幽霊が踊り続ければ

 膝の土汚れはそのままになっていたが、血は固まって止まっていた。救急箱を開けて必要な物を出していると、自然と俺が手当をする流れになった。袖のパイプ椅子に座る百花の前に膝をつき、消毒液で濡らしたガーゼで傷口の土汚れを拭っていく。今、袖には俺たち二人以外は誰もいなかった。ほんの数年前までただ走り回るためだけに付いていると思っていた目の前の脚が、今は妙に艶めかしく見えた。
 横目に舞台を見ると小柳と幽霊の姿が見えた。おしゃべり幽霊は不思議な呪文を唱えながら小柳の周りで舞を舞っていた。皆、思うことはあっても演劇成功のためにできることをやってくれていた。二人以外の皆にも、後で礼を言おう。小柳の姿を見ると、つい先ほどの会話が思い起こされた。
「僕からは絶対に言い出せなかったと思う、だってさ」
その先の会話は言わないことにした。それにたぶん言う必要はない。百花は黙ったままだった。消毒液をしまいテープと新しいガーゼを取り出す。ガーゼを当ててテープを張る手がやけに重かった。次の出番までの五分という時間を意識するほどその手はより一層重くなり、ゆっくりとしか動かなくなった。
「俺さ、百花はどうせ言えっこないだろうって思ってた」
少しの間を空けて百花が背もたれに身を傾ける。恐らく天井を見上げているのだろうが、今はこの距離で顔を見れなかった。しばらく間を空けて百花が話し始める。
「ねぇ、どうしてあの時、主役降りたの? 皆、塩田がやってくれたら心強いって推薦してたよね」
全然関係のない話を返されて少し困惑した。なぜ今それを訊くのだろう。そう考えた結果、俺はその質問の答えの片方だけを答えることにした。
「演劇部俺一人だけだしな、うちのクラス。一から、監督やった方がいいかなって。俺が主役やったら、他の仕事掛け持ちできなくなるだろ」
井の字を両膝分。残り三枚。動かす手が重くなっていく。一枚、また一枚と張っていく。その度に、この時間の終わりが来るのを感じた。また少し手が遅くなっていく。
「塩田ってさ、人を守るためなら怪物になったりもするタイプのヒーローみたいだよね」
「なんか知ってる気がする、それ」
話し終えると再び沈黙が戻ってきた。静かなのはこの空間だけで、外からはいろんな音が鳴っている。しかしそれらは混ざり合って単なる音として耳に入ってきた。実際にはほんの数秒だったのだと思う。それでもこの時間が十倍、二十倍、永遠に続いているように感じた。膝から手を離し、最後のテープを切る。
「ごめん」
声が聞こえると永遠が五分であることを自覚されられた。あと残りは三分なのか、二分なのか、一分なのか、確認する方法はなかった。でも、時間なんてどうでもよく思えた。そんなことよりも、何に対しての謝罪なのかを理解したくなかった。百花には俺に謝らなければいけない理由なんて理解してほしくなかった。俺の真相は永遠に分からないままで良かったのだ、幽霊みたいに。
「塩田が急かしてくれなかったら、たぶん本当にそうなってた。だから、ありがとう」
百花の両膝にガーゼとテープでできた井の字が出来上がった。立ち上がると数人の足音がこちらへ向かってきた。百花は舞台の方へ歩き始め、袖の前で足を止めた。
「怖いか...?」
訊くと百花は頷く。しかし、その瞳は俯くことなく輝く舞台を一直線に見ていた。
「けど、それでも動いたことは間違ってなかった」
俺の方へ振り返ることもなく、続ける。
「行ってくる。ちゃんと皆にも謝る」
輝く方へ一歩を踏み出す。そして二歩、三歩と止まることなく進み続け輝きの中へ入っていった。
入れ替わるように出番を終えた役者たちが袖に戻ってくる。足元に視線を落とすと自分のいる場所がやけに暗く見えた。袖なのだから当然だった。近くから黄色い声が聞こえてきた。声の方を見ると、戻ってきた役者の内の女子数名が俺と百花を交互に見ていた。宙を仰ぎ深く溜め息を吐く。そして袖の奥にある調光室へ向けて駆け出した。


 昨日、自分で放った言葉が頭の中で繰り返されていた。椅子に腰かけ、照明を強める。マイクをつけてナレーションを読み始める。繰り返されている言葉が台詞と間違えて口から漏れ出ていないか心配になった。台詞が終わり、椅子から立ち上がって小窓から少しだけ見える舞台に目をやる。百花と小柳が二人で並んでいた。先程までではないが、客席からはまだ少しざわつくような声が聞こえる。
 二人を見るほど繰り返される音量は強くなっていった。耳を塞いだところで意味のないこの声をどうにか止めたかった。ふと、照明の操作盤が目に入る。赤青黄と通常色、四つのスライドするつまみの隣に照明全てをオンオフするスイッチがある。自然とスイッチに手が伸びた。ここであと少し指に力を入れればこの声は消える、そう思った。
 俺たち二人の中に新しく小柳が友達に加わったあの日から、やらなければいけなかったことは大よそ全て分かっていた。そして俺はそれを既に言葉にしていた。俺の考えが正しかったことは明後日の月曜日にでも証明されるのだろう。そう思いながらスイッチから手を離し、一つ溜め息を吐いた。