1話
桜の咲き誇る山手の屋敷にて。
「あー…っと…夫婦として…支え合うことを誓いますか?」
晴明が務める神父役。
その言葉に、美雪と真誠は答える。
「誓います、晴明さん。」
「…俺も誓う。」
それは、大団円な春のこと。
夫婦のキスが何よりの証し。
そこから少し、時を遡るとしよう。
この物語は、ハッピーエンドに至るまでのお話。
もう1つあった戦いの様子である。
◇
黒龍会との決戦から、約1週間。
異能が暴走した美雪によって腹部を深く刺された真誠は、病院のベッドに沈んでいた。
じりじりと聞こえるようになってきた蝉の声。
じわりと滲む汗は、暑さのせいだけではない。
薄ぼんやりとした彼の視界のなかに、長い黒髪が揺れた。
(美雪…?)
熱湯の中を揺蕩うような感覚のまま、真誠に浮かぶのは愛しい桜。
禁断症状は大丈夫だろうか。
一番苦しい時に近くに居られないのがもどかしい。
あの地獄をまた味わわせてしまっているのか。
そんな心配が脳裏に渦巻く。しかし喉はカラカラに乾いて粘りついている。声が声にならない。
右の腹と背中が燃えるように痛い。身体がうまく動かない。存在しない膝から下が疼く。
そんな真誠は、重たい腕をなんとか持ち上げた。
彼女に、触れたい。
その手を、強く握り返された。
「真誠様…!」
「…?」
いやに硬く、強すぎる力。平手打ちのような声。
ぼんやりとした思考に浮かぶ、「ちがう」の三文字。
「ぁ…」
漸く、視界がハッキリしてきた。
「真誠様…!」
「ッ…」
真誠のそばにいる女性は、やはり美雪ではなかった。
「…ゅ……り……」
切れ長の目元と、意志の強さを表す唇。
白魚のような手が真誠の手をキツく握りしめていた。
真誠の額に滲む玉のような汗を彼女の持つ手ぬぐいが拭き取っていく。
「すぐ、お医者様を呼ばせますわ。」
そう言って席を立つ彼女。腰まで届く長い髪は、1つに束ねられて揺れていた。
(…しまった…)
纏まらない思考が悪態をつく。
ここにいる女性は、天乃原百合。
京都の名家・天乃原侯爵家のご令嬢であり、真誠の婚約者…に、なるはずだった女性だった。
◇
支えられて起き上がり、どうにか水を飲む。
変えた包帯を看護婦が持って行くと、再び病室は二人きりだった。
湿気がじわりと重たく彼に伸し掛かる。
「…な…んで…ここ、に…」
耐えかねたように口を開いたのは、真誠の方だ。
手ぬぐいに含ませた水を絞る百合。
それを真誠の首元へ。ひやりとして、気休めでも気持ちよかった。
「…新聞で、阿片密売組織の摘発が横浜であったとみました。」
「……」
手ぬぐいを添えたまま、同じくらいの冷たさで百合は続けた。
「真誠様の運営される会社のある場所ですし、重傷者もでたとありましたから…。」
伏せられた彼女の瞳が、僅かに揺れる。
「…心の臓が、止まるかと思いましたわ。」
「……」
再び訪れる無言。蝉の声が無情にも響く。
百合は手ぬぐいの面を変え、もう一度首元へ。
「…留学…は…?」
「…帰国の旨は、お手紙を差し上げましたが?」
「……」
絞り出した言葉は、真誠の墓穴になってしまった。
手ぬぐいを浸す水の音だけが病室に響く。
余りにも分が悪い。真誠は諦めたように重たい瞼を閉じた。
その寝顔から汗を拭いながら、百合は夫になると思っていた男性を見つめる。
「…みゆき、とは…」
誰に言うでもなく、言葉が漏れる。
声に出さずにはいられないほどの思い。
「いったい、どなたですの…?」
それは憤怒か、嫉妬か。
「真誠様。」
暴食のようにこの男の色香を食い荒らせば、果たして強欲ともとれるこの目的を果たせるだろうか。
長年築いた関係を傲慢にも無下にしたうえに、未だ説明もしない怠惰な男。
苦しげに歪むその顔を見下ろす。百合の胸の内には毒蛇がとぐろを巻いていた。
「…また来ます。」
百合は席を立つ。仕事から戻った司に礼をして、彼女は病院を後にした。
その宣言どおり、彼女は毎日彼の世話を焼いていく。
その姿は、重傷の夫を献身的に支える妻のようだった。
桜の咲き誇る山手の屋敷にて。
「あー…っと…夫婦として…支え合うことを誓いますか?」
晴明が務める神父役。
その言葉に、美雪と真誠は答える。
「誓います、晴明さん。」
「…俺も誓う。」
それは、大団円な春のこと。
夫婦のキスが何よりの証し。
そこから少し、時を遡るとしよう。
この物語は、ハッピーエンドに至るまでのお話。
もう1つあった戦いの様子である。
◇
黒龍会との決戦から、約1週間。
異能が暴走した美雪によって腹部を深く刺された真誠は、病院のベッドに沈んでいた。
じりじりと聞こえるようになってきた蝉の声。
じわりと滲む汗は、暑さのせいだけではない。
薄ぼんやりとした彼の視界のなかに、長い黒髪が揺れた。
(美雪…?)
熱湯の中を揺蕩うような感覚のまま、真誠に浮かぶのは愛しい桜。
禁断症状は大丈夫だろうか。
一番苦しい時に近くに居られないのがもどかしい。
あの地獄をまた味わわせてしまっているのか。
そんな心配が脳裏に渦巻く。しかし喉はカラカラに乾いて粘りついている。声が声にならない。
右の腹と背中が燃えるように痛い。身体がうまく動かない。存在しない膝から下が疼く。
そんな真誠は、重たい腕をなんとか持ち上げた。
彼女に、触れたい。
その手を、強く握り返された。
「真誠様…!」
「…?」
いやに硬く、強すぎる力。平手打ちのような声。
ぼんやりとした思考に浮かぶ、「ちがう」の三文字。
「ぁ…」
漸く、視界がハッキリしてきた。
「真誠様…!」
「ッ…」
真誠のそばにいる女性は、やはり美雪ではなかった。
「…ゅ……り……」
切れ長の目元と、意志の強さを表す唇。
白魚のような手が真誠の手をキツく握りしめていた。
真誠の額に滲む玉のような汗を彼女の持つ手ぬぐいが拭き取っていく。
「すぐ、お医者様を呼ばせますわ。」
そう言って席を立つ彼女。腰まで届く長い髪は、1つに束ねられて揺れていた。
(…しまった…)
纏まらない思考が悪態をつく。
ここにいる女性は、天乃原百合。
京都の名家・天乃原侯爵家のご令嬢であり、真誠の婚約者…に、なるはずだった女性だった。
◇
支えられて起き上がり、どうにか水を飲む。
変えた包帯を看護婦が持って行くと、再び病室は二人きりだった。
湿気がじわりと重たく彼に伸し掛かる。
「…な…んで…ここ、に…」
耐えかねたように口を開いたのは、真誠の方だ。
手ぬぐいに含ませた水を絞る百合。
それを真誠の首元へ。ひやりとして、気休めでも気持ちよかった。
「…新聞で、阿片密売組織の摘発が横浜であったとみました。」
「……」
手ぬぐいを添えたまま、同じくらいの冷たさで百合は続けた。
「真誠様の運営される会社のある場所ですし、重傷者もでたとありましたから…。」
伏せられた彼女の瞳が、僅かに揺れる。
「…心の臓が、止まるかと思いましたわ。」
「……」
再び訪れる無言。蝉の声が無情にも響く。
百合は手ぬぐいの面を変え、もう一度首元へ。
「…留学…は…?」
「…帰国の旨は、お手紙を差し上げましたが?」
「……」
絞り出した言葉は、真誠の墓穴になってしまった。
手ぬぐいを浸す水の音だけが病室に響く。
余りにも分が悪い。真誠は諦めたように重たい瞼を閉じた。
その寝顔から汗を拭いながら、百合は夫になると思っていた男性を見つめる。
「…みゆき、とは…」
誰に言うでもなく、言葉が漏れる。
声に出さずにはいられないほどの思い。
「いったい、どなたですの…?」
それは憤怒か、嫉妬か。
「真誠様。」
暴食のようにこの男の色香を食い荒らせば、果たして強欲ともとれるこの目的を果たせるだろうか。
長年築いた関係を傲慢にも無下にしたうえに、未だ説明もしない怠惰な男。
苦しげに歪むその顔を見下ろす。百合の胸の内には毒蛇がとぐろを巻いていた。
「…また来ます。」
百合は席を立つ。仕事から戻った司に礼をして、彼女は病院を後にした。
その宣言どおり、彼女は毎日彼の世話を焼いていく。
その姿は、重傷の夫を献身的に支える妻のようだった。



