水鏡の夫婦の契約結婚

(ここ最近、清崇様がよそよそしい……私と目も合わせようともしない)

 早苗と日本橋魚河岸(にほんばしうおがし)へ足を運び、新鮮な魚を見て歩いていた。
 威勢のよい掛け声が川風に乗って響く。

「奥さま、今日は新鮮なマグロが美味しそうですね!」

 早苗のふくよかな身体が、天秤棒を担いだ男にぶつかりそうになる。

「奥さま?」

 小夜の元気がないのを知り、早苗は察しよく笑う。

「坊っちゃんのことですか? 気難しいお方なので、お気になさらず」

 早苗は元々久世家の使用人だった。

「あの……」

 小夜はすっかり肩を落としている。

「清崇様が異能やあやかしを信じないのは、なぜなのでしょう。帝国公認の一族なのですが……」
「あぁ、それですか。坊っちゃんには秘密ですよ?」
「はい」

 二人は並んで日本橋川を眺めた。
 川には大小の荷船が幾艘も浮かび、船着場では男たちが大きな鮪を肩に担いでいた。

「……坊っちゃんは幼い頃にお母様を亡くしておりましてね――」

 ◇

 ――久世家は仙台の元藩医の士族で名家。
 廃藩置県で、武士やその配下たちは、職を失った。

「ねえ、あなた……医院開設でこんなにお金がなくなってしまって」
「かつて武士だった者でも、今は必死に職を探しているんだぞ! うちはまだ手に職がある」
「でも、あなた…… 」
「下級武士などすでにもう没落している! 我が家がどれだけ恵まれているかわからないのか!」

 当時主流の漢方医ではなく、西洋医学を志す父。
 四人の幼子を抱える母は、霜焼けで荒れた手を寒さで擦り合わせる。

「もう、食べるものがこれしきしかないわ……私も内職しなければ……」

 医院の事務仕事の傍ら、寝る間も惜しんで針仕事。

「ははうえ、おなかすいた」
「待って! 今、手が離せないの!」
「ははうえー」

 幼き久世は手を伸ばす。

「やめなさい!」

 母は突き飛ばした。

「うえーん!!」

 母は人目を忍んでは、巷間の霊媒師の元へ通う。

「もう、どうにもうまくいかないんです。毎日生きるのが精一杯……。主人は医院のことしか頭にないし……」
「まぁ、それは大変でございましたね」

 霊媒師は優しくこう言った。

「私を信じて行動すれば、久世家は末代まで安泰になりますよ。私の言葉は、久世家の祖先霊からの贈り物。決して裏切りません」

 母は、言う通りに金を貢いだ。
 霊媒師の予知した日付、時間、方角に行けば金塊を手にするという妄言を信じてその通りに旅行へ出かけた。
 その旅先で、車に轢かれて亡くなった。

「ははうえっ……」

 母の亡骸にしがみつく、幼き日の久世。
 やわらかくあたたかい手のひらは、冷たく固まっていた。

 ◇

「――それ以来、坊っちゃんはやけに占いや迷信、神仏までも毛嫌いするようになりましてね。今では初詣すら行かないまでになってしまって。それに加えて、医師になって、あんな様子になったのですよ」

 小夜は口元に着物の袖を当てる。

「そうだったのですね……」
「私も坊っちゃんのことは心配ではあるんですよ。何事も無機質な態度ですから。でも、人ってそんなすぐ変わるもんじゃありません。奥さまは何も気落ちする必要はありませんよ!」

 早苗の言葉に、小夜も少し励まされた時。
 川の水面に、波紋が走った。

「これ、何ですか?」
「どれですか? 何もないですよ」

 川面に映る小夜の姿が波紋の中で渦を巻く。

「えっ……早苗さん、川に何か変なものが――」

 小夜が指を差した時、光が川面に広がっていった。

(これは――なに? 映像?)

 水面の波紋と共に、頭の中に流れてくる映像。

(これは水鏡――)

 ……駅舎。
 人混み。
 帽子を被り、鞄を持った久世は電車を待っている。
 汽車が来る。
 奇声を発する男が一人。
 騒然とする人々。
 男の手には出刃包丁。
 血を流す人。
 久世は慌てて逃げたが、背後からふりかぶった刃に刺される。
 倒れた久世は、目を見開いたまま動かない……。

「嫌――!!」
「奥さま!? どうされましたか!?」

 小夜は呼吸を荒げながら言った。

「川面に水鏡が見えました!! 早く帰らなくては……清崇様が危ない!!」