噂話は嫌でも耳に入った。
ーー葛原院様の奥様よ。
ーー毎日いらして、ご立派よね。
ーーでも旦那から聞いた話じゃ、葛原院様の奥様って、背丈の低い可愛らしい印象の方って……。
華族のゴシップにしか興味はないのだろう。そんな看護婦たちを、満はキッと睨みつけた。
「お止めなさい、満」
「でもお姉様!!あいつら無礼過ぎますわ!!」
百合が冷たく告げても、満の熱は収まらない。そんな彼女に、わずかに上がる口角。けれど百合は、満をたしなめた。
「堂々としてればいい。市井の噂に目くじらをたてるなど、図星を告げて己の愚を立てるだけですわ」
「お姉様……」
すみません、と萎んだ声を背中に受ける。
満への礼は、心の内に留めていた。
階段を昇る。3階の入口に満を待たせ、彼女から鞄を受け取った。
そして百合は真誠の病室へ。
医師の部屋の角を曲がる。開けたままの扉から見えたのは、彼の姿。
「っ……!」
その様子に、百合は思わず息を飲んだ。
寝台の手すりに掴まり、立ち上がろうとする真誠。その手は小さく震えている。苦痛に歪む青白い顔に、滝のような脂汗。
「っぅ…ぐ…!」
低いうめき声が、百合の耳を打つ。
だが何よりも目を離せなかったのは、彼の右脚だ。
ナイトシャツから覗く膝。その先は不自然に細くなり、まるで棒だ。
そこに巻き付く皮ベルト。受け止めているソケット。
そして続く、足を模した木。
噂には聞いていた。けれどずっと信じられなかった。
あるべき場所になかった、布団のふくらみ。そこから百合は、目を背けていた。
(あれが、義足……)
そう思う百合の胸が、ズキズキと痛む。地面に縫い付けられたように、足が動かない。
真誠は、やっと立ち上がった。肩で息をする彼。猫背なまま、そおっと支えから手を離す。指先が震えていた。
手を胸の前に添えて、真誠の動きが止まる。
木の足がわずかに地面から離れた。そして半歩、前へ。
もう一度床に触れる。彼の上半身が、それに続こうとした。
「ッぐ…!うっ、あ…!」
「真誠様…!!」
真誠の身体がぐらりと右前方へ揺れる。その瞬間、百合は鞄を投げ捨て駆け出していた。
ずしりと、重たい身体を全身で受け止める。
揺れた木の足が、コツンと無機質に百合のつま先にぶつかった。
彼の足がたたらを踏む。百合の肩にしがみつく彼の手。浅く、荒い呼吸。
彼のつむじを百合が見るのは、初めてだ。
「真誠、様……」
思わず、百合は弱った侯爵を抱きしめる。
ゆっくりとこちらを向いた真誠。
唇が触れそうな距離。
百合の心臓が早鐘を打つ。
しかし彼の瞳は暗く、揺れていた。
「あの……どのように、お支えすれば……」
「……あぁ」
百合の声が上擦る。真誠は緩慢な返事をしながら、視線を落とした。
「右、を……」
「はい」
数少ない言葉を拾い、彼の頼み通りに動く百合。
慎重に寝台へ戻る。真誠の重みを布団が受け取った時、やっと2人は胸をなで下ろした。
「すまん……助かった」
「いえ……」
ゆっくり、真誠の綺麗な指が百合から離れていく。
彼が触れていた箇所がじわりと熱い。
真誠の手が義足へ伸びる。そこへ、百合は声をかけた。
「あの……わたくしがお外ししてもいいですか?」
「……いや」
だが、彼からの答えは拒絶。
「見ていて気分のいいものじゃない」
「それは……」
手際よく外されていく革ベルト。義足が彼の身体から離れると、すかさず真誠は羽織を膝にかけてしまった。
「脚のこと、お伺いしても……?」
椅子に腰掛けながら、静かに尋ねる百合。
真誠はそんな彼女を一瞥する。目を逸らして、彼は重い口を開いた。
「……なんだ」
「……!」
真誠は慎重に身体を寝台の奥へ動かし、足を乗せ、布団を被る。
横になっていく彼を見ながら、百合は尋ねた。
「……脚のお怪我は……いつ……」
「10の時だ」
「……」
言い淀む彼女に、冷たい即答。
出会った頃には既に、真誠はこの傷を抱えていたのだ。
「……お家騒動と……お聞きしたことが、ありますが……」
「そうだ」
「………」
足を失うほどの騒動とは、いったい。
話は終わりだと言うように、真誠は目を閉じる。
「……鞄」
「……!」
「せっかくのお気に入りが汚れるぞ」
「……」
すっかり忘れていた。
そんなものよりも、百合は真誠のことが気がかりで視線を落とす。
彼はすっと、毛布を頭まで被ってしまった。
「……また、来ます」
そう声をかけて、百合は立ち上がる。
病室の扉を閉め、放り出した鞄を拾った。
仏蘭西で買った、ヴィトンの革手提げ。
最新のデザインを買えた高揚感も、手紙にそれを綴った心躍る感覚も、簡単にこの手に戻ってくる。
そんな些細なことを、真誠は覚えていてくれた。
その一言だけで、百合の胸は再び駆け足を始めていた。



