「これ、差し入れです。皆さまで召し上がってください」
小夜は医院の簡単な手伝いをはじめた。
「奥さま、本当に健気な方だね」
薬剤師の藤井は、二十代の男性。汚れた白衣の袖裾を手で払った。
「ですよね! 華族のお嬢様と聞いていたから、どんな高慢なご婦人かと思いきや、あんな謙虚な方だなんて」
高山は、調剤室のカウンターに肘をつく。
医院の中で年齢の近い同性同士の二人は、よく話をする。
「久世先生が嫁さんをもらって、ほんと良かったぜ」
ため息をつく藤井。
「最近は何となくやわらかくなった気がする。……まったく、久世先生は手厳しい方だからさぁ」
「言われてみれば、僕も怒られる回数が減りました」
「俺も仕事が遅いだ何だのと急かされることが減ったんだよ」
待合室の騒がしさから少し逃れて、二人は差し入れのおにぎりに手を伸ばした。
「あ〜美味しい! これ鮭だ」
ニコニコと笑う高山はおにぎりを頬張る。
「このまま、奥さまと仲良く、穏やかな生活を送ってほしいねえ。先生は昔から、患者のために無茶をする人だったから」
藤井は薬を調合するために使う器具を消毒する。
「そのために、俺達も無茶を強いられてさ。奥さまとの生活で、少しはその気持ちも落ち着いてくれたら良いな」
「先生は人一倍の努力家ですもんね!」
「負けず嫌いだしな」
「久世先生は少しくらい腑抜けたほうが、ちょうどいいですもんね」
ニキビをかく高山。
藤井は高山に「調剤室のカウンターをその手で触るな」とふきんを渡した。
「奥さま可愛いらしいですから、久世先生もきっと夢中になりそうですよねー! あやかしの令嬢とやらもただの噂ぽかったし! ああ、奥さまは小柄で雛鳥のようで、ほんと……」
高山が胸に手を当てて、熱っぽく言う。
藤井は乾いた笑みをもらす。
「高山は十八になるんだっけ? お前も恋人の一人や二人くらいはいないのか」
「ちょっと! 医学専門学校に通いながら、あの久世先生の書生をしてるんですよ! そんな暇全くありませんよ」
日々、久世に頭をペコペコ下げながら臨床を学ぶ高山。学業との両立で寝る間も惜しんでいる。
「藤井さんこそ、そろそろ嫁をもらったらどうですか?」
「俺はモテるから、一人に決められないんだよ。残念。看護婦さんたちの俺への視線、見たことあるか? 熱いぜ?」
「えー? 自意識過剰ですよー」
「うるさい」
藤井はおにぎりを口に入れた。
◇
小夜は診察室をノックした。
「どうぞ」
久世は神経質そうに専門書に目を通していた。
「差し入れをお持ちしました」
「ああ、そこに置いておいて」
視線は本に向けられたまま、久世は熱心にページをめくる。
小夜はなるべく邪魔をしないようにデスクにお盆を持ち運んだ。
「あっ」
慎重に足を運んでいたはずが、小夜の着物の袖がデスクに引っかかる。
お盆が手を離れ、カランと床に叩きつけられた。
「清崇様……!!」
久世が、小夜の身体を受け止めている。
「怪我はないな?」
白衣の胸には聴診器。
薬液の香りが染み込んだその胸に、小夜は顔をうずめている。
「そそっかしい。気をつけなさい」
久世の体温。広い腕の中。
「すみません……」
小夜は呼吸も忘れて、身体が熱くなるのを感じた。
「……!」
間近で見つめ合う。
「……すまない」
久世はパッと顔をそらす。
片隅に置かれている簡易ベッドに小夜を横たえた。
「……」
ふたりは視線をそらしながら、沈黙する。
「――そうだ。小夜さん、ここで暮らしていて、何か不便なことはないか?」
微妙な空気を変えるべく、久世は話題を振った。
「不便なこと? 特には……。皆様とてもお優しいので、私は心地よく暮らせていて……」
「それなら、良かった」
「はい」
「……」
再び、沈黙。
「君ももっと自分の言いたいことを好きに言ってかまわない」
「え、あの……」
久世は落ちたおにぎりを拾って盆に乗せると、診察室のドアノブを握った。
「遠慮なく好き勝手やっていい。契約結婚なんだから」
そう言うと、慌ててドアを閉めて退室した。
小夜は一人きりになって、眉を下げる。
(なんでかな、胸が苦しい……)
小夜の胸に黒い影――。
(清崇様のおっしゃることは間違ってないのに)
雲のように、小夜の心を覆っていく。
(さみしい……)
黒い影は渦を巻いた。
そして、この黒い影は一つのかたちをなし、姿を浮かび上がらせていく。
――清崇様、つれないわね。
うっとりと微笑む、もう一人の小夜。
黒い影は、幻影を生み出してしまった。
小夜も、自身の背後にひそむそれに気づくことができなかった。
――ああいう頭でっかちな男は、感覚的なものに疎いから困ったわね。
幻影は、そろりと一歩前に出る。
またもう一歩、二歩、三歩。
そろり、そろりと小夜から離れていく。
――恋って頭でするものではなくってよ。もっと感情に素直にならなきゃ、つまらない。
幻影の小夜は、蠱惑的な微笑をたたえる。
そして、姿を消した。
小夜は医院の簡単な手伝いをはじめた。
「奥さま、本当に健気な方だね」
薬剤師の藤井は、二十代の男性。汚れた白衣の袖裾を手で払った。
「ですよね! 華族のお嬢様と聞いていたから、どんな高慢なご婦人かと思いきや、あんな謙虚な方だなんて」
高山は、調剤室のカウンターに肘をつく。
医院の中で年齢の近い同性同士の二人は、よく話をする。
「久世先生が嫁さんをもらって、ほんと良かったぜ」
ため息をつく藤井。
「最近は何となくやわらかくなった気がする。……まったく、久世先生は手厳しい方だからさぁ」
「言われてみれば、僕も怒られる回数が減りました」
「俺も仕事が遅いだ何だのと急かされることが減ったんだよ」
待合室の騒がしさから少し逃れて、二人は差し入れのおにぎりに手を伸ばした。
「あ〜美味しい! これ鮭だ」
ニコニコと笑う高山はおにぎりを頬張る。
「このまま、奥さまと仲良く、穏やかな生活を送ってほしいねえ。先生は昔から、患者のために無茶をする人だったから」
藤井は薬を調合するために使う器具を消毒する。
「そのために、俺達も無茶を強いられてさ。奥さまとの生活で、少しはその気持ちも落ち着いてくれたら良いな」
「先生は人一倍の努力家ですもんね!」
「負けず嫌いだしな」
「久世先生は少しくらい腑抜けたほうが、ちょうどいいですもんね」
ニキビをかく高山。
藤井は高山に「調剤室のカウンターをその手で触るな」とふきんを渡した。
「奥さま可愛いらしいですから、久世先生もきっと夢中になりそうですよねー! あやかしの令嬢とやらもただの噂ぽかったし! ああ、奥さまは小柄で雛鳥のようで、ほんと……」
高山が胸に手を当てて、熱っぽく言う。
藤井は乾いた笑みをもらす。
「高山は十八になるんだっけ? お前も恋人の一人や二人くらいはいないのか」
「ちょっと! 医学専門学校に通いながら、あの久世先生の書生をしてるんですよ! そんな暇全くありませんよ」
日々、久世に頭をペコペコ下げながら臨床を学ぶ高山。学業との両立で寝る間も惜しんでいる。
「藤井さんこそ、そろそろ嫁をもらったらどうですか?」
「俺はモテるから、一人に決められないんだよ。残念。看護婦さんたちの俺への視線、見たことあるか? 熱いぜ?」
「えー? 自意識過剰ですよー」
「うるさい」
藤井はおにぎりを口に入れた。
◇
小夜は診察室をノックした。
「どうぞ」
久世は神経質そうに専門書に目を通していた。
「差し入れをお持ちしました」
「ああ、そこに置いておいて」
視線は本に向けられたまま、久世は熱心にページをめくる。
小夜はなるべく邪魔をしないようにデスクにお盆を持ち運んだ。
「あっ」
慎重に足を運んでいたはずが、小夜の着物の袖がデスクに引っかかる。
お盆が手を離れ、カランと床に叩きつけられた。
「清崇様……!!」
久世が、小夜の身体を受け止めている。
「怪我はないな?」
白衣の胸には聴診器。
薬液の香りが染み込んだその胸に、小夜は顔をうずめている。
「そそっかしい。気をつけなさい」
久世の体温。広い腕の中。
「すみません……」
小夜は呼吸も忘れて、身体が熱くなるのを感じた。
「……!」
間近で見つめ合う。
「……すまない」
久世はパッと顔をそらす。
片隅に置かれている簡易ベッドに小夜を横たえた。
「……」
ふたりは視線をそらしながら、沈黙する。
「――そうだ。小夜さん、ここで暮らしていて、何か不便なことはないか?」
微妙な空気を変えるべく、久世は話題を振った。
「不便なこと? 特には……。皆様とてもお優しいので、私は心地よく暮らせていて……」
「それなら、良かった」
「はい」
「……」
再び、沈黙。
「君ももっと自分の言いたいことを好きに言ってかまわない」
「え、あの……」
久世は落ちたおにぎりを拾って盆に乗せると、診察室のドアノブを握った。
「遠慮なく好き勝手やっていい。契約結婚なんだから」
そう言うと、慌ててドアを閉めて退室した。
小夜は一人きりになって、眉を下げる。
(なんでかな、胸が苦しい……)
小夜の胸に黒い影――。
(清崇様のおっしゃることは間違ってないのに)
雲のように、小夜の心を覆っていく。
(さみしい……)
黒い影は渦を巻いた。
そして、この黒い影は一つのかたちをなし、姿を浮かび上がらせていく。
――清崇様、つれないわね。
うっとりと微笑む、もう一人の小夜。
黒い影は、幻影を生み出してしまった。
小夜も、自身の背後にひそむそれに気づくことができなかった。
――ああいう頭でっかちな男は、感覚的なものに疎いから困ったわね。
幻影は、そろりと一歩前に出る。
またもう一歩、二歩、三歩。
そろり、そろりと小夜から離れていく。
――恋って頭でするものではなくってよ。もっと感情に素直にならなきゃ、つまらない。
幻影の小夜は、蠱惑的な微笑をたたえる。
そして、姿を消した。
