夏の入道雲が港町に浮かんでいた。ひぐらしの鳴く声が、蝉の大合宿に交じって聞こえてくる。
久世は高山と一緒に自家用車を停めた駐車場近くまで歩いていた。
「先生、いよいよという感じですね」
「ああ」
二人は大病院の輪郭ができたことに高揚している。
「身分や財力に左右されず、あらゆる病に向き合える高度な医療を提供する……そんな大きな病院を、俺は作りたいんだ」
久世は遠くの海に目をやる。――海の向こうの遠い異国で得た医学的知見を、この帝国臣民に広く普及してやりたい。
「この国は何もかも遅れている……。これまで、迷信で片付けられていた病を専門的な医学で治療する」
「コロリが流行った時、狐の仕業だ!って、御札や祈祷が流行りましたもんね〜」
「そうだ。俺の理念は医学を広めることだ」
高山は拍手する。
「いよっ!! 帝国一の名医・久世清崇先生!!」
「おいこら、茶化すな!」
高山が謝ろうとした時、前方から怒声が飛ぶ。
「号外! 号外! 東京駅で刃傷事件発生!」
人々が一斉に新聞売りへ駆け寄る。
「事件? 何かあったんですかね」
ハッと久世は振り向いた。
「――すまないが、一枚くれないか」
久世は見出しへ目を走らせた。
【號外】帝都震駭!
東京停車場にて兇漢暴る
旅客数名死傷 犯人逃走
「これ、僕達が乗るはずだった時刻の東京駅の汽車ですね」
高山がのぞき込む。
「本日午前、東京停車場構内において、刃物を携えた兇漢が突然旅客を襲撃。男女数名が死傷し、停車場内は一時大混乱となる……ですって!」
久世は目を見開いた。
「いやぁ~僕らツイてましたね! 汽車で向かってたらグサッとやられるところでした。先生が突然、自家用車で行くと言い出したから何だと思ってましたけど……って先生?」
新聞を持つ手が小刻みに震えている。
「そんな……馬鹿な」
それきり久世は口を閉ざした。
◇
「小夜さん!」
医院に戻るなり、久世は二階に駆け上がった。夕闇に沈んだ自宅はしんと静まり返っている。リビング、キッチン、応接室……どこにも人影はない。
「小夜さん、どこだ!?」
小夜の寝室をノックしたが反応はない。おそるおそる開けてみたが、荷解き中の箱が雑然と並ぶばかり。次に、小夜の部屋もノックしたが同様だった。
「失礼する」
小夜の部屋も伯爵邸から持ち出した荷物で足の踏み場もない。そっと足を踏み入れ、あたりを見回したが、彼女の姿はなかった。
「傘……」
小夜の文机に、こげ茶色の洋傘が大切そうに置かれている。
「これは、俺のお気に入りの傘じゃないか。なぜ、ここに……いや、この傘は……」
ドキリと心臓が鳴り、久世は傘を手に持った。
――五年前。戦地から帰還して、帝国の陸軍病院に勤務していた時のことだ。
吸って――吐いて――。
耳の奥で自分の声が響いた。
「小夜さん、君は……」
――涙にくれた可憐な女学生が、呼吸促迫で苦しむ姿。
「……俺達は、すでに出会っていたのか」
久世は目を見開いたまま、立ちつくした。
「クン……」
ふいに久世の足元に物が当たる。
目をやると、天々がおびえながら久世に何かを訴えかけるように見上げていた。
「クーーン……」
さみしげな鳴き声。
久世は、ごくりと唾を呑み込んだ。
「……お前は小夜さんの“眷属”といったな。主の元へ俺を連れてってくれ」
天々は九尾をフワフワさせながら、疾駆する。
「クーン!」
久世は高山と一緒に自家用車を停めた駐車場近くまで歩いていた。
「先生、いよいよという感じですね」
「ああ」
二人は大病院の輪郭ができたことに高揚している。
「身分や財力に左右されず、あらゆる病に向き合える高度な医療を提供する……そんな大きな病院を、俺は作りたいんだ」
久世は遠くの海に目をやる。――海の向こうの遠い異国で得た医学的知見を、この帝国臣民に広く普及してやりたい。
「この国は何もかも遅れている……。これまで、迷信で片付けられていた病を専門的な医学で治療する」
「コロリが流行った時、狐の仕業だ!って、御札や祈祷が流行りましたもんね〜」
「そうだ。俺の理念は医学を広めることだ」
高山は拍手する。
「いよっ!! 帝国一の名医・久世清崇先生!!」
「おいこら、茶化すな!」
高山が謝ろうとした時、前方から怒声が飛ぶ。
「号外! 号外! 東京駅で刃傷事件発生!」
人々が一斉に新聞売りへ駆け寄る。
「事件? 何かあったんですかね」
ハッと久世は振り向いた。
「――すまないが、一枚くれないか」
久世は見出しへ目を走らせた。
【號外】帝都震駭!
東京停車場にて兇漢暴る
旅客数名死傷 犯人逃走
「これ、僕達が乗るはずだった時刻の東京駅の汽車ですね」
高山がのぞき込む。
「本日午前、東京停車場構内において、刃物を携えた兇漢が突然旅客を襲撃。男女数名が死傷し、停車場内は一時大混乱となる……ですって!」
久世は目を見開いた。
「いやぁ~僕らツイてましたね! 汽車で向かってたらグサッとやられるところでした。先生が突然、自家用車で行くと言い出したから何だと思ってましたけど……って先生?」
新聞を持つ手が小刻みに震えている。
「そんな……馬鹿な」
それきり久世は口を閉ざした。
◇
「小夜さん!」
医院に戻るなり、久世は二階に駆け上がった。夕闇に沈んだ自宅はしんと静まり返っている。リビング、キッチン、応接室……どこにも人影はない。
「小夜さん、どこだ!?」
小夜の寝室をノックしたが反応はない。おそるおそる開けてみたが、荷解き中の箱が雑然と並ぶばかり。次に、小夜の部屋もノックしたが同様だった。
「失礼する」
小夜の部屋も伯爵邸から持ち出した荷物で足の踏み場もない。そっと足を踏み入れ、あたりを見回したが、彼女の姿はなかった。
「傘……」
小夜の文机に、こげ茶色の洋傘が大切そうに置かれている。
「これは、俺のお気に入りの傘じゃないか。なぜ、ここに……いや、この傘は……」
ドキリと心臓が鳴り、久世は傘を手に持った。
――五年前。戦地から帰還して、帝国の陸軍病院に勤務していた時のことだ。
吸って――吐いて――。
耳の奥で自分の声が響いた。
「小夜さん、君は……」
――涙にくれた可憐な女学生が、呼吸促迫で苦しむ姿。
「……俺達は、すでに出会っていたのか」
久世は目を見開いたまま、立ちつくした。
「クン……」
ふいに久世の足元に物が当たる。
目をやると、天々がおびえながら久世に何かを訴えかけるように見上げていた。
「クーーン……」
さみしげな鳴き声。
久世は、ごくりと唾を呑み込んだ。
「……お前は小夜さんの“眷属”といったな。主の元へ俺を連れてってくれ」
天々は九尾をフワフワさせながら、疾駆する。
「クーン!」
