怪異対策課、はじめます。


幼い頃から、彼女は何度も助けてくれた。

『あ! 何これ! 可愛いストラップ!』
『ちょっと、返して!』
『和泉さんには勿体ないよ』
『それ……昨日、お母さんに買ってもらったの……』
『だーめ。私の方が似合うから!』

教室に笑い声が広がる。

誰も止めない。
誰も見て見ぬふりをする。

その時だった。

『返してあげて』

教室の空気が止まる。
一人の少女が前へ出た。

『嫌がってるじゃん』
『……青井さんには関係ないでしょ』
『あるよ』

奈子は笑わなかった。
ただ真っ直ぐ、相手を見つめていた。

やがて女の子たちは舌打ちをして、ストラップを放り投げるように返した。

『……あの、ごめんね、青井さん』

奈子は驚いたように振り返る。

『どうして和泉さんが謝るの?』
『……だって、私のせいで』
『違うよ』

奈子は首を横に振った。

『悪いことをしたのは、あの子たち』
『……』
『和泉さんは何も悪くない』

そう言って、そっと和泉の手を握る。

『大丈夫。私がいるから』

その手は小さかった。
けれど、誰よりも温かかった。

小学校を卒業すると二人は別々の中学校へ進学した。
自然と連絡も途絶え、会うこともなくなった。



そして高校で、二人は再会した。

『おい、和泉! お前、言ったこと何もできてねーじゃん』
『……っ』
『何度言ったら分かるんだよ』

和泉は俯いたまま、小さく唇を噛む。

机の上に広げられた教科書は、黒いマジックで何度も塗り潰されていた。

「死ね」
「消えろ」
「学校来んな」

乱暴な文字がページを埋め尽くしている。
教室には三十人近くの生徒がいた。
けれど、誰も止めない。
誰も見ようとしない。

『返事は?』
『……ご、ごめんなさい』
『は? 聞こえねーよ』

和泉の肩が小さく震えた。
その時だった。

『やめて』

一瞬だけ、教室が止まった。
『は?何?』
『やめてって言ってるの、聞こえない?』
『お前何なの?今遊んでの!見てわかんない?』

机を叩く音が響く。

『遊びじゃないでしょ、こんなの』
『は?』

空気がぴりついた。

『和泉さん、行くよ』

奈子は迷いなく和泉の手を取った。
誰かが立ち上がるより先に、二人は教室を出ていた。

『あ…青井さん…』

手を引かれながら和泉は声をかける。
それでも奈子は止まらない。

『青井さん!』

少し強い声。
その瞬間、奈子の足が止まった。

『だ…ダメだよ、こんな事しちゃ…』

和泉の声は震えていた。

『、つ…次は青井さんになっちゃうよ…』

その言葉を聞いて奈子は振り返った。

『…いいよ』
『…え…?』

その目に迷いはなかった。

『誰かが苦しんでるのを見て見ぬふりするくらいなら』

奈子は少しだけ笑った。

『私が代わる』





そんな過去の記憶を和泉は思い出していた。
風が頬をかすめる。
屋上の縁に立てば、簡単にあの時と同じ景色に届く気がした。

「……青井さん」

声は、風に消える。

「だから……言ったじゃん……」

もう、返事はない。
ただ、空だけが静かに広がっていた。






「ちょっと!どこに向かってるんですか!?」

目の前を走る男に、実里は必死で声を上げる。

「和泉って生徒のとこ〜!」
「和泉さんなら保健室行きましたよ!?」
「違うんだな〜これが!」
「はい!?」

息を切らしたまま、実里の足が止まる。

「違うって……じゃあ、どこ……?」

男は走るのをやめて、ゆっくりと振り返った。
一瞬だけ、空気が変わる。

そして天井を指さした。

「屋上」
「は?」





屋上はやけに静かだった。
風の音すら、ここだけ消えたみたいに感じる。

男を追って屋上に出ると、手すりの向こう側に、和泉の後ろ姿が見えた。

「……和泉さん……」

男はスタスタと和泉に向かって歩く。
その足音に、和泉の肩がぴくりと震えた。

振り返る。

「やめて!来ないで!」

声が、屋上に跳ね返る。
その必死な顔を見て、男は少しだけ笑った。

「違う違う、別に止めないから」
「……っ」

男のその言葉に、和泉は一瞬だけ言葉を失った。

「……え?」

風が止まったように感じる。
男は肩をすくめて、淡々と言った。

「死にたきゃ死ねばいい。自分で決めろ」

和泉の喉が、ひゅっと鳴った。
実里は一歩前に出た。

「和泉さん!危ないよ!」
「………」
「こんなこと奈子ちゃん望んでないよ!」

その言葉に堰を切ったように和泉の瞳から涙が溢れた。

「奈子ちゃんはずっと和泉さんのことが心配なんだよ!
だからずっとそばにいるんだよ!」

「……ちがう……」

和泉が、かすれた声で呟いた。

「…私を、恨んでる」
「……恨んでる?」

実里の喉が、詰まる。

「……助けなかった……」
「……」
「助けてくれたのに……私は、助けなかった……」

和泉の膝が、ゆっくりと崩れそうになる。

「……あの時……私、怖くて……何も言えなかった……」
「だから、青井奈子の話を広めたのか?」

男の声は責めていない。
ただ、事実を拾うみたいに静かだった。

「青井奈子が亡くなったことで、また自分が標的になる」
「……」
「だから、青井奈子の噂が広がった」

男は和泉を見たまま、少しだけ目を細める。

「……」

和泉の声はかすれていた。

「こんな……広がると思ってなかった…」
「学校って社会を舐めすぎたな」

男は淡々と言った。

「噂ってのは、止めようと思った時にはもう遅い」

少しだけ笑う。

「学校は凄いぞ。人の不安に名前をつけるのが得意だからな」

男は手すりに肘を着き和泉の横に立った。

「で?死ぬのか?」
「…………っ」
「まあ、今日は辞めとけ」
「……なん……で……」

和泉の頬は濡れていた。
男は視線を逸らさないまま、ぽつりと言った。

「『大丈夫、私がいるから』」

その言葉に、和泉の呼吸が止まる。

「……それ…」
「あいつが言ってるんだよ、お前の隣でずっと」
「……ふっ……ぅ」

男は空を見た。

「お前のせいじゃない、もう少し踏ん張れ」

和泉は崩れたように泣いた。
実里はその姿を見ていた。

その隣で、奈子は微笑んでいた。
そして、ふと実里を見る。
奈子は、何も言わずに笑った。






は友達が苦しんでいるのを見て見ぬふりは出来なかった。

『……うっ!!』

横腹を蹴られた奈子はドサッと音を立てて倒れた。

『だから言ったじゃん、庇うなって』
『……っ』
『ねえ、後悔してる?してるでしょ』

そう言って彼女は笑った。
奈子は彼女の笑顔を最後まで忘れなかった。

散々耐えた。暴力にも何もかも……。

『…ふっ、っ……』

涙が止まらなかった。

『…負けたく…ない、』

拭いても拭いても溢れる涙。

『…後悔、したく、ない…』

和泉さんを助けた事を後悔なんてしたくない。
それでも…心が持たなかった。

それから奈子は屋上から飛んだ。




実里は、静かに呟いた。

「……ばいばい、奈子ちゃん」




こうして青井奈子の幽霊騒動は幕を閉じた。
いじめが原因で亡くなった生徒の噂があらぬ方向で流れ混乱を招いた…ということに落ち着いた。

学校はいつも通りの日常に戻り、誰も屋上の話をしなくなった。

実里は手のひらの中にある名刺を凝視した。

そこには―怪異対策課 阿良々(あららぎ) (みなと)の文字。

あの男にもらった名刺。

「…変な人」

名刺に呟き校舎を見上げた。
今日も一日が始まる。







「うぃーす」

気の抜けた声と共に、黒い服の男が部屋に入ってきた。

「あ!先輩!やっと来た!」

甲高い声がすぐに続く。

「やっと終わったんですか?女子校の噂話」
「あぁ、まあな」

男は軽く返すと、そのまま椅子に沈み込むように座った。

「原因は?」
「噂が勝手に増殖しただけだ。霊の仕業じゃない」
「さすが学校ですね。噂の広まり方と信じやすさだけは異常値です」

青年が小さくため息をつく。

「だな〜」

男は椅子をくるりと回した。
そのとき、扉が開く。
ガチャ。

「阿良々木、帰ってきたなら報告しろ」

恰幅のいい中年の男は、阿良々木を一瞥して言った。

「……はい〜」

気の抜けた返事に、男の眉がぴくりと動く。

「しゃきっとしろ、しゃきっと。報告書はもう上がってるんだろうな」
「はいはい、分かってますよ〜」

椅子に沈み込むように座ったまま、阿良々木は肩をすくめる。
その態度に、中年の男は小さく息を吐いた。

「阿良々木 湊、水面(みなも)結衣(ゆい)神崎(かんざき)桔平(きっぺい)

低い声が室内に落ちる。

三人の空気が変わった。

「――九条(くじょう)藤士(とうし)の命により、怪異対策課への異動を命じる」

一拍の沈黙。

そして三人は、静かに立ち上がった。

「……了解」
「了解です」
「了解」

言葉は軽いのに、場の温度だけが確実に下がっていく。


「怪異対策課――始動だ」