西の空を染める残照を見つめながら、陽生は朔也とともに校舎の屋上から垂れ幕を吊るしていた。屋上のフェンスに紐を結わえながら、随分日が落ちるのも早くなったものだと陽生は感じていた。
明日はもう文化祭当日だ。どこからか金木犀が香り、頬を撫でる夕風は秋の冷涼さを帯び始めている。空の端に残る朱色には夏の烈しさはもう残されてはいない。
そのとき、ずるりと垂れ幕の逆の端が重力に従って、下がるのを感じた。陽生は朔也を振り返ると、文句を口にする。
「おい、朔也。ちゃんと支えとけよ。そっちだけ下がってるじゃねえか」
「ごめんって。ちょっと心羽ちゃんから通話きたから出るわ」
朔也は悪びれたふうもなくスマホを取り出すと、もしもしと通話に応じる。「さっくん、今すぐ来て!」離れた位置にいる陽生の耳にも届くほどの音量で切迫した心羽の声が朔也のスピーカーを劈いた。陽生と朔也は思わず顔を見合わせる。
「心羽ちゃん、どうしたんだ?」
朔也が聞くと、スピーカーの向こう側で心羽が早口に何かを説明する。わかった、と朔也は通話を切る。
「陽生、体育館行くぞ。心羽ちゃんが言うには、体育館ステージのリハでトラブルがあって、芦屋が佐倉に因縁つけられてるって」
なんだって、と陽生は顔色を変える。設置途中の垂れ幕を放り出すと、彼は踵を返した。
「朔也、早く来い!」
そう叫ぶと、陽生は錆びかけた屋上の扉を押し開ける。ズボンのポケットの中でスマホが震えた。おそらく、未来の自分が先ほどの心羽と同じ用件でメッセージを送ってきたに違いない。階段を足早に駆け降りていく彼の背中を追いかけながら、朔也はやれやれと肩をすくめた。
「陽生、お前は本当に芦屋のことになると人が変わるな……」
「お前だって、天沢に何かあったら放っておけないだろ?」
「そりゃまあ、当然そうだけどさ」
二人は一気に一階まで階段を駆け降りると、全力で廊下を走る。各クラスから漏れ出してくる話し声に混じるようにして、上履きの底が奏でる靴音が響いた。
渡り廊下を駆け抜けると、陽生は体育館の扉を開いた。「――芦屋!」茉莉の名前を叫びながら、陽生は体育館の中へと飛び込んでいく。その場にいた全員の視線が陽生へと向けられた。
「――さっくん! 貴嶋くん!」
心羽の声が響く。彼女はステージの上で、茉莉を庇うようにして瑠音と対峙していた。目元には涙が溜まり、ルーズソックスに包まれた脚はがくがくと震えている。
「またお前らかよ、貴嶋、氷上」
苛立たしげな瑠音の声が陽生と朔也に向けられた。二人はステージへと上がると、茉莉と心羽を庇うように立ちはだかる。
「心羽ちゃん、何もされてないか? 芦屋のためとはいえ、あんま無茶するもんじゃないぞ」
「芦屋も大丈夫だったか?」
二人は背中越しに心羽と茉莉を案じる言葉をかける。「うん……さっくんが来てくれたから」「わたしも大丈夫」背後で彼女たちが頷く気配がした。
「それで、佐倉。リハで機材トラブルがあったって聞いてるんだけど。ここからはおれが文化祭実行委員として、対応を代わらせてもらう」
炎のように灯りが揺れる瑠音の双眸を陽生は静かに見据えた。ふん、と鼻を鳴らすと言葉の矛先を茉莉から陽生へと変える。
「今のリハで、サビの入りんときにエフェクター落ちたんだけど? 瞬断ぽかったけど、どこから電源取ってんだよ。
あのなあ、エフェクターっつーのは、一回電源落ちた時点で音が変わんだよ。そもそもEQもゲインも調整がめちゃめちゃだし、いい加減な仕事しないでくれる? たかが文化祭とはいえ、俺たちはプロとしてここに立ってんだよ」
「佐倉の言い分はわかった。確かにおれたちも手一杯で、確認が行き届いてなかった部分があったと思う。それに関しては悪かった。明日までにもう一度、設定を確認しておく。
けどな、ここは学校の体育館で、ライブハウスじゃねえ。文化祭のステージじゃ、できることにだって限界がある。――ここは、プロの現場じゃねえんだよ」
「ハァ? 本番で今日のリハみてーなことがあったら、全部演者の俺らの責任になるのわかっててそれ言ってる? 明日、SJ放送の生中継入んの忘れてねーだろうな。てめーらのせいで、全国にさっきみてーな醜態晒すハメになったらどう落とし前つけてくれる気だよ?」
陽生と瑠音の間に漂う空気がぴりぴりと張り詰めていく。淡々と落ち着いた声で陽生は瑠音へ反論を続ける。
「落とし前も何も、ここで起きたトラブルはお前らだけが背負うもんじゃねえだろ。おれらだって、もちろん万が一がなるべく起きないように最善を尽くす。けどな、責任の所在を履き違えて言いがかりをつけてくるのは、本当にプロのすることか?」
「っざけんな! てめーみてーな素人に何がわかる!」
瑠音は激昂すると、陽生のワイシャツの胸倉を掴み上げる。「おい、何すんだ!」朔也は瑠音の手首を掴むと、彼を陽生から引き剥がしにかかった。
「――瑠音、もうやめて!」
ステージの上に尻餅をついた陽生を尻目に、茉莉は一歩前へ出る。瑠音を見据える眼差しには怯えはなく、決然とした光が灯っていた。
「何だよ、茉莉。そもそも、てめーがわりーんだからな。実行委員の実質的な責任者のくせに、やることなすこと手を抜きやがって。俺に嫌がらせして楽しいかよ?」
そう吐き捨てると、瑠音は陽生を蹴り飛ばそうとする。茉莉は瑠音の利き手に縋り付くと、大音声を張った。
「――だから、やめてって言ってるでしょ!」
「――茉莉。てめー、俺に歯向かうつもりなわけ?」
そうだよ、と茉莉は瑠音のその言葉を肯定した。は、と瑠音の目が不快げに細められる。
「こんなときだけど――ううん、こんなときだから言わせてもらうね。わたしはもう、瑠音とは一緒にいられない。わたしは、わたしがどうしたいか、誰といたいか、何をしたいかは、これからは全部自分で決める。好きなものも、嫌いなものも、もうあなたには縛られない」
ちっ、と苛立たしげに瑠音は舌打ちをする。電源が入ったままのマイクがその音を拾い、体育館中に反響した。
「わたしは――わたしの大事な人を傷つける人とはもう一緒にいたくない。だから、わたしたち別れよう。もう終わりにしよう。瑠音、今までありがとう――さよなら」
その言葉は茉莉自身にも向けられているように陽生は感じた。これは彼女にとって、きっと――過去との訣別だ。
「てめー、今まで誰に守られて生きてきたと思ってる。要は他の男に乗り換えたいから別れたいってことじゃねーか。そんな都合いい話があるか。――この尻軽ビッチが」
「お前……」
陽生は立ち上がる。やんのか、と瑠音が陽生を睨んだ。
「――佐倉、文化祭前日に手の骨全部折られたいか? それとも首の骨? 心羽ちゃん怖がらせてくれた借りも返さないといけないんだけど……どうする?」
冷たい刃のように研ぎ澄まされた朔也の声が場に割って入った。これは相当怒っていると、陽生は長年の経験則で察する。
「茉莉。女の一人もろくに守れねー雑魚にしがみついて、せいぜい後悔しろよ。――俺はどんなに泣いて謝ったって、てめーを絶対に許さない」
朔也相手では分が悪いと察したらしい瑠音は、茉莉に対して捨て台詞を吐くと、ステージから飛び降りた。瑠音のバンドメンバーたちも、陽生たちを睨むと彼を追いかけてステージを降りていった。
瑠音たちがいなくなると、陽生は小さく溜息をついた。何はともあれ、瑠音が指摘した設備不備は事実だ。文化祭実行委員として、仕事をしなければならない。
「朔也、天沢。わりいんだけど、屋上の垂れ幕の続きやってきてくれねえ? おれは芦屋とステージの設備の設定を再確認しないといけねえ」
「いいけど陽生、そんなこと言って芦屋とイチャつくつもりじゃないの? ステージ袖とか、そういうのにお誂え向きだぞ」
「馬鹿言うな。完全下校時刻まで時間ねえんだ、そんな余裕あるわけねえだろ。――そういうわけだから、屋上は頼んだぞ」
「はいはい、お邪魔虫は退散しますよっと。心羽ちゃん、行こ」
「うん、さっくん」
そう言うと、朔也と心羽はステージを降り、体育館を去っていった。秋宵の体育館に静寂が降りる。開け放ったままの体育館の扉から、鈴虫の歌声が忍び込んでくる。
やけに静かな気がして陽生が背後を振り返ると、茉莉が胸元を押さえてステージの上でへたり込んでいた。陽生は膝を折ってしゃがみ込むと、茉莉と目線を合わせる。
「芦屋? どうした、どっか具合でもわりいのか? それとも、佐倉に何かされたのか?」
陽生の問いに、ううん、と茉莉はかぶりを振った。彼女は誰もいない体育館の戸口のほうを見やりながら呆然として呟く。
「わたし……瑠音に初めて言い返せた……? 自分の意見を言えたの……?」
「……ああ。お前は自分の意思で佐倉と離れることを選んだんだよ」
そっか、と茉莉は噛み締めるように小さく頷いた。彼女は一人で歩き出すことを選んだ。長い間、瑠音に奪われていた、自身の意思という翅を取り戻したのだ。
「……機材の設定の見直し、しちゃわないとね」
そう言って茉莉は立ち上がる。その姿はまるで羽化したばかりの蝶が初めて羽ばたこうとしているように陽生の目には映った。
どうしてこうなったんだ。茉莉が縫ってくれたピンク色の魔法少女の衣装に身を包んで、陽生は呆然と立ち尽くした。
彼女持ちの男子たちがこぞって女子を裏方仕事に回したせいで、文字通りの正しい意味での魔法”少女”は数人しかいない。魔法少女姿を他の男の目に晒すくらいならと、漢気を見せた女装姿の男子たちばかりが教室内を動き回っている。
頭頂部を彩る大きなリボン。胸元にも同じ色のリボンがあしらわれ、袖は大きく膨らんでいる。パニエを何枚重ねにもして、膨らませた衣装の裾にはフリルがこれでもかというくらいに縫い付けられている。そんな愛らしいスカートの裾の下から覗いているのはすね毛まみれの男子の足ばかりで、ここが地獄かと陽生はうんざりとしていた。
「まじかる☆さくや、お客様ご案内ー! あなたのハートをごりごりずどーん!」
他校の制服姿の女子二人組がやってくると、水色の魔法少女の衣装に身を包んだ朔也が画用紙で作ったステッキをハートの形に振ってみせた。客の女子二人は爆笑しながらスマホを取り出すと、ノリノリで決めポーズを取る朔也を撮影する。
「ごりごりずどーんって……」
確か自分たちのクラスは魔法少女カフェであって、間違っても工事現場とかの類ではなかったはずだ。台詞の前半はコンセプトを考えれば辛うじて理解できるが、後半の物騒な擬音は何なんだ。
この謎のセリフを考案したのはノリノリで接客している、クラスの出し物係でもある朔也だ。普段はセンスのいい彼が、どうして今回に限ってはそのセンスの良さを発揮できなかったのか謎すぎる。
担任の岸野が金と銀の魔法少女衣装で呼び込みをしているのが功を奏したのか、客足は途絶えることはない。ひっきりなしにまじかるなんとかという延べ口上が教室内に響き渡っている。――但し、声変わり後の男子高校生の低音ボイスで。
「魔法少女まじかる☆さくや、愛と希望とオレンジジュースをおっとどけー!」
朔也は裏方仕事をしている女子からオレンジジュースの乗ったトレイを受け取ると、そんなことを宣いながらくるりと回ってみせる。ふわりとスカートの裾が広がり、朔也はウィンクを決めた。
ふいに客と思しきこの学校の制服姿の女子が戸口に姿を現した。他の男子たちは接客をしているか、グロッキーな目でキラキラとしたモールのぶら下がる天井を見つめているかしている。自分が行くしかないかと、陽生は渋々ながら画用紙で作られたステッキを握りしめると口を開いた。
「魔法少女まじかる☆はるき、お客様……って、え」
目の前に立つ少女の顔を認めると、陽生は絶句した。おかしそうに彼女はくすくすと笑う。――彼女は茉莉だった。
「貴嶋くん、わたしが縫った衣装ちゃんと着てくれたんだね。サイズもぴったりみたいでよかった。裏地までこだわり抜いた甲斐があった。……で、台詞の続き、言ってくれないの?」
「言わねえよ。……っていうか、お前いつもと髪型違うのな。一瞬気づかなかった」
「ああ、これ? 心羽がやってくれたの。裏方の女子全員でお揃いでツインお団子しよーって」
「天沢のやりそうなことだな……っていうか、芦屋、お前何か用か? まさか客として来たってわけじゃねえだろ?」
「このまま貴嶋くんに接客してもらうのも楽しそうなんだけど、そろそろ文化祭実行委員の見回りの時間でしょ? それで呼びに来たの」
もうそんな時間か、と陽生は黒板の上の時計を見やる。時計は午後二時二十三分を指していた。
「わりいな。着替えてくるからちょっと待っててくれ」
着替えのために裏に回ろうとした陽生を待って、と茉莉が呼び止めた。茉莉はスマホをブレザーのポケットから取り出し、カメラアプリを取り出すと陽生へとくっついた。
「せっかくの文化祭だし、記念撮影しよ?」
「ちょっ……」
待て、と止める間も無く茉莉はシャッターを切った。いつもと違う髪型の茉莉と険しい顔の魔法少女姿の陽生の姿が切り取られる。
「ちょっと陽生、お客さんとイチャイチャしないでくれる? ここそういうお店じゃないんだけど」
「馬鹿言うな、朔也。これはその……あれだ、チェキサービスとかいうやつだ」
陽生の苦し紛れの言い訳に朔也の目が細められる。そして、彼は何かを思いついたらしくにんまりと口の端を吊り上げると、茉莉へと水を向けた。
「なあ、芦屋。後でちゃんと申請はするから、うちのクラス、チェキサービスも追加していい?」
「うん、別に問題はないと思うけど……」
「よっしゃ、これで売り上げ競争上位に食い込めるぞ! まじかる戦隊1‐A、スマイルチャージしてくぞー!」
こんなむさ苦しい魔法少女たちにスマイルをチャージしてどうする気だ。クラスメイトたちをまだまだ働かせる気満々の朔也の不穏な発言を聴覚に捉えながら、陽生は着替えスペースになっている衝立の裏へと回る。女児向けアニメの主題歌と野太い決め台詞が混ざり合って教室に響いていた。
吹奏楽部とチアリーディング部による合同ステージが終わると、体育館の中はざわざわと喧騒に包まれた。今は十四時五十五分。あと五分で瑠音たちのバンドによる演奏が始まる時間だった。
こちらです、と茉莉はSJ放送のスタッフたちを誘導する。SJ放送のスタッフたちは、体育館の壁際に陣取ると、十五時からの生中継のために機材の準備を始めた。
カメラマンによって、黒いソフトケースのファスナーが一気に引き下ろされる音がした。小型カメラを取り出すと、カメラマンはそれを片手で軽く振る。
「バッテリー大丈夫?」
ディレクターがカメラマンへとそう問うた。問題ないとカメラマンは頷き返すと、肩にストラップを掛け、カメラを何度か構え直す。彼はファインダーを覗きながら、数歩前後に動いた。
ディレクターはカメラの上部に取り付けられたモニターを覗き込むと、カメラマンへと指示を出す。
「これじゃステージ遠いよ。もっと寄せて」
「あんまり寄せるとステージ全体が映りませんよ」
「別にいいよ、ボーカルの子抜くくらいのつもりでいて」
了解です、とカメラマンは画角を調整する。ディレクターはジャケットの胸元にピンマイクを付けると、あー、あー、と声を出した。
「音入ってる?」
「入ってます、大丈夫です」
報道のプロたちによって、無駄のない動きで生中継の準備が進められていく。ステージ横の時計が午後二時五十九分を指すと、ディレクターはカメラの前に立った。
「本日は私立桜台高校の文化祭を生中継でお届けしております。これより、体育館のステージでライブが始まるとのことです。ライブを行なうのは、弱冠十四歳にしてデビューしたあのバンド、『BLACK RIOT』とのことです! 圧巻のパフォーマンスをお楽しみください!」
かちり、と長針が動き、午後三時丁度を指した。パッと体育館のステージがライトで照らされる。
ジャーン、と歪んだギターの音が鳴る。激しくドラムが打ち鳴らされる。キーボードは冷たく尖った音を奏で、ベースは低い唸り声を上げる。重なり合ったその調べは、彼らの在り方自体を訴えているようだった。――まさに『黒い暴動』だ。
激しく印象的なイントロが終わると、瑠音は噛み付くように歌い出した。世界への反抗心を、自身の存在の主張を彼は激情と共に歌い上げていく。両腕を組んでステージを眺めながら、陽生はぼそりと呟いた。
「あいつ……プロがどうのって言ってたけど、実力は本物なんだな」
うん、と隣で茉莉が頷いた気配がした。彼女はほろ苦い笑みを浮かべると、言葉を続ける。
「瑠音は昔から歌が上手かったから。ううん……瑠音が歌うようになったのはわたしが理由だから」
「芦屋が? どういうことだ?」
「小さいころ……まだ、五歳くらいのときのことだったかな。瑠音はまだ自分に自信のない、引っ込み思案の男の子で……そのころ、わたしが瑠音の歌を褒めたことがあったの。そしたら、瑠音は歌を練習するようになった。いつかとっておきの一曲をわたしに贈りたいからって」
「その引っ込み思案な男の子が、どうしてああなったんだ?」
「原因は中学に上がったころ、わたしの両親が離婚したことかな。わたしのお父さんが仕事で忙しいこともあって、瑠音なりにわたしのことを守らないといけないって思ったみたい。そのころから……瑠音はだんだんと周囲に対して攻撃的になっていったの」
「だからって、あんな横暴な態度が許されるわけがねえだろ。目的と手段が逆になってる」
そうだね、と茉莉は目を伏せた。そして、彼女はそっと陽生のブレザーの袖を引く。
「ねえ、貴嶋くん……わたし、これでよかったんだよね」
「……後悔してるのか?」
「わからない。ただ、瑠音は昔からずっと一緒で……家族よりも近くにいた存在だったから。当たり前が当たり前じゃなくなって、少し……心許ない感じがする。何だか……痛くて、ふわふわする」
「……そうか」
間奏で瑠音がマイクに向かってシャウトを放つ。キン、とスピーカーの音が割れる。その鋭い声にはもう、優しく引っ込み思案だった男の子の面影はなかった。
「あーもう、あいつライブハウスのノリで演りやがって。いつもの八割くらいでやらねえと、絶対音割れするって芦屋が言ったの忘れてんな」
陽生は小さく肩をすくめる。いつもの通りのパフォーマンスができなかったからといって、後で苦情を受け付けるつもりはない。たかが体育館の設備にそれだけの性能を求めるほうがお門違いだ。
茉莉は寂しげにステージを見つめる。袂をわかった彼は、自分とは違う世界で生きる人間だ。この先、彼の背中はきっとどんどんと遠ざかっていく。
(それでいい……きっと。わたしは、それを望んだ。――それを選んだ)
茉莉は唇を噛み締める。聴覚を刺す歌声は自分のためではなく、彼を求める大衆のためのものだ。
ごめんね。さよなら。茉莉の唇がそっと動く。彼女は激しさを増す歌声と共に訣別の痛みを改めて胸に刻み込んだ。――これが大事なものを失う痛みなのだと感じながら。
小さいころからずっと繋いで歩いてきた手を心の中で茉莉はそっと離す。――これでいい、と自分に言い聞かせて。
激しくドラムが打ち鳴らされ、クラッシュシンバルの音が体育館の空気を切り裂いた。瑠音のロングトーンの残響がスピーカー越しに揺れている。
わあっと歓声が上がり、拍手が湧き起こる。演奏が終わったのを皮切りにカメラの前でディレクターが喋り出したのを聞きながら、陽生は複雑な顔でステージを見つめる茉莉を見ていた。
「なあ、芦屋。おれたちのシフトって、確かこのまま休憩だったよな。何か軽く見ていかねえか?」
瑠音たちのステージが終わり、取材に来ていたSJ放送のスタッフを見送った後、陽生はそう茉莉に声をかけた。いいよ、と茉莉は微笑んだ。
「どこのクラスがどんなことをしてるのかも確認したかったし。申請書の内容だけじゃわからないことも多いから」
「お前、本当に真面目だよな……」
休憩時間くらい肩の力を抜けばいいのに。そう思いながら、陽生は溜息をついた。束の間の間だけでも、お遊びめいたデートを茉莉と楽しみたかった。
校門から戻ってきた陽生たちは校庭の方へと足を向けた。文化祭実行委員会に提出された書類によれば、校庭では各クラスや部活動有志による飲食系の屋台が出ているはずだった。
「……」
校庭をぐるりと見回すと、陽生は頭が痛いと言わんばかりにこめかみを押さえた。なんだこれは。揃いも揃ってトンチキな屋台しかない。
暗雲わたあめだとか海賊が作った山賊焼なんていうのはまだ序の口だ。チョコきゅうりだとか桜姫が愛したタピオカコーンポタージュなどという、正気を疑いたくなるものもある。恋するフォーチュンたこやきに至っては、異物混入がないかどうか、文化祭実行委員として心配になってくる。
「芦屋……これ、どっから突っ込んだらいいと思う?」
「突っ込むも何も、文化祭実行委員なのに貴嶋くん知らなかったの? この学校の文化祭の出し物は、伝統的に変わり種が多いんだよ」
「変わり種って……とりあえず、チョコときゅうりって合うのか? しかも、ミルクとホワイトとビターから選べるとか無駄に凝ってるし……」
「きゅうり自体がそんなに主張が強い野菜じゃないから、意外と大丈夫なんじゃないかな?」
「だとしても……何でこんな企画通したんだよ……」
「だって、きゅうりは桜島市の特産品でしょ? 今回のコンセプト的に、地産地消ができるのはいいことだと思うけど」
きょとんとして茉莉は陽生の顔を見上げた。優等生め、と思わず陽生は毒づいた。
「じゃあ桜姫が愛したタピオカコーンポタージュっていうのはどうなんだよ? 桜姫の時代にタピオカもコーンポタージュもねえだろ」
「どうだろう? 桜姫は舶来品が好きだったし、城下町を潤すために南蛮貿易を先頭に立って旗振りしてたって記録が残っていたから、案外近いものはあったのかもしれないよ」
「聞けば聞くほど、何者なんだよ桜姫……ただのお姫様って感じじゃねえな……」
「そうだね。それはそうと、わたしお腹空いちゃった。何か食べない?」
「いいけど……何にするんだ?」
じゃああれ、と茉莉が指さしたのはよりにもよって、恋するフォーチュンたこやきの屋台だった。
「まじで? まじで、あれ食うの?」
「うん、ちょっと運試ししておきたくって」
そう言うと、茉莉は軽い足取りで屋台へと向かっていった。彼女はスマホを取り出すと、それをNFCリーダーへと翳して決済をする。今時は高校の文化祭レベルでもQRコード決済ができるのか、と関心しながら陽生は少し離れた位置でたこ焼きを買う茉莉の後ろ姿を見ていた。
「貴嶋くん、お待たせ!」
たこ焼きを買うと、茉莉は踵を返し、陽生の隣へ戻ってきた。そして、彼女は楊枝をたこ焼きに刺すと、陽生の口元へと持ってくる。
「ほら、貴嶋くんも一緒に運試ししよう?」
「……それ、異物混入とかしてねえんだろうな?」
「何か、大当たりだとミニトマトが入ってるって言ってたよ」
「それはそれで嫌だな……」
茉莉にあーんと言われるままに、陽生は渋々口を開ける。ほくほくと熱いたこ焼きを口の中で噛んだ瞬間――熱さが衝撃となって炸裂した。
「……っ!?」
陽生は事態を飲み込めずに目を白黒とさせながら、咳き込んだ。隣でもぐもぐとたこ焼きを食べていた茉莉はそれを嚥下すると、くすっとおかしそうに笑った。
「貴嶋くん、大当たり引いたみたいだね。今日、何かいいことあるかもよ?」
「いいこともなにも、おれ、今、今日最大の不運に見舞われた気がすんだけど……。熱したミニトマトとか凶器過ぎんだろ……文化祭実行委員の権限で今からでも具材の変更を……」
「そうは言っても、ミニトマト自体は異物でも何でもないし、特産品の地産地消もしてるから、わたしたちが止められる理由もないんだよね。それより、貴嶋くん、もう一個食べる?」
「おれは遠慮する……これ以上の不運に見舞われたくねえ……」
おいしいのに、と言いながら茉莉は残りのたこ焼きをぱくぱくと平らげていく。何だか小動物みたいだな、と思いながら、陽生は彼女がたこ焼きを頬張る様を見ていた。
大当たりを引き当てることなく茉莉がたこ焼きを食べ終えると、休憩時間が半分近く終わっていた。
「芦屋、中も軽く見て回るか。休憩終わっちまうからな……つってもどこのクラスもうちのクラスと同じくらいイカれてるんだろうけどな……」
「貴嶋くん、それも個性だよ。うちの学校は個性を重んじる校風だから」
「物は言いようだな……」
そんな会話を交わしながら陽生と茉莉は賑やかな声が飛び交う校舎の方へと戻っていった。二人は下駄箱でローファーから上履きに履き替えると、三年生の教室が並ぶ二階へと階段を上っていく。
「……なあ、芦屋。あれってセーフなのか?」
暴露系クイズ大会と書かれた札を持つ上級生が立つ、3‐Cの教室から漏れ聞こえてきた言葉に、陽生は思わず足を止めた。
「物理の山崎先生と音楽の相原先生は、人には言えない大人の関係である! A、たまたま仲がいい! B、秘密の相談相手! C、不倫関係! D、答えられない! ――さあ、どれでしょう?」
際どい暴露問題に陽生は固まる。確か、山崎も相原も既婚者で子供がいたはずだ。
「はい、正解は! Dの答えられないでしたー! 真相は皆さんのご想像にお任せしまーす!」
「それ絶対、クロじゃん……うわあ、マジかよ、W不倫……。この学校って爛れてんな……」
教室内の出題者の言葉に、陽生は遠い目でそんな感想を漏らす。そんな陽生をまあまあ、と茉莉は宥めた。
「ほら、実際はどうなのかって明言したわけじゃないんだし。どの先生とどの先生がどうとかって噂は不定期に流れてるし、そんなに神経質になることもないじゃないかな。そもそも事実だったら、当事者の山崎先生か相原先生が止めてるはずだよ」
「それもそうか……」
そんな噂が不定期に出回る学校もどうなのかと思いながら、陽生は茉莉と共にその場を離れる。「ロシアンルーレットビンゴ、参加者募集中です! 自分の番号が呼ばれたら即座にドボン! ビンゴするのが早いか、脱落するのが早いか……!」「耐久コーヒーカップやってまーす! 最後まで残るペアは誰だ!」校庭の屋台と同様に変わり種が多いが、企画自体はよく練られている。思わず陽生は感嘆の息を漏らした。
「さっきの暴露クイズはどうかと思うけど、面白そうなのもそれなりにあるんだな。変わってるとは思うけど」
「貴嶋くん、何が気になった? どこか覗いていく?」
「おれ的にはロシアンルーレットビンゴが。けどまあ、もうすぐ休憩終わっちまうから、参加するのは難しいな」
「……もうちょっと時間あったらよかったのにね」
「……そうだな」
三年生の教室が並ぶ廊下を通り抜けると、二人は階段を上がる。そして、階段を上りきった途端、Y2Kファッションを意識したらしいギャルっぽい衣装に身を包んだ二年生に話しかけられた。
「あっ、ちょっとそこのお二人さーん! 陽キャの楽天占い館いかがですかー! まじでブチアガる未来しか視えないから! 三分で終わるし、寄ってってー!」
ほらほら、とノリの良い女子生徒に背中を押され、陽生と茉莉は半ば強引に2‐Eの教室へと連れ込まれた。ズンズンとビートが腹に響くダンスミュージックが大音量で流され、クラブを意識したのか天井ではミラーボールが回っている。
二人は女子生徒に案内され、教室中央の机の前へと座らされた。机には紫の蝶の柄がプリントされた黒い布がかけられていて、何だか時代を感じさせた。よく見れば、布のふちではラインストーンがきらきらと輝いている。
「さーて、お二人は何占ってほしい? 恋愛運? っていうかもう付き合ってる感じ?」
「いや、そんなんじゃねえし、特におれは占ってほしいこともねえんだけど……」
幸運やら占いやらの類は先ほどのフォーチュンたこやきの件で懲り懲りだ。陽生がそう言うと、茉莉はむう、と少し不満そうな顔をした。
「まーまー、じゃあ、お二人の近い未来を占っちゃいますか! うち、トランプ占いなんだけど、二人とも好きなカード選んじゃってー!」
占い師役のギャルファッションに身を包んだ女子生徒は、トランプを布の上に並べていく。陽生と茉莉は選んだカードを指さそうとして――指と指が触れ合った。占い師役の生徒はにやにやとしながらこう言った。
「二人とも超気が合っちゃう感じじゃん! まさに以心伝心、相思相愛って感じー! ……で、肝心の結果だけどー」
占い師役の生徒は、二人が選んだカードをめくった。そのカードにはハートが七つ並んでいた。
「おー! これは近いうちに恋愛的にいいことありそうな感じ! いい感じに運気ブチアガってる感じ!」
「さいですか……」
ハイテンションな占い師役の生徒に陽生はうんざりとしながら、相槌を打つ。占い師役の生徒は机から身を乗り出して、陽生の耳元に口を寄せるとこう囁いた。
「後夜祭もあるんだし、根性見せなよ?」
「……大きなお世話です」
「貴嶋くん、どうかしたの?」
「何でもねえ、こっちの話。それより休憩終わるし、そろそろ行くぞ」
うん、と茉莉は不思議そうな顔をしながらも頷いた。そして、二人は席を立つと、2-Eの教室を後にした。
休憩が終わるまで、あと五分しかない。陽生と茉莉は一年生の教室がある四階へと階段を上がっていく。階段を上がりきって、廊下を歩いていると、金銀のド派手な衣装に身を包んだ中年の男が呼び込みのために声を張り上げているのが聞こえてきた。――声の主は担任の岸野だ。
「魔法少女まじかる☆てぃーちゃー☆あるてぃめっと、ぎゅるぎゅるりーん! 1‐A、魔法少女カフェやってます! 桜台高校にスマイル、アナタのココロにハピネスチャージ!」
岸野の台詞に陽生は絶句した。突っ込みどころが多すぎるが、とりあえずぎゅるぎゅるりーんは、腹を下しているみたいで飲食店には合わないような気がする。
「なあ芦屋……あの台詞、何?」
「貴嶋くん、知らない? わたしも心羽から聞いたんだけど、氷上くんが先生用に専用台詞考えたらしいよ」
「うわあ……」
朔也もえげつないことをする。自分たち男子高校生でもかなり痛いのに、中年男性があの出で立ちであの台詞を叫ぶのは痛々しすぎる。
金と銀の魔法少女衣装に身を包んだ岸野は陽生と茉莉の姿を認めると、情けなく眉尻を下げてこう言った。
「あっ、文化祭実行委員カップル。いいところに来たな。俺と呼び込み代わってくれよ。俺もう疲れたよ」
「カップルじゃないですし、疲れたなら甘いものでも食ったらどうですか。おれ考案のみらくるチョコムース、あれ結構美味いですよ。先生も担任なら、クラスの売り上げに貢献してください」
「え、俺、こんなにクラスに貢献してんのに、金まで払わされんの?」
「何か問題あります?」
「大アリだろ……っていうか、俺がそのなんちゃらムース食ってる間だけでも、お前らが呼び込み代わってくれんのか?」
「嫌です。っていうか、芦屋の分の衣装もないですし」
「じゃあ、芦屋は俺の衣装着ていいから……だから代わってくれない?」
岸野の発言に陽生はずいと一歩前に出る。今の発言は看過できないことだらけだ。
「四十代のオッサンが長時間着た後の汗臭くてヤニ臭い衣装を芦屋に着せられるわけないですよね? っていうか、そもそも芦屋の魔法少女姿なんて、おれが絶対に他の男どもに見させねえ」
「随分と酷い言われようだな……っていうか、貴嶋。さっきカップルじゃないって言ってたけど、じゃあ何で付き合ってないんだ? 俺は不思議でならないよ……」
「逆に何で先生はそんなにおれたちをくっつけたがるんですか……」
げんなりとしながら陽生がそう聞くと、岸野は魔法少女姿には不似合いな真面目な表情を浮かべ、彼に向き直った。
「一教育者として言うけどな、芦屋と佐倉の関係性は俺だって見てられなかったよ。校長とか教頭の手前、佐倉をどうにもできないのがすごく歯痒かった。
だけど、貴嶋は佐倉と違って、芦屋のことを大事にしている。芦屋のことをきちんと、尊重しているように見える。俺はな――せめて、自分が担当している生徒くらいは幸せになってほしいんだよ」
「……先生って、結構ちゃんと生徒のこと見てるんですね」
「俺は自分の生徒のことが大事だからな。だから、これは俺の願望で、お前たちに強制することはできないけど……お前たちがこれからも笑顔でいられるためにどうしたらいいか、少しでもいいから考えてみてほしい」
はい、と陽生は神妙に頷いた。そして、黙って岸野との応酬を見守っていた茉莉を彼は振り返り、目配せした。
「芦屋……後で時間をくれ」
わかった、と茉莉は頷いた。そのとき、教室の戸口から水色の魔法少女姿の朔也が顔を覗かせた。
「先生、呼び込みサボんないでくださいよ。あと、陽生、芦屋、そろそろ交代の時間」
今行く、と陽生は教室へと足を踏み入れる。一般公開時間が終わり、後夜祭が始まった後に何をするべきか――もう肚は決まっていた。
「まったく実行委員長の奴……おれたちに後処理押し付けて美味しいところだけ持っていきやがって……」
十月の空は紺青に色を変え、校庭では後夜祭が始まっていた。実行委員長が表彰を行なう声が窓の外から聞こえてくる。優秀賞、最優秀賞、と該当のクラスが呼ばれる度に歓声が上がる。
陽生と茉莉は多目的室で文化祭の後処理に奔走していた。一般公開時間が終わってから、出し物の内容について後申請してきたクラスが山ほどあったからだ。
「貴嶋くん、SJ放送へのお礼メール終わったよ。そっちの申請書捌くの手伝おうか?」
「わりぃ、頼む……」
陽生は申請書の束を半分、茉莉へと渡した。彼女はブレザーの胸ポケットからシャーペンを抜くと、申請書に目を走らせ始める。
「ねえ、貴嶋くん。文化祭、楽しかったね」
「お前にとっては色々あっただろうけど……楽しかったんだったらよかったよ」
「……うん」
ドン、と音が響き、窓の外の空に光の花が咲いた。陽生は席を立つと、多目的室の電気を消す。
「……貴嶋くん? どうしたの、電気なんて消して」
「このほうが綺麗に見えるだろ、花火。まだやることたくさんあるけど、花火くらいは見ようぜ」
そうだね、と茉莉は微笑むと、シャーペンを置いた。そして、席を立つと彼女は窓辺へと歩いていく。
窓の外を眺める茉莉の隣に陽生は立つ。そして、なあ、と彼は緊張で掠れた声でこう言った。
「――芦屋。前にも言った通り、おれはお前のことが好きだ。もし、お前の気持ちが変わっていないなら、これからもおれと一緒にいてくれないか。――付き合おう、茉莉」
「貴嶋くん……」
茉莉は目を見開くと、陽生を見つめた。暗い教室の中で視線が絡まり合う。
「佐倉と別れたばっかりだっていうのもわかってる。おれは不器用で、こういうことも初めてだから、お前のことを傷つけない保証もない。だけど……お前が笑っていられるように、努力はしたい。こんなに危なっかしくて、放っておけなくて、可愛くて――大事な奴は他にはいねえから」
「わたしで……いいの?」
「お前だからいいんだよ――茉莉」
戸惑う茉莉に陽生は真正面からそう言った。茉莉の目が揺れる。やがて、彼女は心を決めたのか、小さく息を吐いた。
「わたしも、貴嶋くんの――陽生くんの、そばにいたい。一緒にいたい。これから未来《さき》を一緒に歩くのは、陽生くんがいい。――わたしと、付き合ってください」
ああ、と陽生は小さく笑うと、そっと茉莉の頬に手を添えた。彼は花火で照らされる茉莉の顔を覗き込んだまま、しばらくそのままでいた。――茉莉の逃げ道を塞いでしまいたくなくて。
「……いいか?」
「……うん」
「下手でも文句言うなよ」
もう、と茉莉が不服そうに頬を膨らませる。直後――二人は破顔した。そして、二人はどちらからともなく唇を交わし合った。このまま二人の境目が溶けてしまえばいいのに――茉莉の唇の柔らかさと甘さを感じながら、陽生はそんなことを思わずにはいられなかった。
窓の外では花火が上がり続けている。唇を離した二人は名残惜しそうに見つめあった。――お互いを大事に思う気持ちに胸を締め付けられながら。
後夜祭が終わった後の校舎内は静寂に包まれていた。各クラスの片付けは翌日となったため、今、校舎に残っているのは文化祭実行委員会だけだった。――もっとも、無責任な他の実行委員たちは陽生と茉莉に仕事を押し付けて、それぞれのクラスの打ち上げへと行ってしまったが。
陽生と茉莉は屋上で垂れ幕の引き上げを行なっていた。「第二十八回桜台高校文化祭」と書かれた垂れ幕を屋上のコンクリートの上に引き上げ終わったとき、制服のズボンでスマホが唸った。朔也だろうか、と思いながら、陽生がメッセージアプリを起動させると、未来の自分からメッセージが届いていた。
『高校生のおれへ。おれからのメッセージはこれが最後になる。
まずは芦屋の未来を変えてくれたこと、感謝している。
最初にお前にメッセージを送ったあの日は、佐倉と芦屋の結婚式の日だった。けれど――芦屋は、結婚式の前日に自ら命を絶った。
お前へメッセージを送ったのは、朔也と天沢に頼まれたからだ。――芦屋を救ってほしい、と。おれと芦屋は、親友の彼氏の友達という、辛うじて結婚式で呼ばれるくらいの関係性でしかなかった。高校時代に同じクラスで、一度文化祭実行委員で一緒になったくらいしか接点もなかった。それでも、朔也の頼みだったから、おれはこれを引き受けた。
意図のわからない、抽象的なメッセージばかり送って、困惑しただろうと思う。けれど、おれは、お前がおれの指示で佐倉から芦屋を略奪して付き合うのは違うと思った。お前自身の意思で、芦屋を好きになって、どうにかしてほしいと思っていた。
だけど、お前のおかげで、未来は変わった。今、芦屋は――茉莉はおれの隣で笑っている。茉莉は前を向いて歩けている。本当にありがとう』
いつにない長文に、陽生は眉根を寄せた。どうしたの、と垂れ幕を畳んでいた茉莉は陽生へと声をかける。茉莉は立ち上がり、宵闇の中に浮かび上がる陽生のスマホの画面を覗き込むと目を丸くした。
「これは……未来の陽生くんからのメッセージ? 送信日時が十年後になってる」
「茉莉には、ちゃんと全部説明しないといけねえよな」
陽生は屋上のフェンス沿いのコンクリートの縁に腰を下ろした。茉莉も隣へと座る。陽生はチャット画面を上にスクロールしながら、言葉を探した。
「まずはそうだな……四月に体育館裏で会ったときの――佐倉と喧嘩して、お前が泣いていたときのことだ。あれは、偶然なんかじゃない。未来のおれに指示された場所へ行ったら、お前がいたんだ」
「そう……だったんだ」
「あれから、校内のいろんなところで会うようになっただろう? あれは未来のおれからのメッセージがあったからなんだ」
「じゃあ、音楽室で会ったときに友達になろうって言ったのは? あれも未来の陽生くんの指示?」
違う、と陽生は首を横に振った。
「あれは紛うことなきおれの意思だ。未来のおれは、お前との接点こそ持たせようとしてたけど、自分の意思でお前と仲良くなってほしかったみたいだから」
「そういえば、心羽と氷上くんが付き合い始めたくらいのころから、四人で行動することが増えたよね。あれも未来の陽生くんが?」
「いや、あれはおれが朔也と天沢と決めたことだ。おれたちが一緒にいられるときだけでも、なるべくお前に佐倉を近づかないようにしようって。夏休みも何かと用事を作ってみんなでなるべく会うようにしようって」
そうだったんだ、と茉莉は呟いた。自分は思っていた以上に、みんなに守られていたのだ。
「……もしかして、未来の陽生くんからのメッセージの件って、心羽と氷上くんも知ってたりするの?」
「ああ。朔也にはメッセージが来るようになってから割とすぐに話した。天沢にも、夏休み前に」
「わたしだけだったんだね、何も知らなかったの。――わたし自身のことなのに」
「お前の性分的に知ってたら、おれたちに気を遣うだろ。これでよかったんだよ。――最悪の未来は変わったんだから」
「……ありがとう」
陽生は未来の自分とのチャット画面を下へとスクロールしていく。この半年程度の間に随分と色々なことがあった。その思い出を彩っているのは、いつだって茉莉だった。
「最後のメッセージ、すごく陽生くんらしいね。無関係なわたしのことでも友達の頼みなら引き受けちゃうところも、過去の自分自身であっても何かを強制したくないって思ってるところも、すごくそんな感じがする。――陽生くんは人の心と意思を大事にしてくれる人だから」
「買い被りすぎだ」
照れ臭さでつい口調がぶっきらぼうなものになってしまう。その瞬間、ざざっとチャット画面にノイズが走った。
チャット画面に表示された未来の自分からのメッセージが一文字ずつ消えていく。現在から過去へと、メッセージが少しずつ光の粒子となって、夜空へと吸い込まれていく。思わず、陽生は声を漏らした。
「あ……」
「未来が変わったから……十年後の陽生くんがメッセージを送ってきたっていう過去もなくなったんだね」
未来の自分から送られてきた言葉がすべて消え、まっさらになったチャット画面にはただ、メンバーなしとだけ表示されている。けれど、それでいいのだと陽生は思った。
(未来のおれに指示してもらわなくたって、これからは現在《いま》のおれが茉莉を守る。――十年先も、二十年先も、ずっと、ずっと)
夜空にきらめく星を見上げ、陽生はそっと胸中に誓いを刻む。新しい未来を歩き始めた二人を幾億光年先から星々が静かに見守っていた。
明日はもう文化祭当日だ。どこからか金木犀が香り、頬を撫でる夕風は秋の冷涼さを帯び始めている。空の端に残る朱色には夏の烈しさはもう残されてはいない。
そのとき、ずるりと垂れ幕の逆の端が重力に従って、下がるのを感じた。陽生は朔也を振り返ると、文句を口にする。
「おい、朔也。ちゃんと支えとけよ。そっちだけ下がってるじゃねえか」
「ごめんって。ちょっと心羽ちゃんから通話きたから出るわ」
朔也は悪びれたふうもなくスマホを取り出すと、もしもしと通話に応じる。「さっくん、今すぐ来て!」離れた位置にいる陽生の耳にも届くほどの音量で切迫した心羽の声が朔也のスピーカーを劈いた。陽生と朔也は思わず顔を見合わせる。
「心羽ちゃん、どうしたんだ?」
朔也が聞くと、スピーカーの向こう側で心羽が早口に何かを説明する。わかった、と朔也は通話を切る。
「陽生、体育館行くぞ。心羽ちゃんが言うには、体育館ステージのリハでトラブルがあって、芦屋が佐倉に因縁つけられてるって」
なんだって、と陽生は顔色を変える。設置途中の垂れ幕を放り出すと、彼は踵を返した。
「朔也、早く来い!」
そう叫ぶと、陽生は錆びかけた屋上の扉を押し開ける。ズボンのポケットの中でスマホが震えた。おそらく、未来の自分が先ほどの心羽と同じ用件でメッセージを送ってきたに違いない。階段を足早に駆け降りていく彼の背中を追いかけながら、朔也はやれやれと肩をすくめた。
「陽生、お前は本当に芦屋のことになると人が変わるな……」
「お前だって、天沢に何かあったら放っておけないだろ?」
「そりゃまあ、当然そうだけどさ」
二人は一気に一階まで階段を駆け降りると、全力で廊下を走る。各クラスから漏れ出してくる話し声に混じるようにして、上履きの底が奏でる靴音が響いた。
渡り廊下を駆け抜けると、陽生は体育館の扉を開いた。「――芦屋!」茉莉の名前を叫びながら、陽生は体育館の中へと飛び込んでいく。その場にいた全員の視線が陽生へと向けられた。
「――さっくん! 貴嶋くん!」
心羽の声が響く。彼女はステージの上で、茉莉を庇うようにして瑠音と対峙していた。目元には涙が溜まり、ルーズソックスに包まれた脚はがくがくと震えている。
「またお前らかよ、貴嶋、氷上」
苛立たしげな瑠音の声が陽生と朔也に向けられた。二人はステージへと上がると、茉莉と心羽を庇うように立ちはだかる。
「心羽ちゃん、何もされてないか? 芦屋のためとはいえ、あんま無茶するもんじゃないぞ」
「芦屋も大丈夫だったか?」
二人は背中越しに心羽と茉莉を案じる言葉をかける。「うん……さっくんが来てくれたから」「わたしも大丈夫」背後で彼女たちが頷く気配がした。
「それで、佐倉。リハで機材トラブルがあったって聞いてるんだけど。ここからはおれが文化祭実行委員として、対応を代わらせてもらう」
炎のように灯りが揺れる瑠音の双眸を陽生は静かに見据えた。ふん、と鼻を鳴らすと言葉の矛先を茉莉から陽生へと変える。
「今のリハで、サビの入りんときにエフェクター落ちたんだけど? 瞬断ぽかったけど、どこから電源取ってんだよ。
あのなあ、エフェクターっつーのは、一回電源落ちた時点で音が変わんだよ。そもそもEQもゲインも調整がめちゃめちゃだし、いい加減な仕事しないでくれる? たかが文化祭とはいえ、俺たちはプロとしてここに立ってんだよ」
「佐倉の言い分はわかった。確かにおれたちも手一杯で、確認が行き届いてなかった部分があったと思う。それに関しては悪かった。明日までにもう一度、設定を確認しておく。
けどな、ここは学校の体育館で、ライブハウスじゃねえ。文化祭のステージじゃ、できることにだって限界がある。――ここは、プロの現場じゃねえんだよ」
「ハァ? 本番で今日のリハみてーなことがあったら、全部演者の俺らの責任になるのわかっててそれ言ってる? 明日、SJ放送の生中継入んの忘れてねーだろうな。てめーらのせいで、全国にさっきみてーな醜態晒すハメになったらどう落とし前つけてくれる気だよ?」
陽生と瑠音の間に漂う空気がぴりぴりと張り詰めていく。淡々と落ち着いた声で陽生は瑠音へ反論を続ける。
「落とし前も何も、ここで起きたトラブルはお前らだけが背負うもんじゃねえだろ。おれらだって、もちろん万が一がなるべく起きないように最善を尽くす。けどな、責任の所在を履き違えて言いがかりをつけてくるのは、本当にプロのすることか?」
「っざけんな! てめーみてーな素人に何がわかる!」
瑠音は激昂すると、陽生のワイシャツの胸倉を掴み上げる。「おい、何すんだ!」朔也は瑠音の手首を掴むと、彼を陽生から引き剥がしにかかった。
「――瑠音、もうやめて!」
ステージの上に尻餅をついた陽生を尻目に、茉莉は一歩前へ出る。瑠音を見据える眼差しには怯えはなく、決然とした光が灯っていた。
「何だよ、茉莉。そもそも、てめーがわりーんだからな。実行委員の実質的な責任者のくせに、やることなすこと手を抜きやがって。俺に嫌がらせして楽しいかよ?」
そう吐き捨てると、瑠音は陽生を蹴り飛ばそうとする。茉莉は瑠音の利き手に縋り付くと、大音声を張った。
「――だから、やめてって言ってるでしょ!」
「――茉莉。てめー、俺に歯向かうつもりなわけ?」
そうだよ、と茉莉は瑠音のその言葉を肯定した。は、と瑠音の目が不快げに細められる。
「こんなときだけど――ううん、こんなときだから言わせてもらうね。わたしはもう、瑠音とは一緒にいられない。わたしは、わたしがどうしたいか、誰といたいか、何をしたいかは、これからは全部自分で決める。好きなものも、嫌いなものも、もうあなたには縛られない」
ちっ、と苛立たしげに瑠音は舌打ちをする。電源が入ったままのマイクがその音を拾い、体育館中に反響した。
「わたしは――わたしの大事な人を傷つける人とはもう一緒にいたくない。だから、わたしたち別れよう。もう終わりにしよう。瑠音、今までありがとう――さよなら」
その言葉は茉莉自身にも向けられているように陽生は感じた。これは彼女にとって、きっと――過去との訣別だ。
「てめー、今まで誰に守られて生きてきたと思ってる。要は他の男に乗り換えたいから別れたいってことじゃねーか。そんな都合いい話があるか。――この尻軽ビッチが」
「お前……」
陽生は立ち上がる。やんのか、と瑠音が陽生を睨んだ。
「――佐倉、文化祭前日に手の骨全部折られたいか? それとも首の骨? 心羽ちゃん怖がらせてくれた借りも返さないといけないんだけど……どうする?」
冷たい刃のように研ぎ澄まされた朔也の声が場に割って入った。これは相当怒っていると、陽生は長年の経験則で察する。
「茉莉。女の一人もろくに守れねー雑魚にしがみついて、せいぜい後悔しろよ。――俺はどんなに泣いて謝ったって、てめーを絶対に許さない」
朔也相手では分が悪いと察したらしい瑠音は、茉莉に対して捨て台詞を吐くと、ステージから飛び降りた。瑠音のバンドメンバーたちも、陽生たちを睨むと彼を追いかけてステージを降りていった。
瑠音たちがいなくなると、陽生は小さく溜息をついた。何はともあれ、瑠音が指摘した設備不備は事実だ。文化祭実行委員として、仕事をしなければならない。
「朔也、天沢。わりいんだけど、屋上の垂れ幕の続きやってきてくれねえ? おれは芦屋とステージの設備の設定を再確認しないといけねえ」
「いいけど陽生、そんなこと言って芦屋とイチャつくつもりじゃないの? ステージ袖とか、そういうのにお誂え向きだぞ」
「馬鹿言うな。完全下校時刻まで時間ねえんだ、そんな余裕あるわけねえだろ。――そういうわけだから、屋上は頼んだぞ」
「はいはい、お邪魔虫は退散しますよっと。心羽ちゃん、行こ」
「うん、さっくん」
そう言うと、朔也と心羽はステージを降り、体育館を去っていった。秋宵の体育館に静寂が降りる。開け放ったままの体育館の扉から、鈴虫の歌声が忍び込んでくる。
やけに静かな気がして陽生が背後を振り返ると、茉莉が胸元を押さえてステージの上でへたり込んでいた。陽生は膝を折ってしゃがみ込むと、茉莉と目線を合わせる。
「芦屋? どうした、どっか具合でもわりいのか? それとも、佐倉に何かされたのか?」
陽生の問いに、ううん、と茉莉はかぶりを振った。彼女は誰もいない体育館の戸口のほうを見やりながら呆然として呟く。
「わたし……瑠音に初めて言い返せた……? 自分の意見を言えたの……?」
「……ああ。お前は自分の意思で佐倉と離れることを選んだんだよ」
そっか、と茉莉は噛み締めるように小さく頷いた。彼女は一人で歩き出すことを選んだ。長い間、瑠音に奪われていた、自身の意思という翅を取り戻したのだ。
「……機材の設定の見直し、しちゃわないとね」
そう言って茉莉は立ち上がる。その姿はまるで羽化したばかりの蝶が初めて羽ばたこうとしているように陽生の目には映った。
どうしてこうなったんだ。茉莉が縫ってくれたピンク色の魔法少女の衣装に身を包んで、陽生は呆然と立ち尽くした。
彼女持ちの男子たちがこぞって女子を裏方仕事に回したせいで、文字通りの正しい意味での魔法”少女”は数人しかいない。魔法少女姿を他の男の目に晒すくらいならと、漢気を見せた女装姿の男子たちばかりが教室内を動き回っている。
頭頂部を彩る大きなリボン。胸元にも同じ色のリボンがあしらわれ、袖は大きく膨らんでいる。パニエを何枚重ねにもして、膨らませた衣装の裾にはフリルがこれでもかというくらいに縫い付けられている。そんな愛らしいスカートの裾の下から覗いているのはすね毛まみれの男子の足ばかりで、ここが地獄かと陽生はうんざりとしていた。
「まじかる☆さくや、お客様ご案内ー! あなたのハートをごりごりずどーん!」
他校の制服姿の女子二人組がやってくると、水色の魔法少女の衣装に身を包んだ朔也が画用紙で作ったステッキをハートの形に振ってみせた。客の女子二人は爆笑しながらスマホを取り出すと、ノリノリで決めポーズを取る朔也を撮影する。
「ごりごりずどーんって……」
確か自分たちのクラスは魔法少女カフェであって、間違っても工事現場とかの類ではなかったはずだ。台詞の前半はコンセプトを考えれば辛うじて理解できるが、後半の物騒な擬音は何なんだ。
この謎のセリフを考案したのはノリノリで接客している、クラスの出し物係でもある朔也だ。普段はセンスのいい彼が、どうして今回に限ってはそのセンスの良さを発揮できなかったのか謎すぎる。
担任の岸野が金と銀の魔法少女衣装で呼び込みをしているのが功を奏したのか、客足は途絶えることはない。ひっきりなしにまじかるなんとかという延べ口上が教室内に響き渡っている。――但し、声変わり後の男子高校生の低音ボイスで。
「魔法少女まじかる☆さくや、愛と希望とオレンジジュースをおっとどけー!」
朔也は裏方仕事をしている女子からオレンジジュースの乗ったトレイを受け取ると、そんなことを宣いながらくるりと回ってみせる。ふわりとスカートの裾が広がり、朔也はウィンクを決めた。
ふいに客と思しきこの学校の制服姿の女子が戸口に姿を現した。他の男子たちは接客をしているか、グロッキーな目でキラキラとしたモールのぶら下がる天井を見つめているかしている。自分が行くしかないかと、陽生は渋々ながら画用紙で作られたステッキを握りしめると口を開いた。
「魔法少女まじかる☆はるき、お客様……って、え」
目の前に立つ少女の顔を認めると、陽生は絶句した。おかしそうに彼女はくすくすと笑う。――彼女は茉莉だった。
「貴嶋くん、わたしが縫った衣装ちゃんと着てくれたんだね。サイズもぴったりみたいでよかった。裏地までこだわり抜いた甲斐があった。……で、台詞の続き、言ってくれないの?」
「言わねえよ。……っていうか、お前いつもと髪型違うのな。一瞬気づかなかった」
「ああ、これ? 心羽がやってくれたの。裏方の女子全員でお揃いでツインお団子しよーって」
「天沢のやりそうなことだな……っていうか、芦屋、お前何か用か? まさか客として来たってわけじゃねえだろ?」
「このまま貴嶋くんに接客してもらうのも楽しそうなんだけど、そろそろ文化祭実行委員の見回りの時間でしょ? それで呼びに来たの」
もうそんな時間か、と陽生は黒板の上の時計を見やる。時計は午後二時二十三分を指していた。
「わりいな。着替えてくるからちょっと待っててくれ」
着替えのために裏に回ろうとした陽生を待って、と茉莉が呼び止めた。茉莉はスマホをブレザーのポケットから取り出し、カメラアプリを取り出すと陽生へとくっついた。
「せっかくの文化祭だし、記念撮影しよ?」
「ちょっ……」
待て、と止める間も無く茉莉はシャッターを切った。いつもと違う髪型の茉莉と険しい顔の魔法少女姿の陽生の姿が切り取られる。
「ちょっと陽生、お客さんとイチャイチャしないでくれる? ここそういうお店じゃないんだけど」
「馬鹿言うな、朔也。これはその……あれだ、チェキサービスとかいうやつだ」
陽生の苦し紛れの言い訳に朔也の目が細められる。そして、彼は何かを思いついたらしくにんまりと口の端を吊り上げると、茉莉へと水を向けた。
「なあ、芦屋。後でちゃんと申請はするから、うちのクラス、チェキサービスも追加していい?」
「うん、別に問題はないと思うけど……」
「よっしゃ、これで売り上げ競争上位に食い込めるぞ! まじかる戦隊1‐A、スマイルチャージしてくぞー!」
こんなむさ苦しい魔法少女たちにスマイルをチャージしてどうする気だ。クラスメイトたちをまだまだ働かせる気満々の朔也の不穏な発言を聴覚に捉えながら、陽生は着替えスペースになっている衝立の裏へと回る。女児向けアニメの主題歌と野太い決め台詞が混ざり合って教室に響いていた。
吹奏楽部とチアリーディング部による合同ステージが終わると、体育館の中はざわざわと喧騒に包まれた。今は十四時五十五分。あと五分で瑠音たちのバンドによる演奏が始まる時間だった。
こちらです、と茉莉はSJ放送のスタッフたちを誘導する。SJ放送のスタッフたちは、体育館の壁際に陣取ると、十五時からの生中継のために機材の準備を始めた。
カメラマンによって、黒いソフトケースのファスナーが一気に引き下ろされる音がした。小型カメラを取り出すと、カメラマンはそれを片手で軽く振る。
「バッテリー大丈夫?」
ディレクターがカメラマンへとそう問うた。問題ないとカメラマンは頷き返すと、肩にストラップを掛け、カメラを何度か構え直す。彼はファインダーを覗きながら、数歩前後に動いた。
ディレクターはカメラの上部に取り付けられたモニターを覗き込むと、カメラマンへと指示を出す。
「これじゃステージ遠いよ。もっと寄せて」
「あんまり寄せるとステージ全体が映りませんよ」
「別にいいよ、ボーカルの子抜くくらいのつもりでいて」
了解です、とカメラマンは画角を調整する。ディレクターはジャケットの胸元にピンマイクを付けると、あー、あー、と声を出した。
「音入ってる?」
「入ってます、大丈夫です」
報道のプロたちによって、無駄のない動きで生中継の準備が進められていく。ステージ横の時計が午後二時五十九分を指すと、ディレクターはカメラの前に立った。
「本日は私立桜台高校の文化祭を生中継でお届けしております。これより、体育館のステージでライブが始まるとのことです。ライブを行なうのは、弱冠十四歳にしてデビューしたあのバンド、『BLACK RIOT』とのことです! 圧巻のパフォーマンスをお楽しみください!」
かちり、と長針が動き、午後三時丁度を指した。パッと体育館のステージがライトで照らされる。
ジャーン、と歪んだギターの音が鳴る。激しくドラムが打ち鳴らされる。キーボードは冷たく尖った音を奏で、ベースは低い唸り声を上げる。重なり合ったその調べは、彼らの在り方自体を訴えているようだった。――まさに『黒い暴動』だ。
激しく印象的なイントロが終わると、瑠音は噛み付くように歌い出した。世界への反抗心を、自身の存在の主張を彼は激情と共に歌い上げていく。両腕を組んでステージを眺めながら、陽生はぼそりと呟いた。
「あいつ……プロがどうのって言ってたけど、実力は本物なんだな」
うん、と隣で茉莉が頷いた気配がした。彼女はほろ苦い笑みを浮かべると、言葉を続ける。
「瑠音は昔から歌が上手かったから。ううん……瑠音が歌うようになったのはわたしが理由だから」
「芦屋が? どういうことだ?」
「小さいころ……まだ、五歳くらいのときのことだったかな。瑠音はまだ自分に自信のない、引っ込み思案の男の子で……そのころ、わたしが瑠音の歌を褒めたことがあったの。そしたら、瑠音は歌を練習するようになった。いつかとっておきの一曲をわたしに贈りたいからって」
「その引っ込み思案な男の子が、どうしてああなったんだ?」
「原因は中学に上がったころ、わたしの両親が離婚したことかな。わたしのお父さんが仕事で忙しいこともあって、瑠音なりにわたしのことを守らないといけないって思ったみたい。そのころから……瑠音はだんだんと周囲に対して攻撃的になっていったの」
「だからって、あんな横暴な態度が許されるわけがねえだろ。目的と手段が逆になってる」
そうだね、と茉莉は目を伏せた。そして、彼女はそっと陽生のブレザーの袖を引く。
「ねえ、貴嶋くん……わたし、これでよかったんだよね」
「……後悔してるのか?」
「わからない。ただ、瑠音は昔からずっと一緒で……家族よりも近くにいた存在だったから。当たり前が当たり前じゃなくなって、少し……心許ない感じがする。何だか……痛くて、ふわふわする」
「……そうか」
間奏で瑠音がマイクに向かってシャウトを放つ。キン、とスピーカーの音が割れる。その鋭い声にはもう、優しく引っ込み思案だった男の子の面影はなかった。
「あーもう、あいつライブハウスのノリで演りやがって。いつもの八割くらいでやらねえと、絶対音割れするって芦屋が言ったの忘れてんな」
陽生は小さく肩をすくめる。いつもの通りのパフォーマンスができなかったからといって、後で苦情を受け付けるつもりはない。たかが体育館の設備にそれだけの性能を求めるほうがお門違いだ。
茉莉は寂しげにステージを見つめる。袂をわかった彼は、自分とは違う世界で生きる人間だ。この先、彼の背中はきっとどんどんと遠ざかっていく。
(それでいい……きっと。わたしは、それを望んだ。――それを選んだ)
茉莉は唇を噛み締める。聴覚を刺す歌声は自分のためではなく、彼を求める大衆のためのものだ。
ごめんね。さよなら。茉莉の唇がそっと動く。彼女は激しさを増す歌声と共に訣別の痛みを改めて胸に刻み込んだ。――これが大事なものを失う痛みなのだと感じながら。
小さいころからずっと繋いで歩いてきた手を心の中で茉莉はそっと離す。――これでいい、と自分に言い聞かせて。
激しくドラムが打ち鳴らされ、クラッシュシンバルの音が体育館の空気を切り裂いた。瑠音のロングトーンの残響がスピーカー越しに揺れている。
わあっと歓声が上がり、拍手が湧き起こる。演奏が終わったのを皮切りにカメラの前でディレクターが喋り出したのを聞きながら、陽生は複雑な顔でステージを見つめる茉莉を見ていた。
「なあ、芦屋。おれたちのシフトって、確かこのまま休憩だったよな。何か軽く見ていかねえか?」
瑠音たちのステージが終わり、取材に来ていたSJ放送のスタッフを見送った後、陽生はそう茉莉に声をかけた。いいよ、と茉莉は微笑んだ。
「どこのクラスがどんなことをしてるのかも確認したかったし。申請書の内容だけじゃわからないことも多いから」
「お前、本当に真面目だよな……」
休憩時間くらい肩の力を抜けばいいのに。そう思いながら、陽生は溜息をついた。束の間の間だけでも、お遊びめいたデートを茉莉と楽しみたかった。
校門から戻ってきた陽生たちは校庭の方へと足を向けた。文化祭実行委員会に提出された書類によれば、校庭では各クラスや部活動有志による飲食系の屋台が出ているはずだった。
「……」
校庭をぐるりと見回すと、陽生は頭が痛いと言わんばかりにこめかみを押さえた。なんだこれは。揃いも揃ってトンチキな屋台しかない。
暗雲わたあめだとか海賊が作った山賊焼なんていうのはまだ序の口だ。チョコきゅうりだとか桜姫が愛したタピオカコーンポタージュなどという、正気を疑いたくなるものもある。恋するフォーチュンたこやきに至っては、異物混入がないかどうか、文化祭実行委員として心配になってくる。
「芦屋……これ、どっから突っ込んだらいいと思う?」
「突っ込むも何も、文化祭実行委員なのに貴嶋くん知らなかったの? この学校の文化祭の出し物は、伝統的に変わり種が多いんだよ」
「変わり種って……とりあえず、チョコときゅうりって合うのか? しかも、ミルクとホワイトとビターから選べるとか無駄に凝ってるし……」
「きゅうり自体がそんなに主張が強い野菜じゃないから、意外と大丈夫なんじゃないかな?」
「だとしても……何でこんな企画通したんだよ……」
「だって、きゅうりは桜島市の特産品でしょ? 今回のコンセプト的に、地産地消ができるのはいいことだと思うけど」
きょとんとして茉莉は陽生の顔を見上げた。優等生め、と思わず陽生は毒づいた。
「じゃあ桜姫が愛したタピオカコーンポタージュっていうのはどうなんだよ? 桜姫の時代にタピオカもコーンポタージュもねえだろ」
「どうだろう? 桜姫は舶来品が好きだったし、城下町を潤すために南蛮貿易を先頭に立って旗振りしてたって記録が残っていたから、案外近いものはあったのかもしれないよ」
「聞けば聞くほど、何者なんだよ桜姫……ただのお姫様って感じじゃねえな……」
「そうだね。それはそうと、わたしお腹空いちゃった。何か食べない?」
「いいけど……何にするんだ?」
じゃああれ、と茉莉が指さしたのはよりにもよって、恋するフォーチュンたこやきの屋台だった。
「まじで? まじで、あれ食うの?」
「うん、ちょっと運試ししておきたくって」
そう言うと、茉莉は軽い足取りで屋台へと向かっていった。彼女はスマホを取り出すと、それをNFCリーダーへと翳して決済をする。今時は高校の文化祭レベルでもQRコード決済ができるのか、と関心しながら陽生は少し離れた位置でたこ焼きを買う茉莉の後ろ姿を見ていた。
「貴嶋くん、お待たせ!」
たこ焼きを買うと、茉莉は踵を返し、陽生の隣へ戻ってきた。そして、彼女は楊枝をたこ焼きに刺すと、陽生の口元へと持ってくる。
「ほら、貴嶋くんも一緒に運試ししよう?」
「……それ、異物混入とかしてねえんだろうな?」
「何か、大当たりだとミニトマトが入ってるって言ってたよ」
「それはそれで嫌だな……」
茉莉にあーんと言われるままに、陽生は渋々口を開ける。ほくほくと熱いたこ焼きを口の中で噛んだ瞬間――熱さが衝撃となって炸裂した。
「……っ!?」
陽生は事態を飲み込めずに目を白黒とさせながら、咳き込んだ。隣でもぐもぐとたこ焼きを食べていた茉莉はそれを嚥下すると、くすっとおかしそうに笑った。
「貴嶋くん、大当たり引いたみたいだね。今日、何かいいことあるかもよ?」
「いいこともなにも、おれ、今、今日最大の不運に見舞われた気がすんだけど……。熱したミニトマトとか凶器過ぎんだろ……文化祭実行委員の権限で今からでも具材の変更を……」
「そうは言っても、ミニトマト自体は異物でも何でもないし、特産品の地産地消もしてるから、わたしたちが止められる理由もないんだよね。それより、貴嶋くん、もう一個食べる?」
「おれは遠慮する……これ以上の不運に見舞われたくねえ……」
おいしいのに、と言いながら茉莉は残りのたこ焼きをぱくぱくと平らげていく。何だか小動物みたいだな、と思いながら、陽生は彼女がたこ焼きを頬張る様を見ていた。
大当たりを引き当てることなく茉莉がたこ焼きを食べ終えると、休憩時間が半分近く終わっていた。
「芦屋、中も軽く見て回るか。休憩終わっちまうからな……つってもどこのクラスもうちのクラスと同じくらいイカれてるんだろうけどな……」
「貴嶋くん、それも個性だよ。うちの学校は個性を重んじる校風だから」
「物は言いようだな……」
そんな会話を交わしながら陽生と茉莉は賑やかな声が飛び交う校舎の方へと戻っていった。二人は下駄箱でローファーから上履きに履き替えると、三年生の教室が並ぶ二階へと階段を上っていく。
「……なあ、芦屋。あれってセーフなのか?」
暴露系クイズ大会と書かれた札を持つ上級生が立つ、3‐Cの教室から漏れ聞こえてきた言葉に、陽生は思わず足を止めた。
「物理の山崎先生と音楽の相原先生は、人には言えない大人の関係である! A、たまたま仲がいい! B、秘密の相談相手! C、不倫関係! D、答えられない! ――さあ、どれでしょう?」
際どい暴露問題に陽生は固まる。確か、山崎も相原も既婚者で子供がいたはずだ。
「はい、正解は! Dの答えられないでしたー! 真相は皆さんのご想像にお任せしまーす!」
「それ絶対、クロじゃん……うわあ、マジかよ、W不倫……。この学校って爛れてんな……」
教室内の出題者の言葉に、陽生は遠い目でそんな感想を漏らす。そんな陽生をまあまあ、と茉莉は宥めた。
「ほら、実際はどうなのかって明言したわけじゃないんだし。どの先生とどの先生がどうとかって噂は不定期に流れてるし、そんなに神経質になることもないじゃないかな。そもそも事実だったら、当事者の山崎先生か相原先生が止めてるはずだよ」
「それもそうか……」
そんな噂が不定期に出回る学校もどうなのかと思いながら、陽生は茉莉と共にその場を離れる。「ロシアンルーレットビンゴ、参加者募集中です! 自分の番号が呼ばれたら即座にドボン! ビンゴするのが早いか、脱落するのが早いか……!」「耐久コーヒーカップやってまーす! 最後まで残るペアは誰だ!」校庭の屋台と同様に変わり種が多いが、企画自体はよく練られている。思わず陽生は感嘆の息を漏らした。
「さっきの暴露クイズはどうかと思うけど、面白そうなのもそれなりにあるんだな。変わってるとは思うけど」
「貴嶋くん、何が気になった? どこか覗いていく?」
「おれ的にはロシアンルーレットビンゴが。けどまあ、もうすぐ休憩終わっちまうから、参加するのは難しいな」
「……もうちょっと時間あったらよかったのにね」
「……そうだな」
三年生の教室が並ぶ廊下を通り抜けると、二人は階段を上がる。そして、階段を上りきった途端、Y2Kファッションを意識したらしいギャルっぽい衣装に身を包んだ二年生に話しかけられた。
「あっ、ちょっとそこのお二人さーん! 陽キャの楽天占い館いかがですかー! まじでブチアガる未来しか視えないから! 三分で終わるし、寄ってってー!」
ほらほら、とノリの良い女子生徒に背中を押され、陽生と茉莉は半ば強引に2‐Eの教室へと連れ込まれた。ズンズンとビートが腹に響くダンスミュージックが大音量で流され、クラブを意識したのか天井ではミラーボールが回っている。
二人は女子生徒に案内され、教室中央の机の前へと座らされた。机には紫の蝶の柄がプリントされた黒い布がかけられていて、何だか時代を感じさせた。よく見れば、布のふちではラインストーンがきらきらと輝いている。
「さーて、お二人は何占ってほしい? 恋愛運? っていうかもう付き合ってる感じ?」
「いや、そんなんじゃねえし、特におれは占ってほしいこともねえんだけど……」
幸運やら占いやらの類は先ほどのフォーチュンたこやきの件で懲り懲りだ。陽生がそう言うと、茉莉はむう、と少し不満そうな顔をした。
「まーまー、じゃあ、お二人の近い未来を占っちゃいますか! うち、トランプ占いなんだけど、二人とも好きなカード選んじゃってー!」
占い師役のギャルファッションに身を包んだ女子生徒は、トランプを布の上に並べていく。陽生と茉莉は選んだカードを指さそうとして――指と指が触れ合った。占い師役の生徒はにやにやとしながらこう言った。
「二人とも超気が合っちゃう感じじゃん! まさに以心伝心、相思相愛って感じー! ……で、肝心の結果だけどー」
占い師役の生徒は、二人が選んだカードをめくった。そのカードにはハートが七つ並んでいた。
「おー! これは近いうちに恋愛的にいいことありそうな感じ! いい感じに運気ブチアガってる感じ!」
「さいですか……」
ハイテンションな占い師役の生徒に陽生はうんざりとしながら、相槌を打つ。占い師役の生徒は机から身を乗り出して、陽生の耳元に口を寄せるとこう囁いた。
「後夜祭もあるんだし、根性見せなよ?」
「……大きなお世話です」
「貴嶋くん、どうかしたの?」
「何でもねえ、こっちの話。それより休憩終わるし、そろそろ行くぞ」
うん、と茉莉は不思議そうな顔をしながらも頷いた。そして、二人は席を立つと、2-Eの教室を後にした。
休憩が終わるまで、あと五分しかない。陽生と茉莉は一年生の教室がある四階へと階段を上がっていく。階段を上がりきって、廊下を歩いていると、金銀のド派手な衣装に身を包んだ中年の男が呼び込みのために声を張り上げているのが聞こえてきた。――声の主は担任の岸野だ。
「魔法少女まじかる☆てぃーちゃー☆あるてぃめっと、ぎゅるぎゅるりーん! 1‐A、魔法少女カフェやってます! 桜台高校にスマイル、アナタのココロにハピネスチャージ!」
岸野の台詞に陽生は絶句した。突っ込みどころが多すぎるが、とりあえずぎゅるぎゅるりーんは、腹を下しているみたいで飲食店には合わないような気がする。
「なあ芦屋……あの台詞、何?」
「貴嶋くん、知らない? わたしも心羽から聞いたんだけど、氷上くんが先生用に専用台詞考えたらしいよ」
「うわあ……」
朔也もえげつないことをする。自分たち男子高校生でもかなり痛いのに、中年男性があの出で立ちであの台詞を叫ぶのは痛々しすぎる。
金と銀の魔法少女衣装に身を包んだ岸野は陽生と茉莉の姿を認めると、情けなく眉尻を下げてこう言った。
「あっ、文化祭実行委員カップル。いいところに来たな。俺と呼び込み代わってくれよ。俺もう疲れたよ」
「カップルじゃないですし、疲れたなら甘いものでも食ったらどうですか。おれ考案のみらくるチョコムース、あれ結構美味いですよ。先生も担任なら、クラスの売り上げに貢献してください」
「え、俺、こんなにクラスに貢献してんのに、金まで払わされんの?」
「何か問題あります?」
「大アリだろ……っていうか、俺がそのなんちゃらムース食ってる間だけでも、お前らが呼び込み代わってくれんのか?」
「嫌です。っていうか、芦屋の分の衣装もないですし」
「じゃあ、芦屋は俺の衣装着ていいから……だから代わってくれない?」
岸野の発言に陽生はずいと一歩前に出る。今の発言は看過できないことだらけだ。
「四十代のオッサンが長時間着た後の汗臭くてヤニ臭い衣装を芦屋に着せられるわけないですよね? っていうか、そもそも芦屋の魔法少女姿なんて、おれが絶対に他の男どもに見させねえ」
「随分と酷い言われようだな……っていうか、貴嶋。さっきカップルじゃないって言ってたけど、じゃあ何で付き合ってないんだ? 俺は不思議でならないよ……」
「逆に何で先生はそんなにおれたちをくっつけたがるんですか……」
げんなりとしながら陽生がそう聞くと、岸野は魔法少女姿には不似合いな真面目な表情を浮かべ、彼に向き直った。
「一教育者として言うけどな、芦屋と佐倉の関係性は俺だって見てられなかったよ。校長とか教頭の手前、佐倉をどうにもできないのがすごく歯痒かった。
だけど、貴嶋は佐倉と違って、芦屋のことを大事にしている。芦屋のことをきちんと、尊重しているように見える。俺はな――せめて、自分が担当している生徒くらいは幸せになってほしいんだよ」
「……先生って、結構ちゃんと生徒のこと見てるんですね」
「俺は自分の生徒のことが大事だからな。だから、これは俺の願望で、お前たちに強制することはできないけど……お前たちがこれからも笑顔でいられるためにどうしたらいいか、少しでもいいから考えてみてほしい」
はい、と陽生は神妙に頷いた。そして、黙って岸野との応酬を見守っていた茉莉を彼は振り返り、目配せした。
「芦屋……後で時間をくれ」
わかった、と茉莉は頷いた。そのとき、教室の戸口から水色の魔法少女姿の朔也が顔を覗かせた。
「先生、呼び込みサボんないでくださいよ。あと、陽生、芦屋、そろそろ交代の時間」
今行く、と陽生は教室へと足を踏み入れる。一般公開時間が終わり、後夜祭が始まった後に何をするべきか――もう肚は決まっていた。
「まったく実行委員長の奴……おれたちに後処理押し付けて美味しいところだけ持っていきやがって……」
十月の空は紺青に色を変え、校庭では後夜祭が始まっていた。実行委員長が表彰を行なう声が窓の外から聞こえてくる。優秀賞、最優秀賞、と該当のクラスが呼ばれる度に歓声が上がる。
陽生と茉莉は多目的室で文化祭の後処理に奔走していた。一般公開時間が終わってから、出し物の内容について後申請してきたクラスが山ほどあったからだ。
「貴嶋くん、SJ放送へのお礼メール終わったよ。そっちの申請書捌くの手伝おうか?」
「わりぃ、頼む……」
陽生は申請書の束を半分、茉莉へと渡した。彼女はブレザーの胸ポケットからシャーペンを抜くと、申請書に目を走らせ始める。
「ねえ、貴嶋くん。文化祭、楽しかったね」
「お前にとっては色々あっただろうけど……楽しかったんだったらよかったよ」
「……うん」
ドン、と音が響き、窓の外の空に光の花が咲いた。陽生は席を立つと、多目的室の電気を消す。
「……貴嶋くん? どうしたの、電気なんて消して」
「このほうが綺麗に見えるだろ、花火。まだやることたくさんあるけど、花火くらいは見ようぜ」
そうだね、と茉莉は微笑むと、シャーペンを置いた。そして、席を立つと彼女は窓辺へと歩いていく。
窓の外を眺める茉莉の隣に陽生は立つ。そして、なあ、と彼は緊張で掠れた声でこう言った。
「――芦屋。前にも言った通り、おれはお前のことが好きだ。もし、お前の気持ちが変わっていないなら、これからもおれと一緒にいてくれないか。――付き合おう、茉莉」
「貴嶋くん……」
茉莉は目を見開くと、陽生を見つめた。暗い教室の中で視線が絡まり合う。
「佐倉と別れたばっかりだっていうのもわかってる。おれは不器用で、こういうことも初めてだから、お前のことを傷つけない保証もない。だけど……お前が笑っていられるように、努力はしたい。こんなに危なっかしくて、放っておけなくて、可愛くて――大事な奴は他にはいねえから」
「わたしで……いいの?」
「お前だからいいんだよ――茉莉」
戸惑う茉莉に陽生は真正面からそう言った。茉莉の目が揺れる。やがて、彼女は心を決めたのか、小さく息を吐いた。
「わたしも、貴嶋くんの――陽生くんの、そばにいたい。一緒にいたい。これから未来《さき》を一緒に歩くのは、陽生くんがいい。――わたしと、付き合ってください」
ああ、と陽生は小さく笑うと、そっと茉莉の頬に手を添えた。彼は花火で照らされる茉莉の顔を覗き込んだまま、しばらくそのままでいた。――茉莉の逃げ道を塞いでしまいたくなくて。
「……いいか?」
「……うん」
「下手でも文句言うなよ」
もう、と茉莉が不服そうに頬を膨らませる。直後――二人は破顔した。そして、二人はどちらからともなく唇を交わし合った。このまま二人の境目が溶けてしまえばいいのに――茉莉の唇の柔らかさと甘さを感じながら、陽生はそんなことを思わずにはいられなかった。
窓の外では花火が上がり続けている。唇を離した二人は名残惜しそうに見つめあった。――お互いを大事に思う気持ちに胸を締め付けられながら。
後夜祭が終わった後の校舎内は静寂に包まれていた。各クラスの片付けは翌日となったため、今、校舎に残っているのは文化祭実行委員会だけだった。――もっとも、無責任な他の実行委員たちは陽生と茉莉に仕事を押し付けて、それぞれのクラスの打ち上げへと行ってしまったが。
陽生と茉莉は屋上で垂れ幕の引き上げを行なっていた。「第二十八回桜台高校文化祭」と書かれた垂れ幕を屋上のコンクリートの上に引き上げ終わったとき、制服のズボンでスマホが唸った。朔也だろうか、と思いながら、陽生がメッセージアプリを起動させると、未来の自分からメッセージが届いていた。
『高校生のおれへ。おれからのメッセージはこれが最後になる。
まずは芦屋の未来を変えてくれたこと、感謝している。
最初にお前にメッセージを送ったあの日は、佐倉と芦屋の結婚式の日だった。けれど――芦屋は、結婚式の前日に自ら命を絶った。
お前へメッセージを送ったのは、朔也と天沢に頼まれたからだ。――芦屋を救ってほしい、と。おれと芦屋は、親友の彼氏の友達という、辛うじて結婚式で呼ばれるくらいの関係性でしかなかった。高校時代に同じクラスで、一度文化祭実行委員で一緒になったくらいしか接点もなかった。それでも、朔也の頼みだったから、おれはこれを引き受けた。
意図のわからない、抽象的なメッセージばかり送って、困惑しただろうと思う。けれど、おれは、お前がおれの指示で佐倉から芦屋を略奪して付き合うのは違うと思った。お前自身の意思で、芦屋を好きになって、どうにかしてほしいと思っていた。
だけど、お前のおかげで、未来は変わった。今、芦屋は――茉莉はおれの隣で笑っている。茉莉は前を向いて歩けている。本当にありがとう』
いつにない長文に、陽生は眉根を寄せた。どうしたの、と垂れ幕を畳んでいた茉莉は陽生へと声をかける。茉莉は立ち上がり、宵闇の中に浮かび上がる陽生のスマホの画面を覗き込むと目を丸くした。
「これは……未来の陽生くんからのメッセージ? 送信日時が十年後になってる」
「茉莉には、ちゃんと全部説明しないといけねえよな」
陽生は屋上のフェンス沿いのコンクリートの縁に腰を下ろした。茉莉も隣へと座る。陽生はチャット画面を上にスクロールしながら、言葉を探した。
「まずはそうだな……四月に体育館裏で会ったときの――佐倉と喧嘩して、お前が泣いていたときのことだ。あれは、偶然なんかじゃない。未来のおれに指示された場所へ行ったら、お前がいたんだ」
「そう……だったんだ」
「あれから、校内のいろんなところで会うようになっただろう? あれは未来のおれからのメッセージがあったからなんだ」
「じゃあ、音楽室で会ったときに友達になろうって言ったのは? あれも未来の陽生くんの指示?」
違う、と陽生は首を横に振った。
「あれは紛うことなきおれの意思だ。未来のおれは、お前との接点こそ持たせようとしてたけど、自分の意思でお前と仲良くなってほしかったみたいだから」
「そういえば、心羽と氷上くんが付き合い始めたくらいのころから、四人で行動することが増えたよね。あれも未来の陽生くんが?」
「いや、あれはおれが朔也と天沢と決めたことだ。おれたちが一緒にいられるときだけでも、なるべくお前に佐倉を近づかないようにしようって。夏休みも何かと用事を作ってみんなでなるべく会うようにしようって」
そうだったんだ、と茉莉は呟いた。自分は思っていた以上に、みんなに守られていたのだ。
「……もしかして、未来の陽生くんからのメッセージの件って、心羽と氷上くんも知ってたりするの?」
「ああ。朔也にはメッセージが来るようになってから割とすぐに話した。天沢にも、夏休み前に」
「わたしだけだったんだね、何も知らなかったの。――わたし自身のことなのに」
「お前の性分的に知ってたら、おれたちに気を遣うだろ。これでよかったんだよ。――最悪の未来は変わったんだから」
「……ありがとう」
陽生は未来の自分とのチャット画面を下へとスクロールしていく。この半年程度の間に随分と色々なことがあった。その思い出を彩っているのは、いつだって茉莉だった。
「最後のメッセージ、すごく陽生くんらしいね。無関係なわたしのことでも友達の頼みなら引き受けちゃうところも、過去の自分自身であっても何かを強制したくないって思ってるところも、すごくそんな感じがする。――陽生くんは人の心と意思を大事にしてくれる人だから」
「買い被りすぎだ」
照れ臭さでつい口調がぶっきらぼうなものになってしまう。その瞬間、ざざっとチャット画面にノイズが走った。
チャット画面に表示された未来の自分からのメッセージが一文字ずつ消えていく。現在から過去へと、メッセージが少しずつ光の粒子となって、夜空へと吸い込まれていく。思わず、陽生は声を漏らした。
「あ……」
「未来が変わったから……十年後の陽生くんがメッセージを送ってきたっていう過去もなくなったんだね」
未来の自分から送られてきた言葉がすべて消え、まっさらになったチャット画面にはただ、メンバーなしとだけ表示されている。けれど、それでいいのだと陽生は思った。
(未来のおれに指示してもらわなくたって、これからは現在《いま》のおれが茉莉を守る。――十年先も、二十年先も、ずっと、ずっと)
夜空にきらめく星を見上げ、陽生はそっと胸中に誓いを刻む。新しい未来を歩き始めた二人を幾億光年先から星々が静かに見守っていた。



