幽霊が踊り続ければ

 上履きを拭いて袖にある裏口から体育館に入ると、袖幕の前に百花が一人で立っていた。手当のために声をかけようとする。しかし、百花の奥の舞台を見ると、現行のシーンで出番を終えた役者たちがこちらへ向けて歩いてきていた。彼女はもう、すぐに行かなければならなかった。かけようと思っていた言葉が喉元で止まって黙って見ていると、彼女は胸に手を当てて深呼吸をした。やけに身体に力が入った吸う方が強い深呼吸だった。そして入れ替わるように、そのまま舞台に歩いていく。一歩が重そうだった。
 小道具などを置く共用の長机の上に持ってきた救急箱を置く。俺にもこれから仕事があった。袖にある短い階段を登ったところに舞台照明や音響を操作する調光室がある。一段飛ばしで階段を登り、扉を開けて中に入る。調光室にある小窓から、奈落付近だけ見える舞台を見ると、百花が芝居をしているのが見えた。その後ろから歩き回っているおしゃべり幽霊の姿もちらりと目に入る。照明を変えるスライド式の操作盤で舞台を青暗くした。百花が立つと、先程までではないが依然としてざわざわと困惑の声が聞こえる。その中で、彼女は怪我が治っている体での台詞を言い続けた。おしゃべり幽霊の芝居が妙にギャグっぽくて面白いので時々小さく笑いが起きる。そのお陰もあってか、体育館は少しずつ良い空気を取り戻しつつあった。
 照明の操作盤の隣には教室と同じ机があり、そこにマイクが設置されている。演目の序盤以来のナレーションだった。このクラス唯一の演劇部員がこんな台本の文字を音読するだけの仕事で本当に良いのかと思った。長台詞やぎこちなくなりやすい役を俺がやった方が良かったのではと。一応、俺の役割は舞台監督になり、練習では毎日のように部室にも行かずクラスに居残って指導をしていた。でも、今日は監督らしいことは特に何もした覚えがない。照明と音響を交代で担い、ナレーションをたまに読む。キャットウォークのスポットライトと調光室を行ったり来たりしているだけだった。
 マイクに向かって台本を読んでいると、調光室の扉の向こう、袖から誰かの話し声が聞こえてきた。
「本当困る。私たちがこんなに大変な思いした理由が大橋の色恋事情って。それも、告りに行って逃げたら転んだって...」
ドア越しに大きな溜め息が聞こえてきた。
「まぁまぁ、ただの噂なんだし。それにソーユーこともあるって」
「ないでしょ。別に大橋が恋愛するのは勝手だし、できることがあるなら盛り上げてだってあげるよ。でもなんで今日で、なんで演目中なの。意味が分からない」
「お互い緊張してるだろうし、吊り橋効果とか?」
「そんな巧妙な手口使うような子じゃないでしょ。あの子」
胸が痛くて台詞が止まりそうだった。百花を憐れむ気持ちと、幽霊二人への共感が心の中でせめぎ合っていた。それと罪悪感。昨日の帰り、俺が百花に声なんてかけなければ、こんなことにはならなかった。舞台上に一人だけ残って芝居を続けていた百花がこちらの袖へはけていく。
 これから、照明の色を何度も変えていくシーンが始まる。俺は手元といじるだけだが、スポットライトは大きく動かし続けなければいけないので大変だろう。それに、今日は腕が痛くても練習の時のように悲鳴は上げられない。悲鳴は聞こえなかったが、ドアの向こうからドンッと何かを叩く音がした。
「この演劇何人で回してるか知ってるでしょ?」
先程と同じ声だった。この演劇は十三人の役を十人で回している。脚本にナレーションを追加する改変をして登場人物の数を減らしたり、一度にたくさん登場する必要のあった幽霊は分身人形を使ったりして対応していた。それに演劇に携わる全員が芝居が得意なわけではない。一部の人には一人二役をしてもらっていた。
「そのまま答えろとは言ってない。言いたいこと分かるよね? 私たちが出た時にも客席の空気最悪だったし。」
「ま、オレはこういうドキドキハラハラもいいと思うけどナ」
「黙ってて」
「スミマセン」
「勝手な事情で仕事を増やされてももう手一杯なの」
 しばらく外では沈黙が続いた。袖は百花一人になったのだろう。扉一枚を挟んだすぐそこに百花はいるのに、傍にいることさえもできなかった。
「さっきの言葉、やっぱりなかったことにしてください...」
微かに百花の声が聞こえた。それから、不規則にタッタッタと走る音がした。ドアの向こうにいるのは幽霊二人で、ついさっき袖を出ていったはずだった。他に話す相手などいないはずだった。いったい百花は誰に話しているのか、と思考を巡らせた。小柳だ。だとしたら、「さっきの言葉」が差すものは。そう考えていくと、今すぐにこの部屋を飛び出して二人を引き留めたくなった。