日本橋の大通りには、人力車と荷馬車が行き交い、洋装の紳士や和服姿の婦人たちが絶えず往来している。
「小夜さん、市電を利用したことは?」
帽子の下から小夜に目を向けた。
「い、いいえ」
大通りの真ん中を、電線を頭上に張り巡らせた市電が滑るように走っていた。
「今日は初体験が二つだな」
久世は、鞄を持ちながら市電に乗り込む。
小夜が続く。木張りの床がかすかに軋んだ。
窓から差し込む初夏の日差しに、小夜は目を細くして車内を見回す。
(街の中をすり抜けていく……これが、路面電車というものなのね)
発車を知らせる鐘がチンと鳴る。
ガタン、と車体が揺れた。
「きゃっ」
思わず身体が傾く。
久世がさりげなく小夜の腕を支えた。
「掴まって」
久世は自身の腕を差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
小夜は頬を染めながら、そっと腕を掴んだ。
その様子を見て、久世はそっぽを向く。その耳はかすかに赤くなっている。
「揺れるから、そのまま掴まっていなさい」
「はい」
小夜は乗客の視線を浴び、身をすくませる。
(ホテルのデートでもエスコートされたのに、今は何だか気恥ずかしくって……)
窓の外では、日本橋の新しい街並みがゆっくりと流れていく。銀行の石造りの建物、洋菓子店の硝子窓……。
「……この街は、本当に新しい建物ばかりですね!」
久世は小さく口元を緩めた。
「俺がここに医院を建てたのも、この場所が特別気に入ったからだ」
「そうだったのですね」
「あぁ。まるで一枚の写真を眺めている心地になる。」
ほどなくして、チンと鳴った。
二人は市電を降りる。
「――着いたぞ。ここが百貨店だ」
そびえ立つ巨大な建物を前に、小夜は足の裏から頭のてっぺんまで突き抜けるような高揚感があった。
大きなショー・ウィンドウには、色鮮やかな洋傘や帽子、舶来の品々が美しく飾られている。
「……これが、百貨店」
思わず漏れた声は、感嘆そのものだった。
「まるで、異国のお城のようです……!」
久世はその様子を横目で見て、静かに言う。
「今日は好きなだけ見ていけばいい」
その言葉に、小夜は微笑んだ。
「はい! ありがとうございます。清崇様」
その笑顔は、ショー・ウィンドーに並ぶどの品よりも、生き生きと輝いて見えた。――なぜ、こんなに小夜の笑顔が気にかかるのかわからない。
「あぁ……」
久世は、かすかに笑う。
「そ、そういえば! 小夜さんは……洋装の姿をしているところを見たことがないな」
「……実家が着物しか許さないという考えで。洋装は、異国のものだからだめだとかって。水卜家ではそういう古い考えが当たり前でしたから……華族の中でもかなり古めかしいでしょう?」
婦人用洋装売場には、淡い色合いのワンピースドレスが整然と並んでいた。
「では、洋装一式そろえないとな。俺が買ってやるから、試着してきなさい」
「え、でも……」
「そこの君! 妻に似合いのものを」
店員が差し出したのは、淡い藤色のワンピースだった。高い襟元には繊細なレースがあしらわれ、長袖の袖口には小さなくるみ釦。裾は足首までゆるやかに流れ、気品がただよう。
(綺麗……自分じゃないみたい)
小夜が着ると、可憐さがよりいっそう際立つ。
「………!」
久世は顔を背けた。
「――あと、帽子と手袋……鞄に靴も揃えてやってくれ。今日はそのまま着て帰るから、着物は紙袋の中に入れておいてくれないか」
店員は会計を済ませると、紙袋を手渡し、丁寧にお辞儀した。
「……良いんですが?」
「あぁ」
久世は思い出したように言う。
「そうだ、小夜さん。上階の大食堂に行こうか」
「食堂!! あの洋食が食べられるところですね!?」
女学校でよく話題になっており、小夜は羨ましい気持ちで聞かぬふりをしていた。
「大食堂くらいで、そんなはしゃがなくても……君、本当に伯爵令嬢なのか……?」
「小夜さん、市電を利用したことは?」
帽子の下から小夜に目を向けた。
「い、いいえ」
大通りの真ん中を、電線を頭上に張り巡らせた市電が滑るように走っていた。
「今日は初体験が二つだな」
久世は、鞄を持ちながら市電に乗り込む。
小夜が続く。木張りの床がかすかに軋んだ。
窓から差し込む初夏の日差しに、小夜は目を細くして車内を見回す。
(街の中をすり抜けていく……これが、路面電車というものなのね)
発車を知らせる鐘がチンと鳴る。
ガタン、と車体が揺れた。
「きゃっ」
思わず身体が傾く。
久世がさりげなく小夜の腕を支えた。
「掴まって」
久世は自身の腕を差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
小夜は頬を染めながら、そっと腕を掴んだ。
その様子を見て、久世はそっぽを向く。その耳はかすかに赤くなっている。
「揺れるから、そのまま掴まっていなさい」
「はい」
小夜は乗客の視線を浴び、身をすくませる。
(ホテルのデートでもエスコートされたのに、今は何だか気恥ずかしくって……)
窓の外では、日本橋の新しい街並みがゆっくりと流れていく。銀行の石造りの建物、洋菓子店の硝子窓……。
「……この街は、本当に新しい建物ばかりですね!」
久世は小さく口元を緩めた。
「俺がここに医院を建てたのも、この場所が特別気に入ったからだ」
「そうだったのですね」
「あぁ。まるで一枚の写真を眺めている心地になる。」
ほどなくして、チンと鳴った。
二人は市電を降りる。
「――着いたぞ。ここが百貨店だ」
そびえ立つ巨大な建物を前に、小夜は足の裏から頭のてっぺんまで突き抜けるような高揚感があった。
大きなショー・ウィンドウには、色鮮やかな洋傘や帽子、舶来の品々が美しく飾られている。
「……これが、百貨店」
思わず漏れた声は、感嘆そのものだった。
「まるで、異国のお城のようです……!」
久世はその様子を横目で見て、静かに言う。
「今日は好きなだけ見ていけばいい」
その言葉に、小夜は微笑んだ。
「はい! ありがとうございます。清崇様」
その笑顔は、ショー・ウィンドーに並ぶどの品よりも、生き生きと輝いて見えた。――なぜ、こんなに小夜の笑顔が気にかかるのかわからない。
「あぁ……」
久世は、かすかに笑う。
「そ、そういえば! 小夜さんは……洋装の姿をしているところを見たことがないな」
「……実家が着物しか許さないという考えで。洋装は、異国のものだからだめだとかって。水卜家ではそういう古い考えが当たり前でしたから……華族の中でもかなり古めかしいでしょう?」
婦人用洋装売場には、淡い色合いのワンピースドレスが整然と並んでいた。
「では、洋装一式そろえないとな。俺が買ってやるから、試着してきなさい」
「え、でも……」
「そこの君! 妻に似合いのものを」
店員が差し出したのは、淡い藤色のワンピースだった。高い襟元には繊細なレースがあしらわれ、長袖の袖口には小さなくるみ釦。裾は足首までゆるやかに流れ、気品がただよう。
(綺麗……自分じゃないみたい)
小夜が着ると、可憐さがよりいっそう際立つ。
「………!」
久世は顔を背けた。
「――あと、帽子と手袋……鞄に靴も揃えてやってくれ。今日はそのまま着て帰るから、着物は紙袋の中に入れておいてくれないか」
店員は会計を済ませると、紙袋を手渡し、丁寧にお辞儀した。
「……良いんですが?」
「あぁ」
久世は思い出したように言う。
「そうだ、小夜さん。上階の大食堂に行こうか」
「食堂!! あの洋食が食べられるところですね!?」
女学校でよく話題になっており、小夜は羨ましい気持ちで聞かぬふりをしていた。
「大食堂くらいで、そんなはしゃがなくても……君、本当に伯爵令嬢なのか……?」
