師も走る忙しさ故に師走……とは、よく言ったもの。百合はそんなことを脳裏にぼやきながら、父と共に馬車に揺られていた。
向かう先は五摂家主催の年の瀬を祝う社交会。
最近は自身に関する噂もようやく落ち着いてきて、新たな交友関係も広がりを見せている。
馬車を降りれば、夜の冷たい風がドレスを靡かせた。つい、首元のファーを引き寄せる。
百合のドレスに、あのブローチはついていなかった。
◇
来なければよかった。
思わずそんな弱音が百合を支配する。いま彼女に突き刺さるのは、ヒソヒソという声と同情や好奇の視線だった。
真誠が、正妻同伴で出席してきたのだ。
春先の社交会以来だという、葛原院夫人の顔出し。真誠自身でさえ、大怪我と多忙で夏以降の出席は初だ。
それだけで、あの夫婦は当然、注目の的だった。
そちらに光が差せば差す程、影は濃くなるというもの。
落ち着いたはずの噂を蒸し返され、居心地が悪いことこのうえない。
そんな彼女に信じられないことが起こったのは、華やかな演奏に会場が包まれている最中だった。
「天乃原様」
「……えっ?」
胸元から聞こえた鈴の音のような声。百合は目を見開いて、そちらに視線を向けた。
ちょこん、とこちらを見上げてくる女性。それは、葛原院夫人だった。
葛の葉が刺繍された黒いシルクのドレスを身に纏っている。レースに包まれた首元やロンググローブのおかげで、露出を控えた慎ましやかな印象だ。
その姿そのものが、まるで他の男性の視線からさえも彼女を守ろうとする真誠の独占欲の表れに見えてしまう。
けれど、無視はできないだろう。
「……なにか」
百合は扇子で表情を隠しながら答える。こちらを盗み見する周囲の視線が、痛くて仕方がない。
「先日は、ありがとうございました」
優雅な礼をする葛原院夫人。コイツには周りが見えていないのか、百合には甚だ疑問に思えてきてしまった。
「いえ……こちらこそ。これほど仲睦まじいお姿を拝見できましたら、わたくしが心配する必要もございませんね」
「ありがとうございます」
「……」
暖簾に腕押しとは、このことだろうか。
どこにも影を滲ませないまま、葛原院夫人は小さな口をそうっと開いた。
「実は……折言って、お願いがありまして」
「……何かしら」
すう、と百合は目を細める。半歩ほど重心を後ろへ寄せて、百合は身構えた。
葛原院夫人の灰褐色の瞳が、光だけを宿してこちらを見つめてくる。
「私から、お手紙を差し上げてもよろしいでしょうか?」
「……は??」
そうして発された「お願い」は、彼女自身と同じように光しか纏っていなかった。
扇子の裏で、思わずポカンと口が開く。だが夫人の言葉は続いていく。
「強く気高い天乃原様のお姿に、私は学ぶことだらけです。だから私、天乃原様…百合様と、お友達になりたくて。」
「……」
「だめ……でしょうか……?」
しゅん、と花がしぼむ。胸の前でキュッと握られた彼女の両手が微かに震えているのが、百合の目にはいってしまった。
改めて、夫人を観察する。
小柄だ。だが背筋はピンと伸び、所作も申し分はない。男性が守ってあげたくなるような可愛らしさの中に、芯の強さと負けん気がチラリと顔を覗かせている。
そして何より、彼女の中に悪意のカケラは、微塵も感じなかった。
「……好きにすれば? 送り先は貴女の旦那様がご存知よ」
「……!」
百合のひと言で、夫人……美雪は、パァと華やかな花を咲かせるではないか。
「はいっ……! ありがとうございます、百合様!」
「……」
小さくため息をつき、百合は会釈と共にその場を離れる。
美雪はそんなこちらに、顔を綻ばせて礼をしていた。
あんな反応をされては、憎みきることなどできないだろう。
(……あぁいう純粋さに、真誠様は惚れられたのかしらね)
心のうちで百合は呟く。
不思議と、胸の痛みは穏やかなものになっていた。
◇
そんなやりとりをして以来、こんなに頻繁に手紙が届くだなんて、誰が予想できただろうか。
薄紅色に包まれる京都。百合は葛原院美雪からの手紙に目を通していた。何通目だったか、数えるのも馬鹿らしくなった。
しかも内容は、婚姻を誓う宴を西洋にならって行ったというもの。何をどうしたら、これを百合に送ろうと思えるのだろう。
だがこの遠慮の無さが、逆に百合の気持ちを楽にしてくれた。
そんなこと、決して本人には伝えないけれど。
「お姉様。先方のお家が到着されましたわ」
自室の扉の向こうから、満の声がする。了承の旨を、百合はひと言返した。
妹分が仕事に戻る音が徐々に遠ざかる。百合は手紙の最後の一文を読み終えると、そっと封筒へその紙を戻した。
窓の外では、満開の桜が咲き誇っている。
それは、冬の厳しい寒さを耐えた証。誰にも左右されないけれど、誰しもを振り向かせるほどの美しさ。
この桜のように、自分の誇りを咲かせる見通しはもう、立っている。
それは、東京での冬を耐え抜いた証。
まだ一度も、美雪に返事を出したことはない。
そろそろ、こちらの近況を伝えてもいいかもしれない。
その時には心から、彼女の結婚へ祝辞を送れそうだ。
そう思いながら、百合は椅子を引く。
そんな彼女を、ケースにしまわれた百合の花のブローチが見守っていた。
向かう先は五摂家主催の年の瀬を祝う社交会。
最近は自身に関する噂もようやく落ち着いてきて、新たな交友関係も広がりを見せている。
馬車を降りれば、夜の冷たい風がドレスを靡かせた。つい、首元のファーを引き寄せる。
百合のドレスに、あのブローチはついていなかった。
◇
来なければよかった。
思わずそんな弱音が百合を支配する。いま彼女に突き刺さるのは、ヒソヒソという声と同情や好奇の視線だった。
真誠が、正妻同伴で出席してきたのだ。
春先の社交会以来だという、葛原院夫人の顔出し。真誠自身でさえ、大怪我と多忙で夏以降の出席は初だ。
それだけで、あの夫婦は当然、注目の的だった。
そちらに光が差せば差す程、影は濃くなるというもの。
落ち着いたはずの噂を蒸し返され、居心地が悪いことこのうえない。
そんな彼女に信じられないことが起こったのは、華やかな演奏に会場が包まれている最中だった。
「天乃原様」
「……えっ?」
胸元から聞こえた鈴の音のような声。百合は目を見開いて、そちらに視線を向けた。
ちょこん、とこちらを見上げてくる女性。それは、葛原院夫人だった。
葛の葉が刺繍された黒いシルクのドレスを身に纏っている。レースに包まれた首元やロンググローブのおかげで、露出を控えた慎ましやかな印象だ。
その姿そのものが、まるで他の男性の視線からさえも彼女を守ろうとする真誠の独占欲の表れに見えてしまう。
けれど、無視はできないだろう。
「……なにか」
百合は扇子で表情を隠しながら答える。こちらを盗み見する周囲の視線が、痛くて仕方がない。
「先日は、ありがとうございました」
優雅な礼をする葛原院夫人。コイツには周りが見えていないのか、百合には甚だ疑問に思えてきてしまった。
「いえ……こちらこそ。これほど仲睦まじいお姿を拝見できましたら、わたくしが心配する必要もございませんね」
「ありがとうございます」
「……」
暖簾に腕押しとは、このことだろうか。
どこにも影を滲ませないまま、葛原院夫人は小さな口をそうっと開いた。
「実は……折言って、お願いがありまして」
「……何かしら」
すう、と百合は目を細める。半歩ほど重心を後ろへ寄せて、百合は身構えた。
葛原院夫人の灰褐色の瞳が、光だけを宿してこちらを見つめてくる。
「私から、お手紙を差し上げてもよろしいでしょうか?」
「……は??」
そうして発された「お願い」は、彼女自身と同じように光しか纏っていなかった。
扇子の裏で、思わずポカンと口が開く。だが夫人の言葉は続いていく。
「強く気高い天乃原様のお姿に、私は学ぶことだらけです。だから私、天乃原様…百合様と、お友達になりたくて。」
「……」
「だめ……でしょうか……?」
しゅん、と花がしぼむ。胸の前でキュッと握られた彼女の両手が微かに震えているのが、百合の目にはいってしまった。
改めて、夫人を観察する。
小柄だ。だが背筋はピンと伸び、所作も申し分はない。男性が守ってあげたくなるような可愛らしさの中に、芯の強さと負けん気がチラリと顔を覗かせている。
そして何より、彼女の中に悪意のカケラは、微塵も感じなかった。
「……好きにすれば? 送り先は貴女の旦那様がご存知よ」
「……!」
百合のひと言で、夫人……美雪は、パァと華やかな花を咲かせるではないか。
「はいっ……! ありがとうございます、百合様!」
「……」
小さくため息をつき、百合は会釈と共にその場を離れる。
美雪はそんなこちらに、顔を綻ばせて礼をしていた。
あんな反応をされては、憎みきることなどできないだろう。
(……あぁいう純粋さに、真誠様は惚れられたのかしらね)
心のうちで百合は呟く。
不思議と、胸の痛みは穏やかなものになっていた。
◇
そんなやりとりをして以来、こんなに頻繁に手紙が届くだなんて、誰が予想できただろうか。
薄紅色に包まれる京都。百合は葛原院美雪からの手紙に目を通していた。何通目だったか、数えるのも馬鹿らしくなった。
しかも内容は、婚姻を誓う宴を西洋にならって行ったというもの。何をどうしたら、これを百合に送ろうと思えるのだろう。
だがこの遠慮の無さが、逆に百合の気持ちを楽にしてくれた。
そんなこと、決して本人には伝えないけれど。
「お姉様。先方のお家が到着されましたわ」
自室の扉の向こうから、満の声がする。了承の旨を、百合はひと言返した。
妹分が仕事に戻る音が徐々に遠ざかる。百合は手紙の最後の一文を読み終えると、そっと封筒へその紙を戻した。
窓の外では、満開の桜が咲き誇っている。
それは、冬の厳しい寒さを耐えた証。誰にも左右されないけれど、誰しもを振り向かせるほどの美しさ。
この桜のように、自分の誇りを咲かせる見通しはもう、立っている。
それは、東京での冬を耐え抜いた証。
まだ一度も、美雪に返事を出したことはない。
そろそろ、こちらの近況を伝えてもいいかもしれない。
その時には心から、彼女の結婚へ祝辞を送れそうだ。
そう思いながら、百合は椅子を引く。
そんな彼女を、ケースにしまわれた百合の花のブローチが見守っていた。



