横浜、山手の葛原院邸にて。
美雪は自室の寝台の上でグッタリと横になっていた。
真誠は朝から麹町に行ってしまった。何やら重要な件らしく、司や霞も同行している。
組員の少ないお屋敷は静かだ。その分、彼女自身の声がグルグルと脳裏に響く。
アヘンを、吸いたい。
いや、吸いたくないのだ。
もう、異能の暴走なんて真っ平だ。あの甘ったるい焦げた匂いも、二度と浴びたくない。断薬の激痛と身体の動かなさは、懲り懲りだ。
ただ、真誠が居ない。それだけでとてつもなく不安で仕方がない。
その不安を紛らわすためだけに、気持ちがアヘンを求めてしまう。
「まことさん……」
じわりと、涙が滲む。彼の退院直後に比べたら、離れる恐怖は和らいでいるのだが。
そこへ聞こえて来た足音。まだ夕日にもなっていないのに、真誠が帰って来たのかもしれない。
「……!」
ミーアキャットのように、美雪は体を起こす。近づいてくる足音に、耳をすます。
じっ、と見つめるふすまが、ついに横へスライドしていった。
「お、起きれてんな美雪殿」
「……」
だが、残念ながら現れたのは晴明だった。
「露骨にがっかりするな!? 悪かったな貴女の旦那じゃなくて!!」
「ゥン……」
「うんじゃない」
期待した分、美雪の顔はシワシワになってしまうのだった。
困ったように、晴明は頭を掻く。そして彼はふすまを閉めた。
黒猫の尻尾のような髪を解きながら、こちらへ歩み寄ってくる。
「……そら」
ぶっきらぼうにそう言いながら、彼はギシリとしならせて寝台に腰掛けた。
「……うん」
ちょこちょこと、美雪は彼に寄っていく。艶のある長い黒髪に、そうっと触れた。
指通りのいい、サラサラな髪。その触り心地は、美雪に母との思い出を呼び起こす。
大事なそれをなぞるように、彼女は記憶のままに三つ編みをし始める。
「……」
晴明は仏頂面だが、されるがまま。
真誠がまだ入院している頃からの、秘密の交流。ただ黙々と三つ編みを繰り返すこの時間は、美雪にアヘンの脅威を忘れさせてくれていた。
「……美雪殿、明日のことは聞いてるだろ?」
「……?」
何度か三つ編みを繰り返したところで、晴明がおもむろに口を開く。その言葉に、美雪は手を止めた。
「あした……?」
何か、あるのだろうか。そんな思いで繰り返すと、目をまんまるにした晴明が振り向いた。
「おい待てぇ。……まさか、何も知らんとか言わないよな……?」
「……?」
ゆっくりと、フクロウのように傾いていく美雪の首。
その様子を見た途端、晴明の口はあんぐりと開いてしまった。
「あんの馬鹿野郎が……」
そして、深いため息と共に頭を抱える彼。ブツブツと何か恨み言のようなモノを言っているが、恐らく真誠への文句だろう。
こんな様子の晴明を、真誠に娶られてすぐの頃にも見た気がする。まだ1年も経っていないのに、遠い昔のように美雪はそんなことを思い出した。
「まことさん……なにか、あった……です、か……?」
「……」
震えそうになる両手をギュッと握って、美雪は旦那の親友に尋ねる。
眉間に深い皺を寄せたまま、彼はじっとこちらを見つめてきた。
揺れる紅葉の音さえ聞こえて来そうな静けさ。心臓が押しつぶされそうになった時、ようやく晴明が口を開いてくれた。
「……真誠が美雪殿に話していないのも、アイツなりの考えがあるんだろう。だが俺は、美雪殿こそ知っておくべきことだと思う」
「……?」
「貴女が、アイツの正妻だと胸を張りたいのならば」
「……!」
とんでもない話な気がする。美雪はスゥと、身体が冷え込んでいく感覚がした。
「体調が万全じゃないことくらい、分かってる」
けれど、晴明は一切目を逸らさずに続ける。
「だから、聞くか否かは自分で選んでくれ。美雪殿」
「ぇ……」
あぁなんて、酷なことを言うのだろう、この男性は。
そんな恨み言が美雪の心を占める。初めて会ったあの夜からずっと、彼の「優しさ」はぶっきらぼうで優しくない。
チクチクと胸が痛い。呼吸が浅くなる。また涙が溢れてきて、アヘンが欲しい。
「……きく」
けれど、美雪はどうしても逃げたくなかった。
頬を伝った一筋の雫を、晴明の無骨な指が拭う。
「わかった」
短い返事。そして彼はもう一度、美髪をこちらへ向けてくれた。
ぐしぐしと目元を袖で拭う。美雪は再び、彼の黒髪に震える指を通していく。
そうやって穏やかな中、晴明は語って聞かせてくれた。
美雪が救われた裏で傷ついたご令嬢の存在。彼女に対して、真誠がどう責任を取ろうとしているのか。
明日がどれほど大事な日なのか、美雪は初めて知ったのだった。
◇
その日の夜、横浜駅にて。会談前日の慌ただしい準備をどうにか終えて、真誠はやっと列車を降りた。
「はあ……」
入院以来、いったい何度目のため息だろう。
近衛家の使用人方とともに、明日の警備配置は確認できた。
ご当主への挨拶も、つつがなく終えた。
だが天乃原のご当主と百合の親子とすれ違ったのは計算外だった。突き刺さる視線の痛いこと。
初登院を控えている貴族院議会の準備など、全く手がつかない。
(美雪、大丈夫だろうか……)
再会した直後の頃は、真誠が家を空けようとする度にしがみついて号泣だった。
幸い、落ち着いて来てはいる。だが毎朝出かける前に見る、瞳を潤ませたくしゃくしゃの顔の彼女は、心臓に悪いことこの上ない。
義足の足で、可能な限り早く。馬車を待たせている場所へ進む真誠と、すれ違った髪の長い男。
「おい待て何で貴様がここに居る!」
「うお!?」
くるりと身を翻し、真誠はその男の腕を勢いよく握りしめた。
その相手は案の定、安倍晴明。
「んだよ、おかえり。最後の列車逃したくないから離せ、馬鹿侯爵」
「ただいま。お前がわざわざ横浜にいるのなんてウチの件だろ、安倍晴明」
「はるあき、な?」
「まさか美雪に何かあったんじゃないだろうな!」
うんざり、と顔に書かれている幼馴染。
引っ張りやすそうな髪を力任せに引いてやりたくなる。彼にとって髪は他人に触らせない領域だから、実際にはやらないけれど。
代わりにギリギリと、腕を握りしめる力を強めてやった。
「だーもう、嫁馬鹿め! 落ち着け! 何もない。ただ見舞いに行っただけだ!」
「……そうか」
観念したように声を荒げる晴明。それを受け、真誠は漸く彼の腕から手を離すのだった。
「それから」
「?」
解放された腕を軽くさすりながら、長年の悪友はよく分からない忠告を口にした。
「お前が思ってるほど、美雪殿は弱くないぞ」
「……は?」
怪訝な声が真誠から漏れる。
だが問い詰める隙もくれないまま、晴明は足早に駅へ駆け込んで行った。そろそろ新橋に向かう最後の列車も出発するだろう。
「……嫁とギクシャクしてるお前に言われたくはないが?」
もう見えない背中に、真誠はそう呟くのだった。
そして、彼は改めて馬車へ向かう。こちらの帰りを心待ちにしているであろう彼女を、早く安心させてやるために。
(明日……。天乃原家さえ納得させられれば、漸く障害はなくなる)
どんな犠牲を払ってでも、押し通したい我儘。それを成し遂げる最後の障壁に向けての準備は、もう整っていた。
◇
翌朝、東京の天乃原家にて。
鏡台に座る百合の髪を整えていく満。妹分に全面的に委ねながら、百合の指はあのブローチに触れていた。
(漸く……ね)
真誠のとった不義理を彼に認めさせ、心から謝罪させる。
そうしてやっと、彼に対して積もった恨みが晴れるのだ。
だというのに、百合の心にはありもしない「もしも」が浮かんでしまう。
もしも、留学に行かなかったなら。
もしも、自分の住まいが東京だったならば。
こんな結末ではなく、今も自分は彼の隣にいただろうか。
(……せんのないことを)
曇天の心模様を憂うようなため息が、百合の口をついてでた。
「お姉様、できましたわ」
満の柔らかい言葉に、百合は顔をあげる。
鏡に映るのは、完璧な侯爵令嬢の姿。
鮮やかな口紅に彩られた唇が、わずかに弧を描いた。
「ありがとう、満」
「いいえ! このくらい当然ですわ!」
胸を張る妹分に目を細める。そして百合は、翡翠と真珠でできた百合の花のブローチを、いつものように胸に飾った。
「さあ、行きましょうか」
英国製のドレスを翻す。向かう先は、不義理な男の断罪の場だった。
美雪は自室の寝台の上でグッタリと横になっていた。
真誠は朝から麹町に行ってしまった。何やら重要な件らしく、司や霞も同行している。
組員の少ないお屋敷は静かだ。その分、彼女自身の声がグルグルと脳裏に響く。
アヘンを、吸いたい。
いや、吸いたくないのだ。
もう、異能の暴走なんて真っ平だ。あの甘ったるい焦げた匂いも、二度と浴びたくない。断薬の激痛と身体の動かなさは、懲り懲りだ。
ただ、真誠が居ない。それだけでとてつもなく不安で仕方がない。
その不安を紛らわすためだけに、気持ちがアヘンを求めてしまう。
「まことさん……」
じわりと、涙が滲む。彼の退院直後に比べたら、離れる恐怖は和らいでいるのだが。
そこへ聞こえて来た足音。まだ夕日にもなっていないのに、真誠が帰って来たのかもしれない。
「……!」
ミーアキャットのように、美雪は体を起こす。近づいてくる足音に、耳をすます。
じっ、と見つめるふすまが、ついに横へスライドしていった。
「お、起きれてんな美雪殿」
「……」
だが、残念ながら現れたのは晴明だった。
「露骨にがっかりするな!? 悪かったな貴女の旦那じゃなくて!!」
「ゥン……」
「うんじゃない」
期待した分、美雪の顔はシワシワになってしまうのだった。
困ったように、晴明は頭を掻く。そして彼はふすまを閉めた。
黒猫の尻尾のような髪を解きながら、こちらへ歩み寄ってくる。
「……そら」
ぶっきらぼうにそう言いながら、彼はギシリとしならせて寝台に腰掛けた。
「……うん」
ちょこちょこと、美雪は彼に寄っていく。艶のある長い黒髪に、そうっと触れた。
指通りのいい、サラサラな髪。その触り心地は、美雪に母との思い出を呼び起こす。
大事なそれをなぞるように、彼女は記憶のままに三つ編みをし始める。
「……」
晴明は仏頂面だが、されるがまま。
真誠がまだ入院している頃からの、秘密の交流。ただ黙々と三つ編みを繰り返すこの時間は、美雪にアヘンの脅威を忘れさせてくれていた。
「……美雪殿、明日のことは聞いてるだろ?」
「……?」
何度か三つ編みを繰り返したところで、晴明がおもむろに口を開く。その言葉に、美雪は手を止めた。
「あした……?」
何か、あるのだろうか。そんな思いで繰り返すと、目をまんまるにした晴明が振り向いた。
「おい待てぇ。……まさか、何も知らんとか言わないよな……?」
「……?」
ゆっくりと、フクロウのように傾いていく美雪の首。
その様子を見た途端、晴明の口はあんぐりと開いてしまった。
「あんの馬鹿野郎が……」
そして、深いため息と共に頭を抱える彼。ブツブツと何か恨み言のようなモノを言っているが、恐らく真誠への文句だろう。
こんな様子の晴明を、真誠に娶られてすぐの頃にも見た気がする。まだ1年も経っていないのに、遠い昔のように美雪はそんなことを思い出した。
「まことさん……なにか、あった……です、か……?」
「……」
震えそうになる両手をギュッと握って、美雪は旦那の親友に尋ねる。
眉間に深い皺を寄せたまま、彼はじっとこちらを見つめてきた。
揺れる紅葉の音さえ聞こえて来そうな静けさ。心臓が押しつぶされそうになった時、ようやく晴明が口を開いてくれた。
「……真誠が美雪殿に話していないのも、アイツなりの考えがあるんだろう。だが俺は、美雪殿こそ知っておくべきことだと思う」
「……?」
「貴女が、アイツの正妻だと胸を張りたいのならば」
「……!」
とんでもない話な気がする。美雪はスゥと、身体が冷え込んでいく感覚がした。
「体調が万全じゃないことくらい、分かってる」
けれど、晴明は一切目を逸らさずに続ける。
「だから、聞くか否かは自分で選んでくれ。美雪殿」
「ぇ……」
あぁなんて、酷なことを言うのだろう、この男性は。
そんな恨み言が美雪の心を占める。初めて会ったあの夜からずっと、彼の「優しさ」はぶっきらぼうで優しくない。
チクチクと胸が痛い。呼吸が浅くなる。また涙が溢れてきて、アヘンが欲しい。
「……きく」
けれど、美雪はどうしても逃げたくなかった。
頬を伝った一筋の雫を、晴明の無骨な指が拭う。
「わかった」
短い返事。そして彼はもう一度、美髪をこちらへ向けてくれた。
ぐしぐしと目元を袖で拭う。美雪は再び、彼の黒髪に震える指を通していく。
そうやって穏やかな中、晴明は語って聞かせてくれた。
美雪が救われた裏で傷ついたご令嬢の存在。彼女に対して、真誠がどう責任を取ろうとしているのか。
明日がどれほど大事な日なのか、美雪は初めて知ったのだった。
◇
その日の夜、横浜駅にて。会談前日の慌ただしい準備をどうにか終えて、真誠はやっと列車を降りた。
「はあ……」
入院以来、いったい何度目のため息だろう。
近衛家の使用人方とともに、明日の警備配置は確認できた。
ご当主への挨拶も、つつがなく終えた。
だが天乃原のご当主と百合の親子とすれ違ったのは計算外だった。突き刺さる視線の痛いこと。
初登院を控えている貴族院議会の準備など、全く手がつかない。
(美雪、大丈夫だろうか……)
再会した直後の頃は、真誠が家を空けようとする度にしがみついて号泣だった。
幸い、落ち着いて来てはいる。だが毎朝出かける前に見る、瞳を潤ませたくしゃくしゃの顔の彼女は、心臓に悪いことこの上ない。
義足の足で、可能な限り早く。馬車を待たせている場所へ進む真誠と、すれ違った髪の長い男。
「おい待て何で貴様がここに居る!」
「うお!?」
くるりと身を翻し、真誠はその男の腕を勢いよく握りしめた。
その相手は案の定、安倍晴明。
「んだよ、おかえり。最後の列車逃したくないから離せ、馬鹿侯爵」
「ただいま。お前がわざわざ横浜にいるのなんてウチの件だろ、安倍晴明」
「はるあき、な?」
「まさか美雪に何かあったんじゃないだろうな!」
うんざり、と顔に書かれている幼馴染。
引っ張りやすそうな髪を力任せに引いてやりたくなる。彼にとって髪は他人に触らせない領域だから、実際にはやらないけれど。
代わりにギリギリと、腕を握りしめる力を強めてやった。
「だーもう、嫁馬鹿め! 落ち着け! 何もない。ただ見舞いに行っただけだ!」
「……そうか」
観念したように声を荒げる晴明。それを受け、真誠は漸く彼の腕から手を離すのだった。
「それから」
「?」
解放された腕を軽くさすりながら、長年の悪友はよく分からない忠告を口にした。
「お前が思ってるほど、美雪殿は弱くないぞ」
「……は?」
怪訝な声が真誠から漏れる。
だが問い詰める隙もくれないまま、晴明は足早に駅へ駆け込んで行った。そろそろ新橋に向かう最後の列車も出発するだろう。
「……嫁とギクシャクしてるお前に言われたくはないが?」
もう見えない背中に、真誠はそう呟くのだった。
そして、彼は改めて馬車へ向かう。こちらの帰りを心待ちにしているであろう彼女を、早く安心させてやるために。
(明日……。天乃原家さえ納得させられれば、漸く障害はなくなる)
どんな犠牲を払ってでも、押し通したい我儘。それを成し遂げる最後の障壁に向けての準備は、もう整っていた。
◇
翌朝、東京の天乃原家にて。
鏡台に座る百合の髪を整えていく満。妹分に全面的に委ねながら、百合の指はあのブローチに触れていた。
(漸く……ね)
真誠のとった不義理を彼に認めさせ、心から謝罪させる。
そうしてやっと、彼に対して積もった恨みが晴れるのだ。
だというのに、百合の心にはありもしない「もしも」が浮かんでしまう。
もしも、留学に行かなかったなら。
もしも、自分の住まいが東京だったならば。
こんな結末ではなく、今も自分は彼の隣にいただろうか。
(……せんのないことを)
曇天の心模様を憂うようなため息が、百合の口をついてでた。
「お姉様、できましたわ」
満の柔らかい言葉に、百合は顔をあげる。
鏡に映るのは、完璧な侯爵令嬢の姿。
鮮やかな口紅に彩られた唇が、わずかに弧を描いた。
「ありがとう、満」
「いいえ! このくらい当然ですわ!」
胸を張る妹分に目を細める。そして百合は、翡翠と真珠でできた百合の花のブローチを、いつものように胸に飾った。
「さあ、行きましょうか」
英国製のドレスを翻す。向かう先は、不義理な男の断罪の場だった。



