未来を変える恋、はじめます。

 朔也とのメッセージアプリで他愛もないやりとりを終え、アプリを落とそうとした瞬間、陽生は違和感に襲われた。
 何かがおかしい。これまであったはずの何かがない。
 違和感の輪郭を探ろうと、陽生はベッドに横たわったまま記憶を遡っていく。窓の外ではやけに宵っ張りなセミがまだ鳴き声を奏でている。
 四人で海に行ったときのこと。水着や浮き輪を買いに行ったときのこと。四人でカラオケに行き、ファミレスへ行ったときのこと。茉莉と二人で文化祭実行委員の仕事をしたときのこと。夏休み前に、未来の自分から送られてくるメッセージのことを心羽に打ち明けたときのこと。
(――あ)
 陽生の中で疑問が氷解し、違和感が確信へと変わっていく。この夏休みの間、一度も未来の自分からのメッセージが届いていない。
 夏休み中も、日々忙しくしていることもあって、茉莉は瑠音から距離を置くことができている。それなのに、胸の奥に引っかかるものが消えなかった。――今のままでいい、そうは思えなかったから。
(芦屋……)
 ふとした瞬間に、海へ行ったあの日の出来事が思い起こされる。抱き合った身体の温もりが、柔らかさが鮮やかに五感に蘇ってくる。
 気がつけば、いつの間にか彼女のことばかり考えている。夏休みの間も文化祭実行委員の仕事で毎日のように顔を合わせているというのに、今彼女はどうしているかだとかそんなことばかり気にしている。恋というのは厄介な病らしいと陽生は十六歳にしてようやく実感していた。
 陽生は茉莉とのチャット画面を開くと、何とはなしにログを遡っていく。入学したばかりのただのクラスメイトでしかなかったころの距離感がよそよそしく感じはするものの、どこか懐かしくもあった。――まだ季節がたった一つ巡っただけだというのに。
 今何してる? まだ起きてる? そんなことを陽生は入力しては、送るのを思い留まり――消す。馬鹿なことをしているとはわかっていたけれど、数時間前に別れたばかりの彼女の言葉を交わしたくて仕方がなかった。
(朔也なら、こういうとき上手くやるんだろうな)
 要領の良いあの親友なら、間違いなくさりげない雑談をスマートに切り出せる。それに対して気の利いた話題の一つも持ち合わせていない自分を陽生は情けなく思った。
 はあ、と溜息をつくと、陽生はスマホをベッドの上に投げ出した。結局、今夜も茉莉に何もメッセージを送ることができなかった。
 芦屋、と陽生は彼女の名を呼ぶ。切なさと愛しさを秘めた声は夏の夜の闇へと溶けていった。

 夏休みも終わりに近づいた日の午後、陽生は文化祭実行委員の仕事のために登校していた。お盆前に発注した資材が届くと聞かされていた陽生は、校門前で問屋のトラックが来るのを汗をダラダラと垂らしながら待っていた。
(他の連中、全部おれと芦屋に実行委員の仕事押し付けやがって)
 最初の実行委員の顔合わせ以来、予備校が忙しいとかで三年生の姿を見ていない。二年生も部活の大会やら合宿やらと理由をつけて、顔を出したためしがない。他の一年生も二年生と同じ理由で見かけていない気がする。
「貴嶋くん」
 多目的室にバッグを置きに行っていた茉莉が昇降口から駆け足でこちらへと向かってくる。その姿が何だか眩しくて陽生は目を細めた。
「――芦屋」
「トラック、まだ来てないんだね」
「ああ。道が混んでんのかな。半には来る予定だったのに、五分くらい遅れてる。それより、芦屋は校舎戻っとけよ。力仕事はおれがやっておくし、お前は書類仕事があるだろ?」
「そんなの悪いよ。それに、書類仕事っていっても指摘したところが直ってるかチェックするだけだからそんなにかからないし」
「まったく……」
 体育祭のときのようにまた熱中症でも起こされてはかなわない。それを案じて、それとなく校舎内に戻るように促したつもりだったのだが、なぜだか彼女に上手く意図が伝わってくれない。
 そのとき、ズボンのポケットの中でスマホがブブブっと震えた。陽生はスマホを取り出し、ロック画面に表示された通知を確認する。
――体育館を迂回しろ
 それは久々に送られてきた未来の自分からのメッセージだった。そういえば、そろそろ音楽系の部活やら演劇部やらが文化祭に向けて練習を始める時期だった気がする。――おそらく、文化祭のステージの練習のために、瑠音が学校に来ている。
 スマホをしまうと、陽生は嘆息する。たぶん、茉莉から目を離さないほうがいい。
「しゃあないな、それならお言葉に甘えてお前にも手伝ってもらうことにするよ」
 そんな話をしているうちに、校門前にトラックがやってきて、停車した。トラックの運転手は車を降りると、後ろの荷台から荷物を下ろし始める。クリップボードに挟まれたリストとボールペンを手に、茉莉は運転手の方へと足を向ける。
「旭森商事の方ですね? 今日は文化祭の資材を届けていただきありがとうございます。資材のほう、チェックさせていただいてもよろしいですか?」
「ああ、いいよ。きみ、今年の実行委員の子? 今年の子はしっかりしてるね。一年生?」
 はい、と微笑むと茉莉は校門の前に積み重ねられていく段ボールの個数を確認していく。彼女の手際の良さに、陽生は何もできずに彼女を眺めているしかできなかった。
 運転手は荷物を下ろし終えると、再びトラックに乗り込んで去っていった。茉莉はボールペンをワイシャツの胸ポケットに挿し、クリップボードを脇に挟むと、段ボールを抱えようとする。そんな彼女を陽生は慌てて制止にかかる。
「おい、芦屋待て。無理に持とうとするな。ぎっくり腰になるぞ」
「わたし、まだそんな歳じゃないから大丈夫だよ」
「そうじゃなくてもやめろ。この箱、たぶん一番重いやつだぞ。どうしてもっていうんなら、これ持っていってくれ」
 そう言うと、装飾用モールと書かれた段ボールを陽生は茉莉に押し付けた。そして、陽生自身は画用紙の段ボールと絵の具の段ボール、垂れ幕用の布が入った段ボールをまとめて持つ。腕にずしんと重さがのしかかったが、なんてことはない顔をして陽生はやり過ごした。彼女の前では少しくらいいい顔をしたかった。
「貴嶋くん、そんなにまとめて持って大丈夫? わたし、もう一個くらいなら持てるよ」
「このくらい余裕だって。それで、これどこ運ぶんだ? 美術準備室だったか?」
「うん、そう。美術準備室なら外から入れるし、外から行ったほうが早いよね」
「いや、校舎内から行こう。えっと……その、そうだな、おれが暑いし、お前もまた熱中症になったら大変だろ」
 陽生の苦しい言い訳に変なの、と茉莉は笑った。
「貴嶋くんって、わたしに対して過保護だよね」
「相手が女子なら、誰だってこのくらいの気遣いはするだろ」
「相手が心羽でも?」
「天沢は……おれがどうこうするまでもなく朔也がどうにかするだろ」
 二人は荷物を手に校舎内へと足を踏み入れる。陽生は段ボールを抱えたまま、下駄箱前のすのこの上で雑にローファーを脱ぎ捨てた。茉莉は一度段ボールをすのこの上に置いた後、ローファーを脱ぎ、自分の下駄箱から出した上履きに履き替える。
 靴下越しに感じるリノリウムの廊下は少しひんやりとしていた。向かう先とは正反対にある体育館の方角から、楽器の音と誰かが歌っている声が微かに聞こえてくる。――あれは軽音学部のものか、それとも瑠音のバンドのものか。
「――あのさ」
 美術準備室へと向かって廊下を歩きながら、陽生は傍らを歩く茉莉へと話しかけた。なあに、と茉莉の顔が陽生を見上げてくる。その仕草が可愛らしくて、陽生は咄嗟に顔を背けた。――心なしか顔が熱い気がするのは、彼女のせいか、夏のせいか。
「お前、今週末って暇? 日曜日」
「うん、空いてるけど……どうしたの?」
「母さんの誕生日が近いから、誕プレ買いに行きてえんだけど、暇ならちょっと付き合ってくんねえか? 何買ったらいいかイマイチわかんなくってさ。おれが何買っても、母の日も誕生日も毎回ダメ出しされまくってて」
 陽生は自分がやけに早口になっていることに気がついて狼狽した。これでは何だか言い訳みたいだ。
「いいよ。……ところで、母の日のときは何を買ったの?」
「……仏像型の箸置き」
「……去年の誕生日は?」
「……サワークリームオニオン味の歯磨き粉」
「……」
 陽生のセンスに茉莉の笑顔が固まる。はあ、としばらくの後に彼女は小さく息を漏らした。
「わかった、わたしが貴嶋くんのお母さんのためにとっておきのプレゼントを選んであげる」
「頼む。ちゃんとそれなりに礼はする」
「ふふ。期待してるね」
 陽生は心が弾むのを感じた。土曜日に朔也と買い物に行って、茉莉と歩くのにふさわしいコーディネートを見繕ってもらわないといけない。――だって、これは実質的にはデートだと言っても過言ではないのだし。
「よし、頑張るか」
 陽生は荷物を抱える手に力を込め直す。何を、と茉莉が横から聞いてくる。日曜日のデートを、なんて口が裂けても言えるはずがない。
「荷物運びだよ。まだ校門の前に山ほど残ってただろ」
「そうだね。早く終わらせないと」
 ひたひたと足音を立てながら二人は廊下を進んでいく。体育館から漏れ出す音楽が遠ざかるごとに、美術室に染みついた絵の具の匂いが強くなっていく。
 窓から忍び込んできた強い夏の日差しは、二人の影を廊下に長く伸ばしている。茉莉と他愛のない会話を交わしながら、陽生は自分の胸が高鳴っていくのを感じていた。

 ショッピングモールのフードコートは喧騒に包まれていた。朔也はずずずっとジンジャーエールを啜ると、口を開く。
「それで、陽生。明日のデートプランはどうなってんの? 当然、晩飯の予約くらいしてあるんだろうな?」
 え、と陽生はフライドポテトを手にしたまま固まった。普通に夕方に解散するつもりで、茉莉と夕飯を共にするつもりなどなかった。駄目だなあ、と朔也は肩をすくめる。
「いいか? 明日は芦屋の誕生日だ。女子っつーのは好きな男にお洒落なレストランで祝ってもらいたいもんなの。それで二軒目にホテルのバーラウンジに行って、その後、事前に予約をとっておいたホテルの部屋で……ってのがテッパンなの」
 ホテルの部屋で。夜に男女が二人きりになれば、することなんて知れている。海で抱き合ったときの茉莉の身体の感触が鮮明に蘇ってきて、陽生は顔を紅潮させた。手からぽとりとポテトが落ちる。
「陽生ってお子様のくせにむっつりだよな」
「……うるせーよ。っていうか、俺ら高校生なんだから、晩飯はともかく、バーラウンジ云々とか無理だろ。ホテルがどうとかも風営法がアウトだろ」
「風営法のことまで知ってるとか、お前だいぶ調べただろ」
「……べ、別に常識だろ」
 まあいいや、と朔也はバッグからスマホを取り出した。「ちょっと見てみ?」彼はそれを陽生のほうへと押しやった。陽生はポテトを拾い上げて口に放り込むと、画面を覗き込む。
「最新版ディナーデート名店十選……」
「こういうの疎そうな陽生のために調べておいた。和洋中いろいろあるけど、芦屋なら洋食がオレ的にはオススメ」
「……なんでわかるんだ?」
「だってあいつ、みんなで出かけたとき、大体オープンサンドとかオムライスとかパスタとかばっか食ってんじゃん」
「……」
 朔也に指摘されてみれば、そんな気もする。彼のほうが彼女の食の好みを熟知していることが、陽生は何だか面白くなかった。
「あと、女子相手ならイタリアンにしておけば、余程のことがなければ大外ししたりはしない。これは大マジ」
 恋人がいる朔也の言葉には説得力があった。陽生は小さく頷く。
「あと、絶対に芦屋に金出させるなよ。誕生日だからな、わかってるな?」
「……お、おう」
 で、と朔也はポテトを一本摘むと話題を変える。
「当然だけど、芦屋へのプレゼントは用意したんだろうな?」
「明日買い物行ったときでいいかと思って、まだ買ってない。芦屋が何が欲しいかもわからねえし……お前、そもそもおれのセンス知ってるだろ?」
「そういや去年のオレへの誕プレはウナギ型のペンケースだったな……それも無駄にリアルな上にうっすらタレの匂いがするやつ……」
 忘れてた、と朔也は溜息をついた。陽生には悪気なくセンス皆無の贈り物をしてくる悪癖がある。
「いいか、陽生。下心を感じさせるようなものは贈るなよ。たとえば、服とか」
「なんでだ?」
「服を贈るのは――脱がせたいって意味だからだよ」
 陽生は息を呑んだ。というか、この前、朔也は心羽に水着を買ってやっていなかっただろうか。――それってつまり、この二人ってもう。
「陽生ー、何想像してんのか知らないけど、茹で蛸みたいになってないで人の話を聞け。逆にハンカチなんかも人に贈るにはあんまりよくない」
「そういう気負わないもののほうが、芦屋も受け取りやすくないか?」
「ハンカチは手切れ――つまり、縁を切りたい相手に渡すものって由来があるんだよ」
「じゃあ……何だったらいいんだ?」
「まあ、お前なら、髪につけるものとかがいいんじゃないか? ただどれがいいかは芦屋に選んでもらえよ。お前に任せておくと、焼き鳥串のヘアクリップとか選びそうだから」
「え、焼き鳥駄目? 美味そうじゃねえ?」
「駄目に決まってるだろ……」
 朔也は深々と溜息をつく。親友のデートの先行きには暗雲が立ち込めている気がして、今から胃が痛くなりそうだった。

 ホームに電車が入線してきた音を聞きながら、陽生は居住まいを正した。ゴールデンウィークにも茉莉とは二人で遊びはしたが、今日とあのときでは意味合いが違う。
 この駅のショッピングモールには、昨日も朔也と一緒に来ている。心羽たちを含めた四人でもよく来る。しかし、今日は陽生と茉莉の二人きりだ。
 ふいにひまわり畑を模したような花柄に目を奪われた。目線を上げるとノースリーブの白いブラウスが視界に入る。はにかんだような笑顔を浮かべると、雑踏の中で茉莉は小さく陽生へと手を振ってみせる。彼女はICカードを改札にかざすと、陽生へと近づいてきた。
「貴嶋くん、お待たせ」
 おう、と陽生は頷いた。そして、言うべきか言わないべきかしばらく逡巡したのちに、躊躇いがちに口を開いた。
「それ、ゴールデンウィークのときに買った服か?」
 気恥ずかしさで茉莉を直視できなくて、陽生の視線は明後日の方角へと泳ぐ。茉莉は一瞬目を見開くと、花が咲いたように笑った。ジャスミンの香水が優しく甘く香る。
「貴嶋くん、そういうの気づかないかと思ってた。どう?」
「まあ、可愛いんじゃねえの。……一般的な意見として」
「もう、一言余計だよ。貴嶋くん自身はどう思う?」
「言わせるなよ。おれの意見も一般男子と同じだよ」
「貴嶋くんだから、言って欲しいのに。まあいいや、とりあえず行こうか。今日は雑貨屋さんに行くんだよね」
「ああ。どんなのがいいかはお前頼みだからな。マジで頼んだぞ」
 そんなことを話しながら、二人は改札前を離れ、白いタイル張りのデッキを歩き始める。デッキの中央に設られたベンチと植木を通り過ぎると、やがてショッピングモールの入り口が見えてきた。
 自動ドアが開くとふわりと冷気が二人を店内に迎え入れた。寒くないか、とさりげなさを装って陽生がくすみグリーンのカーディガンを脱ごうとする。大丈夫だよ、と茉莉はふわりと笑った。
「それじゃあ、喉乾いてないか? そこのカフェで何か飲んでいくか?」
「もう、大丈夫だってば。――だけど、ありがと」
 それよりこっち、と茉莉は一軒の店の前に差し掛かると、陽生を手招きした。乙女チックなパステルカラーに彩られ、なんだかいい匂いがするその空間は汗臭い男子高校生を拒んでいるような気がして、陽生は二の足を踏む。
「貴嶋くん? どうしたの?」
 不審気に茉莉は陽生を振り返る。ハーフアップにした髪の上で花を模した金色のヘアクリップが光った。「……今行く」陽生はきらきらとした食器や雑貨に気後れしながら店に足を踏み入れた。
(芦屋がいるんだ、おれが入っても変な目で見られたりしないだろ)
 デートだったら、たぶんこういうところに普通に来る。そう自分に言い聞かせながら、陽生は茉莉の背へと近づいていく。
「貴嶋くんのお母さんって、マグカップとかって使う?」
「使うは使うんだけど、旅行の度にいろんなところで買ってくるから、すげえ余らせてる。物置きの段ボール一箱分くらいある」
「そんなにあるの? すごいね。旅行とかいくならフォトフレームとかはどう?」
 茉莉はホワイトとシルバーで彩られたフォトフレームを手に取った。その白い指先はオレンジに染まり、ラメが微細な光を放っている。
「貴嶋くん?」
 茉莉の指先に思わず見入っていた陽生は、彼女の声で我に返る。
「あ、ああ、フォトフレーム? うちの母さんあんま写真撮らねえからな。見たもの全部目に焼き付けて帰るっていっつも息巻いてっから」
「それはそれで素敵じゃない? 思い出を大事にしてるってことだから。でもそしたらどうしようかなあ。貴嶋くんのお母さんって何が好き?」
「強いていうならデパ地下巡りかな。しょっちゅう惣菜とかお菓子とか買ってくる」
 それなら、と茉莉は店の奥へと陽生を誘った。彼女を追いかける陽生の視界の隅をいい匂いを漂わせる謎の棒――リードディフューザーが掠めていく。
「ねえ、エコバッグなんてどうかな? これ、使わないときは小さく丸めてしまっておけるの」
「いいと思うけど、何か少女趣味過ぎないか? うちの母さん今度もう四十八だぞ? なんかこうもっと地味なモノトーンのドクロ柄のやつとかないか?」
 陽生の言葉に茉莉は頭が痛いとでも言わんばかりの顔をした。あのね、と彼女は深々と溜息をつくと、諭すように陽生に言葉を向ける。
「ドクロ柄はまったく地味じゃないし、パンク系とかが好きな人じゃないと使わないと思うよ。それに、女の人はいくつになっても女の子でいたいものなの。このくらいかわいいほうが喜ぶんじゃないかなってわたしは思うよ」
 これどう? 、とくすみピンクとラベンダー色のデイジー柄があしらわれたエコバッグを茉莉は陽生の鼻先に突きつけた。いいんじゃない、と陽生は肩をすくめた。もう、と茉莉はじっとりとした視線で陽生を射抜く。
「貴嶋くんのお母さんの誕生日プレゼントでしょ。もうちょっと、ああいうのがいとかこういうのがいいとかないの?」
「おれのセンスはさっき言った通りだ。それにおれはお前のセンスを信じるって言ったろ。――それ、買ってくる」
 陽生は茉莉の手からエコバッグをもぎ取ると、陽生は踵を返す。一瞬触れ合った手は少しひんやりとしていて滑らかだった。自分のごつごつした手との違いにどぎまぎとしながら陽生はレジへと向かう。
 もう、と茉莉はレジへと並ぶ陽生のくすみグリーンのカーディガンの背を見つめる。自分が心からの自然な笑みを浮かべていることに、彼女は気づいていなかった。

「貴嶋くん、コーヒーだけでよかったの? パフェも一口食べない?」
 琥珀色のピーチティー。バナナの上にキャラメルソースがたっぷりとかかった、甘い匂いのするパフェ。パフェ用の細いスプーンを手に、ショッピングモール内のカフェの真向かいの席に座った茉莉が陽生を見ていた。
「いや、いい。おれ、キャラメルアレルギーだから」
「何それ。この前、実行委員の仕事のときにキャラメルラテ飲んでたよね?」
「じゃあ実はおれ、糖尿病で」
「もう、何いい加減なこと言ってるの」
 茉莉は不服そうにパフェを食べ進めていく。スプーンが触れる唇はツヤのあるアプリコットで、陽生は彼女の口元からそっと視線を逸らした。茉莉からパフェを分けてもらうということは、間接キスをするということなわけで。茉莉が相手なら嫌とかではないが、そんなことを公衆の面前でするのは気恥ずかしさが勝つ。
「それはそうと、わたしこの後、買いたいものがあるんだけどいいかな?」
「いいけど……買いたいものって?」
「ほら、来週みんなで花火大会行くでしょ? せっかくだから浴衣着て行きたいねって心羽と話してて」
「それなら天沢と買いに来たらよかったんじゃないか……?」
「心羽は氷上くんと買いに行くって言ってたよ。だから、貴嶋くん、一緒にわたしの浴衣選んでよ」
「おれが選ぶと目ん玉柄とかQRコード柄になるぞ……」
「そんなの売ってるのみたことないけど……貴嶋くんってなんかすごく心配になるセンスしてるよね。その割に、服のセンスはいいしよくわかんない……」
「だって、服は昨日、朔也に見立ててもらったからな」
 言ってしまってから、しまったと陽生は思った。これでは茉莉と出かけるために思いっきり気合いを入れてきたと自白してしまったも同義だ。ダサいことの上ない。なるほどね、と微笑ましいものを見るかのように茉莉は目尻を下げる。
「おかしいなあと思ってたんだよね。でも、全部氷上くんが選んでたんだったら納得。氷上くん、センスいいもんね」
「どうせおれはセンスの悪い男だよ……」
「もう、拗ねないで。ほら、それ飲み終わったら浴衣見るの付き合ってよ」
 はいはい、とやけくそ混じりに陽生は残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干した。そして、空になった茉莉のグラスとパフェグラスをトレイの上に乗せると、陽生は席を立った。からりとグラスの中に残っていった純度の高い香りが鳴る。
「貴嶋くん、ご馳走になっちゃった上に片付けまでさせちゃってごめんね」
「別にそれは『ごめん』じゃねえだろ。支払いも片付けもまとめちゃった方が効率がいいだけの話だ」
「そっか、じゃあ、わたし、間違えちゃったみたいだね。――貴嶋くん、ありがとう」
「最初からそう言っときゃいいんだよ。ほら、行くぞ」
 微笑んだ茉莉の顔が何だか眩しくて、陽生は目を逸らしたままカフェを出る。彼女のことをもっと大事に、優しくしたいのになんでだか上手くいかない。
 二人はフロアの奥にある和服店へと向かって、ゆっくりと歩いていく。大人びたサンダルの細いヒールが危なっかしく見えて、陽生は茉莉の手を引いてやりたかったが、彼女の手に触れる勇気が出なかった。己を情けなく思いながら、陽生は自分の手をぐっと握り込んだ。手のひらに食い込む爪の痛みは、ガキくさい自分に対する戒めだ。
 和服店へ着くと、茉莉は店頭に並べられた浴衣を物色し始めた。
 白に薄桃色に紺色に水色に藤色。朝顔に金魚、花火に青海波、麻の葉に撫子。
 浴衣のことなど何もわからなかったが、たとえどれを着たとしても茉莉ならきっと似合うだろうと思った。可愛らしいのも大人っぽいのもきっと、彼女の魅力を引き立ててくれる。
「ねえ、貴嶋くんはどっちが好き?」
 そう言って茉莉が見せてきたのは、二着の浴衣だった。白地に撫子柄。紺地に桔梗柄。どちらも捨てがたくて陽生はうーんと唸る。
「またお前はそうやって人に判断させようとする……いっそ両方買うんじゃだめなのか?」
「貴嶋くん、お小遣いは有限だよ」
 陽生は脳内の茉莉にそれぞれの浴衣を着せてみる。紺地も大人っぽくて良かったが、白地のほうが清楚な彼女の雰囲気が引き立てられる気がした。
「えー、じゃあそっちの左の。白い方」
「……今、適当に選ばなかった?」
「そんなことねえよ。ちゃんと考えたって」
 本当かなあと茉莉は陽生に疑いの眼差しを向けると、帯を選び始める。彼女が浴衣に何枚も帯を当てがいながら選んでいるのを陽生が眺めていると、和服に身を包んだ上品な佇まいの初老の女性店員が細長い箱を手に近づいてきた。
「彼女さんですか? よろしければ、ご一緒に簪などいかがですか?」
 店員はそう言って箱を開ける。その中には一本の簪が入っていた。
 白銀の軸。頭では淡い紫色の桔梗が控えめに花びらを広げ、その下では乳白色のビーズが揺れている。
「え、えーと……彼女じゃないですし……」
 思わずくせで陽生が店員の言葉を否定すると、彼女は茉莉に聞こえないように声を潜めてこんなことを言った。
「それでしたら、想い人への贈り物になさってはいかがでしょう。髪を留めるだけでなく、あちらのお嬢さまの心までそっと留めてくれる逸品ですよ」
「な、な……なんで……」
 思わず陽生は絶句した。ふふ、と店員は上品な笑みを浮かべる。
「私も長年、女として生きておりますので、お客様のお心があちらのお嬢様におありなことくらいはお見通しですよ。――それで、どうなさいますか? きっとお喜びになられますよ」
 今日は茉莉の誕生日だ。買い物中に彼女へのプレゼントを用意しないといけないことはわかっていた。それに、朔也も贈るなら髪に使うものがいいようなことを言っていた覚えがある。
「えっと……じゃあ、買います。その……ラッピングとか。誕生日、なんですけど」
「お任せください。それでは先にあちらでお会計を」
 陽生は店員に誘われてレジへと向かう。「三千八十円でございます」陽生はサコッシュから財布を出すと千円札を三枚と百円玉を一枚、キャッシュトレーに置いた。お預かりいたします、と店員は紙幣と小銭をレジに飲み込ませる。
 会計の傍ら、店員が薄桃色の和紙で簪の箱を包んでいくのを陽生は眺めていた。――いつ、どうやって、茉莉にこれを渡そうと考えながら。
 帯を選び終わった茉莉は今は下駄を選んでいる。これを渡したら彼女はどんな顔をするのだろうと思いながら、陽生は釣り銭と銀の麻の葉柄があしらわれた白い紙袋を店員から受け取った。

「芦屋、お前まだ時間ある? おれが行きたいところあんだけど」
 買い物を終えた二人はショッピングモールから出て、デッキの上を駅に向かって歩いていた。いいよ、と茉莉は浴衣の入った紙袋を手に頷く。夕陽に照らされた二つの影が二人の背中を追いかけてくる。
「あれ、どこ行くの?」
 駅を通り越して、ショッピングモールとは逆方向へ行こうとする陽生に茉莉は戸惑ったように声を上げた。いいから来いって、と陽生は茉莉の手首を掴む。
 陽生は茉莉の手首を掴んだまま、エスカレーターに乗り、デッキの上から降りる。オフィスビルの立ち並ぶ通りを抜けた先に、陽生の目的地はあった。
「イタリアン?」
 トラットリア・セレーノ。陽生が開けようとした店の扉にはそう書かれたプレートが下げられていた。店内から漂ってくるニンニクとトマトの匂いに茉莉は小首を傾げる。
「おれが腹減ったから、何か食ってこうぜ」
「それだったら、モールのフードコートとかでよかったんじゃあ……」
「おれだって、たまにはちゃんとしたパスタとか食いたいんだよ」
 無理やりな理由をこじつけ、陽生は扉を開くと、茉莉を連れて店内へと足を踏み入れる。赤いエプロンをつけたホール担当の店員におずおずと視線を送ると、店員はわかったとばかりに頷き返してきた。
「いらっしゃいませ、二名様ですね」
 店員はそう言うと、陽生と茉莉を窓際のソファー席へと案内した。陽生は茉莉に奥のソファーを譲ると、にぶい艶を放つマホガニーのチェアへと腰を下ろす。ごゆっくりどうぞ、と店員は厨房の方へと去っていった。
「ええと、わたし何にしようかな」
 茉莉はメニュー表を開くと、食べるものを吟味し始める。陽生は素知らぬ顔でテーブルの隅に置かれたグラスと水差しを手に取ると、二人分の水を注いだ。
「こちら、前菜三種の盛り合わせになります」
 先ほどの店員が戻ってきて、二人の前に黒い木の板のような皿を置いた。皿の上には生ハムとキャロットラペ、トマトのカプレーゼが少しずつ盛り付けられている。
「お客様、この後のお料理になりますが、パスタをボロネーゼとカルボナーラ、ペペロンチーノの三種から、メインを若鶏のトマト煮と豚肩肉のグリル、白身魚のソテーの三種からお選びいただけます。どうなさいますか?」
「おれはボロネーゼと豚で。芦屋はどうする?」
「え……ええと、わたしは……カルボナーラと白身魚のソテーでお願いします」
 かしこまりました、と店員は再びその場を辞した。事態がいまいち飲み込めないのか、茉莉は大きな目で店員の後ろ姿と目の前の陽生を見比べている。
「貴嶋くん……これ、どういうこと?」
 茉莉はメニュー表を抱きかかえてそう問うた。陽生は照れ臭さで下を向きながらぼそぼそと答えを返す。
「コース予約してたんだよ。お前、今日誕生日だろ」
「誕生日……知ってたの?」
「朔也から聞いた。朔也は天沢から聞いたってさ」
「そうなんだ。あの……ありがとう」
「おう、そんなことより食おうぜ。まだまだ料理出てくるからテーブルの上さっさと片しちまわねえと」
 陽生はカトラリー入れからフォークを取り出すと、茉莉に渡してやる。いただきます、と呟いた声が重なった。
「芦屋、お前トマト食える?」
「食べられるけど……もしかして、貴嶋くん、トマト苦手? さっきボロネーゼ頼んでなかった?」
「原型がないやつは大丈夫なんだよ。生のトマトが苦手なだけで。中の種が嫌なんだよ」
「もう、貴嶋くんてば子どもみたいなこと言って。にんじんは大丈夫?」
「そこまでガキじゃねえよ。馬鹿にすんなよな」
 キャロットラペを平らげると、陽生はむすっとしながらフォークを生ハムに突き立てた。茉莉はカプレーゼをつついている。
 前菜を食べ終えると、タイミングを図っていたかのように店員が小さなカップに入ったオニオンスープを運んできた。店員はカップを二人の前に置くと、料理のなくなった前菜の皿を下げていく。
「なんだこれ、ままごとみたいなサイズのカップだな」
「こういうお店のコース料理ってこういうものだよ」
「……芦屋ってこういう店、慣れてんの?」
「まさか。昔、小学生のころ、両親の結婚記念日のときにそういうコース料理のお店に行ったことがあるだけ。普段は貴嶋くんと同じでファミレスとかファーストフードしか行かないよ」
 ふうん、と何となく納得いかない気分で陽生はカップを傾ける。カップの中身は一瞬で陽生の胃の中に消えていった。
 スープがなくなると、パスタが運ばれてきた。陽生の前にボロネーゼの皿が、茉莉の前にはカルボナーラの皿が置かれる。しかし、皿の直径こそ大きいものの、盛られたパスタはごくわずかだ。
「え……パスタってこれだけ……?」
 思わず陽生がそう漏らすと、おかしいと言わんばかりに茉莉が笑った。
「ファミレスの量に慣れてるとそう思うよね。特に高校生の男子なんて食べ盛りだもんね。でもこういうお店って、お皿も一緒に味わうものなの」
「皿は食えねえぞ?」
「そういうことじゃなくって。お皿も料理の一部ってこと。料理を引き立てるために、お皿も選び抜かれてるんだって聞いたことあるよ」
「へえ……」
 茉莉の説明を聞きながら、陽生はパスタをフォークで巻いていく。この量なら三口で食べられてしまいそうだ。
 案の定、パスタをすぐに平らげてしまった陽生はカルボナーラを頬張る茉莉を眺めていた。嬉しそうに、美味しそうにカルボナーラを味わう彼女を可愛いと陽生は思った。――その言葉が口をついて出ることはなかったけれど。
 茉莉がカルボナーラを食べ終えると、次はメインディッシュが運ばれてきた。陽生の前に豚肩肉のグリルが、茉莉の前に白身魚のソテーが置かれる。皿の中央にちょこんと肉が置かれ、周りを付け合わせの野菜とバルサミコ酢のソースが彩っているだけだったが、陽生はもう何も言わなかった。家に帰ったらカップ麺でも食べよう。
 陽生は豚肉を切り分けると、バルサミコ酢をつけて口へと運んだ。肉の脂の旨みとバルサミコ酢のコクのある酸味が口の中に広がる。茉莉もパプリカのピューレを纏わせた白身魚を口に入れると目を丸くする。
「――美味しいね」
「……おう」
「食事って、誰と食べるかで、こんなに変わるんだね。――貴嶋くんと一緒にいるから、特別美味しく感じる」
「……この店のメシが旨いだけだろ」
 二人がメインディッシュを食べ終わると、何かがぱちぱちと爆ぜる音が聞こえてきた。ほのかに煤けた匂いもする。
「お客様。こちらバースデープレートでございます」
 店員はケーキの乗った皿を持ってくると、茉莉の前に置いた。甘夏のムースが乗ったレアチーズケーキの周りにチョコソースが可愛らしく華を添えていた。ケーキに挿された線香花火がぱちぱちと小さな炎の花を咲かせている。驚きで見開かれた茉莉の双眸に飛び散る火花が映り込み、煌めきを放つ。
 茉莉はスマホを取り出すと、カメラアプリでケーキを撮る。その間に陽生は足元のバスケットに入れた母親の誕生日プレゼントの入ったショッパーから、和服屋の小さな紙袋を取り出した。
「芦屋、これやるよ。……好みじゃなかったら捨ててくれていい」
「そんなことできないよ。――ねえ、開けてみてもいい?」
「……好きにしろよ」
 ありがとう、と茉莉は陽生から紙袋を受け取った。そして、紙袋から薄桃色の和紙で包まれた箱を取り出すと、丁寧にラッピングを解いていく。
「わあ……可愛い……!」
 箱を開けた茉莉は簪を認めると、声を高くした。
「貴嶋くん、これ、どうしたの? これもまた、氷上くんの見立て?」
「お前が今日、帯だか何だか選んでるときに店員が近寄ってきて勧めてきたんだ。それで、せっかくの誕生日にプレゼントがないのも何だしと思って……」
「ありがとう。大事にするね。……ねえ、これ高かったんじゃないの?」
「別に普通に安物だよ。ただまあ……おれとしてはしまいこまれるよりは、一回くらいはつけてくれるとうれしい」
「それじゃあ、今度の花火大会につけていこうかな」
「好きにしろよ。それより早くケーキ食っちまえよ。送っていくとはいえ、あんまり遅くなると危ねえからな」
 ありがとう、と茉莉はもう一度言うと、簪の箱を紙袋にしまった。そして、デザートフォークを手に取ると、ケーキのムースの層へと差し入れる。
 嬉しそうにケーキを食べる茉莉を見て、少し無理をしてでも背伸びをしてよかったと陽生は思った。この笑顔のためなら、何だって惜しくない。役割を終えた線香花火の煤けた残り香を嗅ぎながら、陽生は少しでも長くこの笑顔を独り占めしていたいと願った。――彼女が瑠音の恋人でさえなければ、と運命を呪いながら。

 空は紺色に覆われ、西の端の残照が昼から夜へと移り変わりつつあることを知らせていた。灼き殺すような暑さもほんの少し和らぎ、汗ばんだ肌を撫でる夕風がわずかな涼しさを与えてくれる。
「何で、陽生だけ浴衣じゃないわけ?」
 待ち合わせをしていた駅前で顔を合わせるなり、朔也は開口一番に文句を言った。朔也は水色に白の縞模様の浴衣に身を包んでいる。去年まではTシャツにデニムだったくせに、何だか裏切られた気分だ。
「逆に何で朔也は浴衣なんだよ……」
「オレ? オレは心羽ちゃんと浴衣買いに行ったときに買っちゃった。これリンクコーデっぽくてよくない?」
 対する心羽の出立ちは鮮やかな赤い金魚が泳ぐ水色の浴衣だ。柔らかな黄色の帯が彼女の元気な印象を引き立てている。
「茉莉も今日めっちゃかわいいねー! いつもと違う感じで新鮮!」
 茉莉は先週買った浴衣に身を包んでいた。普段はハーフアップにされている髪は今日はシニヨンにまとめられ、陽生が贈った簪が添えられている。
 お、と朔也は茉莉の簪に目をとめると、陽生へと擦り寄ってきた。そして、にやにやとしながら彼は陽生へと囁いた。
「あの簪、お前が芦屋にあげたんだろ。やるじゃん」
「和服屋の店員に押し売りされただけだ」
「知ってるか? 簪を贈る意味は”守りたい”らしいぜ」
「お前は無駄にそういうことに詳しいのな……」
 陽生は溜息をついた。茉莉のことは守ってやりたいとは思っているが、意図せずにそんな意味を持つものを贈っていたとは思わなかった。彼女は簪の持つ意味に気がついているのだろうか。
「ねえ、さっくん、貴嶋くんー! 花火始まるまで屋台見て回ろうよー! この通り沿い全部屋台なんでしょー?」
「そうするか。陽生と芦屋もそれでいいよな?」
うん、と茉莉は頷いた。好きにしろよと陽生は肩をすくめた。
 心羽は両腕を朔也の腕に絡める。二人の背を追って、陽生と茉莉も歩き出した。
「芦屋、それいいじゃん」
 ぼそりと陽生がそう呟くと、茉莉ははにかんだように微笑んだ。
「ねえ、茉莉ー、貴嶋くんー! これ一緒に食べよー! っていうか持ちきれないから引き取ってー!」
 心羽の声が響いた。前を歩いていたはずの水色の浴衣の二人組の姿を探すと、少し先のチョコバナナの屋台で足を止めていた。「おう、今行く」叫び返すと、陽生は茉莉と視線を交わし、心羽と朔也の元へと足を急がせる。
「どうしたんだよその量……」
 チョコバナナの屋台の軒先に足を踏み入れると、心羽が十本を超えるチョコバナナを握りしめていた。香具師の中年の男性は困り果てた顔で眉尻を下げている。
「さっくんがじゃんけん勝ちまくっちゃって、気がついたらこんな量になっちゃったー。それでこれ以上は無理ってこのおじさんが降参しちゃって」
「朔也、お前……」
 たぶん朔也がしたのは後出しだ。動体視力に優れた朔也にとって、じゃんけんの後出しは昔からの特技だ。心羽にいいところを見せたくて張り切ったのだろうが、こんなに大量のチョコバナナを一体どうする気なのだろうか。
「いち、に……全部で十二本あるみたいだね。どうする? これ、みんなで三本ずつ分ける?」
 だな、と茉莉の意見に陽生は短く同意した。心羽にも異論はなかったらしく、彼女は茉莉と陽生に三本ずつチョコバナナを押し付けてきた。
 四人はチョコバナナを齧りながら、人波に乗って屋台を後にした。辺りの屋台を目で楽しみながら歩く四人を、花火会場で少しでもいいところに陣取りたい人々が早足で追い越していく。
「……あれ?」
 チョコバナナを食べ終えるころには、いつの間にか朔也と心羽の姿が見えなくなっていた。陽生は朔也と連絡を取るべくスマホを開くと、ぶぶっとバイブレーションが鳴った。メッセージアプリを開くと、朔也からのチャットが一件届いていた。
――お邪魔虫は退散して、心羽ちゃんとイチャコラデートしてくるぜ! 陽生、お前もうまいことやれよ! グッドラック!
「あんにゃろう……」
 陽生は嘆息した。何がグッドラックだ。
「貴嶋くん、どうかした? 心羽と氷上くんの姿が見えないみたいだけど……」
「……この人混みであいつらとはぐれたみたいだ」
「そう。花火始まるまでに合流できるといいんだけど……」
 ふいに陽生の手のひらに柔らかな感触が触れた。指と指の間に細い指が差し込まれる。
「……えーと、芦屋? お前、これはどういう……?」
「貴嶋くんまで迷子になったら困るでしょう? だから、迷子にならないようにわたしが手繋いでてあげる」
「さいですか……」
 陽生は再び溜息をついた。本来こういうのは男である自分がリードすべきところだ。それなのに、茉莉に先手をつかれてしまった自分が情けない。
「はぐれちまったもんは仕方ねえ。とりあえずおれらはおれらでぶらつくか。芦屋、何か食べたいものとかあるか?」
「フルーツ飴食べたいかも。イチゴのやつ。SNSでよく見かける」
「何かイチゴが五個ぐらい串に刺さってるやつ?」
 そう、と茉莉は頷いた。陽生の視界にフルーツ飴の文字が小さく映る。こっちだ、と陽生は茉莉の手を引き、人波を縫って歩き始める。
「……そういや、簪本当につけてくれたんだな」
「だって、他でもない貴嶋くんがくれたものだから」
「ああそう……なんかさ、」
 これって付き合ってるみたいだな。そう言いかけて、陽生はその言葉を飲み込んだ。
「なんか……何?」
「ええと……そうだ、なんかフルーツ飴って最近はりんごとかイチゴだけじゃなく、シャインマスカットとかもあるらしいな」
「今更じゃない? そんなの常識だよ」
 茉莉の目に残念そうな感情が揺れている。自分は間違ったのだと、陽生は悟った。――今のは、踏み込んでいいところだった。
「今更で悪かったな。ほら、着いたぞ」
 フルーツ飴の屋台には色とりどりの飴が並んでいた。定番のりんご飴にイチゴ飴。シャインマスカット飴にミカン飴。パイン飴にキウイ飴なんていうものまである。
「イチゴ飴を一つ。ねえ、貴嶋くんも何か食べる?」
「いや、おれは遠慮しとく」
 これ以上甘いものを口にしたくなくて、陽生は断る。支払いのために茉莉が巾着から財布を取り出そうとしていると、香具師の中年の女性から横槍が入る。
「ボウズ、男ならそこで女の子に財布出させるもんじゃないよ」
「え……あ、はい」
 有無を言わせない空気に気圧されて、陽生はサコッシュから財布を出した。陽生は釈然としない気分で五百円玉を香具師の女性へと渡す。五百円あれば、スーパーでイチゴが二パック買えるのに、随分とぼられたものだ。
「ほい、毎度あり」
 陽生と茉莉は屋台を後にする。茉莉は嬉しそうにイチゴ飴の串を握りしめている。彼女が再び自分の手に指を絡めてきたが、陽生はもう何も言わなかった。
 その後もカラフルわたあめにクレープ、フルーツかき氷と茉莉が希望するままに屋台を巡った。自分の意見を出すのが苦手な彼女が望むのであれば、自分が一緒にいるときくらい、彼女がしたいようにさせてやりたかった。
 いつの間にか完全に日は落ち、花火大会の会場である河川敷のほうから、スポンサーの紹介などのアナウンスが始まった。当然のように朔也と心羽が合流してくる様子はない。
「貴嶋くん、そろそろ花火始まるけど……結局、心羽と氷上くんと合流できなかったね。グループチャットにメッセージ送っても全然既読つかないし」
「まあ……あいつらのことは放っておいてやれよ。せっかくの花火大会におれたち外野がいるのも野暮じゃねえか?」
「それもそうだね。せっかくだから二人にしてあげよう。貴嶋くんはわたしと二人で嫌じゃない?」
「お前って時々ずるいよな。……わかってて聞いてるだろ?」
 ふふ、と茉莉は笑った。そのとき、ドンという音と共に一発目の花火が打ち上がった。辺りが花火の光に照らされ、歓声に包まれる。陽生は茉莉の顔をまっすぐに見つめると、口を開いた。
「――芦屋、好きだ」
 そう言うと、陽生は茉莉の髪を崩さないように気をつけながら、頭を抱き寄せ、額にキスを落とした。ぎゅっと陽生の胴体に茉莉の両腕が回される。彼女は陽生にしがみつくとこう呟いた。
「――わたしも、好き。もっと早くに……もっと昔に、貴嶋くんと出会いたかった」
「……うん」
 花火は打ち上がり続け、夜空に一瞬の生命を咲かせては散っていく。陽生は花火が打ち上がる音を聞きながら、茉莉の身体に腕を回して抱きしめた。――大切に、その存在を確かめるように、そっと。

 夜風に乗って、煙の匂いが流れる。最後の大スターマインが織りなした柳の残影が夜空をうっすらと曇らせていた。
 花火大会の会場である河川敷が拍手で包まれる。現実が実感に戻ってくる前にこの場所を離れてしまいたくて、陽生は茉莉の手をそっと握った。
「芦屋、行くぞ。道が混む前に帰ろう」
「うん……花火、綺麗だったね」
「……おれは花火どころじゃなかったけどな」
 花火が上がっている間、陽生の目は茉莉に奪われたままだった。色とりどりの花火の光で照らされる彼女の横顔は、息を吸うのも忘れるくらい綺麗だった。
「だったら、来年、また見にこないとね」
 そうだな、と陽生は頷く。彼は茉莉の手を引き、河川敷に背を向けてゆっくりと歩き出す。耳の奥でリフレインする、好き、と言ってくれた彼女の声が会場のざわめきがかき消されてしまうのが嫌だった。
「足、痛くないか?」
「大丈夫。気にしてくれてありがとう」
 ズボンのポケットでぶぶっとスマホが唸った。おそらく、朔也からのメッセージだろう。たとえ親友であっても、今のこの時間を邪魔されたくはなかった。
 陽生と茉莉は、待ち合わせをした南雲野の駅ではなく、新南雲台の駅の方面へと向かって歩いていった。だんだんと人が少なくなっていくにつれて、まだ帰りたくない、まだ今日を終わりたくないという思いが込み上げてくる。
「……なあ、芦屋。コンビニ寄ってもいいか? ゴミ捨てたいし、喉乾いたから何か買いたい」
 そんなのはただの口実に過ぎなかった。それでも茉莉と一秒でも長く一緒に過ごすための理由が欲しかった。
「ねえ、貴嶋くん。そしたら、うち寄って行かない? 今日親いないし、お茶くらい出すよ」
「芦屋、お前さ……本当におれ以外の男にそういうこと言うなよ」
「妬いてくれるの?」
「妬くぞ、そりゃ妬くに決まってんだろ。それにおれだって、これでもめちゃくちゃ我慢してるの察してくれ。そんなふうに煽ると、いい加減お前のこと押し倒すぞ」
「……いいよ、貴嶋くんなら。貴嶋くんになら、わたし……何されてもいいよ」
 馬鹿、と呟くと茉莉とともに陽生はコンビニの前を通り過ぎる。このコンビニを過ぎれば、茉莉の家まではあと五分ほどだ。
「なあ……さっきの言葉、本気にしてもいいのか?」
「さっきって、どれのこと?」
「言わせるなよ。――お前が、おれのことを好きだって言ったことだよ」
 うん、とはにかんだふうに茉莉は頬に笑みを乗せた。それならさ、と陽生は足を止める。
「もう少しだけ、一緒にいてもいいか? お前が嫌がるようなこととか、変なことは絶対にしねえから」
「貴嶋くん、それ、何かする人の常套句だけど大丈夫?」
「茶化すなよ。マジで何もしねえ。お前のこと、おれは大事にしてえから。だから、ただ、本当に茶を一杯飲む間だけ……一緒にいてもいいか?」
「うん。――わたしも、貴嶋くんとまだ一緒にいたいから」
 陽生と茉莉は見つめあった。そしてぎこちない笑みを交わし合った瞬間――その場を切り裂くような氷の声が降り注いだ。
「おい、お前、確か貴嶋とか言ったか? この前はお前のオトモダチのせいでいらねえ恥をかかされたじゃねえか」
 じゃらじゃらと指輪が嵌められた指が陽生の肩に触れる。振り返ると、鋭く不機嫌な色を湛えた瑠音の双眸と視線が交錯する。
「――佐倉。あれはお前が天沢に絡んだせいなんだから、自業自得だろ。人のせいにすんじゃねえよ」
「ざっけんな、てめえ、誰にモノ言ってんだよ!? それにてめえ、誰の許可があって、人の女に手出してんだよ、ああ!?」
「芦屋にだって、友達と出かける自由くらいあるだろ!? 芦屋はモノじゃねえんだぞ! こいつを自分の思う通りにできるなんて、思い上がってんじゃねえぞ、この勘違い野郎!」
「そうやって、手繋いでイチャコラしながら帰ってくんのが友達の距離感なわけねーだろうが! ざっけんな、やんのかてめえ!」
 瑠音の手が陽生の胸倉を掴み上げた。普段はギターを弾いているはずの繊細な手が陽生の頬に振り下ろされる。瑠音の手首を彩るチェーンのブレスレットの金具が横顔を掠め、ぱっと血の赤が散った。
「ってえ……」
 陽生は足元のアスファルトへと唾を吐く。口の中から鉄錆のような味がする。瑠音に殴られた拍子に口の中をどこか切ったに違いない。
 陽生は立ち上がると、瑠音の腕を掴む。瑠音は陽生の手を振り払おうと、爪先の尖った靴で彼の腹を蹴った。げふ、と陽生は身体をくの字に追って咳き込んだ。
「貴嶋くん! 瑠音、もうやめて! これ以上、貴嶋くんにひどいことしないで!」
「芦屋! さっきのコンビニ行ってろ! おれが行くまで、絶対戻ってくんなよ!」
「でも!!」
「でもじゃねえ、行け! 行けよ!」
「……っ!」
 茉莉は踵を返すと、また来た道を駆け出した。途中で下駄が脱げたのか、からんころんと何かがアスファルトの上に転がる音が響く。
 陽生は痛みを堪えながら、右腕を振りかぶる。しかし、喧嘩慣れしていないその腕は狙いを大きく外して空を切った。
 瑠音の拳が再び振り下ろされる。右頬に衝撃が走り、耳の奥で鈍い音が響いた。視界がちかちかと明滅する。
 陽生は倒れそうになる身体を必死で支え、拳を握り直した。だが、力はまだ十分に戻らない。ぜえぜえと息が上がる。
「てめえ、タダじゃゆるさねーからな! あのビッチもだ!」
「っ……芦屋はビッチじゃねえよ! 訂正しろ、佐倉!」
 肩で息をしながら、陽生は叫んだ。ハア? 、という剣呑な瑠音の低い怒声がぬるい夏の夜の空気を震わせる。
「部外者の盗人野郎が舐めた口利いてんじゃねーぞ!!」
 瑠音のアッパーが陽生の顎を捉える。陽生は後ろ向きに吹っ飛ばされ、後頭部を地面に強かに打ちつけた。ズボンの尻ポケットから飛び出したスマホがかつんと音を鳴らしながら、アスファルトの上を滑っていく。
「う……」
 ズキズキと痛む後頭部に触れると、ぬるりとしたものが手を濡らした。陽生が手に目をやると――手が血で汚れているのが夜の闇の中でもわかった。
 遠くから、サイレンが鳴る音が聞こえてきた。夜の住宅街を横切って、くるくると回る赤い光がこちらに近づいてくるのが、殴られた衝撃で揺れる視界でも見て取れた。
(くそ……また、芦屋に助けられたな……)
 おそらく警察に通報したのは茉莉だ。ちっ、と苛立たしげに瑠音が舌打ちをする。キィ、と茉莉の家の前にパトカーが止まると、警察官たちが降りてきて陽生と瑠音を引き離した。
「きみ、怪我してるけど大丈夫? 何? 喧嘩?」
 中年の男性警察官は陽生の顔を覗き込むと、矢継ぎ早に問いを投げかける。名前は? 住所は? 親の連絡先は? それらにぼんやりと陽生は答えていく。
 地面に転がったままのスマホのロック画面には一件の通知が表示されている。そのときの陽生は、そこに何が表示されていたのか知らなかった。