小夜のまぶたの裏には、久世医院の診察室が浮かんでいた。
(まさか、契約結婚することになるなんて)
契約書の正本は二通作成した。小夜は一通を手にしている。
(清崇様……)
眼鏡を外した彼の顔。
その顔に見覚えがある。
(まさか、あの時の軍人さま……?)
◇
――華族女学校の帰り道、小夜は自家用車に乗り込もうとした。
「お、お待ちください!」
小夜の手を掴んだ。近くの高等学校生。手紙を両手で差し出す。
「無礼な! 下がりなさい!」
女中が間に入る。
「ラブ・レターです。どうか、読んでください……!」
彼は声を上ずらせながら言った。
ただ、小夜の目元に驚きが浮かぶ。
「ずっと、可憐な方だと拝見しておりました……!」
「こら!!」
女中に取り押さえられる彼を見やりながら、小夜は視線に気づいた。
背後を見ると、女学生たちが視線を向けている。
「……女狐」
「あの人、あやかしの令嬢なんかに」
手を口に当てながら、女学生たちは笑う。
――女狐。あやかしの令嬢。
小夜の異能とあやかしの力を危惧した水卜家は、学業以外の交流を禁じた。
(……私に“自由”なんてない!)
小夜の足元は、自家用車とは反対の方向に向けられる。
「お、お嬢様!?」
気がつけば、小夜は走り出した。女中は手を伸ばしたが、届かない。
小夜は走って走って、どこまでも走り出した。
涙か汗なのか、小夜の顔はかすかに濡れていた。
ほどなくして雨が振り出して、本当に小夜の顔は濡れていた。
日が出ているのに、雨が降る。
(早くどこかに消え去りたい……!!)
橋の上。
小夜は、雨の中で座り込んだ。
呼吸が早い。心臓が早鐘を打つ。息がうまくできない。胸のあたりを抑えながら、小夜はうずくまった。
「――お嬢さん、どうされましたか?」
影が、小夜の身体を包みこんだ。
目を上げると、軍帽をかぶり、立襟の軍服姿の男がのぞきこんでいる。
「……まずいな。顔が青白い」
そう言って、こげ茶色の洋傘を横に置いた。小夜と同じように濡れながら、男は真剣な面持ちで抱きかかえる。
「私と同じように呼吸してください。吸って、吐いて――」
目尻の下がった、やわらかい印象の瞳。
「吸って――」
男の言葉通り、小夜の胸は上下する。
「吐いて――」
小夜は雨に濡れる男の顔をじっと見上げた。
(……どうしてだろう、すごく安心する……)
――まるで、父に触れられているようなあたたかさ。
「フゥ……」
小夜は静かな息を吐いた。
男の瞳がパッと明るくなる。
「良かった……落ち着いたようですね」
「あの……あなたは」
風が吹き、柳の木がざわざわする。
雨足は弱まってきた。
小夜の唇がかすかに震えた時、二人はライトに照らされる。
「お嬢様――!!」
車のランプが橋の上を照らしていた。
男は洋傘を小夜に渡す。
右手に大きな鞄を持ち、笑顔を浮かべた。
「では、私はこれで」
そう言って歩き出した背中を、小夜は忘れることができなかった。
この日を境に、小夜は上の空になった。
屋敷にいても、学校にいても、何となく心はふわふわ浮いていた。
(これは、恋ではなく憧れ……)
名も知らぬ男の傘を、握りしめていた。
(軍人さま……)
◇
小夜は過去に思いを馳せながら、障子を閉めた。文机の上に、今でも飾る傘に手をかけた。
(とてもよく似ているわ)
こげ茶色の洋傘は、おそらく舶来の品。
(けれど、軍人さまは眼鏡をしていなかったし……帝国陸軍の方だったわ)
――俺は――異能やあやかし……迷信の類は、信じない。
(これ以上、私が何か言っても清崇様は嫌がるだけよね……)
(まさか、契約結婚することになるなんて)
契約書の正本は二通作成した。小夜は一通を手にしている。
(清崇様……)
眼鏡を外した彼の顔。
その顔に見覚えがある。
(まさか、あの時の軍人さま……?)
◇
――華族女学校の帰り道、小夜は自家用車に乗り込もうとした。
「お、お待ちください!」
小夜の手を掴んだ。近くの高等学校生。手紙を両手で差し出す。
「無礼な! 下がりなさい!」
女中が間に入る。
「ラブ・レターです。どうか、読んでください……!」
彼は声を上ずらせながら言った。
ただ、小夜の目元に驚きが浮かぶ。
「ずっと、可憐な方だと拝見しておりました……!」
「こら!!」
女中に取り押さえられる彼を見やりながら、小夜は視線に気づいた。
背後を見ると、女学生たちが視線を向けている。
「……女狐」
「あの人、あやかしの令嬢なんかに」
手を口に当てながら、女学生たちは笑う。
――女狐。あやかしの令嬢。
小夜の異能とあやかしの力を危惧した水卜家は、学業以外の交流を禁じた。
(……私に“自由”なんてない!)
小夜の足元は、自家用車とは反対の方向に向けられる。
「お、お嬢様!?」
気がつけば、小夜は走り出した。女中は手を伸ばしたが、届かない。
小夜は走って走って、どこまでも走り出した。
涙か汗なのか、小夜の顔はかすかに濡れていた。
ほどなくして雨が振り出して、本当に小夜の顔は濡れていた。
日が出ているのに、雨が降る。
(早くどこかに消え去りたい……!!)
橋の上。
小夜は、雨の中で座り込んだ。
呼吸が早い。心臓が早鐘を打つ。息がうまくできない。胸のあたりを抑えながら、小夜はうずくまった。
「――お嬢さん、どうされましたか?」
影が、小夜の身体を包みこんだ。
目を上げると、軍帽をかぶり、立襟の軍服姿の男がのぞきこんでいる。
「……まずいな。顔が青白い」
そう言って、こげ茶色の洋傘を横に置いた。小夜と同じように濡れながら、男は真剣な面持ちで抱きかかえる。
「私と同じように呼吸してください。吸って、吐いて――」
目尻の下がった、やわらかい印象の瞳。
「吸って――」
男の言葉通り、小夜の胸は上下する。
「吐いて――」
小夜は雨に濡れる男の顔をじっと見上げた。
(……どうしてだろう、すごく安心する……)
――まるで、父に触れられているようなあたたかさ。
「フゥ……」
小夜は静かな息を吐いた。
男の瞳がパッと明るくなる。
「良かった……落ち着いたようですね」
「あの……あなたは」
風が吹き、柳の木がざわざわする。
雨足は弱まってきた。
小夜の唇がかすかに震えた時、二人はライトに照らされる。
「お嬢様――!!」
車のランプが橋の上を照らしていた。
男は洋傘を小夜に渡す。
右手に大きな鞄を持ち、笑顔を浮かべた。
「では、私はこれで」
そう言って歩き出した背中を、小夜は忘れることができなかった。
この日を境に、小夜は上の空になった。
屋敷にいても、学校にいても、何となく心はふわふわ浮いていた。
(これは、恋ではなく憧れ……)
名も知らぬ男の傘を、握りしめていた。
(軍人さま……)
◇
小夜は過去に思いを馳せながら、障子を閉めた。文机の上に、今でも飾る傘に手をかけた。
(とてもよく似ているわ)
こげ茶色の洋傘は、おそらく舶来の品。
(けれど、軍人さまは眼鏡をしていなかったし……帝国陸軍の方だったわ)
――俺は――異能やあやかし……迷信の類は、信じない。
(これ以上、私が何か言っても清崇様は嫌がるだけよね……)
