「清崇様!!」
薄暗い医院に、小夜は駆け込んできた。
診察室のドアがバタリと開く。カルテを書いていた久世は驚いて、インク瓶をこぼしてしまった。
「……!」
一瞬、久世は顔をそむけたが、小夜の様子を見て身体が先に動いた。
小夜の呼吸が乱れ、顔が青白い。
「大丈夫か? ほら落ち着いて。俺の言う通りに呼吸して」
小夜はゼエゼエと息をしていた。
「吸って――」
久世は背中を擦りながら言う。
「吐いて――」
小夜の胸が上下する。次第に、呼吸が落ち着いてきた。安堵する久世をよそに、小夜は息を忘れて話し出した。
「汽車を利用することはありますか!?」
「どうした」
「いいから教えてください!」
小夜の剣幕に、久世は眼鏡をカチャリとかけ直した。
「小夜さんこそ落ち着いて。まずは座って」
院長デスクの革張りのソファを小夜に譲ると、久世は優雅に珈琲を口に運んだ。
「……汽車ならちょうど明日の休診日に乗る予定だよ。大病院設立の打ち合わせで、横濱まで行く予定なんだ」
小夜は涙を流しながら言った。
「行ってはダメです!!」
「……どうした、小夜さん」
久世は腕を組む。
「私、水鏡の異能が川面に見えたんです――駅舎で清崇様が兇漢に刺されて死んでしまう――」
久世の手が止まる。ソーサーにカップを置いてから、腹を抱えて笑い出した。
小夜は肩を震わせながら、久世の顔をのぞきこむ。
「打ち合わせに行くとしても汽車では行かないでください」
久世は笑いを止めて、小夜の顔を見おろした。
「俺の前で二度と異能の話はしないでくれ。俺は異能を信じていない。これは俺の信条に関わる話で、俺達の契約結婚をゆるがすことになる」
小夜は涙を流している。久世は優しく微笑みながら、小夜の頭をポンポンと叩いた。
「……でも、俺のことを案じてくれた気持ちだけは受け取っておくよ」
「本当なんです! 信じてください」
冷めた瞳を、小夜に向ける。
「――俺の話を聞いていたか?」
ピシャリとそう言うと、久世は診察室を後にした。
◇
(俺は正しい判断をしたはずだ)
階段を上りながら、自分にそう言い聞かせる。
(異能は信じない。あやかしも信じない。それが自分の信条だ)
小夜だからといって例外を作れば、今まで積み上げてきたものが揺らいでしまう。
(――これで良かった。俺が信じるのは医学だけだ)
そう結論づけたはずなのに、小夜の泣き顔が頭から離れなかった。
『本当なんです! 信じてください』
大きな瞳から涙がこぼれ落ち、頬を伝う。
(全く……この俺に迷信を信じろと言うのか?)
自室の机に向かい、カルテの続きを開く。
万年筆を走らせようとしたが、ふと手が止まる。
「……」
眼鏡を外し、目頭を指で押さえた。
あんなに取り乱すとは。
(あの涙は、嘘には見えなかった。…いや、だからといって異能を信じる理由にはならない)
「俺は、間違っていない」
静かな部屋に、自分の声だけが響いた。
……それでも胸の奥は少しも静まらなかった。
「疲れたな。寝よう」
その夜。寝室へ入っても、眠気は訪れない。
窓から吹き込む夜風を受けながら、久世は何度目かの寝返りを打った。
『清崇様! ありがとうございます!』
目を閉じるたびに浮かぶのは、小夜の笑顔だった。
『食堂!! あの洋食が食べられるところですね!?』
百貨店ではしゃぐ姿。
『……!』
差し入れをひっくり返した時。
『行ってはダメです!!』
そして、今日の泣き顔。
「……厄介だ」
小さく呟いて天井を見上げる。
合理的に考えれば、契約結婚の相手にここまで心を乱される理由はない。
それなのに。
胸の鼓動だけが、静かな夜にやけに大きく響いていた。
(小夜さんには、笑顔が一番似合う)
その願いだけは、理屈では説明がつかなかった。
◇
翌朝、帽子をかぶり鞄を持った久世は玄関を立ち塞ぐ小夜と対峙していた。天々も威嚇している。もうかれこれ小一時間。
「ここは通しません!」
「……おい、もう時間が押してるんだ! いい加減にしてくれないか」
ドアノブに手をかける久世を、天々が噛みつく。小夜は久世の腕を引っ張りながら、泣いていた。
「お願いです……清崇様、行かないでください……」
あまりにも小夜が泣きわめくので、久世も大きなため息をついた。
「……わかったよ。自家用車で行くから。電話で遅れることを先方に連絡しなければ……」
小夜と天々が、ほっと和らいだ。
久世は苛立ちを隠せず、冷酷な視線を向けた。
「――これは契約内容に関わることだぞ」
小夜はヘタリとその場に膝をついた。
(清崇様にも……嫌われてしまいました……)
目の前が真っ暗になった。
薄暗い医院に、小夜は駆け込んできた。
診察室のドアがバタリと開く。カルテを書いていた久世は驚いて、インク瓶をこぼしてしまった。
「……!」
一瞬、久世は顔をそむけたが、小夜の様子を見て身体が先に動いた。
小夜の呼吸が乱れ、顔が青白い。
「大丈夫か? ほら落ち着いて。俺の言う通りに呼吸して」
小夜はゼエゼエと息をしていた。
「吸って――」
久世は背中を擦りながら言う。
「吐いて――」
小夜の胸が上下する。次第に、呼吸が落ち着いてきた。安堵する久世をよそに、小夜は息を忘れて話し出した。
「汽車を利用することはありますか!?」
「どうした」
「いいから教えてください!」
小夜の剣幕に、久世は眼鏡をカチャリとかけ直した。
「小夜さんこそ落ち着いて。まずは座って」
院長デスクの革張りのソファを小夜に譲ると、久世は優雅に珈琲を口に運んだ。
「……汽車ならちょうど明日の休診日に乗る予定だよ。大病院設立の打ち合わせで、横濱まで行く予定なんだ」
小夜は涙を流しながら言った。
「行ってはダメです!!」
「……どうした、小夜さん」
久世は腕を組む。
「私、水鏡の異能が川面に見えたんです――駅舎で清崇様が兇漢に刺されて死んでしまう――」
久世の手が止まる。ソーサーにカップを置いてから、腹を抱えて笑い出した。
小夜は肩を震わせながら、久世の顔をのぞきこむ。
「打ち合わせに行くとしても汽車では行かないでください」
久世は笑いを止めて、小夜の顔を見おろした。
「俺の前で二度と異能の話はしないでくれ。俺は異能を信じていない。これは俺の信条に関わる話で、俺達の契約結婚をゆるがすことになる」
小夜は涙を流している。久世は優しく微笑みながら、小夜の頭をポンポンと叩いた。
「……でも、俺のことを案じてくれた気持ちだけは受け取っておくよ」
「本当なんです! 信じてください」
冷めた瞳を、小夜に向ける。
「――俺の話を聞いていたか?」
ピシャリとそう言うと、久世は診察室を後にした。
◇
(俺は正しい判断をしたはずだ)
階段を上りながら、自分にそう言い聞かせる。
(異能は信じない。あやかしも信じない。それが自分の信条だ)
小夜だからといって例外を作れば、今まで積み上げてきたものが揺らいでしまう。
(――これで良かった。俺が信じるのは医学だけだ)
そう結論づけたはずなのに、小夜の泣き顔が頭から離れなかった。
『本当なんです! 信じてください』
大きな瞳から涙がこぼれ落ち、頬を伝う。
(全く……この俺に迷信を信じろと言うのか?)
自室の机に向かい、カルテの続きを開く。
万年筆を走らせようとしたが、ふと手が止まる。
「……」
眼鏡を外し、目頭を指で押さえた。
あんなに取り乱すとは。
(あの涙は、嘘には見えなかった。…いや、だからといって異能を信じる理由にはならない)
「俺は、間違っていない」
静かな部屋に、自分の声だけが響いた。
……それでも胸の奥は少しも静まらなかった。
「疲れたな。寝よう」
その夜。寝室へ入っても、眠気は訪れない。
窓から吹き込む夜風を受けながら、久世は何度目かの寝返りを打った。
『清崇様! ありがとうございます!』
目を閉じるたびに浮かぶのは、小夜の笑顔だった。
『食堂!! あの洋食が食べられるところですね!?』
百貨店ではしゃぐ姿。
『……!』
差し入れをひっくり返した時。
『行ってはダメです!!』
そして、今日の泣き顔。
「……厄介だ」
小さく呟いて天井を見上げる。
合理的に考えれば、契約結婚の相手にここまで心を乱される理由はない。
それなのに。
胸の鼓動だけが、静かな夜にやけに大きく響いていた。
(小夜さんには、笑顔が一番似合う)
その願いだけは、理屈では説明がつかなかった。
◇
翌朝、帽子をかぶり鞄を持った久世は玄関を立ち塞ぐ小夜と対峙していた。天々も威嚇している。もうかれこれ小一時間。
「ここは通しません!」
「……おい、もう時間が押してるんだ! いい加減にしてくれないか」
ドアノブに手をかける久世を、天々が噛みつく。小夜は久世の腕を引っ張りながら、泣いていた。
「お願いです……清崇様、行かないでください……」
あまりにも小夜が泣きわめくので、久世も大きなため息をついた。
「……わかったよ。自家用車で行くから。電話で遅れることを先方に連絡しなければ……」
小夜と天々が、ほっと和らいだ。
久世は苛立ちを隠せず、冷酷な視線を向けた。
「――これは契約内容に関わることだぞ」
小夜はヘタリとその場に膝をついた。
(清崇様にも……嫌われてしまいました……)
目の前が真っ暗になった。
