あの春の嘘を僕はまだしらないフリ

さくらは僕の返事も待たずに、軽い足取りで歩き出す。

 「ちょっと…待ってよ」

急に引っ張られたリハビリ用のサンダルが、ペタペタと情けない音を立てた。

 でも、さくらの背中を追いかけているうちに、僕の足元にかかっていた灰色の霧が、少しずつ晴れていくような気がした。

僕たちが向かったのは、病院の裏手にある小さな中庭だった。

春の生ぬるい風が、さくらの髪を揺らす。

植え込みのハナミズキが、きれいに咲いていた。

「はい、君の分」

さくらが自動販売機で買った缶ジュースを、僕の頬に押し当ててきた。

ひんやりとした冷たさに、思わず首をすくめる。

 「冷たっ……。ありがとう」

 「あはは、やっと喋った!さっきから全然目が合わないんだもん、寂しかったんだからね?」

さくらはベンチの端っこに腰掛け、缶のプルタブを小気味いい音を立てて開けた。

「……さくらはさ、本当に元気そうだね」

僕がぽつりと言うと、さくらはジュースをゴクゴクと飲み干して、ぷはぁ、と大げさに息を吐いた。

「元気だよ! 燃えるように元気!」

さくらはそう言って、自分の胸のあたりをドン、と拳で叩いてみせた。

まるで、自分に言い聞かせるみたいに。

「君こそ、ちゃんとご飯食べてる?なんだか昔よりずっと細くなっちゃってさ。……駄目だよ、生きてるなら、美味しいものいっぱい食べなきゃ」

「……うん」

「あっちに戻ったら、もうなかなか会えなくなっちゃうかもしれないけど」

さくらは缶ジュースを両手で包み込み、僕の顔を見つめた。

「だから約束して。私がいない場所でも、君はちゃんと笑ってて」

「約束……?」

「うん、約束。ほら、指切り」

さくらが差し出してきた小指が、ほんの少しだけ、震えているように見えた。寒くもないのに、どうしてだろう。

「わかったよ。約束する」

僕が小指を絡めると、さくらは

「よし!」と、今日一番の、満開の桜みたいな笑顔を見せた。

「じゃあ、私はそろそろ戻るね。」

さくらはベンチから立ち上がり、僕に背を向けた。

その足取りは、心なしか、さっきよりも少しだけ重そうに見えた。

「バイバイ。元気でね」

振り返らずに手を振るさくらの背中を、僕はただ見送っていた。

あっちの街へ帰るだけなのに。

どうしてあの時の彼女は、あんなに寂しそうな声をしていたんだろう。

その答えを、僕が知る由もなかった。