「なあ、陽生。オレ、考えたんだけどさ……未来のお前からのメッセージの件、心羽ちゃんに話しちゃダメか?」
「天沢に?」
夏休みまで一週間を切ったある日の昼休み、朔也と弁当を食べていた陽生は箸を止めた。自分で眉間に皺が寄るのを感じる。彼女も今や、自分にとって友達と言って差し支えのない相手ではあるが、こんな荒唐無稽な話を信じるだろうか。
「心羽ちゃんがさ、芦屋と佐倉のこと気にしてるんだよ。どうしても芦屋が幸せに見えない。どうにかしてあげたいって」
心羽の目にも彼らの関係性は異常に映っているということか。確かに茉莉を瑠音から守るためなら、心羽にも事情を打ち明けてしまったほうがいいのかもしれない。
「心羽ちゃんだけじゃなく、オレもあの二人はおかしいって思ってるよ。……それでさ、心羽ちゃんにも協力してもらって、四人でいる時間を増やさないか? もうすぐ夏休みだ、どうにかして芦屋を佐倉から引き剥がす口実を作らないと」
そういうことなら、と躊躇いながらも陽生は頷いた。一ヶ月以上もある夏休みの間に茉莉が瑠音に傷つけられるような機会は少しでも減らすべきだ。
じゃあ決まりな、とにっと笑うと朔也はじゃれ合う茉莉と心羽のほうへと視線を向ける。朔也の視線に気づいた心羽はふいにこちらを振り返ると、小さく頷いた。「ごめん茉莉ー、心羽、先生に呼ばれてるの忘れてたあ」心羽は茉莉の身体から腕を解くと、踵を返して教室を出ていった。
「そういうわけだから、さっさと心羽ちゃん追いかけて話してきてくれ。お前の弁当はオレが食っとくから安心しろ。……お、今日、生姜焼きじゃんラッキー」
「勝手に食うな、っていうかお前さっきパン三つ食ってただろ。――それより、おれが外している間、芦屋を頼む」
「卵焼きひとつで承った。何か適当に駄弁っとく」
頼んだ、と念を押すと、陽生は席を立ち、先に教室を出ていった心羽を追った。一年生の教室の前を順に通り過ぎ、視聴覚室に差し掛かったとき、見慣れたお団子ヘアの女子の姿が見えた。――心羽だ。
「――天沢」
視聴覚室に足を踏み入れると、陽生は彼女に声をかけた。貴嶋くん、と彼女は振り返ると陽生の名を呼ぶ。
「何か話があるらしいって、さっくんから聞いてるんだけど。――茉莉に関することで」
「ああ……うん」
本当に心羽はこんな話を信じるだろうか。言葉を濁しながら、陽生は手近な机の天板の上に行儀悪く腰を下ろす。
「貴嶋くんは変な嘘はつかないって、さっくん言ってた。だから、貴嶋くんが何を言っても、心羽も信じるよ。心羽はさっくんを信じてるから。――だから、話して」
心羽の真剣な眼差しが陽生に向けられる。わかった、と頷くと、ズボンのポケットから陽生はスマホを取り出した。メッセージアプリを立ち上げ、未来の自分とのチャット画面を開くと、心羽に見えるようにしてやる。
「天沢、まずはこれを見て欲しい」
「これは……貴嶋くん自身とのチャット? 相手がなりすましとかしてないのが前提だけど」
「ああ、それもそうなんだけど……送信日付のところ、見てくれるか?」
画面を覗き込む心羽の双眸が驚愕でまんまるに見開かれた。
「十年後からのメッセージ……?」
「そうだ。それも一方的に送られてくるだけのな」
「確かに、現在《いま》の貴嶋くんが送ったメッセージにはどれも既読がついてないね」
頷くと、陽生は人差し指を立てる。
「もうひとつ、重要なことがある。このメッセージに従って行動すると、必ず芦屋に遭遇するんだ。最初はおれもいたずらかウイルス感染か何かで届いたメッセージだと思ってたんだが……どうやら、未来のおれとやらは芦屋と佐倉をどうにかして引き離したいらしい」
「心羽は……信じるよ。茉莉が一人でどこかに行っちゃったとき、戻ってくるときは大体いつも貴嶋くんと一緒にいるし。茉莉の居場所を未来の貴嶋くんが教えてくれてたんだとしたなら、全部筋が通るもん。だから心羽は――現在(いま)の貴嶋くんのことも、未来の貴嶋くんのことも、信じるよ」
サンキュな、と陽生は天井を仰いだ。こんなに真っ正面から信じると言われるのは、何だかちょっと面映い。
「それで貴嶋くん。茉莉のこと、どうするつもりなの?」
「問題は夏休み、だよな。なるべくおれたち四人で会う口実が欲しいところだけど……」
「それならさ――」
心羽が何か言いかけたとき、ぶぶっとスマホが唸り、通知が画面に表示された。彼女はその内容を認めると、あーあと肩をすくめた。
「せっかく、心羽が言おうと思ってたのに。未来の貴嶋くんに先越されちゃった」
届いたメッセージの内容は、「文化祭実行委員に立候補しろ」。なんとも面倒臭そうな内容に陽生はげんなりする。文化祭なんて陽キャのイベントを楽しむ性質でもないというのに。
「茉莉が文化祭実行委員に立候補するつもりみたいだったから、少なくとも二人で学校で作業する口実は作れるよ。……ってそうじゃなくても、貴嶋くんは夏休みは学校で補習漬けなんだっけ。確か五教科くらい?」
「朔也のやつ、何を勝手にぺらぺらと……」
自分の期末テストの惨憺たる結果が心羽に筒抜けであることに、陽生は頭を抱えたくなった。
「でも、それもいい口実かもよ? 今回も茉莉がクラストップだったし、文化祭準備のついでに勉強教えてもらったらいいじゃん。じゃないと、夏休み明けの実力テスト、悲惨だよ?」
夏休みが明けてからも補習漬けになりそうな自分の未来に、陽生は深々と溜息をつく。茉莉はクラストップで、朔也は平均くらいだし、心羽だって赤点は全教科ぎりぎり回避している。どうして自分ばっかり。
「ていうか、天沢も芦屋に勉強教えてもらったらどうだ?」
「心羽はさっくんに教えてもらうからいいのー」
「ああそう……」
そのとき、スピーカーから予鈴が鳴り響いた。そろそろ教室に戻っておいた方がいい。
「天沢、戻るぞ」
陽生は机の上から降りると、視聴覚室を後にする。うん、と頷くと心羽も陽生の後に続く。
陽生と心羽が教室に戻ると、茉莉と朔也が話していた。朔也の言葉でくすくすと笑う茉莉を目にした陽生はなんとなく面白くない気分になる。
「あっ、心羽ちゃんおかえり。陽生も一緒だったのか」
白々しくそんなことを宣う朔也に陽生はじっとりとした視線を向ける。その上、陽生の弁当箱は教室を離れていた間に朔也によって空にされていて、溜息しか出てこなかった。
「なあなあ、心羽ちゃん、陽生。さっき、夏休みどこ行くー、って芦屋と話してたんだけど。海に花火大会、遊園地にバーベキュー、カラオケに水族館、ボウリングに夏祭り、いつどこに行くー?」
「多いな……」
陽生は脳内でお年玉貯金が溶けていく音を聞いた気がした。でも、茉莉を瑠音から引き離しておくには、これだけ連れ回してもまだ足りないくらいだ。
「心羽、この前本屋さんで『夏休み完全ガイド』みたいな雑誌見かけたよー! 今日、それ買って、帰りに駅前のファミレスかなんかで夏休みの予定決めようよー!」
「お、それいいな! さすが心羽ちゃん!」
いぇーい、と心羽と朔也はハイタッチを交わす。仲良いなこのバカップル。じっとりとした目でじゃれ合う二人を陽生は見やる。
茉莉はその二人の様子を羨ましそうに見ていたことに自分で気づいていなかった。――自分の心が、本当は何を求めているのかも。
古語と英単語と数式と化学式と年号が頭の中で喧嘩している。朝からみっちりと詰め込まれた補習のせいで頭痛を覚えながら、陽生は三階の多目的教室へと足を運んでいた。せっかく文化祭実行委員に立候補したにもかかわらず、活動に参加できない日々が続いている。
「お疲れ様でーす」
陽生が多目的教室のドアを開けると、見慣れた少女が一人で黙々と書類に向かっていた。手近な机にリュックを下ろすと、陽生は彼女へと声をかける。
「あれ、芦屋? お前、一人なの? 先輩たちは?」
「貴嶋くん、補習お疲れさま。先輩たちはみんな、予備校あるとかで帰っちゃった」
「ならお前も帰ればいいじゃん。ほんっと真面目っつーか、融通きかねーっつーか」
「でも、この書類、今日中に先生に出さないといけないみたいだから……」
茉莉が淡く微笑む。その顔にはほのかに疲れが滲んでいた。はあ、と溜息をつくと、陽生はぽんと彼女の頭を撫でた。一瞬、茉莉は虚をつかれたように目を見開いたが、やがて、ふふっと嬉しそうな声を漏らした。
「ありがと、貴嶋くん。何か、ちょっと元気出たかも」
それはよかった、と陽生は茉莉の髪から手を離した。何となく離れていく温もりが名残惜しかった。――茉莉もそう思っていてくれればいいのに。
陽生と茉莉の視線がふいに交錯する。二つの視線は引力に惹かれ合うかのように絡まり合って離れてくれない。この切なげな表情が、透き通った眼差しが、自分だけに向けられるものであればよかったのに。
微かな吐息の音が、心臓の音が、時を刻む針の音が二人きりの世界にやけに大きく聞こえる。茉莉から漂う女子特有の甘い香りが鼻腔を撫でる。
ふいに誰かが階段を上がってくる音がして、陽生は我に返った。もう少しこのまま茉莉と二人でいたかったような気がして、陽生は自分たちの間に割り込んできた足音を恨めしく思った。
「おい、まだ誰か残ってるのかー?」
ほどなくして、先ほどまで補習で顔を合わせていた世界史の田山(たやま)が戸口から顔を覗かせた。そして、茉莉の顔を認めると、ああと得心したように彼は頷いた。
「一年の文化祭実行委員か。あんまり遅くならないようにな。っていうか、お前ら帰ってくれないと先生帰れないから」
「すみません……もうじき終わるので」
茉莉が田山に向かって小さく頭を下げる。田山は陽生に気がつくと、意外そうに片眉を上げた。
「あれ、貴嶋だったか。お前も文化祭実行委員だったのか? 五教科補習の身でよくやるなあ」
「おれも今になって後悔してるところですよ……」
身体が二つあれば、補習も文化祭の準備も充分にできるのだが、現実はそうもいかない。茉莉のためとはいえ、中途半端にしか準備に参加できていない現状が歯痒かった。――茉莉みたいにとまでは言わないが、せめて心羽くらいの成績だったなら、もっと茉莉と一緒にいられるのに。
「ところで貴嶋……もしかして、先生お邪魔? もしかしていいところだったりとかしてた? いやあ青春だなあ」
「……別にいいところでも悪いところでも何でもないです。それより、他の教室見回りしてきたらどうですか。書類は出来上がったら職員室持っていくんで」
恋愛するのは止めないけど節度を持てよ、などと余計なことを宣いながら、田山は去っていった。一体誰と誰が恋愛するというんだ。頭痛が増したような気がしながら、陽生は茉莉の手元の書類を覗き込む。
「芦屋、何か手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。中学のとき生徒会やってたから、こういうの慣れてるし」
「芦屋、気づいてるか? 慣れてる、で済ませるのお前の悪い癖だぞ。誰かを頼れるところは誰かを頼れよ。な?」
何を、とまでは陽生は言わなかった。今ここで核心を突いて、彼女の儚げな笑みが崩れるのを見る勇気がなかった。――彼女は瑠音のあの振る舞いにも”慣れて”しまっているのだから。
「とはいえ、貴嶋くん、こういうの慣れてなさそうだしなあ。ちゃちゃっとわたしがやっちゃったほうが早い気がする」
「お前なあ……人が真面目な話してるのに……」
「大丈夫。ちゃんと貴嶋くんの気持ちは伝わってるよ。ありがとう」
「……え」
自分の言葉など、茉莉にはまったく響いていないのだと思っていた。彼女のことを誰かが心配しているという事実を本心では彼女はわかっていないのだと思っていた。――だからこそ、今の茉莉の言葉は少し意外だった。
「あとは提出前の最終チェックをするだけだから、ちょっと待ってて。貴嶋くん、補習漬けで疲れてるだろうし少し休んでてよ。それで、わたしの作業が終わったら、今日の補習でやったところ、一緒に復習しようか」
「そんなの今日じゃなくていいだろ。お前の作業終わったら帰ろうぜ」
「あのね、貴嶋くん。勉強は予習と復習が大事なの。わかる?」
「それはそうかもしれねえけど……お前も一日中文化祭実行委員の仕事してて疲れてるだろ」
「うーん、じゃあそうだなあ。わたし、疲れたから甘いものが食べたい気分かも。貴嶋くんの補習の復習終わったら、駅前のアイス屋さん行きたいな。今、ダブルがちょうど半額になってるの」
「わかった。それ奢ってやるから……悪いけど、少しだけ勉強付き合ってくれ」
「もちろん」
結局茉莉の掌の上でいいように転がされただけなような気がして、陽生は溜息混じりに窓の外を見る。オレンジに染まり始めた空に陽炎が揺れていた。
茉莉のシャーペンがかりかりと藁半紙の上に文字を刻む音が聞こえる。書類に視線を落とすその横顔は今日も綺麗だった。
「ちょっ……陽生、お前三十五点ってそれはないだろ!」
カラオケルームのテレビ画面に表示された点数を見て、朔也は身体をくの字に折って爆笑した。心羽は朔也の背中にくっついて肩を震わせ、茉莉は困ったように曖昧な笑みを浮かべている。
「カラオケの機械ってこんな点数出るんだね! 心羽はじめて見た!」
「うるせえよ、そこのバカップル。っていうか、朔也はおれが音楽の授業ずっと口パクしてるの知ってるのに、何で無理やり歌わせるんだよ」
「面白いから」
「黙れ」
陽生は朔也をぎろりと睨む。たまらなくなったのか、茉莉も小さく吹き出した。
「貴嶋くんと氷上くんって本当に仲良いよね」
「ただの腐れ縁だ。ほら、次、芦屋歌えよ」
憮然とした顔で、陽生は茉莉へとデンモクとマイクを押しやった。茉莉はデンモクを手に取ると、曲を探し始める。
しばらくして、テレビ画面に茉莉が選んだ曲が表示された。それは、何年か前のテレビドラマの主題歌だった。
ピアノによるイントロが流れ始めると、茉莉はマイクを持った。そして、すっと小さく息を吸うと声帯を震わせて、優しいのにどこか陰を感じさせる声で歌い始めた。歌声から伝わってくる無自覚な切なさと悲しみに、陽生の心はぎゅっと掴まれる。
ラブバラードを歌い上げていく茉莉の顔を心羽はじっと見ていた。朔也も何か思うところがあるのか、黙って茉莉の歌に耳を傾けていた。
ラストのサビが終わり、ピアノがアウトロを奏で始めると茉莉はマイクを置いた。そして、部屋の中が静まり返っていることに気がつくと、彼女は申し訳なさそうに目を伏せる。
「ごめん、今の流れでバラードはなかったよね。選曲間違えちゃったみたい」
「そんなことないよ。茉莉の歌が上手くてつい聞き入っちゃっただけだよ。ね、さっくん?」
「うん、めっちゃ上手かった。陽生は勉強だけじゃなく、歌も芦屋に教えてもらった方がいいんじゃないか?」
「やかましいわ」
「茉莉、こっちにデンモクちょうだい。次、心羽が歌うー」
「陽生、オレたちは飲み物取りに行こうぜ。心羽ちゃん、芦屋、何か欲しいものある?」
「わたしは大丈夫。心羽は?」
「じゃあ、心羽、オレンジジュース!」
りょーかい、と片目を瞑ると朔也は部屋を出る。陽生は朔也の後に続き、ドリンクバーへと向かった。
「なあ、陽生。芦屋って、自覚なさそうだけど絶対好きなやついるよな。さっきのあいつの歌、完全に恋してる奴の声だった」
「何の話だ? そもそも、芦屋は佐倉と付き合ってんだし……」
そういう話じゃない、と朔也はグラスに氷を入れ終えると、陽生を見た。その眼差しは珍しく真面目な色をしていた。自分のグラスにジンジャーエールを注ぎ終わった陽生は動きを止める。
「陽生、お前も大概にしておけよ。お前、芦屋のこと、どう思ってるんだ? ただの友達って感じじゃないよな?」
「……」
「女子の友達っていうなら、心羽ちゃんだっている。だけどな、お前、芦屋と心羽ちゃんで接し方がまるで違うんだよ」
「それは当然だろ。天沢はお前の彼女なんだから、いくらおれでもちょっとは気を遣う」
「そうじゃない。まったく、オレも心羽ちゃんもとっくに気づいてるっていうのに、何で当事者のお前らが何も気づいてないんだよ……」
嘆息すると、朔也はグラスにコーラを注いだ。朔也が何を言いたいのか理解できないまま、陽生は彼が心羽の分のオレンジジュースを注いでいるのを眺めながら、自分のグラスを満たすジンジャーエールを舐めていた。
「ねえねえ、茉莉。再来週、海行くじゃん? その前に一緒に水着買いに行かない?」
ファミレスの窓際席で、テーブルの中央に盛られたポテトに手を伸ばしながらそう言い出したのは心羽だった。スプーンを手にチョコパフェをつついていた朔也は女子二人の会話に当然のように混ざっていく。
「わー、いいなあ水着。心羽ちゃん行くならオレも行こうかな。オレ好みの水着選ばせてよ」
「もうやだ、さっくん。そんなこと行って絶対際どいやつ選ぶ気でしょ?」
「大丈夫、オレの好みはちゃんとノーマルだから。間違っても紐のやつとか選んだりしないから」
紐のやつ。思わず陽生はメロンソーダを吹きそうになった。週刊誌の巻頭グラビアとかで見る、現実では余程の痴女でもなければ着なさそうな全裸同然のアレ。うっかり茉莉でそれを想像しかけて、陽生はげほげほと咳き込む。彼女は絶対そんなの着ないし、着るならもっと清楚系なイメージだ。
「貴嶋くん、大丈夫?」
気遣わしげに顔を覗き込んでくる茉莉と後ろめたさで陽生は目を合わせられなかった。少しだけとはいえ、彼女で下品な想像をしたなんてこと、知られたくない。
「芦屋、陽生なら放っておいて大丈夫だから。陽生はその……あれだ、思春期男子特有の病気なだけだから」
「さっくん、それってどういうこと?」
きょとんとして心羽が横に座る朔也の顔を見上げた。朔也は心羽の耳元で何事かごにょごにょと囁いた。「えー!」心羽の声がファミレスの店内に響き渡る。朔也は自分にとって不名誉なことを心羽に吹き込んだに違いないと陽生は確信する。
「ちょっと、心羽。他のお客さんに迷惑だから、静かにしよう?」
茉莉に咎められ、ごめーん、と心羽はちろりと舌を出す。そして、それはそうと、と彼女は本題へと戻る。
「茉莉、水着買いに行くの、いつなら行けそう? 平日は文化祭実行委員の仕事あるから難しいよね? 来週の土曜とか?」
「来週の土曜なら大丈夫。ねえ、貴嶋くんも来る?」
「えっ……おれはいいかな……。特に買うものもねえし……」
「何言ってんだよ、陽生。お前、水着って中学のときの学校指定の海パンしか持ってないだろ。高校生にもなって、学校指定の海パンはさすがにダサい。いい加減ちゃんとしたの買えよ」
「年に一回使うかすら怪しいのに?」
「年に一回しか使わないからこそ、ちゃんとしたイケてるやつ買うんだよ。ブーメラン型のやつとかさ」
ブーメラン型と聞いて、茉莉と心羽が一斉に吹き出した。
「ちょっと……さっくんのセンス不安になるんだけど! 心羽、さっくんに水着選んでもらうのやだあ」
「心羽ちゃん、ブーメラン型は冗談だから安心しろって。本当はTバックにするつもり」
茉莉が静かに陽生を見る。その目が、穿くの? と聞いてくる。
「芦屋、おれはそういう際どいの穿く趣味ねえから! もっと普通の、無難なやつ!」
「ふうん。……ちなみに、貴嶋くんもわたしの水着選びたかったりとかするの?」
「おれは、彼氏とかじゃなく友達だからちょっと……。誰かに選んでもらいたいなら、せめて天沢にしてもらえ」
「心羽も貴嶋くんもわたしの友達なのに、貴嶋くんは駄目なんだ?」
「芦屋……ピュアな青少年をからかうのはやめてくれ……」
陽生はテーブルに突っ伏した。脳裏ではいろいろな水着に身を包んだ茉莉がちらちらと見え隠れしている。
「あっ、そうだ、心羽、この前買った今日ガイドブック持ってきてたんだった! 皆で見ようよ!」
そう言うと、心羽は『夏休み完全ガイド』なる雑誌をパステルブルーのキャンバストートの中から取り出した。そして、ポテトの皿を横に動かすと、テーブルの中央に雑誌を置き、ページをぱらぱらとめくる。
「ねえ、これ見て! 海の家グルメ特集だって! 心羽、このカラフルフルーツかき氷っていうの食べたーい!」
「へえ……最近の海の家って進化してるんだな。カレーとラーメンしかないと思ってた」
陽生はのろのろと顔を上げると、雑誌に目をやる。多種多様なフードやドリンク、スイーツが紙面の上を艶やかに彩っていた。
「カレーとラーメンって、いつの時代の話をしてんだよ、陽生。けどいいな、この生しらすの冷やしパスタとかいうやつが美味そうだ」
「スイーツも海の家とは思えないくらいおしゃれなのがたくさんあるみたい。わたし、このアールグレイ味のパフェ気になるなあ」
陽生たちはあれが気になる、あれが美味しそうだと会話を交わし続ける。弾む会話はまるでグラスの中で弾けるメロンソーダの泡のようだった。
レモンイエローの生地に白いドットが散りばめられ、フリルがふんだんにあしらわれたワンピース型水着。オレンジとホワイトのチェック柄のバンドゥ水着に同じデザインのパレオ。その二つを手に、心羽はうーんと唸っていた。
心羽の横では茉莉が真剣な面持ちで同じように水着を選んでいる。彼女の目はまるで紫陽花を織ったかのような色のワンピース型水着に釘付けになっている。
「ねえ、さっくん、これとこれだったらどっちがいいー?」
「うわあ、どっちも超オレ好みー! せっかくだから、両方試着してみて、気に入ったほうを買ったらいいんじゃないか?」
早々に自分の水着を選び終わった陽生は、朔也と心羽のやりとりをぼんやりと腕を組んで聞いていた。視界の先には食い入るように水着を見つめている茉莉がいるが、彼女の水着選びに付き合う気にはなれなかった。――自分の好みを押し付けるのは、彼女を支配している瑠音の言動と何も変わらないような気がして。
「……」
茉莉は水着を見つめながら、手に取ってはハンガーラックに戻すというのを繰り返している。試着室の中で、心羽が着替えているらしい衣擦れの音が響く。じれったくなった陽生はつい、茉莉に声をかけた。
「それ、気になってるんだったら、買うか試着したらどうだ?」
「うん……ただ、ね……」
茉莉は躊躇うように言い淀むと、淡い笑みを浮かべる。少し焦がし過ぎたほろ苦いカラメルのような笑みだった。
「瑠音がこういうの、好きじゃないの。だから――」
「あのな。お前が一緒に海に行くのは、佐倉じゃなくておれたちだ。そんなこと気にしなくていい」
「じゃあ……貴嶋くんはこの水着どう思う? 好き?」
「誰かの意見で自分のことを決めようとするのも、いい加減悪いくせだぞ。ただまあ……そうだな、綺麗な色だとは思う」
溜息混じりに陽生がそう言うと、茉莉の双眸に綺羅星が宿った。それじゃあ買っちゃおうかな、と茉莉は決心がついたのか、朗らかな顔でレジへと向かっていった。
シャラリ、と試着室のカーテンが開いた。「さっくん、どう?」オレンジのチェックの水着に身を包んだ心羽がくるりとその場で一回転してみせる。パレオがふわりと広がる。陽生は反射的に心羽の剥き出しの背中から目を逸らした。
「おー、さっすが心羽ちゃん、超かわいいじゃん! でも、この水着だとラッシュガードがいるな。誰かさんには刺激が強いみたいだし」
そう言いながら、朔也はハンガーラックからラッシュガードを探す。「心羽ちゃんに似合いそうなのならこの辺かな」袖口や裾、胸の切り替え部分にふんだんにフリルがあしらわれた白のラッシュガードを選ぶと、朔也は心羽にそれを渡す。
「わあ、これ可愛いー! さっくんさすがー! 心羽これにするー」
いぇーい、と朔也と心羽はハイタッチを交わす。元気なバカップル二人を見ていると、なんだか生気が吸い取られていくような気がする。「それじゃ、心羽着替えるね」心羽が試着室のカーテンを閉めると、朔也は近くに控えていた女性店員へと目配せする。
「さっきのオレンジの水着とラッシュガードでお願いします」
朔也が店員に耳打ちすると、在庫確認しますねと店員は頷いた。店員が新しい水着とラッシュガードを棚から取り出すと、朔也は財布を開く。
「一万九百八十円になります。二十円でお手提げお付けできますが、どうなさいますが」
お願いします、と頷くと朔也は一万円札と千円札を一枚ずつキャッシュトレイの上に置く。「丁度のお預かりです」店員はレジに紙幣を投入すると、ヤシの木がプリントされたショッパーに水着とラッシュガードを詰めた。
シャラリと再び試着室のカーテンが開くと、パステルピンクのクロップドTシャツにホワイトのショートパンツ姿の心羽が姿を現した。「はい、心羽ちゃんこれ」心羽が履きやすいようにサンダルの位置を整えてやると、朔也は彼女にショッパーを手渡した。
「えっ、さっくんこれ……」
「オレのために可愛くしてくれるんだから、このくらいオレに出させてよ」
幼馴染の口からとんでもない殺し文句が飛び出したような気がして、陽生は朔也を二度見した。特に気負った様子のないその立ち居振る舞いはスマートで、いつも一緒に馬鹿話をしている男友達はどこにもいなかった。
いいなあ、と茉莉が呟いた。その横顔には羨望よりも寂しさが色濃く浮かんでいて、彼女は瑠音から何かをもらったりすることがないのかもしれないと陽生は思った。もしかしたら、朔也と心羽のように買い物デートなんてものをすることもないのかもしれない。
(佐倉もメジャーデビューしてるバンドのボーカルだ、女と歩いているところを週刊誌にすっぱ抜かれたりするわけにもいかねえのかもしれねえけど……)
そういう事情があるかもしれないかもしれないということまでは想像もできるし、飲み込めもする。しかし、制限された生活の鬱憤を彼女である茉莉に当たることで発散しているのだとしたら、それは見過ごしてはおけない。
「さて、水着も見終わったことだし、次は浮き輪とかビーチボールとか見ようぜ。下にホームセンターあっただろ?」
朔也の言葉に、物思いに耽っていた陽生は現実に引き戻された。ああ、と頷くと、陽生は踵を返す。「ありがとうございましたー」店員が背中を追いかけてくるのを聴覚に捉えながら、陽生たちは店を出た。
四人は通路を進むと、エスカレーターを降りた。すると、景色が途端に先ほどまでの小洒落たショッピングモールから雑多で生活感のあるホームセンターへと変わる。
「ねえ、さっくん。浮き輪とかってどの辺りにあるんだろ?」
「あっちにシーズンもののコーナーがあるから、ちょっと見てみようか」
「心羽、氷上くん。シーズンもののところはほとんど虫除け用品ばかりだよ。浮き輪とかを探すなら、たぶんレジャー用品の方だと思う」
「芦屋、詳しいんだな」
「昔よく来てたから……家族ぐるみで」
誰と誰が家族ぐるみでなのかは聞かなくても陽生でも想像がついた。そして、彼女のいう”昔”は今とは違って、もっと健全な関係性だったに違いない。
四人はレジャーコーナーへ行くと、浮き輪やビーチボールの物色を始めた。夏らしい色の奔流が視界へと流れ込んでくる。
「ねえねえ茉莉、この浮き輪可愛くない? フルーツ柄なの」
「わあ、夏って感じだね。それじゃあビーチボールはこんなのはどう?」
「肉球柄! こんなのあるんだ! それにしても茉莉は猫好きだねー」
女子二人がきゃあきゃあと盛り上がっているのを聞きながら、陽生は棚を眺める。そして、陽生はたまたま目が合ったそれをなんとはなしに手を取った。
「陽生、男子高校生が一人でピンクのイルカのフロートはサムいと思うぜ。それとも芦屋と乗んの?」
「乗らねえよ! おれはお前と違ってそんな恋愛脳じゃねえから! っていうか仮に芦屋と乗るとして、どうやって誘うんだよ! 問題だらけじゃねえか!」
「せっかくの夏なのに寂しいやつだなあ」
「うっせえわ! そんなことより、空気入れとかレジャーシートとかもいるんだろ! とっとと選ぶぞ!」
陽生は朔也との会話を切り上げると、ピンクのイルカのフロートを棚に戻した。そして、適当に目についたブルーシートと空気入れを手に取る。すると、うわあと残念なものを見る目で朔也が陽生を見てきた。
「空気入れは実用第一だからそれでいいとしてもさ……陽生、ブルーシートってお前、正気?」
「四人でも広々と使えて、その上軽量で防水らしいぞ。これのどこに問題があるんだよ」
「どこに問題があるかって言ったら、陽生のセンスだよ……。レジャーシートも心羽ちゃんと芦屋に決めてもらおうぜ。――心羽ちゃーん、芦屋ー、ちょっとこっち来てレジャーシートも選んでくれるー?」
浮き輪とビーチボールが入った買い物カゴを持った茉莉と心羽が朔也の声に振り返り、こちらへとやってきた。陽生は茉莉の買い物カゴをさりげなく引き取ってやりながら、女子二人がレジャーシートを選んでいるのを釈然としない気持ちで見ていた。
「はい、貴嶋くん。これ、去年の資料ね」
多目的教室で陽生は向かい合って、茉莉と文化祭実行委員の仕事をしていた。去年、文化祭実行委員が準備に使った資材の洗い出しをしてほしいと茉莉に渡されたのが今しがたの書類の山だった。
「多少は変動があるかもしれないけど、これを見れば、校門や昇降口の看板とか、屋上から吊るす垂れ幕に使う資材の量がわかるはずだから。貴嶋くんがそれ確認している間に、わたしは各クラスや各部活から上がってきた申請の確認をしちゃうね」
「わかった……けど、今日、これおれらだけで無理に進める必要あるのか? 週明けに終わらせることにして、ほどほどで切り上げようぜ。ほら……明日、おれら海、行くし」
「それとこれとは話が別だよ。それに週明けに回したらお盆に入っちゃう。そしたら、資材の発注が遅れて、文化祭の準備に影響が出ちゃうよ。お盆の間って流通が止まるから」
へえ、と相槌を打ちながら、陽生は昨年の資料に目を通していく。段ボールに絵の具、布にガムテープ――資料に出てきた資材を都度申請用紙に陽生は記入していく。必要な数を申請用紙の欄外に正の字を書いてもたもたと陽生が数えているうちに、茉莉は流れるような早さで書類の束を捌いていく。
「あ、貴嶋くん、そこ厚紙が抜けてるよ」
「……」
自分も作業しながらだというのに、微細なミスにすら気づいてしまう茉莉の視野の広さと能力の高さに陽生は舌を巻いた。指摘をした茉莉は右手にシャーペンを握ったまま、左手でぺらぺらと書類を捲り続けている。
「そういやさ、なんで芦屋は文化祭実行委員なんてこんな面倒な仕事を引き受けてるんだ?」
「わたし? わたしは――瑠音のためだよ」
瑠音のため。また出た、と思いながら、陽生は内心で溜息をつく。
「なんで、お前が文化祭実行委員をやることが佐倉のためになるんだ?」
「文化祭でライブをやるから、時間とスペースを融通してほしいって。メディアも入る予定だから、そのための手配もしてほしいって言われて。そのためには、わたしが文化祭実行委員になるしかないかなって」
「有り体に言うと、打算的な思惑があって、文化祭実行委員に立候補したってわけか」
「そういうこと。――ねえ、貴嶋くんは何で文化祭実行委員になったの?」
「……何となく」
「補習であんなに忙しい人が、普通何となくで文化祭実行委員なんてやるかなあ」
「うるせえよ、ほっとけ」
茉莉のためだとは口が裂けても言えなかった。きっと、朔也ならばそういうこともさらっと言ってしまえるのだと思うと、自分よりも先を生きる親友が羨ましくなる。
茉莉は書類の集計を終わらせると、書面に書かれた数字に目を走らせた。何かを考え込んでいる茉莉に遅れて、陽生は申請書を書き上げると彼女へと声をかける。
「芦屋? どうかしたのか?」
「えっと……今年の文化祭のテーマって『街と歩む、わたしたちの未来』じゃない? 黄色の画用紙とか金の絵の具とか多めに発注しておいたほうがいいかなあ、って思ってたところ」
「黄色の画用紙と金の絵の具? 何で?」
「何でって、貴嶋くん、きらりんを校内のいろいろなところに飾りつけるからだよ」
「きらりんって、ああ……なんかあの金平糖のゆるキャラの」
「金平糖っていうか、星織糖《ほしおりとう》ね。地元銘菓の。この分だと、貴嶋くんは何で星織糖が有名なのかも知らないでしょ」
「……どーせ、おれはクラス三十六位の男だよ」
「拗ねないの。桜姫伝説は知ってる?」
「誰それ」
茉莉はスマホを取り出し、「桜姫伝説 桜島市 小学生でもわかる」というワードを検索エンジンにかけた。そして、検索結果の一番上に表示されたサイトを彼女は陽生に見せた。自分の理解力が小学生並みだと思われていることに釈然としない気分になりながらも、陽生はそれを覗き込んだ。
戦国の時代、現在の桜島市が他国の武将によって攻め込まれたことがあった。城が遂に落とされるというそのとき、自分の首を差し出す代わりに他の女子供の生命を見逃すように取引を持ちかけた女性がいた。それが桜姫だった。
桜姫によって救われた人々は、後世まで彼女のことを語り継いだ。そして、その桜姫が生前に好んで口にしていたのが地元銘菓の金平糖――星織糖だったとされている。現在では星織糖にちなみ、きらりんというゆるキャラが地域のPRを行なっている――それがそのサイトに書かれた概要だった。
(何か……重なるな)
桜姫の所業が、ゴールデンウィークに遊びに行った帰りに瑠音と出会したときの茉莉と重なって見えた。茉莉もまた、瑠音の前で膝をつき、あの場から陽生を逃してくれた。
「さて、と。画用紙と絵の具の発注数はこんな感じでいいかな。どうしても足りなくなったら、駅前の百均に買い出しに行けばいいし。今日はこのくらいにして、職員室に書類出しに行ってそのまま帰ろ」
茉莉はペンケースをバッグにしまうと、立ち上がる。ああ、と陽生も荷物をまとめると、席を立った。二人は多目的室を出ると、夕日の差し込み始めた廊下を歩き始める。
「ねえ、貴嶋くん。明日、楽しみだね」
「だな。寝坊とかすんなよ」
しないよ、と茉莉はくすくすと笑う。その顔には疲れが滲んでいて、明日が彼女にとって少しでも息抜きの日になればいいと陽生は思った。
こんな日が続けばいいのに。茉莉は小さく呟く。――仲の良い友達と過ごすだけの、他愛のない日常が。
小さな願いを胸に、二人は並んだままゆっくりと階段へと向かって歩いていく。今のこの時間が心地よくて、いつまでも職員室につかなければいいのにと二人は考えていた。――互いが同じ気持ちでいることにも気づかずに。
夏空から降り注ぐ日差しが容赦なく背中を灼く。女子二人の着替えを待ちながら、陽生は朔也とともに砂浜にレジャーシートを広げていた。
「さっくーん! 貴嶋くん、お待たせー!」
遠くから心羽の声が響いた。額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら背後を振り返り――茉莉の姿を認めた陽生は固まった。
青と紫のグラデーションが美しいワンピース型の水着。ちらりと覗く胸元の谷間に、華奢なウエスト。薄く透き通るような布地の下からは細い脚が美しいラインを描いている。
「おー! 心羽ちゃん、お店で見たときも思ったけど、やっぱ可愛いな! それめっちゃ似合ってる!」
「さっくん、ありがとー! ねえ、貴嶋くんは茉莉に何かないの?」
「……いいんじゃねえの。綺麗だとは、思う」
陽生がぼそりとそう言うと、朔也と心羽は顔を見合わせてにんまりと笑った。ありがと、と茉莉も微笑む。
「ねえ、茉莉。日焼け止め、塗り合いっこしようよ!」
「いいよ、ちょっと待ってて。わたし、『絶対焼けない』ってSNSでバズってた日焼け止め持ってきてるの」
「えー、心羽ちゃんの日焼け止め、オレが塗っちゃだめ?」
「さっくん、そんなこと言ってどさくさ紛れに変なとこ触る気でしょ? 今は茉莉も貴嶋くんもいるんだから、そういうのはだめー」
ちぇ、と朔也は唇を尖らせる。陽生はじっとりとした目で親友を見やった。こいつら一体どこまで進んでいるんだ。――まさか。
日焼け止めを手に茉莉と心羽はじゃれ合っている。心羽の手が茉莉の水着の肩のストラップの下に入り込むのを目にした陽生は、見てはいけないものを見てしまった気がして視線を逸らした。
身体のラインが強調された今日の茉莉のことを陽生は直視できなかった。薄い布を一枚隔てた先に白く柔らかい素肌があるのだと思うと、嫌でも性を意識させられた。――茉莉は自分にとって魅力的な女の子なのだと。
女子二人が日焼け止めを塗り終えると、朔也は自分のバッグから小銭入れを取り出した。
「何か飲み物買ってくるか。心羽ちゃん一緒に行こ」
うん、と心羽はレジャーシートから立ち上がると、腕を朔也に絡ませる。それじゃ行ってくる、と朔也は心羽とともに海の家の方角へと足を向けた。心なしか、心羽の胸が朔也に当たっている気がするが、朔也は何も思わないのだろうか。それとも、もうそのくらいで騒ぐような次元に彼はいないのか。
茉莉と二人でレジャーシートに取り残された陽生は話題を探す。海、綺麗だな。みんなで来られてよかったな。頭に浮かぶのは天気の話のようにありふれたものばかりだ。話題に苦慮した陽生の口から出たのはよりにもよってこんなものだった。
「なあ……芦屋、お前何か羽織るものないのか」
「だめだった? 心羽と違って背中が出てるわけでもないし、このくらいなら、ラッシュガードなくてもいいかなって思ったんだけど……」
「お前さ、警戒心なさすぎ。変なやつが寄ってきたらどうすんだ」
「貴嶋くんも氷上くんもいるから、ナンパ目的の人とかそうそう寄ってこないと思うけど……?」
「ああもう、そうなんだけど、そうじゃねえっていうか……」
おれが誰にも見せたくねえんだよ。小さく呟いたその言葉は波にさらわれて、隣に座っている茉莉の耳にすら届きはしなかった。変なの、と茉莉は笑う。
「解れよ。馬鹿」
「……うん」
ぺた、と剥き出しの茉莉の肩が陽生の二の腕に触れる。彼女の素肌は日焼け止めで少ししっとりとしといた。
「貴嶋くん、あのね。わたし……こんなに楽しい夏休み、久しぶり」
「……よかったな」
「貴嶋くんがいて、心羽がいて、氷上くんがいて。ずっとずっと、このままでいたいなんて思っちゃう」
「お前がそう望んでるなら、たぶんおれたちは高校卒業まではずっとこのままだよ。遊んでくだらない話して、きっとそうやって過ごしてく。……まあ、卒業後まではわからねえけどな」
「貴嶋くんと友達になっていなかったら、きっとこんな夏はなかった。――だけど、わたしなんかがこんなに幸せでいいのかなって思っちゃうの」
あのな、と陽生は溜息をつく。彼は腕にもたれかかる彼女の頬に両手を添えると真正面から覗き込んだ。
「お前は、”なんか”じゃない。もっと自分のことを大事にしろ。お前のことを大事に思っているやつだっているんだ。そんなふうに言うもんじゃねえよ」
「貴嶋くん……」
色素の薄い茉莉の目に感情の小波が立つ。彼女のことを瑠音の元から掻っ攫って、安全なところにしまっておけたらどんなにいいだろう。彼女が自分を卑下するところも見たくなければ、傷ついたり悲しんだりするところも見たくない。
(……駄目だ)
茉莉が自分の意思でそうしたいと言わない限りは、自分の願望を彼女に押し付けるだけになってしまう。それでは瑠音と何も変わらない。
「芦屋、おれは……」
彼女の名を呼んだ途端、陽生は胸が締め付けられるのを感じた。彼女のことがどうしようもなく大事なのに、この感情につける名前がわからない。わかるのはただ――彼女に笑っていてほしいということだけだ。
「陽生、芦屋、お待たせー! 海の家混んでてさー……ってオレらもしかしていい感じのとこ邪魔しちゃった感じ?」
「貴嶋くん、心羽たちのことは気にしないで続けていいよ。さっくん、心羽たちはあっち行ってようか」
「そうだな。それじゃあ陽生、頑張れよ。首尾についてはあとでメッセージくれ。そんで、四人で昼メシ食お」
グッドラック、と朔也は親指を上げる。陽生は茉莉の顔から手を離す。今のを二人に見られていたと思うと、穴を掘ってでも埋まりたい気分だった。
「朔也、変な誤解してんじゃねえよ。頑張れって何をだ」
「あれ、遂に陽生が男気見せる気になったのかとばかり」
「何が男気だ! あれはええと……その、あれだ……友達同士のスキンシップ?」
「心羽はよく茉莉とじゃれたりしてるけど、それでもあの距離はないかなあ。あれはもう、キスするときの距離だよ。ね、さっくん」
「オレもそう思う。さ、オレたちは気にしないから続きを」
「しねえよ……このバカップルどもめ……」
嘆息すると、陽生は茉莉へと一瞥をくれる。元々控えめな方だが、やけに静かだと思っていると、彼女は顔を真っ赤に染めて固まっていた。
「……え」
ぼっと陽生の耳が熱くなる。二人は顔を真っ赤にしたまま見つめ合う。二人の本心は打ち寄せる波の音にかき消されて、互いの心に届くことはなかった。
白い木造の建物に、淡いターコイズ色の金属屋根。屋根の上では小さな木彫りの鳥が潮風の行方を知らせている。ぱたぱたとはためく幟も都会的に洗練されていて、海の家というよりはカフェといったほうがしっくりくる。
「最近の海の家は洒落てんな……」
思わず陽生がそう口に出すと、朔也はにんまりと笑った。彼はメニュー表を陽生へと差し出す。
「洒落てんのは見た目だけじゃなくて、メニューもだぜ、陽生」
心羽が買っていたガイドブックに載っていた小洒落た食事やスイーツ、ドリンクの数々が洗練されたフォントでメニューに記されていた。先ほど運ばれてきたお冷のグラスも透かし彫りで回遊する魚の柄があしらわれているし、お代わり用の水差しにはレモンが浮いている。何から何までお洒落だ。
「オレは生しらすの冷やしパスタ。心羽ちゃんはどうする?」
「じゃあ心羽は、シーフードトマトリゾット! 茉莉は?」
「わたしはそうだなあ……アボカドシュリンプオープンサンドで! 貴嶋くんはどうするの?」
「うーん……おれは悩み中……でもせっかくだから海鮮食いてえんだよな……。ここは無難に生しらす丼で」
「陽生、お前って本当に冒険しないよな」
「うっせえよ」
先ほどのことといえ、遠回しに意気地なしと言われているようでむっとしながら陽生は言い返した。
子供連れに、陽生たちのような学生の友達同士。混み合う店内を歩く水着の上からエプロンをつけた姿のウェイターを呼び止めると、陽生は四人分の注文を告げる。
「生しらすの冷やしパスタとシーフードトマトリゾット、アボカドシュリンプオープンサンドと生しらす丼で」
「あっ、心羽、カラフルフルーツかき氷も食べる!」
「それじゃあ、わたしは食後にトロピカルティーソーダを」
「オレ、生搾り塩レモネード」
せっかく注文をまとめたというのに、その甲斐なく、心羽たちは追加注文を畳み掛けてくる。陽生は溜息混じりにアイスコーヒーと告げると、注文を打ち切った。
ウェイターが注文を復唱して去っていくと、何か言いたげな視線を朔也が向けてきた。うるさい、と陽生は彼を視線で黙らせる。
「貴嶋くんと氷上くんって面白いよね。言葉にしなくてもわかりあってる感じが、本当に仲良いんだなあって感じする」
「あのな芦屋……おれと朔也はただの腐れ縁ってだけだ」
「貴嶋くんはそんなこというけど、心羽は貴嶋くんのことずるいって思ってるよ。だって、貴嶋くんのほうが心羽よりさっくんのことわかってる気がするもん。何か悔しい」
「そんなこと言われてもなあ……」
まあまあと茉莉はその場を取りなすと、午後のことへと話題を変える。
「ねえ、午後は何しよっか。貴嶋くんと氷上くんは泳いでくる?」
「いいよ、オレらそんなガキじゃないし」
「そういえば、貴嶋くんがフロート買ってなかった? 異常にリアルなクマのやつ。貴嶋くんが使わないなら、心羽とさっくんで使っていい?」
「好きにしろよ……」
「そしたら、貴嶋くんはわたしとちょっと散歩しない? 心羽が持ってきたガイドブックに、景色が綺麗に見える穴場があるって書いてあったの」
「……これっておれ拒否権あんの?」
「ナンパ目的の奴も多い海で女の子を一人にするのはオレはどうかと思う」
「ここで断ったら、心羽は貴嶋くんのことをひとでなしだと思う」
「散々な言われようじゃねえか……いいよもう、海の底でも何でもお供してやるよ」
陽生はテーブルに頬杖をつき、不貞腐れたように嘆息した。
お待たせいたしました、とウェイターが料理を運んできた。土地のものを使った料理の数々でテーブルの上が彩られる。
気を取り直すと、陽生は箸を取り、小皿のわさびと醤油を混ぜた。わさび醤油を生しらす丼の上にかけると、陽生は茶色い液体のかかった透き通った生しらすを箸でつまみ、口へと運ぶ。彼は醤油の塩味とわさびの特有の辛さ、生しらすのほのかな長さを感じながら、午後へと思いを馳せた。――茉莉はどういう意図で自分を誘ったのだろう、と。
ハーフアップに結えた長い髪が海風にはためく。夏の昼の日差しが彼女の横顔を照らし、その肌の白さを強調していた。
歩く度に揺れるワンピース型水着の裾はマーメイドの尾のようだ。茉莉と付かず離れずの距離を歩きながら、陽生はそんな月並みな感想を覚えた。
「ねえ、貴嶋くん。あの島見える? 灯台があるところ」
「ああ、あれか?」
視界の先には島の遠影が見える。この辺りにはもうほとんど人気がなかった。
「あの島にはね、縁結びで有名な神社があるの。あとは綺麗な庭園とか恋人の聖地とか」
「へ、へえ……朔也と天沢に教えてやれば喜ぶんじゃないか? 縁結びはともかく、デートにはもってこいだろ」
茉莉の話を陽生が受け流すと、彼女は彼の両腕を掴んだ。そのままでいて、と彼女は言うと、陽生の裸の胸に頭をつける。
「ねえ、貴嶋くん。――わたしたちの関係って、何なのかな」
「……っ、友達だろ」
「わたし、こんなふうに甘えられるの、貴嶋くんしかいないの。貴嶋くんといると、安心するの。なのに、少し苦しくて、でももっとって思う自分もいて……わたしはわたしがわからない」
「芦屋……おれは」
言わないといけない。これだけは伝えないといけない。意を決して陽生は口を開く。ざらざらと声が掠れた。
「おれは……お前のことを大事に思ってる。正直、お前と佐倉のことなんて見てらんねえよ。お前が傷つかないように守ってやるから、佐倉じゃなく、おれたちといろよ」
佐倉じゃなくおれを好きになれよ。その一言はどうしても言えなかった。その代わりに陽生は壊れものを扱うように茉莉をそっと抱きしめた。お互いの少し早い呼吸が、潮風と波音に紛れてやけに大きく聞こえた。
「貴嶋くん……しばらく、こうしてていいかな……?」
「……好きにしろよ」
人の気も知らないで。そう思いながらも陽生は腕の中の温もりを放す気になれなかった。
もっと触れてみたい。唇も、それ以外も。こうして抱き合うだけじゃなく、キスも、それ以上も。そんな欲望がじわじわと込み上げてきたが、陽生は奥歯を強く噛んで耐える。茉莉も同じように望んでくれているのでなければ、この感情はただいたずらに彼女を傷つけるだけだ。
「芦屋、お前、おれ以外にこういうことすんなよ。相手がおれじゃなかったら、とっくに襲われてんぞ」
「……うん」
あと一歩のところで交わらない二人の感情は波へと攫われていく。重なり合った肌の温もりを確かに感じるのに、二人の距離はどこまでも近くて遠かった。その距離の縮め方がわからないまま、二人は日が傾き始めるまでずっとそのままお互いの心音を聞いていた。――互いの存在を確かめ合うように。
電車の揺れが疲れた身体に心地よかった。茉莉と心羽は身体を互いに預け合いながら眠っている。
紺色の宵の空では、星々の代わりに家やビルの灯りが点々ときらめきを放っている。星の見えない空を見ると、日常に帰ってきたのだと実感させられる。
「――なあ、朔也」
陽生は女子二人を起こさないように声をひそめながら、隣に座る朔也に話しかけた。スマホをいじっていた朔也は真面目な話だと察したのか、手を止めて陽生を見た。
「どうした」
「あのさ……おれ、芦屋のこと、好きだ」
「――知ってるよ。ずっと前から、知ってる。オレも心羽ちゃんも。気づいてないの、お前ら二人だけだよ」
陽生は唖然とした。どうして気づかれたというのだろう。
「前にも言っただろ。お前、芦屋と心羽ちゃんじゃ接し方が全然違うって。いくらなんでも態度に出過ぎだろ。芦屋に対する特別扱いが過ぎる」
「え……いや、友達なら普通に気にかけたりするだろ……」
「友達の気にしかたじゃないだろ、あれは。……で、告白したの? それともされたの?」
「してねえし、されてねえ……」
陽生がそう言うと、朔也は呆れたような表情を浮かべた。
「じゃあ、二人で人気のないところで何してたわけ? それとも寧ろ二人でナニかシてたわけ? 外なのに?」
「やめろ、何だその含みのある言い方は。というか、告白もできない奴が色々手順飛び越えてそれ以上の何かをする勇気があるとでも……?」
「陽生、それ自分で言ってて悲しくなってこないか……? オレは正直、お前が女の子に手も出せない腰抜けで情けない……」
「うるせえよ……情けなくて結構だ……」
「うっわ、開き直った。で、本当に何してたわけ?」
「何か甘えられて……抱き合ってた……?」
ほう、と朔也の目が細められる。何だよ、陽生は朔也を睨む。
「いや、陽生にしては上出来だなーと思って。オレとしてはキスくらいしちゃってもよかったんじゃないかと思うけど」
「そういうのは、ちゃんと告白して付き合って、手を繋げるようになって、三回目のデートでっていうのが常識じゃ……」
「陽生、今もう令和。それいつの常識だよ。……で、結局、どうすんだよ、芦屋のこと」
「とにかく、佐倉に傷つけられたりしないように、できるだけ一緒にいて守ってやりたい。それは変わらねえ。それが叶うなら、おれの気持ちなんて二の次、三の次で構わねえ。おれは――芦屋に笑ってて欲しいから」
「陽生にしては大人な意見だな。……だけど、お前に向けられた芦屋の気持ちはどうなる? オレは基本的にお前の味方だけど、芦屋だってオレの友達だ。オレは芦屋の味方でもある」
「それは……」
陽生は口ごもった。自分が不用意に茉莉の気持ちを受け入れてしまっては、瑠音によって彼女が傷つけられる結果を招きかねない。自分がどうするのが最善なのか、陽生にはわからなかった。
茉莉は心羽の肩に寄りかかってすうすうと小さな寝息を立てている。その無垢な寝顔にきゅっと心臓が掴まれた。瑠音から彼女を守る――陽生は己にそう言い聞かせると、そっと拳を握った。
「天沢に?」
夏休みまで一週間を切ったある日の昼休み、朔也と弁当を食べていた陽生は箸を止めた。自分で眉間に皺が寄るのを感じる。彼女も今や、自分にとって友達と言って差し支えのない相手ではあるが、こんな荒唐無稽な話を信じるだろうか。
「心羽ちゃんがさ、芦屋と佐倉のこと気にしてるんだよ。どうしても芦屋が幸せに見えない。どうにかしてあげたいって」
心羽の目にも彼らの関係性は異常に映っているということか。確かに茉莉を瑠音から守るためなら、心羽にも事情を打ち明けてしまったほうがいいのかもしれない。
「心羽ちゃんだけじゃなく、オレもあの二人はおかしいって思ってるよ。……それでさ、心羽ちゃんにも協力してもらって、四人でいる時間を増やさないか? もうすぐ夏休みだ、どうにかして芦屋を佐倉から引き剥がす口実を作らないと」
そういうことなら、と躊躇いながらも陽生は頷いた。一ヶ月以上もある夏休みの間に茉莉が瑠音に傷つけられるような機会は少しでも減らすべきだ。
じゃあ決まりな、とにっと笑うと朔也はじゃれ合う茉莉と心羽のほうへと視線を向ける。朔也の視線に気づいた心羽はふいにこちらを振り返ると、小さく頷いた。「ごめん茉莉ー、心羽、先生に呼ばれてるの忘れてたあ」心羽は茉莉の身体から腕を解くと、踵を返して教室を出ていった。
「そういうわけだから、さっさと心羽ちゃん追いかけて話してきてくれ。お前の弁当はオレが食っとくから安心しろ。……お、今日、生姜焼きじゃんラッキー」
「勝手に食うな、っていうかお前さっきパン三つ食ってただろ。――それより、おれが外している間、芦屋を頼む」
「卵焼きひとつで承った。何か適当に駄弁っとく」
頼んだ、と念を押すと、陽生は席を立ち、先に教室を出ていった心羽を追った。一年生の教室の前を順に通り過ぎ、視聴覚室に差し掛かったとき、見慣れたお団子ヘアの女子の姿が見えた。――心羽だ。
「――天沢」
視聴覚室に足を踏み入れると、陽生は彼女に声をかけた。貴嶋くん、と彼女は振り返ると陽生の名を呼ぶ。
「何か話があるらしいって、さっくんから聞いてるんだけど。――茉莉に関することで」
「ああ……うん」
本当に心羽はこんな話を信じるだろうか。言葉を濁しながら、陽生は手近な机の天板の上に行儀悪く腰を下ろす。
「貴嶋くんは変な嘘はつかないって、さっくん言ってた。だから、貴嶋くんが何を言っても、心羽も信じるよ。心羽はさっくんを信じてるから。――だから、話して」
心羽の真剣な眼差しが陽生に向けられる。わかった、と頷くと、ズボンのポケットから陽生はスマホを取り出した。メッセージアプリを立ち上げ、未来の自分とのチャット画面を開くと、心羽に見えるようにしてやる。
「天沢、まずはこれを見て欲しい」
「これは……貴嶋くん自身とのチャット? 相手がなりすましとかしてないのが前提だけど」
「ああ、それもそうなんだけど……送信日付のところ、見てくれるか?」
画面を覗き込む心羽の双眸が驚愕でまんまるに見開かれた。
「十年後からのメッセージ……?」
「そうだ。それも一方的に送られてくるだけのな」
「確かに、現在《いま》の貴嶋くんが送ったメッセージにはどれも既読がついてないね」
頷くと、陽生は人差し指を立てる。
「もうひとつ、重要なことがある。このメッセージに従って行動すると、必ず芦屋に遭遇するんだ。最初はおれもいたずらかウイルス感染か何かで届いたメッセージだと思ってたんだが……どうやら、未来のおれとやらは芦屋と佐倉をどうにかして引き離したいらしい」
「心羽は……信じるよ。茉莉が一人でどこかに行っちゃったとき、戻ってくるときは大体いつも貴嶋くんと一緒にいるし。茉莉の居場所を未来の貴嶋くんが教えてくれてたんだとしたなら、全部筋が通るもん。だから心羽は――現在(いま)の貴嶋くんのことも、未来の貴嶋くんのことも、信じるよ」
サンキュな、と陽生は天井を仰いだ。こんなに真っ正面から信じると言われるのは、何だかちょっと面映い。
「それで貴嶋くん。茉莉のこと、どうするつもりなの?」
「問題は夏休み、だよな。なるべくおれたち四人で会う口実が欲しいところだけど……」
「それならさ――」
心羽が何か言いかけたとき、ぶぶっとスマホが唸り、通知が画面に表示された。彼女はその内容を認めると、あーあと肩をすくめた。
「せっかく、心羽が言おうと思ってたのに。未来の貴嶋くんに先越されちゃった」
届いたメッセージの内容は、「文化祭実行委員に立候補しろ」。なんとも面倒臭そうな内容に陽生はげんなりする。文化祭なんて陽キャのイベントを楽しむ性質でもないというのに。
「茉莉が文化祭実行委員に立候補するつもりみたいだったから、少なくとも二人で学校で作業する口実は作れるよ。……ってそうじゃなくても、貴嶋くんは夏休みは学校で補習漬けなんだっけ。確か五教科くらい?」
「朔也のやつ、何を勝手にぺらぺらと……」
自分の期末テストの惨憺たる結果が心羽に筒抜けであることに、陽生は頭を抱えたくなった。
「でも、それもいい口実かもよ? 今回も茉莉がクラストップだったし、文化祭準備のついでに勉強教えてもらったらいいじゃん。じゃないと、夏休み明けの実力テスト、悲惨だよ?」
夏休みが明けてからも補習漬けになりそうな自分の未来に、陽生は深々と溜息をつく。茉莉はクラストップで、朔也は平均くらいだし、心羽だって赤点は全教科ぎりぎり回避している。どうして自分ばっかり。
「ていうか、天沢も芦屋に勉強教えてもらったらどうだ?」
「心羽はさっくんに教えてもらうからいいのー」
「ああそう……」
そのとき、スピーカーから予鈴が鳴り響いた。そろそろ教室に戻っておいた方がいい。
「天沢、戻るぞ」
陽生は机の上から降りると、視聴覚室を後にする。うん、と頷くと心羽も陽生の後に続く。
陽生と心羽が教室に戻ると、茉莉と朔也が話していた。朔也の言葉でくすくすと笑う茉莉を目にした陽生はなんとなく面白くない気分になる。
「あっ、心羽ちゃんおかえり。陽生も一緒だったのか」
白々しくそんなことを宣う朔也に陽生はじっとりとした視線を向ける。その上、陽生の弁当箱は教室を離れていた間に朔也によって空にされていて、溜息しか出てこなかった。
「なあなあ、心羽ちゃん、陽生。さっき、夏休みどこ行くー、って芦屋と話してたんだけど。海に花火大会、遊園地にバーベキュー、カラオケに水族館、ボウリングに夏祭り、いつどこに行くー?」
「多いな……」
陽生は脳内でお年玉貯金が溶けていく音を聞いた気がした。でも、茉莉を瑠音から引き離しておくには、これだけ連れ回してもまだ足りないくらいだ。
「心羽、この前本屋さんで『夏休み完全ガイド』みたいな雑誌見かけたよー! 今日、それ買って、帰りに駅前のファミレスかなんかで夏休みの予定決めようよー!」
「お、それいいな! さすが心羽ちゃん!」
いぇーい、と心羽と朔也はハイタッチを交わす。仲良いなこのバカップル。じっとりとした目でじゃれ合う二人を陽生は見やる。
茉莉はその二人の様子を羨ましそうに見ていたことに自分で気づいていなかった。――自分の心が、本当は何を求めているのかも。
古語と英単語と数式と化学式と年号が頭の中で喧嘩している。朝からみっちりと詰め込まれた補習のせいで頭痛を覚えながら、陽生は三階の多目的教室へと足を運んでいた。せっかく文化祭実行委員に立候補したにもかかわらず、活動に参加できない日々が続いている。
「お疲れ様でーす」
陽生が多目的教室のドアを開けると、見慣れた少女が一人で黙々と書類に向かっていた。手近な机にリュックを下ろすと、陽生は彼女へと声をかける。
「あれ、芦屋? お前、一人なの? 先輩たちは?」
「貴嶋くん、補習お疲れさま。先輩たちはみんな、予備校あるとかで帰っちゃった」
「ならお前も帰ればいいじゃん。ほんっと真面目っつーか、融通きかねーっつーか」
「でも、この書類、今日中に先生に出さないといけないみたいだから……」
茉莉が淡く微笑む。その顔にはほのかに疲れが滲んでいた。はあ、と溜息をつくと、陽生はぽんと彼女の頭を撫でた。一瞬、茉莉は虚をつかれたように目を見開いたが、やがて、ふふっと嬉しそうな声を漏らした。
「ありがと、貴嶋くん。何か、ちょっと元気出たかも」
それはよかった、と陽生は茉莉の髪から手を離した。何となく離れていく温もりが名残惜しかった。――茉莉もそう思っていてくれればいいのに。
陽生と茉莉の視線がふいに交錯する。二つの視線は引力に惹かれ合うかのように絡まり合って離れてくれない。この切なげな表情が、透き通った眼差しが、自分だけに向けられるものであればよかったのに。
微かな吐息の音が、心臓の音が、時を刻む針の音が二人きりの世界にやけに大きく聞こえる。茉莉から漂う女子特有の甘い香りが鼻腔を撫でる。
ふいに誰かが階段を上がってくる音がして、陽生は我に返った。もう少しこのまま茉莉と二人でいたかったような気がして、陽生は自分たちの間に割り込んできた足音を恨めしく思った。
「おい、まだ誰か残ってるのかー?」
ほどなくして、先ほどまで補習で顔を合わせていた世界史の田山(たやま)が戸口から顔を覗かせた。そして、茉莉の顔を認めると、ああと得心したように彼は頷いた。
「一年の文化祭実行委員か。あんまり遅くならないようにな。っていうか、お前ら帰ってくれないと先生帰れないから」
「すみません……もうじき終わるので」
茉莉が田山に向かって小さく頭を下げる。田山は陽生に気がつくと、意外そうに片眉を上げた。
「あれ、貴嶋だったか。お前も文化祭実行委員だったのか? 五教科補習の身でよくやるなあ」
「おれも今になって後悔してるところですよ……」
身体が二つあれば、補習も文化祭の準備も充分にできるのだが、現実はそうもいかない。茉莉のためとはいえ、中途半端にしか準備に参加できていない現状が歯痒かった。――茉莉みたいにとまでは言わないが、せめて心羽くらいの成績だったなら、もっと茉莉と一緒にいられるのに。
「ところで貴嶋……もしかして、先生お邪魔? もしかしていいところだったりとかしてた? いやあ青春だなあ」
「……別にいいところでも悪いところでも何でもないです。それより、他の教室見回りしてきたらどうですか。書類は出来上がったら職員室持っていくんで」
恋愛するのは止めないけど節度を持てよ、などと余計なことを宣いながら、田山は去っていった。一体誰と誰が恋愛するというんだ。頭痛が増したような気がしながら、陽生は茉莉の手元の書類を覗き込む。
「芦屋、何か手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。中学のとき生徒会やってたから、こういうの慣れてるし」
「芦屋、気づいてるか? 慣れてる、で済ませるのお前の悪い癖だぞ。誰かを頼れるところは誰かを頼れよ。な?」
何を、とまでは陽生は言わなかった。今ここで核心を突いて、彼女の儚げな笑みが崩れるのを見る勇気がなかった。――彼女は瑠音のあの振る舞いにも”慣れて”しまっているのだから。
「とはいえ、貴嶋くん、こういうの慣れてなさそうだしなあ。ちゃちゃっとわたしがやっちゃったほうが早い気がする」
「お前なあ……人が真面目な話してるのに……」
「大丈夫。ちゃんと貴嶋くんの気持ちは伝わってるよ。ありがとう」
「……え」
自分の言葉など、茉莉にはまったく響いていないのだと思っていた。彼女のことを誰かが心配しているという事実を本心では彼女はわかっていないのだと思っていた。――だからこそ、今の茉莉の言葉は少し意外だった。
「あとは提出前の最終チェックをするだけだから、ちょっと待ってて。貴嶋くん、補習漬けで疲れてるだろうし少し休んでてよ。それで、わたしの作業が終わったら、今日の補習でやったところ、一緒に復習しようか」
「そんなの今日じゃなくていいだろ。お前の作業終わったら帰ろうぜ」
「あのね、貴嶋くん。勉強は予習と復習が大事なの。わかる?」
「それはそうかもしれねえけど……お前も一日中文化祭実行委員の仕事してて疲れてるだろ」
「うーん、じゃあそうだなあ。わたし、疲れたから甘いものが食べたい気分かも。貴嶋くんの補習の復習終わったら、駅前のアイス屋さん行きたいな。今、ダブルがちょうど半額になってるの」
「わかった。それ奢ってやるから……悪いけど、少しだけ勉強付き合ってくれ」
「もちろん」
結局茉莉の掌の上でいいように転がされただけなような気がして、陽生は溜息混じりに窓の外を見る。オレンジに染まり始めた空に陽炎が揺れていた。
茉莉のシャーペンがかりかりと藁半紙の上に文字を刻む音が聞こえる。書類に視線を落とすその横顔は今日も綺麗だった。
「ちょっ……陽生、お前三十五点ってそれはないだろ!」
カラオケルームのテレビ画面に表示された点数を見て、朔也は身体をくの字に折って爆笑した。心羽は朔也の背中にくっついて肩を震わせ、茉莉は困ったように曖昧な笑みを浮かべている。
「カラオケの機械ってこんな点数出るんだね! 心羽はじめて見た!」
「うるせえよ、そこのバカップル。っていうか、朔也はおれが音楽の授業ずっと口パクしてるの知ってるのに、何で無理やり歌わせるんだよ」
「面白いから」
「黙れ」
陽生は朔也をぎろりと睨む。たまらなくなったのか、茉莉も小さく吹き出した。
「貴嶋くんと氷上くんって本当に仲良いよね」
「ただの腐れ縁だ。ほら、次、芦屋歌えよ」
憮然とした顔で、陽生は茉莉へとデンモクとマイクを押しやった。茉莉はデンモクを手に取ると、曲を探し始める。
しばらくして、テレビ画面に茉莉が選んだ曲が表示された。それは、何年か前のテレビドラマの主題歌だった。
ピアノによるイントロが流れ始めると、茉莉はマイクを持った。そして、すっと小さく息を吸うと声帯を震わせて、優しいのにどこか陰を感じさせる声で歌い始めた。歌声から伝わってくる無自覚な切なさと悲しみに、陽生の心はぎゅっと掴まれる。
ラブバラードを歌い上げていく茉莉の顔を心羽はじっと見ていた。朔也も何か思うところがあるのか、黙って茉莉の歌に耳を傾けていた。
ラストのサビが終わり、ピアノがアウトロを奏で始めると茉莉はマイクを置いた。そして、部屋の中が静まり返っていることに気がつくと、彼女は申し訳なさそうに目を伏せる。
「ごめん、今の流れでバラードはなかったよね。選曲間違えちゃったみたい」
「そんなことないよ。茉莉の歌が上手くてつい聞き入っちゃっただけだよ。ね、さっくん?」
「うん、めっちゃ上手かった。陽生は勉強だけじゃなく、歌も芦屋に教えてもらった方がいいんじゃないか?」
「やかましいわ」
「茉莉、こっちにデンモクちょうだい。次、心羽が歌うー」
「陽生、オレたちは飲み物取りに行こうぜ。心羽ちゃん、芦屋、何か欲しいものある?」
「わたしは大丈夫。心羽は?」
「じゃあ、心羽、オレンジジュース!」
りょーかい、と片目を瞑ると朔也は部屋を出る。陽生は朔也の後に続き、ドリンクバーへと向かった。
「なあ、陽生。芦屋って、自覚なさそうだけど絶対好きなやついるよな。さっきのあいつの歌、完全に恋してる奴の声だった」
「何の話だ? そもそも、芦屋は佐倉と付き合ってんだし……」
そういう話じゃない、と朔也はグラスに氷を入れ終えると、陽生を見た。その眼差しは珍しく真面目な色をしていた。自分のグラスにジンジャーエールを注ぎ終わった陽生は動きを止める。
「陽生、お前も大概にしておけよ。お前、芦屋のこと、どう思ってるんだ? ただの友達って感じじゃないよな?」
「……」
「女子の友達っていうなら、心羽ちゃんだっている。だけどな、お前、芦屋と心羽ちゃんで接し方がまるで違うんだよ」
「それは当然だろ。天沢はお前の彼女なんだから、いくらおれでもちょっとは気を遣う」
「そうじゃない。まったく、オレも心羽ちゃんもとっくに気づいてるっていうのに、何で当事者のお前らが何も気づいてないんだよ……」
嘆息すると、朔也はグラスにコーラを注いだ。朔也が何を言いたいのか理解できないまま、陽生は彼が心羽の分のオレンジジュースを注いでいるのを眺めながら、自分のグラスを満たすジンジャーエールを舐めていた。
「ねえねえ、茉莉。再来週、海行くじゃん? その前に一緒に水着買いに行かない?」
ファミレスの窓際席で、テーブルの中央に盛られたポテトに手を伸ばしながらそう言い出したのは心羽だった。スプーンを手にチョコパフェをつついていた朔也は女子二人の会話に当然のように混ざっていく。
「わー、いいなあ水着。心羽ちゃん行くならオレも行こうかな。オレ好みの水着選ばせてよ」
「もうやだ、さっくん。そんなこと行って絶対際どいやつ選ぶ気でしょ?」
「大丈夫、オレの好みはちゃんとノーマルだから。間違っても紐のやつとか選んだりしないから」
紐のやつ。思わず陽生はメロンソーダを吹きそうになった。週刊誌の巻頭グラビアとかで見る、現実では余程の痴女でもなければ着なさそうな全裸同然のアレ。うっかり茉莉でそれを想像しかけて、陽生はげほげほと咳き込む。彼女は絶対そんなの着ないし、着るならもっと清楚系なイメージだ。
「貴嶋くん、大丈夫?」
気遣わしげに顔を覗き込んでくる茉莉と後ろめたさで陽生は目を合わせられなかった。少しだけとはいえ、彼女で下品な想像をしたなんてこと、知られたくない。
「芦屋、陽生なら放っておいて大丈夫だから。陽生はその……あれだ、思春期男子特有の病気なだけだから」
「さっくん、それってどういうこと?」
きょとんとして心羽が横に座る朔也の顔を見上げた。朔也は心羽の耳元で何事かごにょごにょと囁いた。「えー!」心羽の声がファミレスの店内に響き渡る。朔也は自分にとって不名誉なことを心羽に吹き込んだに違いないと陽生は確信する。
「ちょっと、心羽。他のお客さんに迷惑だから、静かにしよう?」
茉莉に咎められ、ごめーん、と心羽はちろりと舌を出す。そして、それはそうと、と彼女は本題へと戻る。
「茉莉、水着買いに行くの、いつなら行けそう? 平日は文化祭実行委員の仕事あるから難しいよね? 来週の土曜とか?」
「来週の土曜なら大丈夫。ねえ、貴嶋くんも来る?」
「えっ……おれはいいかな……。特に買うものもねえし……」
「何言ってんだよ、陽生。お前、水着って中学のときの学校指定の海パンしか持ってないだろ。高校生にもなって、学校指定の海パンはさすがにダサい。いい加減ちゃんとしたの買えよ」
「年に一回使うかすら怪しいのに?」
「年に一回しか使わないからこそ、ちゃんとしたイケてるやつ買うんだよ。ブーメラン型のやつとかさ」
ブーメラン型と聞いて、茉莉と心羽が一斉に吹き出した。
「ちょっと……さっくんのセンス不安になるんだけど! 心羽、さっくんに水着選んでもらうのやだあ」
「心羽ちゃん、ブーメラン型は冗談だから安心しろって。本当はTバックにするつもり」
茉莉が静かに陽生を見る。その目が、穿くの? と聞いてくる。
「芦屋、おれはそういう際どいの穿く趣味ねえから! もっと普通の、無難なやつ!」
「ふうん。……ちなみに、貴嶋くんもわたしの水着選びたかったりとかするの?」
「おれは、彼氏とかじゃなく友達だからちょっと……。誰かに選んでもらいたいなら、せめて天沢にしてもらえ」
「心羽も貴嶋くんもわたしの友達なのに、貴嶋くんは駄目なんだ?」
「芦屋……ピュアな青少年をからかうのはやめてくれ……」
陽生はテーブルに突っ伏した。脳裏ではいろいろな水着に身を包んだ茉莉がちらちらと見え隠れしている。
「あっ、そうだ、心羽、この前買った今日ガイドブック持ってきてたんだった! 皆で見ようよ!」
そう言うと、心羽は『夏休み完全ガイド』なる雑誌をパステルブルーのキャンバストートの中から取り出した。そして、ポテトの皿を横に動かすと、テーブルの中央に雑誌を置き、ページをぱらぱらとめくる。
「ねえ、これ見て! 海の家グルメ特集だって! 心羽、このカラフルフルーツかき氷っていうの食べたーい!」
「へえ……最近の海の家って進化してるんだな。カレーとラーメンしかないと思ってた」
陽生はのろのろと顔を上げると、雑誌に目をやる。多種多様なフードやドリンク、スイーツが紙面の上を艶やかに彩っていた。
「カレーとラーメンって、いつの時代の話をしてんだよ、陽生。けどいいな、この生しらすの冷やしパスタとかいうやつが美味そうだ」
「スイーツも海の家とは思えないくらいおしゃれなのがたくさんあるみたい。わたし、このアールグレイ味のパフェ気になるなあ」
陽生たちはあれが気になる、あれが美味しそうだと会話を交わし続ける。弾む会話はまるでグラスの中で弾けるメロンソーダの泡のようだった。
レモンイエローの生地に白いドットが散りばめられ、フリルがふんだんにあしらわれたワンピース型水着。オレンジとホワイトのチェック柄のバンドゥ水着に同じデザインのパレオ。その二つを手に、心羽はうーんと唸っていた。
心羽の横では茉莉が真剣な面持ちで同じように水着を選んでいる。彼女の目はまるで紫陽花を織ったかのような色のワンピース型水着に釘付けになっている。
「ねえ、さっくん、これとこれだったらどっちがいいー?」
「うわあ、どっちも超オレ好みー! せっかくだから、両方試着してみて、気に入ったほうを買ったらいいんじゃないか?」
早々に自分の水着を選び終わった陽生は、朔也と心羽のやりとりをぼんやりと腕を組んで聞いていた。視界の先には食い入るように水着を見つめている茉莉がいるが、彼女の水着選びに付き合う気にはなれなかった。――自分の好みを押し付けるのは、彼女を支配している瑠音の言動と何も変わらないような気がして。
「……」
茉莉は水着を見つめながら、手に取ってはハンガーラックに戻すというのを繰り返している。試着室の中で、心羽が着替えているらしい衣擦れの音が響く。じれったくなった陽生はつい、茉莉に声をかけた。
「それ、気になってるんだったら、買うか試着したらどうだ?」
「うん……ただ、ね……」
茉莉は躊躇うように言い淀むと、淡い笑みを浮かべる。少し焦がし過ぎたほろ苦いカラメルのような笑みだった。
「瑠音がこういうの、好きじゃないの。だから――」
「あのな。お前が一緒に海に行くのは、佐倉じゃなくておれたちだ。そんなこと気にしなくていい」
「じゃあ……貴嶋くんはこの水着どう思う? 好き?」
「誰かの意見で自分のことを決めようとするのも、いい加減悪いくせだぞ。ただまあ……そうだな、綺麗な色だとは思う」
溜息混じりに陽生がそう言うと、茉莉の双眸に綺羅星が宿った。それじゃあ買っちゃおうかな、と茉莉は決心がついたのか、朗らかな顔でレジへと向かっていった。
シャラリ、と試着室のカーテンが開いた。「さっくん、どう?」オレンジのチェックの水着に身を包んだ心羽がくるりとその場で一回転してみせる。パレオがふわりと広がる。陽生は反射的に心羽の剥き出しの背中から目を逸らした。
「おー、さっすが心羽ちゃん、超かわいいじゃん! でも、この水着だとラッシュガードがいるな。誰かさんには刺激が強いみたいだし」
そう言いながら、朔也はハンガーラックからラッシュガードを探す。「心羽ちゃんに似合いそうなのならこの辺かな」袖口や裾、胸の切り替え部分にふんだんにフリルがあしらわれた白のラッシュガードを選ぶと、朔也は心羽にそれを渡す。
「わあ、これ可愛いー! さっくんさすがー! 心羽これにするー」
いぇーい、と朔也と心羽はハイタッチを交わす。元気なバカップル二人を見ていると、なんだか生気が吸い取られていくような気がする。「それじゃ、心羽着替えるね」心羽が試着室のカーテンを閉めると、朔也は近くに控えていた女性店員へと目配せする。
「さっきのオレンジの水着とラッシュガードでお願いします」
朔也が店員に耳打ちすると、在庫確認しますねと店員は頷いた。店員が新しい水着とラッシュガードを棚から取り出すと、朔也は財布を開く。
「一万九百八十円になります。二十円でお手提げお付けできますが、どうなさいますが」
お願いします、と頷くと朔也は一万円札と千円札を一枚ずつキャッシュトレイの上に置く。「丁度のお預かりです」店員はレジに紙幣を投入すると、ヤシの木がプリントされたショッパーに水着とラッシュガードを詰めた。
シャラリと再び試着室のカーテンが開くと、パステルピンクのクロップドTシャツにホワイトのショートパンツ姿の心羽が姿を現した。「はい、心羽ちゃんこれ」心羽が履きやすいようにサンダルの位置を整えてやると、朔也は彼女にショッパーを手渡した。
「えっ、さっくんこれ……」
「オレのために可愛くしてくれるんだから、このくらいオレに出させてよ」
幼馴染の口からとんでもない殺し文句が飛び出したような気がして、陽生は朔也を二度見した。特に気負った様子のないその立ち居振る舞いはスマートで、いつも一緒に馬鹿話をしている男友達はどこにもいなかった。
いいなあ、と茉莉が呟いた。その横顔には羨望よりも寂しさが色濃く浮かんでいて、彼女は瑠音から何かをもらったりすることがないのかもしれないと陽生は思った。もしかしたら、朔也と心羽のように買い物デートなんてものをすることもないのかもしれない。
(佐倉もメジャーデビューしてるバンドのボーカルだ、女と歩いているところを週刊誌にすっぱ抜かれたりするわけにもいかねえのかもしれねえけど……)
そういう事情があるかもしれないかもしれないということまでは想像もできるし、飲み込めもする。しかし、制限された生活の鬱憤を彼女である茉莉に当たることで発散しているのだとしたら、それは見過ごしてはおけない。
「さて、水着も見終わったことだし、次は浮き輪とかビーチボールとか見ようぜ。下にホームセンターあっただろ?」
朔也の言葉に、物思いに耽っていた陽生は現実に引き戻された。ああ、と頷くと、陽生は踵を返す。「ありがとうございましたー」店員が背中を追いかけてくるのを聴覚に捉えながら、陽生たちは店を出た。
四人は通路を進むと、エスカレーターを降りた。すると、景色が途端に先ほどまでの小洒落たショッピングモールから雑多で生活感のあるホームセンターへと変わる。
「ねえ、さっくん。浮き輪とかってどの辺りにあるんだろ?」
「あっちにシーズンもののコーナーがあるから、ちょっと見てみようか」
「心羽、氷上くん。シーズンもののところはほとんど虫除け用品ばかりだよ。浮き輪とかを探すなら、たぶんレジャー用品の方だと思う」
「芦屋、詳しいんだな」
「昔よく来てたから……家族ぐるみで」
誰と誰が家族ぐるみでなのかは聞かなくても陽生でも想像がついた。そして、彼女のいう”昔”は今とは違って、もっと健全な関係性だったに違いない。
四人はレジャーコーナーへ行くと、浮き輪やビーチボールの物色を始めた。夏らしい色の奔流が視界へと流れ込んでくる。
「ねえねえ茉莉、この浮き輪可愛くない? フルーツ柄なの」
「わあ、夏って感じだね。それじゃあビーチボールはこんなのはどう?」
「肉球柄! こんなのあるんだ! それにしても茉莉は猫好きだねー」
女子二人がきゃあきゃあと盛り上がっているのを聞きながら、陽生は棚を眺める。そして、陽生はたまたま目が合ったそれをなんとはなしに手を取った。
「陽生、男子高校生が一人でピンクのイルカのフロートはサムいと思うぜ。それとも芦屋と乗んの?」
「乗らねえよ! おれはお前と違ってそんな恋愛脳じゃねえから! っていうか仮に芦屋と乗るとして、どうやって誘うんだよ! 問題だらけじゃねえか!」
「せっかくの夏なのに寂しいやつだなあ」
「うっせえわ! そんなことより、空気入れとかレジャーシートとかもいるんだろ! とっとと選ぶぞ!」
陽生は朔也との会話を切り上げると、ピンクのイルカのフロートを棚に戻した。そして、適当に目についたブルーシートと空気入れを手に取る。すると、うわあと残念なものを見る目で朔也が陽生を見てきた。
「空気入れは実用第一だからそれでいいとしてもさ……陽生、ブルーシートってお前、正気?」
「四人でも広々と使えて、その上軽量で防水らしいぞ。これのどこに問題があるんだよ」
「どこに問題があるかって言ったら、陽生のセンスだよ……。レジャーシートも心羽ちゃんと芦屋に決めてもらおうぜ。――心羽ちゃーん、芦屋ー、ちょっとこっち来てレジャーシートも選んでくれるー?」
浮き輪とビーチボールが入った買い物カゴを持った茉莉と心羽が朔也の声に振り返り、こちらへとやってきた。陽生は茉莉の買い物カゴをさりげなく引き取ってやりながら、女子二人がレジャーシートを選んでいるのを釈然としない気持ちで見ていた。
「はい、貴嶋くん。これ、去年の資料ね」
多目的教室で陽生は向かい合って、茉莉と文化祭実行委員の仕事をしていた。去年、文化祭実行委員が準備に使った資材の洗い出しをしてほしいと茉莉に渡されたのが今しがたの書類の山だった。
「多少は変動があるかもしれないけど、これを見れば、校門や昇降口の看板とか、屋上から吊るす垂れ幕に使う資材の量がわかるはずだから。貴嶋くんがそれ確認している間に、わたしは各クラスや各部活から上がってきた申請の確認をしちゃうね」
「わかった……けど、今日、これおれらだけで無理に進める必要あるのか? 週明けに終わらせることにして、ほどほどで切り上げようぜ。ほら……明日、おれら海、行くし」
「それとこれとは話が別だよ。それに週明けに回したらお盆に入っちゃう。そしたら、資材の発注が遅れて、文化祭の準備に影響が出ちゃうよ。お盆の間って流通が止まるから」
へえ、と相槌を打ちながら、陽生は昨年の資料に目を通していく。段ボールに絵の具、布にガムテープ――資料に出てきた資材を都度申請用紙に陽生は記入していく。必要な数を申請用紙の欄外に正の字を書いてもたもたと陽生が数えているうちに、茉莉は流れるような早さで書類の束を捌いていく。
「あ、貴嶋くん、そこ厚紙が抜けてるよ」
「……」
自分も作業しながらだというのに、微細なミスにすら気づいてしまう茉莉の視野の広さと能力の高さに陽生は舌を巻いた。指摘をした茉莉は右手にシャーペンを握ったまま、左手でぺらぺらと書類を捲り続けている。
「そういやさ、なんで芦屋は文化祭実行委員なんてこんな面倒な仕事を引き受けてるんだ?」
「わたし? わたしは――瑠音のためだよ」
瑠音のため。また出た、と思いながら、陽生は内心で溜息をつく。
「なんで、お前が文化祭実行委員をやることが佐倉のためになるんだ?」
「文化祭でライブをやるから、時間とスペースを融通してほしいって。メディアも入る予定だから、そのための手配もしてほしいって言われて。そのためには、わたしが文化祭実行委員になるしかないかなって」
「有り体に言うと、打算的な思惑があって、文化祭実行委員に立候補したってわけか」
「そういうこと。――ねえ、貴嶋くんは何で文化祭実行委員になったの?」
「……何となく」
「補習であんなに忙しい人が、普通何となくで文化祭実行委員なんてやるかなあ」
「うるせえよ、ほっとけ」
茉莉のためだとは口が裂けても言えなかった。きっと、朔也ならばそういうこともさらっと言ってしまえるのだと思うと、自分よりも先を生きる親友が羨ましくなる。
茉莉は書類の集計を終わらせると、書面に書かれた数字に目を走らせた。何かを考え込んでいる茉莉に遅れて、陽生は申請書を書き上げると彼女へと声をかける。
「芦屋? どうかしたのか?」
「えっと……今年の文化祭のテーマって『街と歩む、わたしたちの未来』じゃない? 黄色の画用紙とか金の絵の具とか多めに発注しておいたほうがいいかなあ、って思ってたところ」
「黄色の画用紙と金の絵の具? 何で?」
「何でって、貴嶋くん、きらりんを校内のいろいろなところに飾りつけるからだよ」
「きらりんって、ああ……なんかあの金平糖のゆるキャラの」
「金平糖っていうか、星織糖《ほしおりとう》ね。地元銘菓の。この分だと、貴嶋くんは何で星織糖が有名なのかも知らないでしょ」
「……どーせ、おれはクラス三十六位の男だよ」
「拗ねないの。桜姫伝説は知ってる?」
「誰それ」
茉莉はスマホを取り出し、「桜姫伝説 桜島市 小学生でもわかる」というワードを検索エンジンにかけた。そして、検索結果の一番上に表示されたサイトを彼女は陽生に見せた。自分の理解力が小学生並みだと思われていることに釈然としない気分になりながらも、陽生はそれを覗き込んだ。
戦国の時代、現在の桜島市が他国の武将によって攻め込まれたことがあった。城が遂に落とされるというそのとき、自分の首を差し出す代わりに他の女子供の生命を見逃すように取引を持ちかけた女性がいた。それが桜姫だった。
桜姫によって救われた人々は、後世まで彼女のことを語り継いだ。そして、その桜姫が生前に好んで口にしていたのが地元銘菓の金平糖――星織糖だったとされている。現在では星織糖にちなみ、きらりんというゆるキャラが地域のPRを行なっている――それがそのサイトに書かれた概要だった。
(何か……重なるな)
桜姫の所業が、ゴールデンウィークに遊びに行った帰りに瑠音と出会したときの茉莉と重なって見えた。茉莉もまた、瑠音の前で膝をつき、あの場から陽生を逃してくれた。
「さて、と。画用紙と絵の具の発注数はこんな感じでいいかな。どうしても足りなくなったら、駅前の百均に買い出しに行けばいいし。今日はこのくらいにして、職員室に書類出しに行ってそのまま帰ろ」
茉莉はペンケースをバッグにしまうと、立ち上がる。ああ、と陽生も荷物をまとめると、席を立った。二人は多目的室を出ると、夕日の差し込み始めた廊下を歩き始める。
「ねえ、貴嶋くん。明日、楽しみだね」
「だな。寝坊とかすんなよ」
しないよ、と茉莉はくすくすと笑う。その顔には疲れが滲んでいて、明日が彼女にとって少しでも息抜きの日になればいいと陽生は思った。
こんな日が続けばいいのに。茉莉は小さく呟く。――仲の良い友達と過ごすだけの、他愛のない日常が。
小さな願いを胸に、二人は並んだままゆっくりと階段へと向かって歩いていく。今のこの時間が心地よくて、いつまでも職員室につかなければいいのにと二人は考えていた。――互いが同じ気持ちでいることにも気づかずに。
夏空から降り注ぐ日差しが容赦なく背中を灼く。女子二人の着替えを待ちながら、陽生は朔也とともに砂浜にレジャーシートを広げていた。
「さっくーん! 貴嶋くん、お待たせー!」
遠くから心羽の声が響いた。額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら背後を振り返り――茉莉の姿を認めた陽生は固まった。
青と紫のグラデーションが美しいワンピース型の水着。ちらりと覗く胸元の谷間に、華奢なウエスト。薄く透き通るような布地の下からは細い脚が美しいラインを描いている。
「おー! 心羽ちゃん、お店で見たときも思ったけど、やっぱ可愛いな! それめっちゃ似合ってる!」
「さっくん、ありがとー! ねえ、貴嶋くんは茉莉に何かないの?」
「……いいんじゃねえの。綺麗だとは、思う」
陽生がぼそりとそう言うと、朔也と心羽は顔を見合わせてにんまりと笑った。ありがと、と茉莉も微笑む。
「ねえ、茉莉。日焼け止め、塗り合いっこしようよ!」
「いいよ、ちょっと待ってて。わたし、『絶対焼けない』ってSNSでバズってた日焼け止め持ってきてるの」
「えー、心羽ちゃんの日焼け止め、オレが塗っちゃだめ?」
「さっくん、そんなこと言ってどさくさ紛れに変なとこ触る気でしょ? 今は茉莉も貴嶋くんもいるんだから、そういうのはだめー」
ちぇ、と朔也は唇を尖らせる。陽生はじっとりとした目で親友を見やった。こいつら一体どこまで進んでいるんだ。――まさか。
日焼け止めを手に茉莉と心羽はじゃれ合っている。心羽の手が茉莉の水着の肩のストラップの下に入り込むのを目にした陽生は、見てはいけないものを見てしまった気がして視線を逸らした。
身体のラインが強調された今日の茉莉のことを陽生は直視できなかった。薄い布を一枚隔てた先に白く柔らかい素肌があるのだと思うと、嫌でも性を意識させられた。――茉莉は自分にとって魅力的な女の子なのだと。
女子二人が日焼け止めを塗り終えると、朔也は自分のバッグから小銭入れを取り出した。
「何か飲み物買ってくるか。心羽ちゃん一緒に行こ」
うん、と心羽はレジャーシートから立ち上がると、腕を朔也に絡ませる。それじゃ行ってくる、と朔也は心羽とともに海の家の方角へと足を向けた。心なしか、心羽の胸が朔也に当たっている気がするが、朔也は何も思わないのだろうか。それとも、もうそのくらいで騒ぐような次元に彼はいないのか。
茉莉と二人でレジャーシートに取り残された陽生は話題を探す。海、綺麗だな。みんなで来られてよかったな。頭に浮かぶのは天気の話のようにありふれたものばかりだ。話題に苦慮した陽生の口から出たのはよりにもよってこんなものだった。
「なあ……芦屋、お前何か羽織るものないのか」
「だめだった? 心羽と違って背中が出てるわけでもないし、このくらいなら、ラッシュガードなくてもいいかなって思ったんだけど……」
「お前さ、警戒心なさすぎ。変なやつが寄ってきたらどうすんだ」
「貴嶋くんも氷上くんもいるから、ナンパ目的の人とかそうそう寄ってこないと思うけど……?」
「ああもう、そうなんだけど、そうじゃねえっていうか……」
おれが誰にも見せたくねえんだよ。小さく呟いたその言葉は波にさらわれて、隣に座っている茉莉の耳にすら届きはしなかった。変なの、と茉莉は笑う。
「解れよ。馬鹿」
「……うん」
ぺた、と剥き出しの茉莉の肩が陽生の二の腕に触れる。彼女の素肌は日焼け止めで少ししっとりとしといた。
「貴嶋くん、あのね。わたし……こんなに楽しい夏休み、久しぶり」
「……よかったな」
「貴嶋くんがいて、心羽がいて、氷上くんがいて。ずっとずっと、このままでいたいなんて思っちゃう」
「お前がそう望んでるなら、たぶんおれたちは高校卒業まではずっとこのままだよ。遊んでくだらない話して、きっとそうやって過ごしてく。……まあ、卒業後まではわからねえけどな」
「貴嶋くんと友達になっていなかったら、きっとこんな夏はなかった。――だけど、わたしなんかがこんなに幸せでいいのかなって思っちゃうの」
あのな、と陽生は溜息をつく。彼は腕にもたれかかる彼女の頬に両手を添えると真正面から覗き込んだ。
「お前は、”なんか”じゃない。もっと自分のことを大事にしろ。お前のことを大事に思っているやつだっているんだ。そんなふうに言うもんじゃねえよ」
「貴嶋くん……」
色素の薄い茉莉の目に感情の小波が立つ。彼女のことを瑠音の元から掻っ攫って、安全なところにしまっておけたらどんなにいいだろう。彼女が自分を卑下するところも見たくなければ、傷ついたり悲しんだりするところも見たくない。
(……駄目だ)
茉莉が自分の意思でそうしたいと言わない限りは、自分の願望を彼女に押し付けるだけになってしまう。それでは瑠音と何も変わらない。
「芦屋、おれは……」
彼女の名を呼んだ途端、陽生は胸が締め付けられるのを感じた。彼女のことがどうしようもなく大事なのに、この感情につける名前がわからない。わかるのはただ――彼女に笑っていてほしいということだけだ。
「陽生、芦屋、お待たせー! 海の家混んでてさー……ってオレらもしかしていい感じのとこ邪魔しちゃった感じ?」
「貴嶋くん、心羽たちのことは気にしないで続けていいよ。さっくん、心羽たちはあっち行ってようか」
「そうだな。それじゃあ陽生、頑張れよ。首尾についてはあとでメッセージくれ。そんで、四人で昼メシ食お」
グッドラック、と朔也は親指を上げる。陽生は茉莉の顔から手を離す。今のを二人に見られていたと思うと、穴を掘ってでも埋まりたい気分だった。
「朔也、変な誤解してんじゃねえよ。頑張れって何をだ」
「あれ、遂に陽生が男気見せる気になったのかとばかり」
「何が男気だ! あれはええと……その、あれだ……友達同士のスキンシップ?」
「心羽はよく茉莉とじゃれたりしてるけど、それでもあの距離はないかなあ。あれはもう、キスするときの距離だよ。ね、さっくん」
「オレもそう思う。さ、オレたちは気にしないから続きを」
「しねえよ……このバカップルどもめ……」
嘆息すると、陽生は茉莉へと一瞥をくれる。元々控えめな方だが、やけに静かだと思っていると、彼女は顔を真っ赤に染めて固まっていた。
「……え」
ぼっと陽生の耳が熱くなる。二人は顔を真っ赤にしたまま見つめ合う。二人の本心は打ち寄せる波の音にかき消されて、互いの心に届くことはなかった。
白い木造の建物に、淡いターコイズ色の金属屋根。屋根の上では小さな木彫りの鳥が潮風の行方を知らせている。ぱたぱたとはためく幟も都会的に洗練されていて、海の家というよりはカフェといったほうがしっくりくる。
「最近の海の家は洒落てんな……」
思わず陽生がそう口に出すと、朔也はにんまりと笑った。彼はメニュー表を陽生へと差し出す。
「洒落てんのは見た目だけじゃなくて、メニューもだぜ、陽生」
心羽が買っていたガイドブックに載っていた小洒落た食事やスイーツ、ドリンクの数々が洗練されたフォントでメニューに記されていた。先ほど運ばれてきたお冷のグラスも透かし彫りで回遊する魚の柄があしらわれているし、お代わり用の水差しにはレモンが浮いている。何から何までお洒落だ。
「オレは生しらすの冷やしパスタ。心羽ちゃんはどうする?」
「じゃあ心羽は、シーフードトマトリゾット! 茉莉は?」
「わたしはそうだなあ……アボカドシュリンプオープンサンドで! 貴嶋くんはどうするの?」
「うーん……おれは悩み中……でもせっかくだから海鮮食いてえんだよな……。ここは無難に生しらす丼で」
「陽生、お前って本当に冒険しないよな」
「うっせえよ」
先ほどのことといえ、遠回しに意気地なしと言われているようでむっとしながら陽生は言い返した。
子供連れに、陽生たちのような学生の友達同士。混み合う店内を歩く水着の上からエプロンをつけた姿のウェイターを呼び止めると、陽生は四人分の注文を告げる。
「生しらすの冷やしパスタとシーフードトマトリゾット、アボカドシュリンプオープンサンドと生しらす丼で」
「あっ、心羽、カラフルフルーツかき氷も食べる!」
「それじゃあ、わたしは食後にトロピカルティーソーダを」
「オレ、生搾り塩レモネード」
せっかく注文をまとめたというのに、その甲斐なく、心羽たちは追加注文を畳み掛けてくる。陽生は溜息混じりにアイスコーヒーと告げると、注文を打ち切った。
ウェイターが注文を復唱して去っていくと、何か言いたげな視線を朔也が向けてきた。うるさい、と陽生は彼を視線で黙らせる。
「貴嶋くんと氷上くんって面白いよね。言葉にしなくてもわかりあってる感じが、本当に仲良いんだなあって感じする」
「あのな芦屋……おれと朔也はただの腐れ縁ってだけだ」
「貴嶋くんはそんなこというけど、心羽は貴嶋くんのことずるいって思ってるよ。だって、貴嶋くんのほうが心羽よりさっくんのことわかってる気がするもん。何か悔しい」
「そんなこと言われてもなあ……」
まあまあと茉莉はその場を取りなすと、午後のことへと話題を変える。
「ねえ、午後は何しよっか。貴嶋くんと氷上くんは泳いでくる?」
「いいよ、オレらそんなガキじゃないし」
「そういえば、貴嶋くんがフロート買ってなかった? 異常にリアルなクマのやつ。貴嶋くんが使わないなら、心羽とさっくんで使っていい?」
「好きにしろよ……」
「そしたら、貴嶋くんはわたしとちょっと散歩しない? 心羽が持ってきたガイドブックに、景色が綺麗に見える穴場があるって書いてあったの」
「……これっておれ拒否権あんの?」
「ナンパ目的の奴も多い海で女の子を一人にするのはオレはどうかと思う」
「ここで断ったら、心羽は貴嶋くんのことをひとでなしだと思う」
「散々な言われようじゃねえか……いいよもう、海の底でも何でもお供してやるよ」
陽生はテーブルに頬杖をつき、不貞腐れたように嘆息した。
お待たせいたしました、とウェイターが料理を運んできた。土地のものを使った料理の数々でテーブルの上が彩られる。
気を取り直すと、陽生は箸を取り、小皿のわさびと醤油を混ぜた。わさび醤油を生しらす丼の上にかけると、陽生は茶色い液体のかかった透き通った生しらすを箸でつまみ、口へと運ぶ。彼は醤油の塩味とわさびの特有の辛さ、生しらすのほのかな長さを感じながら、午後へと思いを馳せた。――茉莉はどういう意図で自分を誘ったのだろう、と。
ハーフアップに結えた長い髪が海風にはためく。夏の昼の日差しが彼女の横顔を照らし、その肌の白さを強調していた。
歩く度に揺れるワンピース型水着の裾はマーメイドの尾のようだ。茉莉と付かず離れずの距離を歩きながら、陽生はそんな月並みな感想を覚えた。
「ねえ、貴嶋くん。あの島見える? 灯台があるところ」
「ああ、あれか?」
視界の先には島の遠影が見える。この辺りにはもうほとんど人気がなかった。
「あの島にはね、縁結びで有名な神社があるの。あとは綺麗な庭園とか恋人の聖地とか」
「へ、へえ……朔也と天沢に教えてやれば喜ぶんじゃないか? 縁結びはともかく、デートにはもってこいだろ」
茉莉の話を陽生が受け流すと、彼女は彼の両腕を掴んだ。そのままでいて、と彼女は言うと、陽生の裸の胸に頭をつける。
「ねえ、貴嶋くん。――わたしたちの関係って、何なのかな」
「……っ、友達だろ」
「わたし、こんなふうに甘えられるの、貴嶋くんしかいないの。貴嶋くんといると、安心するの。なのに、少し苦しくて、でももっとって思う自分もいて……わたしはわたしがわからない」
「芦屋……おれは」
言わないといけない。これだけは伝えないといけない。意を決して陽生は口を開く。ざらざらと声が掠れた。
「おれは……お前のことを大事に思ってる。正直、お前と佐倉のことなんて見てらんねえよ。お前が傷つかないように守ってやるから、佐倉じゃなく、おれたちといろよ」
佐倉じゃなくおれを好きになれよ。その一言はどうしても言えなかった。その代わりに陽生は壊れものを扱うように茉莉をそっと抱きしめた。お互いの少し早い呼吸が、潮風と波音に紛れてやけに大きく聞こえた。
「貴嶋くん……しばらく、こうしてていいかな……?」
「……好きにしろよ」
人の気も知らないで。そう思いながらも陽生は腕の中の温もりを放す気になれなかった。
もっと触れてみたい。唇も、それ以外も。こうして抱き合うだけじゃなく、キスも、それ以上も。そんな欲望がじわじわと込み上げてきたが、陽生は奥歯を強く噛んで耐える。茉莉も同じように望んでくれているのでなければ、この感情はただいたずらに彼女を傷つけるだけだ。
「芦屋、お前、おれ以外にこういうことすんなよ。相手がおれじゃなかったら、とっくに襲われてんぞ」
「……うん」
あと一歩のところで交わらない二人の感情は波へと攫われていく。重なり合った肌の温もりを確かに感じるのに、二人の距離はどこまでも近くて遠かった。その距離の縮め方がわからないまま、二人は日が傾き始めるまでずっとそのままお互いの心音を聞いていた。――互いの存在を確かめ合うように。
電車の揺れが疲れた身体に心地よかった。茉莉と心羽は身体を互いに預け合いながら眠っている。
紺色の宵の空では、星々の代わりに家やビルの灯りが点々ときらめきを放っている。星の見えない空を見ると、日常に帰ってきたのだと実感させられる。
「――なあ、朔也」
陽生は女子二人を起こさないように声をひそめながら、隣に座る朔也に話しかけた。スマホをいじっていた朔也は真面目な話だと察したのか、手を止めて陽生を見た。
「どうした」
「あのさ……おれ、芦屋のこと、好きだ」
「――知ってるよ。ずっと前から、知ってる。オレも心羽ちゃんも。気づいてないの、お前ら二人だけだよ」
陽生は唖然とした。どうして気づかれたというのだろう。
「前にも言っただろ。お前、芦屋と心羽ちゃんじゃ接し方が全然違うって。いくらなんでも態度に出過ぎだろ。芦屋に対する特別扱いが過ぎる」
「え……いや、友達なら普通に気にかけたりするだろ……」
「友達の気にしかたじゃないだろ、あれは。……で、告白したの? それともされたの?」
「してねえし、されてねえ……」
陽生がそう言うと、朔也は呆れたような表情を浮かべた。
「じゃあ、二人で人気のないところで何してたわけ? それとも寧ろ二人でナニかシてたわけ? 外なのに?」
「やめろ、何だその含みのある言い方は。というか、告白もできない奴が色々手順飛び越えてそれ以上の何かをする勇気があるとでも……?」
「陽生、それ自分で言ってて悲しくなってこないか……? オレは正直、お前が女の子に手も出せない腰抜けで情けない……」
「うるせえよ……情けなくて結構だ……」
「うっわ、開き直った。で、本当に何してたわけ?」
「何か甘えられて……抱き合ってた……?」
ほう、と朔也の目が細められる。何だよ、陽生は朔也を睨む。
「いや、陽生にしては上出来だなーと思って。オレとしてはキスくらいしちゃってもよかったんじゃないかと思うけど」
「そういうのは、ちゃんと告白して付き合って、手を繋げるようになって、三回目のデートでっていうのが常識じゃ……」
「陽生、今もう令和。それいつの常識だよ。……で、結局、どうすんだよ、芦屋のこと」
「とにかく、佐倉に傷つけられたりしないように、できるだけ一緒にいて守ってやりたい。それは変わらねえ。それが叶うなら、おれの気持ちなんて二の次、三の次で構わねえ。おれは――芦屋に笑ってて欲しいから」
「陽生にしては大人な意見だな。……だけど、お前に向けられた芦屋の気持ちはどうなる? オレは基本的にお前の味方だけど、芦屋だってオレの友達だ。オレは芦屋の味方でもある」
「それは……」
陽生は口ごもった。自分が不用意に茉莉の気持ちを受け入れてしまっては、瑠音によって彼女が傷つけられる結果を招きかねない。自分がどうするのが最善なのか、陽生にはわからなかった。
茉莉は心羽の肩に寄りかかってすうすうと小さな寝息を立てている。その無垢な寝顔にきゅっと心臓が掴まれた。瑠音から彼女を守る――陽生は己にそう言い聞かせると、そっと拳を握った。



