水鏡の夫婦の契約結婚

 蝉の鳴き声が、医院の中まで響いていた。

「本日も満員御礼〜商売繁盛! これも狐の神様のおかげなのかな〜」

 高山は手術室の片付けをしながら、口笛を拭く。
 手袋を脱ぎながら、久世は小さな声を上げた。

「患者が絶えないのは全て俺達の努力の賜物だ。お前の言うことに従うと、俺達の努力を否定することになるが、良いのか」
「先生、これは冗談ですって」
「言って良い冗談とそうでない冗談がある」

 夏の日照りが窓から入ってくる。

「先生、最近変わりましたよね」

 高山がふいに言う。
 久世は眉毛をピクリとつり上げた。

「何がだ」
「なんかこう、人らしくなりました」

 久世はもう一度ピクリと眉を上げる。

「俺は、元々人だ」
「ちがいますー! なんかこう雰囲気が。薬剤師の藤井さんも言ってましたよ!」
「藤井が……? お前たち仕事中に無駄口ばかり…っ」

 久世は暑さ由来のイライラに加え、高山の呑気な顔を見ていると更にムカムカしてくる。

「はぁ……」

 平時なら一喝。けれど、久世はそこで口を閉じた。怒る気力がわかない。

「いいから、手を動かせ」

 久世が汗を拭っていた時、カチャリとドアが開く。
 現れたのは、小夜と家政婦の早苗だ。

「失礼いたします」

 手には軽食のサンドイッチと飲み物があった。

「最近、お忙しいようなのでお持ちしました」

 礼儀正しくお辞儀する小夜を、久世は直視できなかった。
 高山はとびきりの笑顔を見せる。

「わぁー奥さま! ありがとうございます! 診察室に置いといてもらえますか?」
「はい、清崇様もそれで大丈夫ですか?」

 小夜がニッコリと久世に笑顔を向けた。

「……っ」

 みるみるうちに久世は赤面した。

「あ、ああ」
「それでは、失礼します」

 お盆を持ちながら退室すると、高山は手を合わせて拝んだ。

「何て可愛らしい、尊いお方なのでしょう。僕もあんな奥さまが欲しいなぁ……」

 久世は昨夜の接吻が頭から離れない。呼吸が早く、心臓が早鐘を打っていた。

「……俺はしばらく書棚の整理をするから、先に食べていろ」
「は〜い!」

 ◇

 仕事終わり、久世は白衣を脱ぎながら二階へ上がった。

「あ、清崇様」

 家政婦の早苗と一緒に、掃除をしている。

「お疲れ様です」

 雑巾を手に持ち、汗をかく小夜。
 目と目が合い、久世は心音が早まるのを感じた。

「私も清崇様みたいに、自分のことは自分でできるようにと思いまして」

 久世は眼鏡をかけ直す。

「………」

 そのまま小夜の横をそっけなく通り過ぎる。

「あれ……?」

 その背中を見つめながら、小夜の肩が落ちた。