――ほら、見て。あそこに女狐がいるわよ。
嘲笑。水卜家の家門の一族たちは、当主がいない隙に聞こえよがしの悪口を言い合う。
「…… !! 夢……」
汗をかきながら、小夜は身を起こす。
(もうあんな暮らしはしたくない……)
真綿で首を絞められるような日々。
(ここに来て二週間が経つけれど、前の暮らしがひどく辛かったように思うわ…… )
中央で光り輝く者から外縁に押し出された闇――それが小夜だった。
(私には……どこにも居場所なんてなかったから)
「天々! 私も何か役に立たなくっちゃね」
「クン?」
◇
閉院後。久世は、白衣姿のまま静まり返った一階の廊下を歩いていた。
「お前は……狐の変異種」
天々が爪を鳴らしながら医院の中を探索している。
久世は眼鏡をかけ直し、しばらく腕を組みながら思案していた。
やがて、ポンッと手を叩く。
「おい、変異種。こっちに来い」
天々が久世を不思議そうに見やる。
遠くで、かなり警戒している様子だ。
「おいで。ほら、怖くないよ〜っ」
久世の猫撫で声。
天々は目をパチクリさせた。おそるおそる歩を進める。
「おりゃっ!!」
そこへ、久世は攫うように両手で掴み上げた。
「ク、クーン!?」
ジタバタと足をばたつかせて、天々は逃れようとする。久世は天々の首根っこを掴みながら、隅々まで観察した。
――白い毛並みに金色の毛がところどころまじっている。九つの尻尾は優雅に動いている。大きさや重さは兎程度だ。
「うーむ。見たところ、やはり狐だ。色や尻尾は不可思議で例を見ない。これは、やはり満遍なく観察しなければ」
天々が戦慄する。
久世の眼鏡がギラリと光った。
「クンクーン!?」
診察室の相向かいにある、手術室に入る。
「とりあえず採血して、研究室に回してみるか」
久世は天々を掴みながら、注射器に視線を落とした。
「クンッ!? クーーン!!」
天々は目を潤ませながら手術台に打ち据えられる。
「いったいどんな結果になるかな」
久世が科学的好奇心に胸を弾ませた時、天々は思い切り手に噛みついた。
「痛っ……」
そのまま脱兎のごとく逃走する。
「チッ……逃げやがった」
◇
「……これ、小夜さんが?」
昼休憩に二階に上がってきた久世は椅子に腰掛けた。
テーブルにはサンドイッチが色鮮やかに切り口を見せて並んでいる
「はい! 家政婦の早苗さんと一緒に……」
早苗は、小夜付きになった家政婦。五十代後半の切符の良い女性だ。
小夜は生まれてはじめて料理を始めた。早苗と青物市場へ買い出しにも行った。
「俺はサンドイッチをよく好んで食べる」
「そうなのですね。とっても簡単で、私の得意料理になりそうです」
久世は珈琲を口に含み、眼鏡を外して天井を見上げた。昼食を誰かと一緒にゆっくり食べるのは久しぶりだ。
「フゥ……疲れた。最後の患者は堪えたな」
小夜も紅茶を飲みながらサンドイッチに手を伸ばす。
「お仕事、大変でしたか……?」
「あぁ。骨折した銀行員の足を……」
途端に顔が青ざめ、小夜は久世を遮った。
「おいおい、この程度で怖がってどうする。軍医時代、負傷兵なんて山ほど見た」
「き、清崇様は参戦されたのですか!?」
「先の欧州戦線で、野戦病院で負傷兵の治療をしていたよ」
久世が顔をしかめる。その瞳から戦争の凄惨さがうかがえる。
「戦争なんてするもんじゃない。……英国の倫敦の病院で外科学を学ぶ留学生に選ばれたし、研究のため独国の病院も視察したしな」
天々がリビングのドアを開けて膝に飛び乗ってきた。
「クン」
久世は天々を冷静に観察した。
「ああ、狐の変異種か」
久世が天々に手を伸ばすと、毛を逆撫でて威嚇する。
「クーン!」
「やはり、コイツの正体が気にかかる……」
「クン!?」
天々は尻尾を丸めて、小夜の胸の中に縮こまるように逃げる。
「天々、清崇様の前よ。しゃんとして」
「クーンクン……」
鈴を転がすように笑う、小夜の満月のような笑顔。
「……」
久世の目は見開かれる。
笑顔を眺めているうちに強張った久世の口元が、かすかにゆるんだ。
「小夜さん、そういえば百貨店に行きたいと言っていたか」
「あ、はい……!」
小夜は目を輝かせた。
「うちの近くに百貨店がある。次の研究のない休診日に、行こうか」
百貨店。いくども同級生たちが話題にしていた。
小夜は天々を抱きながら、顔をほころばせた。
「清崇様! ありがとうございます!」
「……!」
花のつぼみが咲き誇るように微笑む小夜。
「な……何だ、そんなことくらいで」
久世は、横を向いた。
嘲笑。水卜家の家門の一族たちは、当主がいない隙に聞こえよがしの悪口を言い合う。
「…… !! 夢……」
汗をかきながら、小夜は身を起こす。
(もうあんな暮らしはしたくない……)
真綿で首を絞められるような日々。
(ここに来て二週間が経つけれど、前の暮らしがひどく辛かったように思うわ…… )
中央で光り輝く者から外縁に押し出された闇――それが小夜だった。
(私には……どこにも居場所なんてなかったから)
「天々! 私も何か役に立たなくっちゃね」
「クン?」
◇
閉院後。久世は、白衣姿のまま静まり返った一階の廊下を歩いていた。
「お前は……狐の変異種」
天々が爪を鳴らしながら医院の中を探索している。
久世は眼鏡をかけ直し、しばらく腕を組みながら思案していた。
やがて、ポンッと手を叩く。
「おい、変異種。こっちに来い」
天々が久世を不思議そうに見やる。
遠くで、かなり警戒している様子だ。
「おいで。ほら、怖くないよ〜っ」
久世の猫撫で声。
天々は目をパチクリさせた。おそるおそる歩を進める。
「おりゃっ!!」
そこへ、久世は攫うように両手で掴み上げた。
「ク、クーン!?」
ジタバタと足をばたつかせて、天々は逃れようとする。久世は天々の首根っこを掴みながら、隅々まで観察した。
――白い毛並みに金色の毛がところどころまじっている。九つの尻尾は優雅に動いている。大きさや重さは兎程度だ。
「うーむ。見たところ、やはり狐だ。色や尻尾は不可思議で例を見ない。これは、やはり満遍なく観察しなければ」
天々が戦慄する。
久世の眼鏡がギラリと光った。
「クンクーン!?」
診察室の相向かいにある、手術室に入る。
「とりあえず採血して、研究室に回してみるか」
久世は天々を掴みながら、注射器に視線を落とした。
「クンッ!? クーーン!!」
天々は目を潤ませながら手術台に打ち据えられる。
「いったいどんな結果になるかな」
久世が科学的好奇心に胸を弾ませた時、天々は思い切り手に噛みついた。
「痛っ……」
そのまま脱兎のごとく逃走する。
「チッ……逃げやがった」
◇
「……これ、小夜さんが?」
昼休憩に二階に上がってきた久世は椅子に腰掛けた。
テーブルにはサンドイッチが色鮮やかに切り口を見せて並んでいる
「はい! 家政婦の早苗さんと一緒に……」
早苗は、小夜付きになった家政婦。五十代後半の切符の良い女性だ。
小夜は生まれてはじめて料理を始めた。早苗と青物市場へ買い出しにも行った。
「俺はサンドイッチをよく好んで食べる」
「そうなのですね。とっても簡単で、私の得意料理になりそうです」
久世は珈琲を口に含み、眼鏡を外して天井を見上げた。昼食を誰かと一緒にゆっくり食べるのは久しぶりだ。
「フゥ……疲れた。最後の患者は堪えたな」
小夜も紅茶を飲みながらサンドイッチに手を伸ばす。
「お仕事、大変でしたか……?」
「あぁ。骨折した銀行員の足を……」
途端に顔が青ざめ、小夜は久世を遮った。
「おいおい、この程度で怖がってどうする。軍医時代、負傷兵なんて山ほど見た」
「き、清崇様は参戦されたのですか!?」
「先の欧州戦線で、野戦病院で負傷兵の治療をしていたよ」
久世が顔をしかめる。その瞳から戦争の凄惨さがうかがえる。
「戦争なんてするもんじゃない。……英国の倫敦の病院で外科学を学ぶ留学生に選ばれたし、研究のため独国の病院も視察したしな」
天々がリビングのドアを開けて膝に飛び乗ってきた。
「クン」
久世は天々を冷静に観察した。
「ああ、狐の変異種か」
久世が天々に手を伸ばすと、毛を逆撫でて威嚇する。
「クーン!」
「やはり、コイツの正体が気にかかる……」
「クン!?」
天々は尻尾を丸めて、小夜の胸の中に縮こまるように逃げる。
「天々、清崇様の前よ。しゃんとして」
「クーンクン……」
鈴を転がすように笑う、小夜の満月のような笑顔。
「……」
久世の目は見開かれる。
笑顔を眺めているうちに強張った久世の口元が、かすかにゆるんだ。
「小夜さん、そういえば百貨店に行きたいと言っていたか」
「あ、はい……!」
小夜は目を輝かせた。
「うちの近くに百貨店がある。次の研究のない休診日に、行こうか」
百貨店。いくども同級生たちが話題にしていた。
小夜は天々を抱きながら、顔をほころばせた。
「清崇様! ありがとうございます!」
「……!」
花のつぼみが咲き誇るように微笑む小夜。
「な……何だ、そんなことくらいで」
久世は、横を向いた。
