扉が開かれた先に姿を現したのは、小柄な少女……いや、女性だった。
薄桜色の色留袖を見に纏い、金色の帯が胸元を飾る。艶やかな黒髪は、高い位置に大きめの丸髷に結い上げられ、翡翠の簪に彩られている。
病み上がりを思わせるほど肌は白い。だが、頬紅がその血色をほどよく補っていた。
そんな小さな彼女が、品のあるお辞儀と共に告げる。
「ご挨拶が……遅くなってしまい、誠に申し訳ありません。……葛原院、美雪と……申します」
この場にいる全員の視線を一手に受けながら、美雪はゆっくりと背筋を伸ばす。
そして、ハッキリと宣言した。
「葛原院真誠様の……妻、で、ございます」
その言葉に、百合は目を見開く。真誠もまた、思わず息を呑んだ。
百合にとっては、初めて見る人物。小柄という噂は聞いていたが、想像以上だ。
歳の頃は、満と同じくらいだろうか。自分よりもずっとか弱く、若い女性だなんて。
真誠は、胸がいっぱいになっていた。成すべきことをかなぐり捨てていいのであれば、今すぐにでも美雪を抱きしめたい。
彼女の口から葛原院という名乗りを聞いたのも、彼女が自ら「真誠の妻だ」と宣言したのも、初めてなのだから。
「失礼……いたします」
美雪はそうひと声添えると、丁寧な所作で歩みを進める。
そして真誠の隣に、そっと腰を下ろした。
その動作はどれをとっても、侯爵家の女主人として申し分のないものだった。
「美雪、なんでここに……」
声をおさえ、真誠は思わず耳打ちする。
彼は、妻にはこの件を何ひとつ話していない。なぜならこれは真誠の問題であって、まだ不安定な彼女に背負わせるものではないと思っていたからだ。
部下にだって、きつく口止めしていたというのに。
そんな真誠のフロックコートを、美雪の小さな手が握りしめる。震えるその手にこもる力は、爪の先が白くなるほど。
ハッとする彼を見上げて、彼女は目を細めた。
「私も……譲れない、です……から」
「……!」
「真誠さんばっかり……悪役には、させません」
囁き合う夫婦。お互いだけを映す瞳は熱っぽく、寄り添う距離は触れ合いそのもの。
彼らの姿を見た瞬間、百合は嫌でも分かってしまった。
この場において自分は、彼らの幸せを阻むただの悪役だということを。
◇
満は、百合の背後に陣取りながらワナワナと震えていた。
(なんで)
葛原院夫人の登場で、形勢は逆転。ただ彼女の覚悟と正当性をこちらが突きつけられるだけになっている。
(なんでなのよ……!!)
だが、満はその流れに納得できない。
それは、葛原院夫人を一目見た瞬間に気づいた事実のせい。
(あの女の手、明らかに血の気配を纏ってた! しかもどう見ても、あの侯爵の腹の傷の気と一致してる……!!)
呪詛、妖怪が専門だからこそ分かる、血の気配。陰の気を読むことは、満にとっては朝飯前だ。
だからこそ、視えた事実に驚愕を隠せない。
(あんなのどう見たって、あの男を刺したのはあの女じゃない!!)
満は病院での真誠の様子を知っている。院内の噂や、呪詛を通して見た魘されている姿。元を辿れば、それはあの葛原院夫人が旦那を刺したからに他ならないのか。
(なのになんで?? なんで「自分が妻です」なんて言えるのあいつ!! なんで「この女を娶った判断は当主として間違ってない」なんて言ってのけるのあの男!!!)
百合は追い詰められ、葛原院側がトドメのひと太刀を浴びせようとしている。
そんなこと、満は許せない。
「っ……、……!」
口を開く。だが、パクパクと動くだけで、声が出ない。
瞬きを繰り返し、喉元に手を添える。何度試しても、自身の声帯が震える気配がしない。
(嘘……!?)
体温が冷えていく感覚。
満はゆっくりと、向かいに座る陰陽師へ視線を向けた。
澄まし顔で座るのは、安倍家嫡男。天才と噂されている、満にとっての目の上のたんこぶ。
誰よりもこの場をめんどくさがっていた男。
その彼の静かな目がこちらに告げていた。
余計なことは言わせない、と……。
剣印も組まず、九字も切らず、詠唱すらしないで。
視線だけで口封じの術をかけている。
「っ……!!」
満は顔を歪ませた。喉が苦しく、胸が痛い。
すぐ前にあるはずの百合の小さな背中が滲んでいく。
「……分かりました」
敬愛する彼女の硬い声音が聞こえてくる。決して崩れない凛とした姿が、ゆっくりと頭を垂れていく。
「出過ぎたことを申しました……。お二人の婚姻に、これ以上口を挟むことは致しませんわ」
そのような言葉、百合が言う必要などないはずだ。
おかしいのは、葛原院夫妻だというのに。
(あたしに、もっと力があれば……!!)
爪が深く突き刺さる手のひら。その上にポツリポツリと、雫が静かに落ちていくばかりだった。
◇
決着はついた。苦汁を舐めることになったが、致し方ない。
百合はそう言い聞かせながら、部屋を後にした。中では貴族議員でもある当主たちのみで、先の議会について話をするらしい。
出口に向かう百合。葛原院夫人は、安倍の者に付き添われて別室へと姿を消していった。
「……満」
しゃくりあげながら先導する妹分へ、百合は静かに声をかける。
「いい加減泣き止みなさい、みっともない。たかがこちらの主張が通らなかったからと言って、泣き続けるなど……」
「たかが、ではありませんわお姉様……!!」
「……!?」
しかし、その言葉は遮られてしまった。
彼岸花の簪を揺らして、振り向く満。その様子に、百合は思わず息を呑んでしまった。
彼女が、こちらに言い返すだなんて。
紅玉のような瞳をさらに真っ赤にさせながら、ぐちゃぐちゃのまま小さな妹分は声を荒げた。
「お姉様は、葛原院真誠のこと、愛しておいでだったじゃないですか…!!」
「……!?」
「好きな殿方に裏切られて、謝っても貰えない! こんなの、たかが、で済むことじゃありません!!」
「……」
心の中の柔らかい部分が、彼女につられるように軋み始める。
それに見ないフリをするために、百合は静かに息を吐く。
「……そんなこと、ありません。わたくしは、天乃原家の娘として……」
そんな彼女の手を、満がぎゅっと両手で握りしめる。
その手にかかるのは、止むことのない涙の雨。
「それも、事実です。でも……」
「……満?」
「でも、お姉様は確かに、あの男に恋をされておりました……!」
「……」
肩を震わせながら、彼女は喋り続ける。
「いつだって、あの男からの手紙を読むお姉様は、嬉しそうで、優しいお顔をされてて……!」
「……」
「お姉様が西洋にいらっしゃる間に頂いたお手紙にも、あの男との文通の話題があって……!!」
「満……」
彼女の言葉に引きずられるように、百合の脳裏に蘇る日々。
東京と京都の間で、日本と欧州の間で、待ちわびていた手紙。それを読む時の心の高鳴り。
「恋をされていなかったら……、留学の応援と言って受け取ったブローチが、そんなにピカピカなはずがありません……!!」
「っ……!」
自然と、空いている手が胸元に伸びる。
見なくてもわかる。艷やかに輝く真珠と翡翠の百合の花。
「今日……そのブローチをつけてくるはずがありません……!」
「……」
今まで気づこうとしていなかった自分の気持ちに、一気に光が当たっていく。
「お姉様。どうか、どうか…!」
ぐちゃぐちゃに顔を歪めて泣きじゃくっているのは、目の前の満だけではない。
「素敵な恋をされていたお姉様を……! その恋に敗れて泣いているお姉様を……、お姉様自身まで、否定しないであげてくださいまし……!!」
「……」
胸が痛い。
この痛みは、満がいなかったら認めることができなかった痛みだろう。
「……満、」
百合はただ静かに目を細めた。
「……ありがとう」
その声が僅かに震えていたとしても、気づく者はいない。
なぜならお屋敷に響き渡っていたのは、百合を守るように声をあげて泣く陰陽師の少女の声だったのだから。
薄桜色の色留袖を見に纏い、金色の帯が胸元を飾る。艶やかな黒髪は、高い位置に大きめの丸髷に結い上げられ、翡翠の簪に彩られている。
病み上がりを思わせるほど肌は白い。だが、頬紅がその血色をほどよく補っていた。
そんな小さな彼女が、品のあるお辞儀と共に告げる。
「ご挨拶が……遅くなってしまい、誠に申し訳ありません。……葛原院、美雪と……申します」
この場にいる全員の視線を一手に受けながら、美雪はゆっくりと背筋を伸ばす。
そして、ハッキリと宣言した。
「葛原院真誠様の……妻、で、ございます」
その言葉に、百合は目を見開く。真誠もまた、思わず息を呑んだ。
百合にとっては、初めて見る人物。小柄という噂は聞いていたが、想像以上だ。
歳の頃は、満と同じくらいだろうか。自分よりもずっとか弱く、若い女性だなんて。
真誠は、胸がいっぱいになっていた。成すべきことをかなぐり捨てていいのであれば、今すぐにでも美雪を抱きしめたい。
彼女の口から葛原院という名乗りを聞いたのも、彼女が自ら「真誠の妻だ」と宣言したのも、初めてなのだから。
「失礼……いたします」
美雪はそうひと声添えると、丁寧な所作で歩みを進める。
そして真誠の隣に、そっと腰を下ろした。
その動作はどれをとっても、侯爵家の女主人として申し分のないものだった。
「美雪、なんでここに……」
声をおさえ、真誠は思わず耳打ちする。
彼は、妻にはこの件を何ひとつ話していない。なぜならこれは真誠の問題であって、まだ不安定な彼女に背負わせるものではないと思っていたからだ。
部下にだって、きつく口止めしていたというのに。
そんな真誠のフロックコートを、美雪の小さな手が握りしめる。震えるその手にこもる力は、爪の先が白くなるほど。
ハッとする彼を見上げて、彼女は目を細めた。
「私も……譲れない、です……から」
「……!」
「真誠さんばっかり……悪役には、させません」
囁き合う夫婦。お互いだけを映す瞳は熱っぽく、寄り添う距離は触れ合いそのもの。
彼らの姿を見た瞬間、百合は嫌でも分かってしまった。
この場において自分は、彼らの幸せを阻むただの悪役だということを。
◇
満は、百合の背後に陣取りながらワナワナと震えていた。
(なんで)
葛原院夫人の登場で、形勢は逆転。ただ彼女の覚悟と正当性をこちらが突きつけられるだけになっている。
(なんでなのよ……!!)
だが、満はその流れに納得できない。
それは、葛原院夫人を一目見た瞬間に気づいた事実のせい。
(あの女の手、明らかに血の気配を纏ってた! しかもどう見ても、あの侯爵の腹の傷の気と一致してる……!!)
呪詛、妖怪が専門だからこそ分かる、血の気配。陰の気を読むことは、満にとっては朝飯前だ。
だからこそ、視えた事実に驚愕を隠せない。
(あんなのどう見たって、あの男を刺したのはあの女じゃない!!)
満は病院での真誠の様子を知っている。院内の噂や、呪詛を通して見た魘されている姿。元を辿れば、それはあの葛原院夫人が旦那を刺したからに他ならないのか。
(なのになんで?? なんで「自分が妻です」なんて言えるのあいつ!! なんで「この女を娶った判断は当主として間違ってない」なんて言ってのけるのあの男!!!)
百合は追い詰められ、葛原院側がトドメのひと太刀を浴びせようとしている。
そんなこと、満は許せない。
「っ……、……!」
口を開く。だが、パクパクと動くだけで、声が出ない。
瞬きを繰り返し、喉元に手を添える。何度試しても、自身の声帯が震える気配がしない。
(嘘……!?)
体温が冷えていく感覚。
満はゆっくりと、向かいに座る陰陽師へ視線を向けた。
澄まし顔で座るのは、安倍家嫡男。天才と噂されている、満にとっての目の上のたんこぶ。
誰よりもこの場をめんどくさがっていた男。
その彼の静かな目がこちらに告げていた。
余計なことは言わせない、と……。
剣印も組まず、九字も切らず、詠唱すらしないで。
視線だけで口封じの術をかけている。
「っ……!!」
満は顔を歪ませた。喉が苦しく、胸が痛い。
すぐ前にあるはずの百合の小さな背中が滲んでいく。
「……分かりました」
敬愛する彼女の硬い声音が聞こえてくる。決して崩れない凛とした姿が、ゆっくりと頭を垂れていく。
「出過ぎたことを申しました……。お二人の婚姻に、これ以上口を挟むことは致しませんわ」
そのような言葉、百合が言う必要などないはずだ。
おかしいのは、葛原院夫妻だというのに。
(あたしに、もっと力があれば……!!)
爪が深く突き刺さる手のひら。その上にポツリポツリと、雫が静かに落ちていくばかりだった。
◇
決着はついた。苦汁を舐めることになったが、致し方ない。
百合はそう言い聞かせながら、部屋を後にした。中では貴族議員でもある当主たちのみで、先の議会について話をするらしい。
出口に向かう百合。葛原院夫人は、安倍の者に付き添われて別室へと姿を消していった。
「……満」
しゃくりあげながら先導する妹分へ、百合は静かに声をかける。
「いい加減泣き止みなさい、みっともない。たかがこちらの主張が通らなかったからと言って、泣き続けるなど……」
「たかが、ではありませんわお姉様……!!」
「……!?」
しかし、その言葉は遮られてしまった。
彼岸花の簪を揺らして、振り向く満。その様子に、百合は思わず息を呑んでしまった。
彼女が、こちらに言い返すだなんて。
紅玉のような瞳をさらに真っ赤にさせながら、ぐちゃぐちゃのまま小さな妹分は声を荒げた。
「お姉様は、葛原院真誠のこと、愛しておいでだったじゃないですか…!!」
「……!?」
「好きな殿方に裏切られて、謝っても貰えない! こんなの、たかが、で済むことじゃありません!!」
「……」
心の中の柔らかい部分が、彼女につられるように軋み始める。
それに見ないフリをするために、百合は静かに息を吐く。
「……そんなこと、ありません。わたくしは、天乃原家の娘として……」
そんな彼女の手を、満がぎゅっと両手で握りしめる。
その手にかかるのは、止むことのない涙の雨。
「それも、事実です。でも……」
「……満?」
「でも、お姉様は確かに、あの男に恋をされておりました……!」
「……」
肩を震わせながら、彼女は喋り続ける。
「いつだって、あの男からの手紙を読むお姉様は、嬉しそうで、優しいお顔をされてて……!」
「……」
「お姉様が西洋にいらっしゃる間に頂いたお手紙にも、あの男との文通の話題があって……!!」
「満……」
彼女の言葉に引きずられるように、百合の脳裏に蘇る日々。
東京と京都の間で、日本と欧州の間で、待ちわびていた手紙。それを読む時の心の高鳴り。
「恋をされていなかったら……、留学の応援と言って受け取ったブローチが、そんなにピカピカなはずがありません……!!」
「っ……!」
自然と、空いている手が胸元に伸びる。
見なくてもわかる。艷やかに輝く真珠と翡翠の百合の花。
「今日……そのブローチをつけてくるはずがありません……!」
「……」
今まで気づこうとしていなかった自分の気持ちに、一気に光が当たっていく。
「お姉様。どうか、どうか…!」
ぐちゃぐちゃに顔を歪めて泣きじゃくっているのは、目の前の満だけではない。
「素敵な恋をされていたお姉様を……! その恋に敗れて泣いているお姉様を……、お姉様自身まで、否定しないであげてくださいまし……!!」
「……」
胸が痛い。
この痛みは、満がいなかったら認めることができなかった痛みだろう。
「……満、」
百合はただ静かに目を細めた。
「……ありがとう」
その声が僅かに震えていたとしても、気づく者はいない。
なぜならお屋敷に響き渡っていたのは、百合を守るように声をあげて泣く陰陽師の少女の声だったのだから。



