水鏡の夫婦の契約結婚

 紫雲がたなびき、闇に沈んでいくはざま。
 雨がポツポツと降り出した。
 日本橋川の水面にいくつもの波紋が広がった。

(しまった……)

 橋の欄干にもたれ、小夜は眼下を流れる川を見下ろしている。
 ――どうしても医院にはいたくなかった。帰宅した久世と顔を合わせられなかった。
 だからこうして、一人で橋に来た。

「小夜さん!」

 久世の声に、驚いて振り向いた。
 天々を先頭に、久世が駆けてくる。

「清崇……様」

 小夜は視線の置き場がなく、とっさにうつむいた。
 久世は息を切らしながら、両手で小夜の肩をつかんだ。

「あ、あの……」

 銀鎖のついた眼鏡の奥の瞳がまっすぐ小夜にそそがれている。
 今朝の久世の表情が思い浮かぶ。
 胸の重苦しさに耐えきれず、小夜の頬に涙が伝った。

(……どうしてこんなに胸が苦しいの)

 幾筋も涙が流れ落ちる。

「小夜さん……」

 ふたりの間に、雨が降りしきる。

「……今朝は、すまなかった」
「えっ?」
「詫びさせてくれ。君の言ったことを無下にしたことを……」

 久世は唇を震わせながら、少しずつ言葉を紡ぐ。

「俺は、迷信――異能やあやかしは信じない。いや、神も仏も信じていない」

 久世の瞳がかすかに揺れた。

「だが――小夜さん、君のことだけは信じたい」

 久世は小夜の手に触れる。

「清崇様」

 手と手が重なり合う。

「いや、信じさせてくれ。いいか?」
「……」
「返事を聞かせてくれ」

 小夜の指先が、かすかに震えた。
 久世の視線に引き寄せられる。

「……清崇様の自由ですから」
「そうか。自由か」
「はい……」

 しばらく、ふたりは口を閉ざした。

「分からないものは分からないままだ。それでも、君の言葉は聞く」

 静かに、小夜は頷いていた。

「――帰ろう」

 バサリとこげ茶色の洋傘を広げる。
 ふたりの間に、傘。
 微笑む久世。

(あれ……この感じ……?)

 柔和な面影。

 ――吸って――吐いて――。

(――軍人さま……!!)

 雨音さえ遠くなった。

「……はい!」

 傘下で、ふたり並んで歩いた。

 石畳にできた水面に、未来が映じている。

 《了》