水鏡の夫婦の契約結婚

 半月程も経たない内に、小夜の元へ書状が届いた。
 久世の癖のない整った字を見て、小夜は口元に手を当てる。

「二回目のデートのお誘いだわ」

 女中は眉をひそめた。

「婚前のお嬢様を頻繁に呼び出すなど、非礼な……」
「いえ、私行きます! お父様の許可をもらわなくては」



 日本橋の大通りに面して、久世医院は建っている。二階建ての洋館は赤煉瓦造り。

「お嬢様は、大丈夫ですかね」
「……やっぱりついて行ったほうが良かったのではありませんか?」

 付き人たちは、待合室で待っている。
 廊下の奥の気配に耳を澄ませる。振り子時計が時を刻む音ばかりが響き渡る。
 廊下右奥の診察室。――小夜お嬢様は、今そこで婚約者とふたりきり。
 付き人たちは、時おり廊下の奥に耳をすませては、立ったり座ったりしていた。



 薬液の香りで満たされた診察室。
 小夜は院長用のソファに、浅く腰掛けていた。

(なんて几帳面な人……清潔感もすごいわ)

 カルテには、走り書きの(ドイツ)語。

「この通り、まだ開業したばかりの医院なんです。最新施設、舶来の器具を取り揃えてあります。よくご覧になれましたか?」 
「は、はい。一つひとつ案内してくださってありがとうございました」
「それは良かったです。……お嬢様」

 久世は、小夜の顔をのぞきこんだ。

「あ、あのっ!?」

 顔が間近にあり、小夜は手で口元を覆う。
 窓ガラスの光が眼鏡に映り、水面のように揺れて見えた。

「いや、小夜さん」

 低い声で言う。

「き、清崇様……どうかなさいましたか……?」

 久世は一通の書面をデスクに置いた。
 小夜からよく見えるように机の上をすべらせる。

「契約書だ」

 久世は、眼鏡を外した。柔和な面立ちがあらわになる。

(あれ……この顔、どこかで……)

 下がった目尻が作る穏やかな印象を裏切るように、その瞳は鋭い。
 久世は契約書を指先で軽く押した。

「――契約結婚をしないか?」

 小夜の唇が、かすかに動く。

「契約、結婚……」

 窓辺から鳥が飛び立つ音が聞こえる。小夜は思わず息をのんだ。

「俺達が自由になるために、契約結婚をしよう」

 小夜は目を見開く。
 
(自由)

 ――その一言が、胸の奥へ静かに落ちていく。忘れたはずの願いが、小さく息を吹き返した。

(私も……そんな生き方を、望んでもいいの?)

 小夜は、ぎゅっと力強く拳を握りしめる。

「この結婚は、家同士の取引だ。だが、結婚するのは俺と君だ。――英国(イギリス)在中、好きな相手と恋愛をして結ばれる男女を幾人も見た」

 久世は、指先でトンとデスクを叩く。

「……君にこの考えは伝わるだろうか」

 久世の指先はデスクを離れ、背を向けて室内を歩く。

「さて、ご令嬢にどれから説明したら良いだろうか」

 診察室に視線を巡らせた、その時。

「あなたの目指しているところはわかりました。お互い、自分の生き方を選ぶために契約結婚をするのですね」

 小夜は膝の上で組んだ手を見つめた。
 白くなるほど力を込めていた指先が、ゆっくりほどけていく。

「私も……ずっと、それを願っていました」

 小夜はもう視線を伏せなかった。

「こちらこそ、お願いします」

 久世は息を呑む。
 説明を重ねるつもりだった言葉が、喉の奥で消えた。

「――お互いの生き方を尊重するための契約結婚、喜んでお引き受けいたします」

 小夜の瞳は真っ直ぐ久世を見つめている。
 久世の口から言葉が出るまで、長い時間が流れたように、小夜は感じた。

「……それなら話は早い。契約書に目を通そう」

 書状――婚姻契約書に、二人は目を落とした。
 
 一、本契約は、夫婦双方の自由を守るために締結する。
 一、夫婦は互いの生き方と志を妨げない。
 一、夫婦関係は双方の合意なく強制しない。
 一、本契約の期間は三箇年とし、期間満了の際は双方の自由意思により婚姻を継続するか否かを決定する。
 一、婚姻継続を望まぬときは、双方協議のうえ離縁することができる。

 久世は、患者用の椅子に足を組んで座った。

「要するに、お互いを縛らない契約だ」

 小夜は頷く。

「契約は三年。三年後、お互いが望むなら夫婦を続ける。望まなければ、離縁する」

 久世は書状を指差した。

「互いを知らぬまま結婚する俺達には、こうするより他にない」

 飾り窓から入る陽射しが小夜の横顔をゆるやかに照らしている。

「そこで、まず一つめ」
「はい」
「俺は――異能やあやかし……迷信の類は、信じない」

 久世は立ち上がり、窓を上げた。

「俺は、自分の目で確かめたものしか信用しない」

 風が吹く。淡い花霞の匂い。

「それは……」

 狼狽する小夜の言葉は置き去りになった。
 ふたりの視線はほんの少し合わさり、また離れていった。