「ぼくがなんでも解決してあげるよ」と言ったあの子が来てから、七年間でぼくの周りの人間は全員いなくなった

 この家には、ぼく以外に誰もいない。
 それを寂しいと思ったことが、ぼくには一度もない。
 いつからそうだったのか、思い出せないのが、ほんとうは一番おかしいのだけれど。

 夏の朝はいつも、台所の窓から始まる。
 ぼくは一人分の卵を割って、一人分のごはんをよそう。茶碗は一つしか出さない。食器棚にはほかにも何枚も茶碗が並んでいるのに、ぼくの指は迷わず同じ一つを取る。
 もう何年も、そうしている。

 冷蔵庫には、ぼくの好きなものしか入っていない。
 誰かのための牛乳も、誰かのためのビールも、誰かのための作り置きもない。それを当たり前だと思っている自分に、ぼくはたまに、ほんの少しだけ立ち止まる。
 でも、すぐに忘れる。

「おはよう、悠」

 声がした。
 振り向かなくても、そこに誰がいるかはわかる。台所の隅、冷蔵庫のそばのいつもの場所に、あの子が立っている。
 半袖のシャツ。色のうすい髪。季節がどれだけ変わっても、あの子の格好は変わらない。今は夏で、ぼくは汗ばんでいるのに、あの子の額には汗の一粒も浮いていない。

「今日も暑くなるね」

 あの子は笑っている。あの子はいつも笑っている。
 ぼくはうなずいて、卵を箸でほぐした。黄身がごはんの上で崩れていく。

「……うん」

 返事はそれだけだ。
 でも、あの子はそれでいい、というふうに、にこにこしている。ぼくが言葉を多く返さないことを、あの子は一度も責めたことがない。
 たぶん、世界でただ一人、あの子だけが。

          ◇

 学校に着くと、ぼくの席のまわりだけ、空気が違う。
 うまく言えないけれど、空いている。物理的に、机が空いているというのもある。ぼくの右隣も、左隣も、前の席も、なぜかいつも誰かが休んでいるか、移動してしまっているか、そういうことになっている。
 ぼくの周りには、半径一メートルくらいの、誰もいない円がある。

 最初は気のせいだと思っていた。
 でも、二年生になってもそれは変わらなかった。クラス替えがあっても、変わらなかった。
 ぼくが座ると、そこを中心に、人がいなくなる。

 朝のホームルームで、先生が出席を取る。
 ぼくの名前が呼ばれて、ぼくは小さく手を挙げる。誰もこっちを見ない。
 昼休み、ぼくは一人で弁当を食べる。教室のいちばん隅で、壁を見ながら。
 誰も話しかけてこない。ぼくも話しかけない。

 ぼくは、いつから一人で給食を——いや、もう給食じゃない、弁当を——食べるようになったんだっけ。
 考えると、頭の奥がぼんやりとかすむ。
 思い出そうとすると、いつも同じところで霧がかかる。だからぼくは、考えるのをやめる。
 べつに、いい。

 あの子は、学校には来ない。
 来ないというより、ぼくが家を出るとき、あの子はいつも玄関で「いってらっしゃい」と言って、それきりだ。学校でぼくの隣にあの子がいたことは、たぶん、ない。
 だから昼休みのぼくは、ほんとうに、一人だ。

 でも、放課後になると、あの子はまた現れる。
 家のドアを開けると、そこにあの子がいる。「おかえり、悠」と言って。
 ぼくは、その瞬間だけ、息がしやすくなる気がする。

          ◇

 その日、ぼくは押し入れの掃除をしていた。
 べつに、誰かに言われたわけじゃない。夏休みが近くて、なんとなく、家の中の手をつけていない場所が気になっただけだ。
 一人で暮らしていると、掃除をする理由なんて、ほとんど自分で作るしかない。

 押し入れの下の段は、使っていない布団と、古い段ボールでいっぱいだった。
 ぼくはそれを一つずつ引き出していった。ほこりが舞って、夏の西日の中で金色に光る。あの子は部屋の真ん中に座って、ぼくの作業をじっと見ていた。

「手伝おうか、悠」

「……べつに、いい」

「そう」

 あの子はそれ以上、何も言わなかった。
 ただ、にこにこして、ぼくを見ている。あの子の座っている場所には、影がない。西日が部屋に差し込んでいて、ぼくの影は長く伸びているのに、あの子の足元には、影がない。
 ぼくはそのことに、もう、慣れている。
 慣れているということに、ときどき、自分でも背筋が冷たくなる。けれど、それも、すぐに忘れる。

 いちばん奥の段ボールを引き出したとき、その後ろに、小さなお菓子の缶があった。
 錆びた、四角い缶。子どものころ、クッキーか何かが入っていた缶だと思う。
 ぼくはそれを、見覚えがあるような、ないような、不思議な気持ちで手に取った。

 ふたを開けると、中にはノートが何冊も入っていた。
 古い、よれた大学ノート。表紙が日に焼けて、茶色くなっている。
 いちばん上の一冊を取り出すと、表紙に、子どもの字で「にっき」と書いてあった。

 ぼくの字だ。
 たぶん、ぼくの。

「なつかしいね」

 あの子の声が、すぐ後ろで聞こえた。
 いつのまにか、あの子はぼくの背中のすぐそばまで来ていた。けれど、その息も、体温も、ぼくには感じられない。
 ぼくは缶を抱えたまま、振り向かなかった。

          ◇

 ぼくは床に座り込んで、ノートを開いた。
 夏の夕方の、ぬるい空気の中で、紙のにおいがした。古い紙の、少し甘いような、かびたような、なつかしいにおい。

 最初のページに、こう書いてあった。

 ——あの子が来た。なんでも解決してくれるって。

 たどたどしい、小学生の字。
 鉛筆の線が、ところどころ濃くなったり薄くなったりしている。日付は、七年前の、夏の日。
 ぼくが九歳の、小学三年生のとき。

 読んだ瞬間、胸の奥が、きゅっとなった。
 なつかしさだった。たしかに、なつかしかった。
 あの子が来た夏のこと。あの子が「なんでも解決してあげるよ」と言ってくれた、あの夏のこと。
 ぼくは、それを覚えている。覚えている、はずだ。

 でも、なぜだろう。
 なつかしさと一緒に、なにか、別のものがこみあげてきた。
 うまく言えない。胸のいちばん下のほうに、小さな、冷たい石が落ちたみたいな。
 それがなんなのか、ぼくにはわからなかった。

「それ、悠が書いたんだよ」

 あの子が、ぼくの肩越しにノートをのぞきこんで言った。

「ぼくが来た日のこと。ちゃんと書いてたんだね。えらいね、悠」

 あの子の声は、いつもと同じだ。やさしくて、無邪気で、ぼくを褒めてくれる声。
 ぼくはうなずこうとして、けれど、なぜか、うなずけなかった。

 ぼくは、ページをめくった。

 二ページ目。
 そこにも、ぼくの字があった。

 ——今日もあの子に頼んでしまった。

 ぼくは、その一文を、しばらく見ていた。
 頼んでしまった。
 頼んだ、ではなく。頼んでしまった。

 なぜ、こんな書き方をしたんだろう。
 九歳のぼくは、あの子に何かを頼んで、嬉しかったはずだ。なんでも解決してくれる友だちができて、嬉しかったはずだ。
 なのに、なぜ、「しまった」なんて。

 まるで、いけないことをしたみたいに。
 まるで、後悔しているみたいに。

 ぼくは、もう一枚めくった。

 ——今日もあの子に頼んでしまった。

 三ページ目にも、同じ一文があった。
 日付だけが違う。文字は、同じ。
 ぼくは、また、めくった。

 ——今日もあの子に頼んでしまった。
 ——今日もあの子に頼んでしまった。
 ——今日もあの子に頼んでしまった。

 四ページ目。五ページ目。六ページ目。
 めくってもめくっても、同じ一文が並んでいた。
 日付だけが一日ずつ進んでいって、書かれている言葉は、たった一つ。同じ言葉。

 今日もあの子に頼んでしまった。
 今日もあの子に頼んでしまった。
 今日も。
 今日も。

 ぼくの手が、止まった。
 夏の夕方なのに、指先が冷たかった。
 ノートのページが、ぼくの汗ばんだ指の下で、かすかに音を立てた。

 ぼくは、これを書いた覚えが——あった。
 あったはずだ。毎日、書いていたのだ。毎日、あの子に頼んで、それを毎日、ここに記していた。
 でも、何を頼んだのかは、一行も書いていない。
 ただ、「頼んでしまった」とだけ。

 頼んでしまった、何を。
 あの子に頼んで、ぼくは、何を解決してもらったんだろう。
 その「解決」のあとで、ぼくの周りからは、何が——誰が——

 考えようとした瞬間、いつもの霧が、頭の奥にかかった。
 思い出そうとすると、必ずそこに立ちこめる、白い霧。
 ぼくはそれをかき分けようとして、けれど、できなかった。

「なつかしいね」

 あの子が、ぼくのすぐ後ろで、もう一度言った。
 さっきと、まったく同じ言葉。まったく同じ、やさしい声。

 ぼくは、ゆっくりと振り向いた。
 あの子は、笑っていた。
 西日の中で、影も落とさず、汗もかかず、七年前と同じ姿のまま、あの子は笑っていた。

「ぼくがいれば、大丈夫だよ」

 あの子は言った。
 その手が、ぼくが抱えているノートの束に、そっと伸びてきた。
 まるで、これ以上めくらなくていい、というように。

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【あとがき】
 
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。夜野あうです。

 私は幽霊を書きません。この物語にも、化け物も呪いも出てきません。出てくるのは、ひとりで暮らす男の子と、彼に毎朝「おはよう」と言ってくれる、たった一人のやさしい友だちだけです。

 それでも、もし読み終えたあとに少しだけ背筋が冷たくなったとしたら——それはきっと、あなたが気づいてしまったからだと思います。茶碗が一つしか出されないこと。机のまわりに、誰もいない円があること。日記に並ぶ「頼んでしまった」という一文の、「しまった」のほうに。

 悠は、何も覚えていないわけではありません。心のいちばん下のほうに、小さな冷たい石を、ずっと抱えています。ただ、思い出そうとすると霧がかかる。そして、忘れる。——その「忘れられること」こそが、いちばん怖いことなのだと、私は思っています。

 いちばん怖いのは、幽霊ではなく、いつも会っている「あの子」です。毎日となりにいて、いつも笑っていて、決して責めない存在。その優しさに寄りかかってきた七年間が、彼の世界から何を消してきたのか。少しずつ、霧の向こうをのぞいていきましょう。

 次回は、すべての始まり――「あの子が来た夏」へ。

 それでは、また次の話で。

  夜野 あう