「本日からお世話になります。久世小夜です」
あらたまってお辞儀をする小夜。
「こちらこそ、よろしく」
久世も頭を下げた。
「この部屋、使って」
久世医院の一階は仕事場で、二階は自宅だった。
二階に客間が二つ余っており、それらが小夜の自室と寝室になった。
「ありがとうございます、清崇様」
伯爵邸から運び出された荷物だけで、部屋は狭くなってしまった。
「お父様と離れ離れになってしまったことはさみしいね。でも、天々がいるもの」
「クーン…」
天々は窓枠に座っている。小夜はその横に立った。九つの尾が、小夜の頬をくすぐった。
「…見て、天々。異国に来たみたい」
窓から見える景色は煉瓦の建物、石畳の道、外灯、市電の線路……。モダンボーイが女性と歩く様が目に入る。
(これが、自由のはじまり……)
期待と不安に胸を膨らませていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「――小夜さん」
久世の静かな声。
「夕ごはんにしよう。……俺が作ったものだけれど」
湯気の立つスープとロールパン、サラダ、ヨーグルトが並べてあった。
二人は相向かいに食卓を囲む。
「……昨晩から準備していたんだ。この日のために」
久世は丁寧な言葉をかけた。
「気兼ねなくどうぞ」
「これ、ぜんぶ清崇様が……?」
天々も不思議そうに料理を見ている。
「驚いたか? 留学した時に身の回りのことを自分で全てやってたから、たいていのことは自分でできる」
「男の人が台所に立つなんて……男子厨房に入らずのお父様が聞いたら腰を抜かすかもしれません!」
「だからうちにいる家政婦二人は基本、一階の手伝いをしてもらってる」
でもと久世は続けた。
「伯爵令嬢の君のために、一人は二階に回す。あとで紹介するから」
「清崇様。ありがとうございます。い、いただきます……!」
白いスープは牛乳の味で牛肉、野菜が入っていた。小夜はその優しい味わいに、目を細める。
「お、美味しいっ。これは何という食べ物なのですか?」
久世は眼鏡を少し曇らせていた。
「シチューという西洋料理です」
小夜の声がはずむ。
「清崇様は……何から何まですごいですね!」
「俺は器用なんだ」
小夜は手を太ももに置き、背筋を正した。
「あの清崇様……ここへ来たばかりでなんですが一つお話したいことがあります」
「はい」
久世は、小夜に目を向ける。
「私、やってみたいことがたくさんありまして……」
「ほう」
「たくさん行ってみたいところがあるんです。水卜家では外出は禁じられていましたから」
「例えば、どこへ?」
「百貨店に行ってみたいです。同級生たちの話を横で聞いていて、ずっと行ってみたいなぁって」
小夜は満月のような笑顔を浮かべる。
「百貨店か……」
つられて、久世もクスリと笑った。
「明日あたり行ってきますね!」
「え。待ちなさい。……君一人で?」
「はい」
久世は目を丸くする。
「君は外を一人で歩いたことはあるのか?」
小夜はキョトンとした。
「ないです」
「……。休診日に俺が案内するから、それは待ちなさい。他にできることに挑戦してみたらどうかな?」
「そうですね……色々やりたいことはあるんです。ちょっと書き出してみますね」
胸をなで下ろし、久世は大きな息をつく。――このお嬢様との結婚生活は、先が思いやられる。
◇
月も雲に隠れる宵。
久世は、二階の廊下を行ったり来たりしていた。
「どうすべきか」
今夜は、いわゆる初夜。
正式な夫婦。何の音沙汰がないのも、女性側への失礼に当たるのではないか――と、久世は思案に暮れていた。
「そうだ、あいさつだけでもしておこう」
小夜の寝室をそっとノックした。
「小夜さん」
物音一つしない。
「……小夜さん、寝たのか?」
それなら、良かった――と踵を返す。
ガチャリと音がした。
「うっ!!」
振り向きざま、久世の顔面にボフッと枕のようなものが激突した。
「天々! だめよ!」
白い影が身を翻して、廊下に降り立つ。
「!!」
ぐらりと久世の身体が衝撃で傾く。
――背後には階段。
久世は手を伸ばしたが時すでに遅し。足元は床から離れていた。
(清崇様――!)
小夜は手を伸ばす。
「――天狐!」
手から光が現れ、天々に向かって放たれた。
子狐の姿から、あやかし「天狐」に変身する。
「……っ!?」
久世の身体は天狐の背に支えられていた。肌触りのよい毛並みに包みこまれている。
「浮いている……!?」
天狐は宙に浮かんでいた。小夜の前に前足をそろえて降り立つ。
「クーン!」
小夜の頭に鼻をこすりつけながら、咆哮。
久世は言葉を失いながら、小夜と対面している。
「清崇様! 無事ですか!」
見上げる小夜の瞳は涙で光っていた。しばらくの間、彼女の顔を見つめながら、久世は茫然自失となる。
「き、清崇様? お気を確かに!」
「小夜さん……これは、夢か?」
「え? 夢ではありませんが……」
久世は眼鏡をかけ直す。
「ならば、極度の疲労で幻覚を見たんだ。そうとしか考えられない。どうやら連日の婚礼の準備で、疲れが溜まっていたらしい」
天狐の背から、ゆっくりと久世は降りた。
「小夜さん、おやすみ。あと、狐の変異種も助けてもらったことには礼を言おう……」
力を失った久世の背が、儚い。
「清崇様、そちらは寝室ではありませんよ!」
一階の医院へ向かう。
「仕事だ」
「え! こんな時間に!?」
薄暗い医院から、カチャリカチャリと物音が聞こえる。朝が来るまで、久世は診察室から出てこなかった。
あらたまってお辞儀をする小夜。
「こちらこそ、よろしく」
久世も頭を下げた。
「この部屋、使って」
久世医院の一階は仕事場で、二階は自宅だった。
二階に客間が二つ余っており、それらが小夜の自室と寝室になった。
「ありがとうございます、清崇様」
伯爵邸から運び出された荷物だけで、部屋は狭くなってしまった。
「お父様と離れ離れになってしまったことはさみしいね。でも、天々がいるもの」
「クーン…」
天々は窓枠に座っている。小夜はその横に立った。九つの尾が、小夜の頬をくすぐった。
「…見て、天々。異国に来たみたい」
窓から見える景色は煉瓦の建物、石畳の道、外灯、市電の線路……。モダンボーイが女性と歩く様が目に入る。
(これが、自由のはじまり……)
期待と不安に胸を膨らませていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「――小夜さん」
久世の静かな声。
「夕ごはんにしよう。……俺が作ったものだけれど」
湯気の立つスープとロールパン、サラダ、ヨーグルトが並べてあった。
二人は相向かいに食卓を囲む。
「……昨晩から準備していたんだ。この日のために」
久世は丁寧な言葉をかけた。
「気兼ねなくどうぞ」
「これ、ぜんぶ清崇様が……?」
天々も不思議そうに料理を見ている。
「驚いたか? 留学した時に身の回りのことを自分で全てやってたから、たいていのことは自分でできる」
「男の人が台所に立つなんて……男子厨房に入らずのお父様が聞いたら腰を抜かすかもしれません!」
「だからうちにいる家政婦二人は基本、一階の手伝いをしてもらってる」
でもと久世は続けた。
「伯爵令嬢の君のために、一人は二階に回す。あとで紹介するから」
「清崇様。ありがとうございます。い、いただきます……!」
白いスープは牛乳の味で牛肉、野菜が入っていた。小夜はその優しい味わいに、目を細める。
「お、美味しいっ。これは何という食べ物なのですか?」
久世は眼鏡を少し曇らせていた。
「シチューという西洋料理です」
小夜の声がはずむ。
「清崇様は……何から何まですごいですね!」
「俺は器用なんだ」
小夜は手を太ももに置き、背筋を正した。
「あの清崇様……ここへ来たばかりでなんですが一つお話したいことがあります」
「はい」
久世は、小夜に目を向ける。
「私、やってみたいことがたくさんありまして……」
「ほう」
「たくさん行ってみたいところがあるんです。水卜家では外出は禁じられていましたから」
「例えば、どこへ?」
「百貨店に行ってみたいです。同級生たちの話を横で聞いていて、ずっと行ってみたいなぁって」
小夜は満月のような笑顔を浮かべる。
「百貨店か……」
つられて、久世もクスリと笑った。
「明日あたり行ってきますね!」
「え。待ちなさい。……君一人で?」
「はい」
久世は目を丸くする。
「君は外を一人で歩いたことはあるのか?」
小夜はキョトンとした。
「ないです」
「……。休診日に俺が案内するから、それは待ちなさい。他にできることに挑戦してみたらどうかな?」
「そうですね……色々やりたいことはあるんです。ちょっと書き出してみますね」
胸をなで下ろし、久世は大きな息をつく。――このお嬢様との結婚生活は、先が思いやられる。
◇
月も雲に隠れる宵。
久世は、二階の廊下を行ったり来たりしていた。
「どうすべきか」
今夜は、いわゆる初夜。
正式な夫婦。何の音沙汰がないのも、女性側への失礼に当たるのではないか――と、久世は思案に暮れていた。
「そうだ、あいさつだけでもしておこう」
小夜の寝室をそっとノックした。
「小夜さん」
物音一つしない。
「……小夜さん、寝たのか?」
それなら、良かった――と踵を返す。
ガチャリと音がした。
「うっ!!」
振り向きざま、久世の顔面にボフッと枕のようなものが激突した。
「天々! だめよ!」
白い影が身を翻して、廊下に降り立つ。
「!!」
ぐらりと久世の身体が衝撃で傾く。
――背後には階段。
久世は手を伸ばしたが時すでに遅し。足元は床から離れていた。
(清崇様――!)
小夜は手を伸ばす。
「――天狐!」
手から光が現れ、天々に向かって放たれた。
子狐の姿から、あやかし「天狐」に変身する。
「……っ!?」
久世の身体は天狐の背に支えられていた。肌触りのよい毛並みに包みこまれている。
「浮いている……!?」
天狐は宙に浮かんでいた。小夜の前に前足をそろえて降り立つ。
「クーン!」
小夜の頭に鼻をこすりつけながら、咆哮。
久世は言葉を失いながら、小夜と対面している。
「清崇様! 無事ですか!」
見上げる小夜の瞳は涙で光っていた。しばらくの間、彼女の顔を見つめながら、久世は茫然自失となる。
「き、清崇様? お気を確かに!」
「小夜さん……これは、夢か?」
「え? 夢ではありませんが……」
久世は眼鏡をかけ直す。
「ならば、極度の疲労で幻覚を見たんだ。そうとしか考えられない。どうやら連日の婚礼の準備で、疲れが溜まっていたらしい」
天狐の背から、ゆっくりと久世は降りた。
「小夜さん、おやすみ。あと、狐の変異種も助けてもらったことには礼を言おう……」
力を失った久世の背が、儚い。
「清崇様、そちらは寝室ではありませんよ!」
一階の医院へ向かう。
「仕事だ」
「え! こんな時間に!?」
薄暗い医院から、カチャリカチャリと物音が聞こえる。朝が来るまで、久世は診察室から出てこなかった。
