未来を変える恋、はじめます。

 陽生が扉を潜ると、夏休み明けの朝の教室はどよめきに包まれた。ヤクザとやりあって負けたとか、ネコと喧嘩してずたぼろにされたらしいだとか、根も葉もない噂がひそひそとクラスメイトたちの間で囁き交わされる。前者はともかく、後者は一体どこからでてきたんだ。
「よっ、スズメに負けた勇者くん」
 クラスメイトたちの何の根拠もない話に陽生が辟易していると、先に登校していた朔也がにやにやとしながら声をかけてきた。確かにあの夜、瑠音に一方的に嬲られた覚えはあるが、スズメと喧嘩した事実などない。
「何なんだよ……ネコと喧嘩とかスズメと喧嘩とか……。おれってそんなに弱そうに見えんのか?」
「まあ、普段目立たないくせにその出で立ちだからな……いろんな憶測も飛び交いもするだろ」
 朔也が指摘した通り、陽生は顔中に青黒い痣ができ、頭には包帯が巻かれた状態だった。
「朔也、変な噂振り撒いてるの、お前じゃねえだろうな」
「そんなまさか」
「じゃあ小動物と喧嘩して負けたとかダサいから、おれはチャリでドブに落ちたらしいってことにしておいてくれ」
「……そっちのほうがダサくないか?」
 朔也は一瞬、呆れたような顔を見せる。そして、彼は真顔に戻るとこう聞いた。
「メッセージアプリでも聞いた通り、お前、佐倉とやりあったんだよな。お前さ……あれから、芦屋と連絡取れてるか?」
「取れてねえ。っていうか取ってねえ。どのツラ下げて、連絡取ればいいのかわかんねえよ」
「お前なあ……。お前と佐倉の殴り合いなんて、芦屋からしたら一番見たくないものだろ。ちゃんとアフターケアしないでどうすんの」
「おれはどうせ気が回らねえよ……どうせ頭五針縫われて気が動転してた雑魚野郎だよ……」
「そんなふうに卑下しろとは言ってないだろ。それにしても、花火大会の日から芦屋がどうしてるのか気になるな。グルチャに反応ないどころか、心羽ちゃんがメッセージ送ってもまったく既読がつかないって言ってた。オレもメッセージ送ってみたけど、何も反応なかった」
「もしかして、佐倉にスマホを取られてるのか? あいつ、警察が来たせいで消化不良みたいな顔してたからな……」
 うーんと陽生と朔也は顔を見合わせる。なぜか嫌な予感がする。
 予鈴が鳴る五分前になって、心羽が登校してきた。彼女は自分の席へは向かわず、陽生たちのもとへとやってきた。
「さっくん、貴嶋くん!」
「心羽ちゃん、おはよう」
「……おっす」
「貴嶋くん、さっくんから聞いてた通り、随分ひどくやられたんだねえ……じゃなくて! 茉莉来てる?」
 心羽にそう聞かれて陽生は教室を見回した。噂話や夏休みの話に興じるクラスメイトたちの中に茉莉の姿はない。普段は余裕を持った時間に登校してくる茉莉がこんな始業ぎりぎりの時間になっても姿を現さないのは珍しかった。
「どうしたんだろう……茉莉、大丈夫かな」
 心配そうに心羽が呟く。安心させるように朔也は彼女の手を握ってやる。
 そのとき、ぶーんとスマホが鳴った。茉莉からの連絡かと、三人はそれぞれのスマホを取り出した。しかし、朔也と心羽のスマホには何の通知も届いていなかった。その代わりに、陽生のスマホに一件の通知が表示されていた。――未来の自分からのメッセージだ。
「「「保健室……」」」
 陽生のスマホを覗き込むと三人はそう呟いた。茉莉はきっと保健室にいる。
「朔也、天沢。おれ、保健室行ってくる」
「わかった……けど、女子同士じゃないとだめなことがあったら、そのときは心羽のことを呼んで」
 了解、とリュックを背負ったまま、陽生は踵を返す。そして、体育祭のスウェーデンリレーぶりの全力疾走で教室を飛び出した。
「おい、貴嶋! 廊下は走るな! それにもう朝のホームルーム始まるぞ! どこにいくつもりだ!」
 階段へと向かう途中で担任の岸野に出くわし、陽生はそう注意される。野暮用です! と叫んで、陽生は岸野とすれ違おうとする。
「野暮用って何だ! それにお前、そのぼろぼろな格好はどうした!」
「チャリでドブに落ちて、馬に蹴られました!」
 恋路を阻むものは馬に蹴られて死ぬだとかいう慣用句がある。それを考えれば、前半はともかく後半はなまじ嘘ではない。――瑠音からすれば自分と茉莉の間に割り込んできた陽生の存在は邪魔以外の何者でもないのだから。
「貴嶋、嘘をつくにしてももう少しまともな嘘をつけ! お前、帰りのホームルーム終わったら、職員室来い!」
 岸野の声を背後に感じながら、陽生は一段飛ばしで階段を駆け降りる。胸がざわざわして仕方がない。今は一刻も早く彼女に会って、無事を確かめたかった。

「――芦屋っ!」
 そう叫ぶと、陽生は保健室の引き戸を勢いよく開け放った。白衣に身を包んだ三十代後半の女性は戸口を振り返ると、陽生に苦言を呈した。
「ちょっと、保健室では静かにしてくれるかしら。具合が悪くて休んでる子だっているんだから」
「すいません……じゃなくて! 芦屋は、1‐Aの芦屋茉莉は来てませんか!?」
「芦屋さんね。あなたは芦屋さんとどういう関係?」
「クラスメイトで友達です。それで――一番大事な女の子です」
 そう、と保健教諭の高田は頷いた。眼鏡の奥の目は、陽生が嘘を言っていないかどうか値踏みをしているようだった。
「ああ……思い出したわ。あなた、体育祭のときに熱中症になった芦屋さんを救護テントまで連れてきてくれた子ね。――いいわ、会ってあげて。芦屋さんがいいって言えばだけれど」
 芦屋さん、と高田は締め切られたカーテンの向こう側のベッドへと声をかける。ほどなくして、大丈夫です、と聞き慣れた声が返事をした。どことなくその声は元気がないような気がした。
「――芦屋。開けるぞ」
「……うん」
 陽生は白いカーテンをそっと開けた。――刹那、陽生は息を呑んだ。
 顔は青白くやつれ、痣が浮いている。長かったはずの髪は顎のラインで短く切り揃えられていた。高田が手当てをしたのか、足には包帯が巻かれている。
「芦屋、お前、どうしたんだそれ!」
 陽生は思わず茉莉の肩を掴んだ。ただでさえ華奢なその身体は花火大会からのこの数日で更に痩せ細ってしまったように感じられた。ああこれ、となんでもないふうを装って、茉莉は微笑んだ。今にも泣き出しそうな笑みだった。
「ちょっとイメチェン。さっき高田先生に手伝ってもらってショートにしてみたんだけど、似合ってる? かわいいかな?」
「馬鹿じゃねえのか、お前。無理してるのが見え見えなんだよ。全然似合ってもねえし、かわいくもねえよ。そんな顔したやつに誰がそんなこというかよ、この馬鹿。――おれが好きになった芦屋茉莉は、こんな顔で笑わねえんだよ」
 そう言うと、陽生は茉莉を抱きしめようとする。しかし、茉莉は手で陽生の胸を突き飛ばして、それを拒否した。
「だ、め……わたしに、触らないで……っ! わたし、きたないの……貴嶋くんに、抱きしめてもらえるような、身体じゃないの……っ」
 茉莉はひくっひくっと嗚咽を漏らし始める。痣の浮いた頬をぼろぼろと大粒の涙が伝い落ちていく。陽生は制服のズボンポケットからタオルハンカチを取り出して、茉莉に差し出す。
「お前がダメっていうなら、おれは無理に触ったりしない。だけど、これくらいは受け取ってくれないか?」
「うん……ありがと……。でも、わたし……貴嶋くんに優しくしてもらう資格なんて、ない……」
「お前に資格があるとかないとか関係ねえ。――おれがそうしたいからそうするんだよ」
「そう……。あのね、わたし、貴嶋くんに謝らないといけないことがあるの……。貴嶋くんにもらった簪、瑠音に壊されちゃったの……」
「そんなこと気にしなくていい。お前が気に入ったものがあったら、簪の一本くらいいつでもまた買ってやるよ」
「うん……」
 茉莉はタオルハンカチで顔を拭くと、俯いた。彼女は床を見つめたまま、蚊の鳴くような声でぽつぽつと話し始めた。
「この前の花火大会の日……あの後、瑠音に殴られて。余計なことするなって。……っ、それから………ずっと、わたし……瑠音に犯され続けて……。今朝までずっと、殴られるか犯されるか、そればっかりで……」
 あのクソが。陽生は胸中で瑠音を詰る。声に出してしまえば、余計に茉莉を追い詰めてしまいそうな気がした。
「話はわかった。とりあえず、お前はなんか食え。どうせ花火大会の日から何も食えてないんだろ?」
 陽生はリュックから弁当箱を取り出すと、茉莉に渡した。弁当の包みを解いていくにつれて、彼女の顔は困ったように曇っていく。
「ごめんね、貴嶋くん……気持ちは嬉しいんだけど、今食欲なくって……」
「頼む。一口でいいから食ってくれ。卵焼き一切れとかで構わねえから」
「うん……」
 茉莉は箸で卵焼きを掴む。そして、しばらく逡巡したのちに、唇をそっと開くと卵焼きを口の中に迎え入れた。咀嚼を繰り返す度に、眼窩から涙がせり上がってきて、茉莉の頬を濡らした。
「芦屋さん、そろそろいいかしら? 車を回してきたから病院に行くわよ」
 高田がカーテンの間から顔を覗かせる。茉莉が陽生の弁当箱を手にしているのを認めると、あらと彼女は声を漏らした。
「少しでも何か食べられたみたいでよかったわ。これからアフターピルを処方してもらっても、空腹だと副作用が強く出て辛いだろうから」
 高田の白衣のポケットの中で車のキーが音を立てる。茉莉は陽生のタオルハンカチと弁当箱を自分のバッグに入れると立ち上がった。
「貴嶋くん、ありがとう。ハンカチもお弁当箱も洗って返すね」
「別に洗うとか、返すとか今は気にしなくていい。今は自分のことを第一に考えろ」
 うん、と頷くと茉莉は踵を返す。彼女は高田について保健室を出て行った。
 無人になった保健室のベッドに腰掛けたまま、陽生は髪を掻きむしった。数日前に縫ったばかりの頭の傷が痛んだが、そんなことは捨て置いた。――きっと、茉莉はもっと辛くて痛い思いをしただろうから。
 ちくしょう、と陽生は吐き捨てる。今は己の無力さを噛み締めることしかできなかった。

 朝のホームルームが始まる前、やり忘れた宿題を朔也のノートを借りて写させてもらっているときに陽生は妙なことに気がついた。前の席の椅子に後ろ向きに座って陽生のノートを覗き込んでいた朔也に、彼はそっと耳打ちをする。
「なあ、芦屋と天沢ってここ何日かずっと一緒に登校してきてるよな。あいつらって家同じ方面だっけ」
「あれ……もしかして、陽生、芦屋から何も聞いてないの?」
「何も……って何の話だ?」
 陽生は怪訝そうに眉を顰める。何って、と朔也は茉莉と心羽にちらりと一瞥をくれるとこう言った。
「芦屋、今、心羽ちゃんちに居候してるんだよ」
「は? 何で?」
「始業式の日に、花火大会の日からの一連の話を知った心羽ちゃんが激ギレしてさ。もう佐倉の近くに芦屋を置いておけないって、心羽ちゃんが強制的に芦屋を連れ帰ったんだよ」
「でも何で、天沢んちに?」
「たとえば、芦屋がお前を頼ったとしても、年ごろの女子が付き合ってもいない男子の家に居候とか外聞が悪いだろ」
「それは……まあ、そうだな。だけど、そういうの、芦屋の親は反対しねえのか?」
 それが、と朔也は言いづらそうな顔をした。彼は周囲を見回すと、陽生に耳打ちをした。
「芦屋んち、中学のときに離婚してて父親しかいないんだよ。で、その父親っていうのが忙しくてほとんど家に帰ってこないらしいんだ。だから、芦屋のことも昔から付き合いのある佐倉に任せきりらしいぜ」
 陽生は自分が茉莉について知った気になっていたことを痛感させられた。しかし、彼女の家庭環境を知ったことで、どうして彼女と瑠音の関係性があんなにも歪んでしまったのか垣間見えた気がした。
「それにしても大変だったぜ。心羽ちゃんとオレで、芦屋んちに当面の荷物取りに行ったんだけど、運悪く佐倉と出くわしちゃってさ。心羽ちゃんが荷物まとめて持ち出してる間、ずーっとあいつの相手する羽目になってさすがにしんどいのなんの。手加減なんてしないで、指の数本くらいへし折ってやるべきだったかもしれないな。あいつ、ギタボだろ?」
「朔也、お前、傷害罪とか過剰防衛とかって知ってるか……?」
「芦屋を巡って佐倉と殴り合いになったやつにいわれてもなあ……」
 そんな話をしていると、席に荷物を置いた茉莉と心羽が近づいてきた。茉莉の顔に残る痣はまだ痛々しげだが、始業式の日に保健室で会ったときに比べれば顔色が良かった。
 おはよう、と話しかけてきた茉莉と心羽に、陽生はおう、と返事をする。そして、陽生は茉莉の髪が、始業式の日の切りっぱなしのショートボブから変わっていることに気がついた。
「なんか……芦屋の髪、三つ編みがいっぱいあるな」
「あっ、貴嶋くん気づいた? このねじり編みハーフアップ、心羽がやってあげたのー! かわいいでしょ!」
「ねじりなんとかはよくわかんねえけど、まあ可愛いんじゃねえの」
「陽生って最近やけに素直だよな。ようやく大人への階段をひとつ上った感じ?」
「るっせーよ朔也、ほっとけよ。それより芦屋、ちょっと来いよ」
 そう言い放つと、陽生は席を立つ。茉莉の手首を掴み、二人は教室を出た。「おい、陽生、宿題の写しどうすんのー」朔也の声が追いかけてきたが無視をした。
 廊下の突き当たりの視聴覚室の前まで来ると、陽生は足を止めた。壁の柱にもう片方の手をつくと、陽生は茉莉の逃げ道をそれとなく塞ぐ。
「どうして、天沢の家に居候してること、教えてくれなかった。お前の家の話も、さっき朔也が教えてくれるまで、おれは何も知らなかった」
 だって、と茉莉の目が泳ぐ。
「貴嶋くん、心配するでしょう。わたしのせいでこんなに怪我したのに、これ以上巻き込めないよ」
「心配くらいいくらだってさせてくれ。巻き込むとか巻き込まねえとかそんなこと気にしなくっていい。朔也も天沢もたぶん、同じことを思ってる」
「うん……」
「始業式の日、高田先生に連れられて病院行ってただろ。その……もう身体は平気なのか?」
「うん……副作用は治まったから。心配させてごめんね」
「芦屋、ここは『ありがとう』だろ」
 そうだね、と茉莉は微笑んだ。そして、彼女は陽生の耳元に唇を寄せると、ありがとうと囁いた。
 遅刻寸前の生徒たちの慌ただしい足音が廊下に響く。傷だらけの二人をよそに一日が始まろうとしていた。

 かつかつと白いチョークを握った茉莉の手が黒板に流麗な文字を記していく。彼女が文字を書き終えると朔也が教壇の上でパンパンと手を叩いて、クラスメイトの注目を集めた。
「じゃあ、これからこの三つで多数決を取りたいと思いまーす! 全員必ず一回手挙げてね!」
 朔也がそう言うと、教室の隅でパイプ椅子に座ってホームルームの様子を見守っていた担任の岸野が口を挟んだ。
「なあ、氷上……その『SM女王様相談室』っていうの一回考え直さないか? 絶対にPTAから苦情来るぞ。それに貴嶋、実行委員的にもアウトだろ?」
「さっき、朔也がSは真剣に、Mは真面目にでSMだって言ってたから実行委員会の認可は下りるとおもいますけど……」
「だめだよ、貴嶋くん。さっくんにそうやって丸め込まれたら」
 話を振られ、黒板の前でそう答える陽生を朔也の隣に立つ心羽が諫めた。その様子を見た茉莉はおかしそうに笑う。
「お前ら仲良し四人組はいっつも楽しそうでいいな……変な勘ぐりをした俺が馬鹿だった……」
「あっれー、先生何考えてたんですかー? まさかうちのクラスの女子に仮面にボディコンとピンヒール着せようとか考えてたりしました? ムチと蝋燭持たせたりして。さすがに教育者としてそれはどうかと思いますよ」
「んなこと考えてないぞ、氷上! それよりお前がそんなことにやたら詳しいことの方が俺は心配だ……」
「大学生の兄貴からの受け売りなんで安心してください! オレ、変なサイト見て高額請求されるような間抜けじゃないんで!」
「氷上くん? そろそろ多数決しないと、ホームルーム終わっちゃうよ?」
 堂々とアウトなことを宣う朔也に、茉莉がにっこりと笑顔で圧をかける。ちぇー、と口を尖らせると、朔也は決を取り始めた。
「はい、まず魔法少女カフェがいい人ー!」
 ぱらぱらとクラスメイトたちの手が上がる。いち、に、と心羽は指を折りながら人数を数えていく。
「茉莉ー、十五人だってー」
 魔法少女カフェと書かれた縦書きの文字の下に茉莉は十五とチョークで書く。続いて朔也は次の案の決を取った。
「じゃあ次、SM女王様カフェがいい人ー!」
 何人かのクラスメイトの手が上がる。「見事に男ばっかだな……」それを見た陽生はぼそりと呟いた。茉莉は今度は八と黒板の下部に数字を記した。
「はい、最後ー、逆お化け屋敷がいい人ー!」
 これまでに手を挙げなかったクラスメイトたちが手を挙げた。「芦屋、十三だ」陽生が人数を数えると、茉莉は逆お化け屋敷の下に十三と書いた。
「「このクラスの出し物は魔法少女カフェに決定でーす!」」
 黒板に書かれた結果を指差しながら、朔也と心羽がそう言った。「いちゃつくなバカップル!」「そーだそーだ!」仲の良い出し物係の二人へと野次が飛んでくるが、二人ともどこ吹く風だ。
「ところで……魔法少女の衣装って男も着るんだよな……? 当然、先生も……」
 陽生がぼそっとそう言うと、茉莉は吹き出して教壇の上にチョークを取り落とした。白いチョークは見事に真っ二つに割れてしまっている。
「え……俺も着るの……? こんな中年のオッサンの魔法少女姿ってどこの誰に需要があるの……?」
 岸野は拒否するように自分の身体を掻き抱いている。まあまあと茉莉は岸野を宥めるように、
「先生、世の中にはブルーオーシャン戦略というものもありますから。先生も一緒に衣装を着て接客をしてくださったら、思いがけず売り上げが見込めるかもしれませんよ」
「待って、芦屋までそんなこと言うのか! しかも、理屈が通ってるから反論するにできない! これだから優等生は!」
 茉莉の裏切りに嘆く岸野をよそに、彼女は新しいチョークを手に取る。そして、彼女は朔也に代わって教卓の前に立つと、クラスの予算についての話をし始めた。

「茉莉ー、また糸からまっちゃったあ」
 人気のない多目的室に心羽の情けない声が響いた。見せて、と茉莉は作業の手を止めると、心羽の手元を覗き込む。
 多目的室にいるのは文化祭実行委員の陽生と茉莉、陽生たちのクラスの出し物係である朔也と心羽だけだった。朔也と心羽は新学期になってから陽生たちの手伝いとして多目的室に入り浸るようになっていたが、気がつけば半分自分たちのクラスの作業部屋と化していた。他の実行委員たちが陽生と茉莉に準備を押し付けて、ろくに顔を出さないからこそ成し得たことだった。
 陽生はぺたぺたとハケでベニヤ板にペンキを塗っていく。朔也は陽生の作業を横から覗き込むと、うわっと声を上げた。
「何お前その超前衛的なカラーリング」
「洒落ていると言えよ」
「いやでも、その蛍光ピンクはマジでないわ。何で蛍光ピンク?」
「今年のテーマに沿って、桜姫のイメージで……」
 陽生がそう答えると、朔也は芦屋ー! と叫んだ。
「芦屋、陽生ほったらかしにしたらやばいって! 看板すげーことになりかけてるから! 早く止めてこい!」
 心羽の代わりに魔法少女の衣装を縫っていた茉莉は布と針をその場に置くと、陽生のそばへと戻る。あの形のまま、茉莉の口が固まる。
「……貴嶋くん、ちょっとこれ、真っ白に塗りつぶしてやり直そう?」
「芦屋、何でだ? 今年のテーマに沿ったカラーリングだと思ったんだけど……」
「なんていうか……ちょっと独特すぎるかな。文化祭には地域の人とかもたくさん来るんだから、もう少し万人受けする感じにしないと」
「……」
 憮然として陽生は黙り込んだ。そんな彼をよそに、茉莉は塗り掛けのベニヤ板とペンキの缶をどけて、作業スペースを確保していく。ついでに窓を開けるとペンキの匂いが充満した部屋を彼女は換気する。
「看板の塗り直しはペンキが乾いてからじゃないとできないから、今日はきらりん作りしよう。校内のいろんなところに飾るから、量が必要なの」
 そう言うと、茉莉は積まれた段ボールの中から、黄色の画用紙の束を取り出した。床に転がっていたハサミを拾い上げると、茉莉はそれを陽生に渡す。
「……なあ、芦屋」
 教卓の中から出してきたハサミで画用紙を切る茉莉へと、陽生は話しかける。何、と彼女は作業の手を止めないまま応じた。
「お前、大変じゃねえの? 実行委員の仕事もクラスの準備もやって。実行委員の方に注力したって、誰も文句言わねえだろ」
「だって、心羽も氷上くんも頑張ってるから……だから、わたしでできることなら、クラスの方もちゃんと協力したいなって。わたしもクラスの一員なんだし」
「前から思ってたけどさ、お前、頑張らないことと人に任せること、履き違えてないか? 人に仕事振ったからって、サボってることにはならねえだろ」
「そう……かな?」
「大体、実行委員のやつらもクラスのやつらもお前に頼りすぎなんだよ。昨日会議すっぽかした実行委員の先輩はカラオケ入ってくの見たし、クラスのやつだって買い出しの名目でゲーセンで遊んでんの見たぞ。もう少し力を抜いたっていいんじゃねえか?」
 それはそう、とくるくると画用紙を丸めて魔法少女のステッキを作っていた朔也も同意した。
「得意不得意あるのは仕方ないとしてもさ。せめて、うちのクラスだけでも準備の割り振り見直したいよな。心羽ちゃんに任せておいたら、今年が終わるころになっても魔法少女の衣装一着もできてなさそう」
「えー、さっくんひどぉい」
「事実だろ。人には適材適所ってもんがあるし、心羽ちゃんは陽生と作業代わってもらえよ。あいつ、家庭科だけは成績五だから。センスはともかく裁縫は得意だぞ」
「うるせえよ、朔也」
 適材適所か、と茉莉は小さく呟く。誰かが前に立ち、誰かが支え、誰かが黙々と手を動かす。誰もが欠かせない歯車となって、文化祭は回っていくものなのだ。
 茉莉はハサミで黄色い画用紙を星型に切り進めていく。黙々と手を動かしながら、彼女は考えていた。――自分の場所は、この行事のどこにあるのだろう、と。

「おい、茉莉! どうしてくれんだよ! ナメた真似してくれてんじゃねーぞ!」
 怒声とともに、言葉と同じくらいの乱暴さで多目的室の扉が開かれた。そこには制服を着崩し、長い髪を金色に染めた眼光鋭い少年が、彼と同じくらい制服を着崩した少年たちを引き連れて立っていた。
「瑠音、一体どうしたの?」
 茉莉は床に座り込んで魔法少女の衣装を縫っていた手を止めると、戸口に立つ瑠音の顔を怯えたように見上げた。瑠音は多目的室の床に散らばる資材を蹴散らかしながら、茉莉の方へと向かってくる。ペンキの缶が蹴り飛ばされ、床をべっとりと黄色で汚した。
 瑠音は茉莉が手に持った縫いかけの衣装を上履きの底で踏みつけようとした。が、そのとき、すっと剣呑な気配が瑠音の背後へと立った。
「おい、佐倉。一体、芦屋に何の用だ」
 いつもは陽気な朔也の声が刃の鋭さを帯びる。瑠音は振り返ると、朔也と睨み合った。二人の間で交わされる視線がばちばちと火花を放つ。垂れ幕を塗っていた陽生と心羽は固唾を飲んで事態を見守ることしかできなかった。――下手に動けば、それが瑠音が茉莉を攻撃するトリガーになってしまう気がして。
「俺はそこの文化祭実行委員に苦情があってきたんだよ。おい、茉莉、どういうことだよ。マネージャーの佐伯から、SJ放送の取材が入んの十四時だって連絡きたんだけど。俺たちの出番は十五時のはずだよなあ?」
 陽生は教卓の上に置かれた、体育館の使用リストへと手を伸ばす。タイムスケジュールに目を通していくと、確かに瑠音の主張通り、彼のバンド名が十五時に記されていた。
「茉莉さあ、簡単な調整のひとつもまともにできねーわけ? こっちは遊びで音楽やってんじゃねーんだよ。俺らにとって、メディアが入るってどういう意味かわかってたら、そんないい加減なことできねーはずだよな?」
「瑠音、ごめんなさい……すぐにSJ放送の担当の方には連絡を取るから……! もう絶対にこんなことしないって約束するから……!」
「お前の約束はいつも軽いんだよ。俺らがいるのは一回の段取りミスで全部台無しになる世界なんだよ」
 ごめんなさい、と茉莉は繰り返す。陽生は茉莉たちの間に割って入ると、殴られる覚悟で瑠音へと頭を下げた。
「今、するべきことは芦屋を責めることじゃねえだろ。それにSJ放送とやりとりしてたのはおれだ。そもそも、芦屋を責めること自体が筋違いだ」
「またてめーかよ、貴嶋。この件、どう落とし前をつけてくれるつもりだ?」
「だから、芦屋がすぐにSJ放送に連絡するって言ってただろ。文化祭は来月だし、まだ取り返しがつかないわけじゃねえ。それに何より、おれにはお前が何か理由をつけて芦屋を詰りたいだけに見える」
 陽生の言葉にちっ、と瑠音が舌打ちをした。ちらりと舌先につけたピアスが光った。
 きっと、茉莉は昔からこういった言葉の暴力を瑠音から浴びせられてきたのだろう。そのせいで彼女は高い能力を持つにも関わらず、自己肯定感を失ってしまったに違いない。
「まだ言いたいことがあるなら、またオレが相手になってやろうか? 文化祭前に指の骨へし折られたければ、だけどな」
 朔也は左足を一歩前に出し、半身になると構えをとる。馬鹿言うな、と瑠音は肩をすくめた。
「氷上とか言ったか。貴嶋はともかく、てめーは茉莉に何の関係もねーだろ。そんなふうに庇って何の得があんだよ」
「それが関係あるんだな。オレは友達を大事にするタチでね。そんなこともわかんないなら、バンドマンなんてやめちゃえよ。よくそんなんで曲書けるよな」
「……てめーなんぞに俺の高尚な音楽が理解できてたまるかよ」
 くっだらねー、と吐き捨てると瑠音は踵を返した。瑠音のバンドメンバーたちも彼の後について、多目的室を去っていった。瑠音の不機嫌を表すかのように、来たときよりも更に乱暴に扉が閉められる。
「茉莉ー、大丈夫!? 何もされてない!?」
 瑠音がいなくなると、心羽は茉莉に抱きつき、無事を確認した。大丈夫だよ、と茉莉は曖昧な笑みを浮かべる。そして、彼女は目線を陽生へと向けた。
「貴嶋くん。どうしてあんな嘘ついたの? SJ放送とやりとりしてたのはわたしなのに」
「お前のミスだって知れたら、また佐倉のやつにお前が何かされたかもしれねえだろ。……それにしても、先生たちも何であんな歩く校則違反を野放しにしとくんだか」
 知らないの? 、と心羽が小首を傾げた。何のことだかわからなくて、陽生は眉根に皺を寄せる。
「貴嶋くん。あいつの親は有名なピアニストで、この学校に多額の寄付をしてるんだよ。だから、先生たちもあいつには強く出られないんだよ。――それがたとえ、暴力沙汰だったりしたとしても」
 心羽の言葉を聞いて、新学期の初日、明らかに暴力を受けた茉莉を高田が病院に連れていくだけで済ませた不自然さの理由がようやく腑に落ちた。誰かが声をあげたとしても、瑠音の親がすべて金で揉み消してしまうのだろう。
 茉莉の家庭環境。瑠音の家庭環境。そして、瑠音を信頼している茉莉の父親。これらが絡み合って今の状態を生んでいる。賢い彼女は、瑠音に従順に従うことを覚えてしまった。
「――とりあえず、今はやれることをやるか」
 そんな言葉が陽生の口をついて出る。それは床にぶちまけられたペンキに向けられたものであり、SJ放送との調整不備に向けられたものでもあり、茉莉の現状に向けられたものでもあった。
「うん」
「……そうだね」
「だな」
 三人は返事をすると動き始める。「さっくーん、水汲みに行こー」心羽はバケツを持つと、朔也と共に多目的室を出ていく。茉莉は机の上に散乱していた書類の中から、SJ放送の取材に関する紙を探し出すと、慣れたふうにスマホの上に指を滑らせ始めた。

――体育館裏へ来い。
 そのメッセージに陽生が気がついたのは、二限目の現代文の授業中のことだった。メッセージの送り主は十年後の自分自身だった。
 そっと、陽生が教室の中を見回すと、茉莉の姿はない。優等生のくせに、きっとまたどこかでサボっているに違いない。
「先生」
 教師が教科書を読み上げているのを遮って、陽生は手を挙げた。何だ、と教師の目が陽生へと向けられる。
「ええと、頭痛いんで、保健室行っていいですか? 熱あるかも」
 そう言うと、陽生は席を立った。教室の斜め後ろに座っていた朔也と視線が交錯する。陽生は小さく頷いた。
 陽生はこめかみを押さえ、顔を顰めながら教室を出た。廊下に出ると、各教室から授業の声が漏れ出てくるのが聞こえてくる。
 階段を降りている途中で、ぶぶっとスマホのバイブレーションが鳴った。下駄箱へ向かいながら、ズボンのポケットからスマホを引っ張り出すと、朔也からメッセージが来ていた。
――さっきの大根演技マジでウケたわ。芦屋はともかく、成績下から数えた方が早いお前がサボって大丈夫か?
 うるせえ、と陽生はメッセージを打ち返すと、スマホをポケットへとしまう。そして、上履きからローファーへと履き替えると、昇降口を出た。
 体育館の方からは、ホイッスルの音とボールが床を打つ音が響いてくる。陽生はサボりを見咎められないように気をつけながら、体育館裏へと向かった。
 茂みを分け入ると、体育館の外壁にワイシャツの背中をもたせかけるようにして座り込んでいる茉莉の姿があった。そういえば、泣いている彼女と初めて会ったのもこの場所だったなと陽生は思い出す。
「――よう、芦屋」
「貴嶋くん、どうしたの? だめだよ、授業サボったりしたら。中間テストに響くよ」
「授業サボってるやつに言われてもな……」
 はあ、とため息をつくと、陽生は茉莉の横に腰を下ろした。彼女の髪からは以前とは違うシャンプーの匂いがした。
「……ずっと聞きたかったんだけどさ」
「……うん」
「何で、お前、ずっと我慢してるわけ? この前の、SJ放送との調整不備のときのことにしてもさ」
 わからないとでも言いたげに、茉莉は首を傾げた。
「わたし……我慢してるのかな? でも、ああするのが一番丸く収まるでしょう?」
「文化祭実行委員として、事態をどうにかしようとするのはいい。けど、そのためにお前が心をすり減らす必要がどこにある? 自分が犠牲になれば全部収まるなんて考え方してたら、お前は絶対に幸せになれないぞ」
 陽生がそう言うと、茉莉は甘えるように彼の肩に自分の肩を寄せた。それが不安なときに出る癖だとは彼女は自分で気づいていなかった。あのね、と茉莉は小さく呟く。
「わたし……小さいときから、ずっと瑠音に守ってもらってた。瑠音の言う通りにしてた。そうしなさいって、お父さんも言うから」
「でも、その結果がどうだ? 佐倉の前で、お前が笑っているのをおれは見たことがない。お前はこの先、ずっとこのままでいいのか? ――佐倉の一挙一動に怯えて、心から笑えないままで」
 それは、と茉莉は口籠った。瑠音のことを怖いと思い始めたのはいつからだっただろうか。――一緒に育ってきた、幼馴染の男の子のことを。
「おれは、嫌だ。芦屋が幸せになれないのは、そうやって我慢し続けるのは嫌だ。朔也みたいに強くねえけど、それでもおれがお前を守るから、だから――」
 その後に続く言葉をどうしても、陽生は言えなかった。瑠音のように彼女に何かを強制する言葉を口にしたくなかった。
「貴嶋くん。わたしの幸せは……どこにあるのかな?」
 彼女の幸せが自分のそばにあればいいのにと陽生は願わずにはいられなかった。けれど、陽生はそれを言葉にすることはしなかった。
「さあな。けれどもし、お前が今の自分を本気で変えたいと思うのなら、おれは力を貸す。朔也も天沢もきっと同じだ」
 うん、と茉莉は小さく頷いた。色素の薄いその双眸にはうっすらと迷いの色が宿っている。
「わたし……貴嶋くんといると、すごくほっとする。これが……幸せ、なのかな?」
「そうだといいと……おれは思ってるよ」
「わたしは……貴嶋くんといたいって思ってもいいの?」
「……ああ。お前がそれを望むならな。お前はもっとしたいようにしていいんだ。もっと自分勝手に、わがままに生きていい。そんな優等生の仮面なんてドブにでも捨てたらいい。――自分に正直になれよ」
「わたしは――」
 茉莉はおずおずと陽生を見上げた。そして、躊躇うようにこう口にした。
「瑠音じゃなく、貴嶋くんといたい。――貴嶋くんのことが、好きだから」
 それでいい、と陽生は頷いた。茉莉はこれまで蓋をしてきた気持ちが顔を覗かせようとしているのを感じていた。
 四月にこの場所で泣いていた彼女はもういない。いい子の蛹に籠っていた彼女は羽化のときを迎えようとしていた。