悪役とは誰でしょう。 ――スピンオフ『その花嫁、元殺し屋につき』――

 畳のい草と檜の柱の香りが、荘厳な部屋全体を包む。
 ピンと張り詰めた糸が、空間全体に走っているような緊張感。誰一人、好きに動くことは許されない。

 机を囲んでいるのは、家主である近衛家当主、天乃原侯爵家当主と百合、そして、葛原院侯爵家当主である真誠。
 部屋の奥には、若い陰陽師がそれぞれ控えていた。天乃原家側に、満。そして葛原院家側には晴明。

 錚々たるメンバーだ。

 近衛家当主が、会談の開始を告げる。それを受け、最初に口を開いたのは百合だった。

「葛原院侯爵様。 私は恋情を理由に責めているのではありません。貴殿が当主として、なすべき筋を通さなかったことを問うていますの」
「……」

 真っ直ぐに伸びた背筋に、鋭い視線。彼女の声音はまるで刃だ。

 真誠からの反論はない。それを踏まえて彼女は、まず事実を整理しましょう、と続ける。

「確かに、(わたくし)と葛原院侯爵様の間に正式な婚約関係はまだ、ありませんでした。ですが12年間、親交を深めてまいりました。その相手に、何の説明もなく婚姻だけを既成事実として突きつける。……それが、貴殿が私にした仕打ちでございます。」

 ピンと張り詰めた緊張の糸。鉛のような空気の中、百合の声だけが鮮やかにこの場を斬り裂いていく。

「父は、若くしてご当主となられた貴殿を長きに渡り援助しておりました。私と貴殿に、将来的な婚姻の黙約に近い空気があったこと、周囲もそう噂していたこと、貴殿だって否定は出来ないでしょう?」

 パチンと、まるで会心の一撃を放つかのように百合の手で扇子が音を鳴らした。

「貴殿は侯爵家を導く者としてではなく、一人の男性としての私情を優先なさった。それは私個人だけでなく、我が家の差し伸べてきた手を、踏み躙ったも同然です。」

 百合の視線が、真っ直ぐに真誠を射抜く。

「その不義理と当主としての選択の誤りについて認め、侯爵として正式に謝罪してくださいませ。……私が貴殿に求めるのは、それだけですわ。葛原院真誠侯爵様。」

 ただ淡々と、ただ粛々と、百合は言葉を突きつけていく。鋭利な西洋剣のごときその主張は、真誠の首を狙っている。

 だというのに、相対する彼の態度に変化はない。汗ひとつ垂らさず、表情を一切歪めず、真っ直ぐに百合を見つめ返す。
 そして真誠は、僅かながら頭を下げた。

「天乃原家に対し、不義理と受け取られても仕方ないことをしたのは、認める」
「……」

 首筋に触れる切先をそっと逸らすかのように、彼は厳かに告げる。
 会釈のような、僅かな礼。それを受け、百合は目を細めた。

 しかし、彼女が1番欲しい言葉——謝罪を口にしないまま、真誠は上体を起こした。
 瞳に宿るのは強い意志。有無を言わさぬ確信に満ちた態度。

「だが俺は、男としてだけではなく当主としても、彼女を娶る判断をした。」
「……は?」

 真誠の振り下ろした一撃に、百合の空気が凍る。だが彼は、そんなことはお構いなしに主張を続けた。

「事前に伝えなかったことについては、謝罪する。それを受け入れ、俺と美雪の婚姻を正式に認めて欲しい。」
「……!?」

 百合は目を見開いた。怯んだ彼女に追い討ちをかけるように、真誠は冷たい声で言い放つ。

「我々夫婦に、これ以上の干渉は控えて頂きたい」
「なん……ですって……!?」

 彼の纏う覚悟という鎧は、鋼鉄だ。百合の刃を何ひとつ通そうとしない。
 その様子に、彼女の声が震える。けれどすぐさま、咳払いをひとつ。

 ゆっくりと息を吐いたのち、さらに低いトーンで彼女は問うた。

「……どう考えても、謝罪が足りませんわ。一体何を根拠に、侯爵家当主としてその女性をお迎えになるご判断をされたと言えるのです?」

 相手が口を開く前に、彼女は連撃を与えるべく言葉を紡ぐ。
 
「葛原院侯爵家とは、先祖を辿ると宮家にも連なるお家柄なのでしょう? そのお家の侯爵夫人という重責を、どこの馬の骨とも言えぬ……」

 だがこの瞬間、真誠の空気が冷えた。
 表情は一切変わらない。けれど大樹のような黄褐色の瞳には、一筋の影が差す。

 その様子に、百合は視線を逸らしてひと声添えざるをえない。

「……いえ、口が過ぎますわね……」

 常に冷静沈着、理路整然としている彼が、たったあれだけで空気を変えるだなんて。

 チクリと針で刺されたような胸に気づかないまま、百合は遮られた言葉を続けていく。

「素性も定かでない女性にお任せになることが、ご当主として正しいご判断だと仰るのですか」

 2人の視線が再び交わる。

「……」

 衝動的に湧き上がった怒りを抑えるように、真誠は長く息を吐く。
 冷淡ともとれる声音のまま、彼は告げた。

「家柄についてのご認識に誤りはない。」

 続く彼の言葉に、百合は耳を疑うことになる。

「……その上で、我が葛原院家は代々、宮家、ひいては帝国に害なす者を排する任を負っている」
「……!?」
「その責務があるからこそ、彼女以上に侯爵夫人へ相応しい女性はいないと判断した」
「……」

 毅然とした態度の真誠に、彼女は怯んでしまう。そんな話、今まで聞いたことがない。
 思わず父を、近衛家の当主を見てしまう。彼らの表情は、真誠の言葉が事実だと語っていた。

 それを受け、今になって満からの報告に合点がいく。
 彼女が言うには、横浜の葛原院邸にはとても侯爵家の使用人とは思えないような屈強な男たちが出入りしていたという。
 
 帝国に害をなす者の排除。そんな責務があるのなら、そのような人物が配下にいるのも納得できる。

 そう結論付ける彼女を襲うのは、真誠からの追撃だ。

「先程貴女は、俺と貴女の婚姻について黙約も同然と仰ったが」
「……」
「俺は貴女との婚姻を、私的なやりとりの中でも約束していない」
「……っ!?」

 いま真誠は、何と言ったのか。
 殴られたような衝撃に脳が悲鳴をあげる百合に、容赦ない刃が振り注ぐ。

「文通とご支援のみをもって婚姻の黙約と断じられるのは、些か飛躍がある」
「……」
「先に伝えた通り、こちらの婚姻を認め、これ以上の干渉は控えて頂きたい」

 喉が、苦しい。
 百合はゆっくりと、視線を落としてしまった。

 そこに映るのは、胸元に輝く百合の花のブローチ。
 真珠と翡翠で象られたそれは確かに、真誠から受け取ったものだ。

(留学前の贈り物ですら……婚約の黙約ではなかったというの)

 ぎゅ、と机の下で両手を握りしめる。
 百合の脳裏に駆け巡る、真誠と共に神戸を回った日。見送りに来てくれた彼へ手を振った船の上。

 真誠の妻になるために。

 西洋にいる間に掲げたあの目標は、百合だけの思い上がりだったらしい。

「……そこまで仰るのならば、」

 体温が冷えていく感覚と共に、彼女は視線を上げる。
 真誠はこちらの空気の変化を悟ったようだ。警戒するように、彼の眉根に皺がよった。

 信じたかった男に対して、百合は正論を突きつけた。

「そのミユキという女性がどれほどのお方なのか、お見せいただけますか?」
「……」

 彼の眉間のシワが深くなる。
 やはり、この手は打たれたくなかったのだろう。

「貴殿が重傷で倒れてらっしゃる間、ミユキ様は1度たりともお姿を見せておりません。」

 それを分かったうえで、百合は矢継ぎ早に詰めていく。

「社交界では、阿片を常用なさっているとの噂まで立っております。……もちろん、特に証拠もありませんので、私はそれが事実だと責め立てるつもりはありません。けれど、」

 じっと、彼女は真誠を見据える。瞳の中に光る明かりは、虚勢だろうか。

「……火のないところに、煙は立たぬもの。噂が事実ではないと仰るなら、それをご本人がお示し下さいませ。」
「……」
「そもそも、当事者であるミユキ様がこの場にいらっしゃらないのが、何よりの不合理ではありませんこと?」

 いったいどうして、この約3ヶ月間で1度も姿を見せない女を、自分と同じ地位だと認めることができようか。

「ご当主ご自身のお言葉だけでは、客観的な証明にはなりません。それほどまでに侯爵夫人として相応しいと仰るのであれば、その資格を、どうかご本人のお姿でお示し下さいませ。」

 真っ直ぐに相手を見据えたまま、譲れないプライドを突きつける。

「侯爵夫人とは、そのお立場そのものが公のもの。ならば、公の場でお示しになるのが筋ではありませんこと?」
「っ……」
「もし、それすら叶わないというのであれば、」

 緊張の間。あえて真誠の発言をなぞる言葉を選び、百合は告げた。

「先に伝えた通り、貴殿のなされた不義理と、当主としてのご判断の誤りをお認めになり、侯爵として、この場で正式に謝罪してくださいませ」
「……」

 それはまさに、彼女なりの復讐の刃だった。



 プライドのぶつけ合いを繰り広げる舌戦の最中。葛原院家側の後方で、晴明は心の内でゲッソリしていた。

(キッツゥ……)

 顔には一切出さない。この言葉は、お屋敷の外で待機してくれている四神たちにだけ聞こえている彼のボヤキだ。

(空気重い! 呼吸困難で殺す気か! 嫌すぎる。さっさと帰りたい。なんで俺がお貴族様の男女のゴタゴタに巻き込まれなけりゃならねぇんだよ、馬鹿野郎)

 四神達の苦笑いの声を聞き流す。
 会談が始まった時から、晴明の願いは早期解決だけだった。

 さて、陰陽師は改めて周囲の様子を観察し始める。

 本人を出せ。そう痛い所を突かれて以来、さすがの真誠も歯切れが悪い。
 けれど百合は勝ち誇った顔など一切していない。

 一方蘆屋の娘は、百合の優勢に分かりやすいほど目を輝かせている。
 なにも術を使ってこないのは、恐らく晴明のことを警戒してくれているのだろう。

(真誠も天乃原も……どっちも正論だよなぁ)

 晴明は小さくため息をついた。 

(けど真誠? 俺だって、お前が美雪殿を嫁にすると言い出した時は、天乃原と同意見だったぞ)

 美雪は真誠を暗殺しにきた殺し屋で、異能を発現するほどの阿片中毒者。
 死んでいるような暗い目をしていた彼女は、明らかに彼の敵対組織の手の者だ。

 確かに真誠の言う通り、「葛原組」という非合法スレスレの組織を束ねる者の伴侶としては、彼女以上の適任はいないだろう。

 ……だが、侯爵夫人はそれだけでは済まない。

 社交界。華族。侯爵家という立場。

 そんな世界へ、あの頃の美雪を連れて行けると、本気で思えた人間は真誠だけではなかろうか。

 晴明は窮地に立たされている悪友の背から、視線を扉へ向けた。

(……早く来い)

 琴子が手伝ってくれているある作戦に思いをはせる。
 周囲をひっくり返せる唯一の一手。
 首尾良く運んでいれば、そろそろのはず。

 まさにそう思った時だ。彼だけに届いた、朱雀のひと言。
 それに胸をなで下ろし、彼は僅かに口元を綻ばせた。

 このままでは、真誠が折れるしかない。そんな空気が部屋を支配している。

 そこに響いたのは、静かな女中の声。

「失礼致します。葛原院夫人がお見えです」
「……!?!」
「……?」

 そして扉が、開かれた。