水鏡の夫婦の契約結婚

 真夏の夜の暑さに久世は寝返りを打った。
 寝つきの良い久世が今宵に限り眠れない。

「寝苦しい……」

 寝室の中を、湿気のこもった熱が漂っている。
 久世はベッドから身を起こし、サイドデーブルに置いていた眼鏡をかけると、窓辺へと歩く。

「真夏の夜だな」

 ガタンと音を立てて窓を上げると、冷たい夜風が入ってきた。
 しばらくその夜風に当たる。

「……一曲聴くか」

 蓄音機にレコードをはさみ、優雅なワルツの旋律が流れた。
 久世は英国滞在中のことを思い出す。
 社交パーティに招かれ、ワルツを幾度か踊ったことがある。……ひらめくドレスの裾、シャンデリアの光。
 久世は汗を拭った。

「また、行く機会があればいいんだが……」

 ――その時、背後でカタリと物音がした。

「……?」

 眼鏡をかけ直し、久世は背後をゆっくりふりかえった。

「清崇様」
「――!?」

 小夜の笑顔。
 ワンピースの裾を夜風にひらめかせながら、小夜は窓辺に腰掛けている。
 帽子に手袋、靴まで――百貨店で揃えた洋装を一式まとっていた。

「こんばんは」

 紅をさした唇が甘い声を出す。

「こんな時間に、俺の寝室で何をしているんだ? しかもそんなところ危険だ……降りなさい」

 驚嘆する久世をよそに、小夜はクスクスと蠱惑的に笑った。

「嫌だわ、清崇様」

 小夜は黒髪をたなびかせながら、じっと久世を見下ろしている。
 久世は半歩下がった。

「ど、どうしたんだ……」
「妻が、夫の寝室に来てはいけなくて?」

 いつも小夜は礼儀正しく、控えめな女性だ。
 目の前にいる小夜は、まるで娼婦のような雰囲気を醸し出している。

「君は、本当に小夜さんなのか……?」

 小夜は音もなく久世に近寄った。

「良いワルツね、リードしてくださる?」

 睫毛に囲まれた大きな黒い瞳。
 その瞳に久世の姿が映る。
 顔を久世の首筋に近づけて、小夜は満月のように笑った。

「……さ、小夜さん」

 小夜は手を伸ばし、ためらいもなく久世にしがみつく。

「……っ」

 夜風に乗って、白粉の香りがする。それだけではなく、濃厚で甘やかな癖のある匂いもしてきた。

「わたくしとワルツを踊りましょう」

 久世は冷や汗を流した。

「……わかった。一曲踊ったら、寝室に帰りなさい」

 やがて、彼女の手を取って身体を動かす。

「清崇様」

 一二三、一二三。
 ヒラヒラと裾がゆらめき、円を描く。

「……目をそらしてはいけないわ」

 久世の腕が震える。

「もっと、わたくしを見て……」

 夢のような甘いささやき。
 久世は耳まで赤くなり、唾をゆっくり呑み込んだ。

「……君は大胆な女性なのか……?」

 誘うように小夜は久世の胸元に顔を寄せる。

「清崇様の前でだけ……ですわ」

 夜風が吹き、二人を包みこんだ。高く昇った満月が窓からさす。
 二人の影を長く濃く作っていた。

 ◇

 久世が目を覚ますと朝だった。ベッドに倒れるようにして眠っていた。

「いつの間に……」

 髪をかき上げながら、開いたままの窓をしめる。

「また、夢か…… 。不可思議な出来事が続くものだ」

 朝食のリビング。

「おはようございます、清崇様」

 小夜は礼儀正しく着物姿で天々を膝に乗せて座っている。

「……。おはよう」
「小夜さん、昨晩は……」
「え?」
「昨晩、俺の寝室に来たりしなかったか?」

 ポカンとする。
 天々も小首をかしげた。

「昨晩は自分の寝室にずっといましたが」
「そうか」
「どうかされましたか?」
「い、いや。何でもない」

 久世は小夜の顔を直視できず、新聞を手に取って視線をそらす。

「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」

 平時より早めに一階に降りて、久世は診察室にこもった。
 湿気のこもった部屋の窓を開けて、朝の涼風を浴びる。

「……最近の俺は、おかしいな」

 開院の時間と共に、患者がどっと押し寄せる。

「おはようございます、先生」
「おはよう」

 看護婦が診察室に入ってきて、準備をはじめた。
 受付事務員たちはカルテを忙しくさばく。

「――俺がしっかりしなければ。この医院の院長は、この俺なのだから」

 白衣を正して、うず高く積み上げられたカルテに手をやった。

 ◇

「清崇様」

 ベッドで泥のように眠っていた久世は、女の声に目を覚ます。強い甘い香りがする。

「さ、小夜さん」

 小夜はまた洋装一式のワンピース姿で、久世の目前にいた。

「君は何をしているんだ!」

 ベッドに腰かけて、クスクス笑いながら見下ろしているではないか。

「伯爵令嬢ともあろう君が、はしたない――」

 小夜は満月のような笑顔を向ける。

「わたくしは妻ですもの」

 口元に手を当てて高い声で笑った。

「清崇様は頭でっかちすぎてつまらないわ」

 久世はふいに怒りがこみ上げてくる。
 小夜の手を強く引っ張ると、両手首を掴んでそのままベッドに押し倒す。
 彼女の手首はひんやりとしていて冷たい。

「これも、夢か――」
「いいえ」

 風のように、クスクスと笑う。
 狐に化かされたような心地になる。

「わたくしは、ずっとこうなりたいと思っていたのよ」

 うっとりと小夜は微笑み、言った。

「地味で、控えめな小夜ではなくてよ」

 小夜はそっと久世の顔を両手で包み込む。

「清崇様は、こちらのわたくしのほうがお好みかしら」

 やわらかな女の輪郭が朧のように、闇の中に浮かび上がっていた。

「何を言っている……?」

 ふと、紅をひいた小さな唇が、久世の口に当たる。

「……っ」

 浅く、深く口づけする。甘く柔らかな感触は、夢にしては現実味を帯びていた。

「――小夜さん!」

 久世が振り払うと、女は消えていた。
 ただ、茫々たる闇だけが広がっていた。

幻影(まぼろし)――……」

 いや、と独り言ちた。

「せん妄だ。本格的に、俺はどうかしちまったのか」