未来を変える恋、はじめます。

――今日の放課後、教卓にある進路調査票の余りを持って、屋上近くの階段へ行け。白ブドウのジャスミンスパークリングティーを買っていくのを忘れずに。
 昼休みに教室で朔也と昼食を摂っていた陽生は受信したメッセージの内容に箸を止めた。進路調査票の余りを持っていくのはまだいい。しかし、後半の白ブドウがどうとかという飲み物の指定がやけに具体的にすぎやしないか。
「陽生、どうかしたのか?」
 食事の手を止めている陽生に気がついた朔也はそう聞いた。彼は陽生の手元のスマホを覗き込むと、ああ、と得心したように頷く。
「例の未来のお前からとかいうメッセージか。……ところで、それってお前から送ったメッセージには一向に既読がつかないのな」
 朔也の指摘通り、陽生は未来への自分に何度かメッセージを送り返していた。しかし、陽生が送った内容に既読がつくことはなく、一方通行のやりとりが続くばかりであった。
「お前の推測だと、未来のお前は芦屋と佐倉を引き離そうとしてるんだよな? 優等生の芦屋はともかく、佐倉ってヤバいやつなのか? 見た目が派手なことと十四歳にしてメジャーデビューしたバンドの天才ボーカルらしいってくらいしか知らないんだけど」
「あいつ、もしかしたら、モラハラ彼氏ってやつかもしんねえ。この前、芦屋を送っていったときに出くわしたんだけど……とにかく、芦屋にキツく当たるし、最悪なやつだった」
「芦屋はどうしてそんなやつと付き合ってるんだろうな。あいつの見た目なら、もう少し男選べただろ」
 朔也に言われて、陽生は自席で心羽と話している茉莉へと一瞥をくれた。テレビで見る芸能人のような絶世の美少女というわけではないが、茉莉はこの年齢の少女として充分すぎるくらいには可愛らしく、魅力的だ。これは陽生の意見ではなく、あくまで一般論としてだが。あくまで。
「なんか、芦屋がいうには佐倉とは幼馴染らしい。……けど、芦屋があれを普通だと受け入れているのはおれは異常だと思う」
 わたしが悪いの。あのときの茉莉の言葉が耳の奥に蘇る。瑠音に向かって土下座をしていた茉莉の姿は今も網膜に焼きついて消えてくれない。
「共依存、って言葉がある。オレが思うに芦屋と佐倉の関係はそれなんじゃないかな。何にしても、芦屋が自分の状況に疑問を覚えない限りは、あの二人を引き離すのは苦労すると思うぜ」
 だなあ、と頷くと、陽生は弁当の残りを掻き込んだ。そして、空になった弁当箱をリュックの中にしまうと、机の中から進路希望票を引っ張り出した。
「お、陽生、進路どうすんの?」
「一応進学。だけど、志望校は適当」
 陽生はシャーペンで進学に丸をつけると、第三希望まで適当な大学名を連ねていった。D大学、B大学、S大学。就活時に一般的に有利になるとされる大学よりもランクは低いが、今の自分の学力ではこの辺りがせいぜいだろう。
「もうちょっと高みを目指そうぜ。大学も同じとこにしねえ?」
「断る。そもそもこの高校だって、おれからしたら偏差値的にだいぶ背伸びしてるんだかんな」
 茉莉に勉強を見てもらってようやく、クラスで三十位という下から数えた方がいい順位の陽生。それに対して朔也はクラスではちょうど真ん中くらいの順位だ。朔也に志望校のランクを下げてもらわない限り、同じ大学に進学するのは難しい。
「ところで、朔也。さっきの白ブドウがどうとかってやつがどこで売ってるか知らねえか?」
「何か美術室横の自販機で見た気がするな。あそこの自販機、なんか変わったドリンク多いから」
「あー……確かにありそうだな」
 相槌を打ちながら、陽生は進路調査票を机の中にしまい直す。いつの間にか、茉莉は教室の中から姿を消していた。

 六限が終わった後、陽生は難解な化学式がびっしりと書き連ねられた黒板を消していた。終業を告げる鈴の音の残響がまだ耳の奥に残っている。
「まだ、進路希望票出してないやついる?」
 黒板を消し終わると、教壇の上から教室を降り返り、彼は残っていたクラスメイトたちにそう問いを投げかけた。「やべっ」「そういや今日までだっけ」何人かのクラスメイトたちが志望校を記入した紙を教卓へと持ってくる。
 陽生は教卓の上で進路調査票の角を揃える。そして、そういえば、と彼は教卓の中を覗き込むと、無記入の予備の進路調査票の紙を引っ張り出した。そして、それを四つに折ると、ズボンのポケットへと入れる。
 席に戻り、自分の分の進路調査票を取り出ると、陽生はそれを紙束の一番上に置いた。そして、彼は進路調査票の束を胸に抱いて、教室を出た。
 向かう先は一階の美術室脇の自動販売機だ。きゅっきゅと上履きの底を鳴らしながら階段を降りると、陽生は一階の奥へと向かった。
 絵の具で汚れた手洗い場の向かいに白い自販機が見えた。誰がやったのか、自販機の側面には人気のキャラクターが少々不細工な姿で描かれている。
(白ブドウなんちゃら……あった)
 白ブドウのジャスミンスパークリングティーなる商品を自動販売機の上段に見つけると、陽生はボタンを押した。制服のポケットから取り出したスマホで決済を済ませると、ごとんと商品取り出し口に五百ミリリットルのペットボトルが落ちてきた。
 白ブドウのジャスミンスパークリングティーのペットボトルを取り出すと、陽生は踵を返す。人気のない廊下を引き返し、吹奏楽部と合唱部が織りなすメロディに耳を傾けながら、今度は屋上へと向かって階段を上がっていく。
 一階、二階、三階、四階。更にその上へと階段を上がっていくと、締め切られた屋上の扉を背に茉莉が座っていた。その脇には紙吹雪のように細かく千切られた紙片が散らばっている。膝に顔を埋める茉莉のスカートから覗く滑らかな太腿を見ないように視線を泳がせながら、陽生は彼女へと近づいていく。
「――芦屋」
 陽生は彼女の名を呼ぶと、その額にこつんとペットボトルをぶつけた。茉莉は顔を上げると、貴嶋くん、と掠れた声で言った。
「やるよ、それ」
「……ありがと」
 茉莉は陽生からペットボトルを受け取ると、蓋を開けて口をつけた。陽生は茉莉のそばに身を屈めると、散らばった紙片をかき集める。どうにか繋ぎ合わせた紙片からは、進路調査票の文字が見て取れた。
「貴嶋くん、よくわたしが好きなやつわかったね。それにこれ、校内でも一箇所しか売ってないやつなのに」
「……別に、適当に買ったやつだし。っていうか、この前のメロンソーダ緑茶はナシだったのに、これはアリなのかよ」
「あれから、校内の自販機で見かける珍しいドリンクをいろいろ試してみたの。そしたら、ごく稀においしいものもあるってわかったから。これもその一つ」
「ああそう……」
 進路調査票の話題について触れてもいいものか。わざとらしいくらいに明るく振舞おうとする茉莉を前に陽生は逡巡する。
「なあ、進路調査票、さっさと書いてくれねえ?」
 陽生はズボンのポケットから四つ折りにした紙を取り出すと茉莉へと押し付けた。え、と彼女の目が見開かれる。陽生はそんな彼女の様子に構うことなく、ぼそぼそとした早口でこう続ける。
「別にお前がここで何してたとか興味ねえし、お前の進路がどうなろうが知ったこっちゃねえけど、進路調査票クラス全員分揃ってねえと先生に怒られんの日直のおれなんだよね」
 そっか、と茉莉は目を細める。淡く、儚げな笑みだった。どうしてそんな悲しそうに、寂しそうに笑うのか。ちくりとした痛みが陽生の胸を掠めた。
「貴嶋くんは、進学?」
 茉莉は陽生が持ってきた進路調査票を床に広げながら、そう問うた。
「一応な。そう書いておかねえと、先生がうるさそうだから」
「うち、一応、自称進学校だもんねえ」
「マジで自称もいいとこだけどな。で、芦屋、お前はどうすんの? やっぱ進学? クラストップの優等生様だもんな」
 わたし、と茉莉の唇から言葉がこぼれ落ちた。伏せた目の長い睫毛は小刻みに震えている。
「進学、しないかも。……たぶん、就職も」
「何それ、勿体なさすぎるだろ。お前の成績なら、W大とかだって指定校推薦狙えるだろ」
「瑠音が……だめだって。わたしには、進学も就職も必要ないだろって」
 何だそれ、と陽生は吐き捨てた。茉莉にそんなことを言う瑠音に腹が立った。――そして、それを受け入れてしまう茉莉にも。
「芦屋さ、お前、佐倉がダメって言ったら何でも従うのか? ――あいつに死ねって言われたら死ぬのか?」
「うん。わたし……瑠音の嫌がることはしたくないの。死ねって言われても……瑠音がそれを望むなら、わたしは死ぬんだと思う」
「お前、馬鹿だろ。優等生のくせして、何で自分のことになると、そんなに途端に馬鹿になるんだよ。そんなの、おかしいだろ。――芦屋、お前には自分の考えはないのか?」
「わたしは、瑠音のことが一番大事。瑠音がいれば、それ以外は何もいらない」
 薄く色づいた唇が紡ぐ淡々とした言葉に、陽生は狂っていると思った。同時に、朔也が言っていた共依存という言葉は的を射ていたのだということも。
「お前の世界は彼氏だけじゃないだろ。たとえば、天沢は? おれだっている。友達は、お前にとって大事じゃないのか?」
「そんなことは……」
 茉莉は口籠った。そして、彼女は俯くと、小さく呟いた。弱々しい声が放課後の静寂に溶けていく。
「瑠音のこと以外になると……わたしは、わたしがどうしたいのかわからないの。わたしには自分がないの」
 そんなことないだろ、と陽生は茉莉の傍らに置かれたペットボトルを差し示した。
「少なくともその白ブドウがどうとかってやつを好んで飲むくらいには、ちゃんと自分があるだろ。この前だって、自分で選んでミルクティーを飲んでた。自分自身っていうのはそういう些細なことの積み重ねでできてるんじゃねえのか」
「あ……」
 顔を上げた茉莉は唖然とした顔をしていた。そんなことなんて考えたこともなかったとでも言いたげな表情だった。
「話を戻すけど、進路調査票なんて、ミルクティーとレモンティーどっちがいいかくらいのノリで書いていいんじゃねえの。おれだって自分の学力で行けるところで思いついたところを適当に書いただけだし」
「……うん」
 茉莉はブレザーの胸ポケットからシャーペンを取り出すと、躊躇うような様子を見せた。彼女がゆっくりと、丁寧な文字で紙面にシャーペンの先を滑らせていくのを陽生は静かに見守る。彼女の手は、汗ばむような気温にもかかわらず、わずかに震えていた。

 翌朝、登校すると、昇降口の下駄箱の前で陽生は女子に声をかけられた。靴を履き替えながら誰かと背後を振り返ると、そこには茉莉が立っていた。
「おはよう、貴嶋くん」
「……うす」
「昨日は進路調査票の件、ありがとね。貴嶋くんには何かお礼しないと」
「別に礼とかしてほしくてやったんじゃねえし。……けどまあそうだな、どうしてもっていうなら、さっさと朔也に天沢のこと紹介してやってくんねえか。いつ紹介してもらえんの、って朔也のやつ毎日うるせえから」
「わかった」
 何とはなしに二人は並んだまま、階段を上り、教室へと足を踏み入れた。先に登校していたらしい朔也は二人に気づくと目元をにやつかせる。陽生は嘆息すると、じっとりとした視線を朔也へと向けて黙らせた。
「茉莉ぃ、おはよー」
 陽生が座席でリュックの中身を整理していると、髪を頭のてっぺんで大きなお団子に結った女子が教室に入ってきた。ブレザーの下の校則違反のピンク色のニットカーディガン。ネクタイはなぜか他校の臙脂のリボンに変えられている。彼女こそが茉莉の友人で、朔也の想い人――天沢心羽だった。
「心羽、おはよ。ねえ、ちょっといい? 心羽に紹介したい人がいるんだけど……」
「えっ、だれだれ? 彼氏……ではないよね?」
 茉莉は陽生へと視線を向ける。陽生は頷き返すと、「朔也、ちょっと」朔也を伴って、廊下へと出る。
 朝の廊下で、茉莉と陽生、心羽と朔也は顔を合わせた。茉莉は陽生を手で指し示すと、彼のことを心羽へと紹介する。
「えっと、心羽。クラスメイトだから知ってると思うけど、わたしの友達の貴嶋くん」
「どうも、貴嶋です。それで、こっちがおれの友達の」
「氷上朔也でっす! オレ、入学当初から、天沢ちゃんのこといいなーって思ってたんだよね」
 よく言えばフレンドリー、悪く言えば軽い態度の朔也に陽生は内心で溜息をついた。嫌そうな顔で、心羽は茉莉の後ろへと隠れる。
「あっ、天沢ちゃん、そんなに警戒しないで! すぐ付き合おうとかそういう話じゃないから! とりあえず、友達にならない? お近づきの印にまずは連絡先の交換とか」
「……その、天沢ちゃんっていうのやめてくれるなら」
「えっと、じゃあ心羽ちゃん! 心羽ちゃんで!」
「……」
 馴れ馴れしい朔也の態度に心羽は何か言いたそうにしていたが、諦めたように溜息をつくと、ブレザーのポケットからスマホを取り出した。彼女と連絡先を交換するべく、朔也もズボンのポケットからスマホを取り出す。その様子を見ながら、あっさり女子を名前呼びしてしまう朔也に陽生は内心で舌を巻いていた。――自分はまだ茉莉のことを名前で呼んだことなんてないのに。
 登校してきた生徒たちが、廊下で顔を突き合わせている陽生たち四人を怪訝そうに振り返っていく。「おい、朝のホームルーム始めるぞー」担任の岸野の声が廊下の彼方からこちらへと一直線に突き抜ける。
「なあ、今度、この四人で遊びに行ったりとかどうよ?」
 心羽と連絡先が交換できたからか、朔也は声を弾ませてそう提案した。どうやら朔也は自分や茉莉を使って、外堀から固めていくつもりのようだった。
「……四人でなら、まあ」
 朔也に気圧されたように心羽は頷く。彼女と茉莉の自撮りが待ち受けに設定されたスマホの時計は午前八時二十九分を指し示していた。

――一限目が始まる前に、図書室へ行け。
 陽生がそのメッセージに気づいたのは、来月に控えた体育祭の大縄跳びの練習が終わった後のことだった。一応、全員参加ということになっているその練習で、そういえば茉莉の姿を見ていないことを陽生は思い出す。
(あいつ、またサボりか)
 普段、素行の良い優等生を装っているせいで目立ちにくいが、茉莉にはサボりぐせがある。そして、彼女がサボるときは、大概が何かあったときだと陽生はだんだんと気づき始めていた。
「ねえ、貴嶋くん。今日の練習で茉莉見かけた?」
 学年カラーの水色のジャージの後ろでふわふわと靡く白いレースのリボン。喉元まで上げられたジッパーの周りはフリルで彩られ、裾にも幾重にもチュールが施されている。この改造ジャージに身を包んでいるのは心羽だった。
「いや、おれも見てねえ。天沢も見かけてねえんなら、どっかでサボってんじゃねえか?」
「そっか……」
 心羽はどこか浮かない顔をしている。茉莉から何か連絡が来ていないかと陽生がジャージのズボンのポケットからスマホを取り出すと、通知が一件来ていた。
 図書室。おそらく、茉莉はそこにいる。スマホをしまい直すと、陽生は心羽に声をかけた。
「天沢、おれ、芦屋の居場所に心当たりあるかもしんねえ。探してくる」
「心当たりあるって、貴嶋くん、どういうこと?」
「ただの勘。だけど、何か知らねえけど、おれの勘はよく当たるんだ」
 そう嘯くと、陽生はその場を後にした。他のクラスメイトをよそにそそくさと校舎の中へと戻ると、昇降口で陽生は靴を履き替える。そして、そのまま図書室を目指した。
 図書室のドアを開けると、古い紙とインクの香りがうっすらと満ちていた。生成りのカーテンが緑風でふわりと揺れ、カビの臭いが陽生の鼻腔をつく。
「――芦屋。そこにいるんだろ」
 陽生がそう声をかけると、外国文学の書架の向こうから、うん、と返事が聞こえた。
「貴嶋くんには、いつも見つかっちゃうね」
「サボりやすい場所なんて、ある程度絞られるだろ。――で、今日はどうしたんだ?」
「あのね……全部、わたしが悪いんだけど……今日、登校途中に瑠音と口論になっちゃって……」
 全部、わたしが悪い。茉莉の口癖になっているそれに陽生は内心で溜息をつく。しかし、陽生はそれを指摘することなく、話を続ける。――そんなことをすれば、彼女を泣かせてしまいそうな気がして。
「それで、へこんでここに逃げ込んできたってわけか。大縄跳びの練習サボって」
「……うん。もしかして、練習サボって誰か怒ってた?」
「それは大丈夫だけど……天沢が心配してた。あとで謝っておけよ」
 わかった、と茉莉は頷いた。そして、彼女は陽生のジャージの胴を掴むと、胸元に頭をつけた。ヘアミストの香りなのか、かすかに清らかな花びらの匂いがした。
「おい、芦屋……離れろ、おれ、今汗かいてるから。汚ねえぞ」
「大丈夫。それより……ちょっとだけこのままでいさせて」
 一体何が大丈夫なんだ。恋愛経験ゼロの陽生は茉莉に密着されているという事実に動揺する。しかし、懇願するようなその声を聞いてしまうと、無理に彼女を引き剥がす気にはなれなかった。
「まったく、臭くなっても知らねえからな」
 陽生はくっついてくる茉莉の髪を仕方なくぽんぽんと撫でる。朝の始業前の喧騒から隔絶された世界で、二人はそのままでいた。――瑠音の元に彼女を戻したくないな、などと思いながら。
 陽生の視界に海外文学の分厚い背表紙の群れが映る。ここに静かに佇む外国の物語たちは茉莉の心の内を映す鏡のようだ。紙の上に記された恋に迷い、愛に悩む数え切れない声たち――それらは茉莉を苦しめる彼女自身の心にひどく似ていた。

「おい、お前、確か茉莉の友達だよな? ちょっと茉莉呼んでこいよ」
「え、と……茉莉は今、職員室に行ってて……」
 六月を目前にして、いよいよ夏の気配が濃くなってきた昼休み。トイレから戻ってきた心羽は、制服をひどく着崩した金の長髪の男子――瑠音に声をかけられた。人をひどく見下したふうの、酷薄な視線に心羽は自分の身を掻き抱く。
「ふうん、茉莉の奴、逃げたんだ」
「逃げたとかそんなんじゃなくて、日直の仕事で茉莉は先生に呼ばれてて……!」
「へえ、あのビッチ、俺よりもそんな下らねーこと優先すんだ」
「茉莉はビッチなんかじゃない!!」
 思わず心羽の声が高くなる。ふうん、と気分を害したように瑠音は彼女のピンクのニットカーディガンの胸元を掴み上げる。
「お前なんかに茉莉の何がわかる。それにあいつ、最近男二人も侍らせてるじゃねえかよ」
「貴嶋くんと氷上くんはそういうんじゃない! 友達だよ!」
「貴嶋か、俺あいつ嫌いなんだよな。……それはそうと、お前は氷上が茉莉に取られても同じ台詞を吐けるのか?」
「っ、それは……」
 心羽は思わずたじろいだ。朔也が自分に気があって、日頃から何かと構ってくるのを鬱陶しく思ってはいる。しかし、あの明るい眼差しが、心羽ちゃんと呼ぶあの声が自分に向けられなくなるのはほんの少し寂しいような気がした。
「ほら見ろよ。さて、茉莉がいねえなら別にお前でもいいや。あっちで茉莉の被害者同士、仲良くお話しようぜえ?」
「やだ! やめて!」
 心羽は叫んだ。その目元には涙が浮かんでいる。しかし、心羽の声に耳を貸すことなく、瑠音は心羽の胸倉を掴んだまま、彼女をどこかへ引きずって行こうとする。
「やだってば! 助けて! ――氷上くん!」
 心羽は無意識に朔也の名を叫んでいた。刹那、誰かが何かを殴る音が聞こえた。ぐふっと、誰かの口から呻き声が漏れる。瑠音の手が心羽の胸倉から離れていく。思わず心羽は廊下に尻餅をつき、放心したようにその人の名を呟いた。
「氷上くん……」
 朔也の腰の入った右アッパーが瑠音の顎を打つ。そして、そのまま今度は左の腰を捻り、左フックで瑠音のこめかみを捉える。そのまま、すっと左右の足を入れ替えると、右手を払いながら流れるように左ミドルを放つ。
 再び足を入れ替えると、朔也は仕上げと言わんばかりに前蹴りを瑠音に見舞った。いつもの明るく陽気な様子は鳴りをひそめ、怒りのままに暴力を振るう朔也は何だか心羽の知らない人のようだった。
「天沢、大丈夫か?」
 教室から出てきた陽生は廊下に座り込む心羽へと声をかけた。陽生は彼女の横に腰を下ろすと、タオルハンカチを渡してやる。
「朔也さ、昔から許せないことがあるとああなるんだ。朔也のこと、怖いって思うかもしれねえけど、できれば嫌ったり避けたりしないでやってほしい。普段はあんなんだけど――朔也は天沢が大事なんだよ。それだけは理解してやって」
「……うん」
 隣のクラスの前まで瑠音が吹っ飛んでいくと、朔也から殺気が消える。すると、血相を変えて、朔也がこちらへと駆けてきた。
「心羽ちゃん! 大丈夫か!? 怪我とかしてない!?」
「だいじょう……って、氷上くん?」
 心羽が困惑したような声を上げる。朔也は有無を言わさずに彼女の体をぎゅっと抱きしめた。
「呼んでくれて嬉しかった。……けど、呼ぶなら呼ぶで、もっと早く呼べ」
「……うん」
「オレのせいで逆恨みして、またあいつが心羽ちゃんに絡んでこないとも限らない。なるべく一人で行動するな。せめて、芦屋と一緒にいろ。芦屋がいないときは、オレか陽生から離れないようにしろ。……いや、陽生と一緒はオレが妬くから、オレと一緒にいるようにしてくれ」
 なにそれ、と心羽は小さく笑った。友達二人のやりとりが見ていられなくて、陽生は視線を逸らした。何だかこれは見ていてはいけない気がする。
 廊下の角を曲がって、茉莉が戻ってくるのが見えた。陽生は立ち上がり、彼女のほうへ向かうと、手に持っていたノートの山を半分引き受けてやる。
「ええと……心羽と氷上くんは一体どうしたの?」
 廊下で抱き合う二人を目にすると、茉莉は怪訝そうに傍らの陽生に問うた。それが、と陽生は茉莉に事情を説明する。
「天沢が佐倉に絡まれて、どこかに連れて行かれそうになっていたのを朔也がぼこぼこにしたんだよ」
 そう、と得心したように茉莉は朔也にぶっ飛ばされたまま隣のクラスの前で動かない瑠音へと視線をやる。自分の彼氏と友達が喧嘩したとあっては茉莉はさぞ複雑だろう。
「悪いな、朔也を止められなくて。だけど、天沢があれ以上何かされるのも見てられなかったからさ。お前には悪いけど、天沢は友達でも、佐倉は……他人だから」
「うん……」
「そうだ、朔也が天沢に言ってたけど、おれからもお前に言っておく。あんまり一人でうろうろすんなよ。せめて、天沢と一緒にいろ。何かで天沢が一緒にいられないときは、おれを呼べよ。特にお前は一人でどっか行く癖があるから心配なんだよ。佐倉に呼び出されたときもなるべく一人で行くな。せめて、校内にいるときくらいは、おれらでお前を守る」
「守る……?」
 不思議そうに茉莉の目が見開かれる。今はまだわからなくていい、と陽生は首を横に振った。彼女の場合、己の自己肯定感の低さに気づかせるのはゆっくりやっていったほうがいい。歪んだ依存関係に関しても。
「さて、あそこでいちゃついてる二人は放っておいて、昼休みが終わる前にノート返しちゃおうぜ。どうせ、先生にこれ返しとけって言われてんだろ?」
 うん、と茉莉は頷く。陽生は彼女とともに教室の入り口をくぐる。そして、彼は出席番号が半分から後ろのクラスメイトのノートを返し始めた。

――檸檬バタフライピーソーダを持って、体育倉庫裏へ行け
 体育祭の当日、開会式の後にメッセージを受信した陽生は深々と溜息を吐いた。一人になるなとこの前念押ししたにもかかわらず、彼女にはどうやらいまいち響いていないようだ。
 それにこの謎の飲み物指定は一体何なのだろう。茉莉の飲み物の嗜好を熟知している辺り、未来の自分は本当に彼女とどういう関係なんだ。
(謎ドリンクは大体美術室の前の自販機って相場が決まってるよな)
 自分が出る競技まではまだ時間がある。陽生は一度、校舎内に戻ると、美術室へと向かった。
 体育祭で全員が出払っていることもあって、校舎内は驚くほど静まり返っていた。くるぶしソックスの裏がリノリウムの廊下に触れる音がやけに大きく聞こえる気がする。
(うっわ……マジであった。っていうか、あいつ、こんなまずそうな色の飲み物マジで飲むの?)
 美術室前の自動販売機前で青紫色のドリンクを見つけると、陽生は思わず顔を顰めた。どんな味がするのか見当もつかないし、そもそも美味しそうに見えない。女心はわからないなあと思いながら、陽生は自動販売機のボタンを押すと、スマホで決済をする。
 不可思議な色をしたドリンクのペットボトルを手に、陽生は踵を返した。昇降口まで戻ると、下駄箱で靴を履き替え、陽生は体育倉庫裏へと足を向けた。
 グラウンドからは百メートル走で盛り上がる声が聞こえてくる。競技の邪魔をしないように、トラックを大きく回り込んで、体育倉庫へと行くと屋根の影になる場所に体操服姿の茉莉が座り込んでいた。
「おい、芦屋、どうした? また、何か佐倉とあったのか?」
「あ、貴嶋くん……」
 そう言って茉莉は顔を上げる。彼女の顔からは血の気が引き、真っ青だった。赤色のハチマキで前髪を上げた額には冷や汗が伝い、声が震えている。
「どうした、お前もしかして、体調悪いのか?」
「うーん、何か眩暈がして、ちょっと気分悪いかも……」
「熱中症か? とりあえず、これ飲んどけ。……っていうかスポドリのほうが良かったな」
 陽生は檸檬バタフライピーソーダなる謎のドリンクのペットボトルを茉莉に渡してやる。ありがと、と彼女は青白い顔で儚げに微笑んだ。
「大丈夫、わたしこれ好きだから。貴嶋くんって、よくわたしの好みわかるよね」
「まあ、普段何飲んでるか見てたら、普通にわかるだろ。そんなことより、救護テント行くぞ」
「え……でも、わたし、次の次にスウェーデンリレーが……」
「救急車乗りたくなかったら、大人しく棄権しとけ。それにあの競技、アンカーおれだから、三走のお前の分もまとめて走っておいてやるよ」
 そう言うと、陽生は背と膝の裏に手を回して、有無を言わさずに茉莉を抱き上げた。右手の手のひらにごりっとした感触が当たり、陽生はどぎまぎとする。体育着越しに感じるブラの金具の感触に、嫌でも茉莉は女子なのだと意識させられる。
「お前、軽いな。ちゃんと三食食ってるか? いっつも弁当もうさぎの餌かってくらい野菜ばっかだし」
 右手から意識を逸らそうと、どうでもいい話題を口にしながら、陽生は歩き出す。うさぎの餌って、と茉莉は吹き出した。
「そんなに野菜ばっかりじゃないよ。ちゃんとお豆腐のハンバーグとか、ひじき入りのお豆腐のつくねとかそういうのも入ってるよ」
「もっと肉を食え、肉を」
「お豆腐でたんぱく質はちゃんと摂れてるよ? それにしても、貴嶋くんのお弁当は毎日気合い入ってるよね。将来いい旦那さんになりそう」
 じゃあ嫁に来るか、と陽生は軽口を叩きかけて、やめた。仮にも彼氏のいる相手に言うことじゃないし、これでは自分が茉莉を異性として好きみたいではないか。
 救護テントに茉莉を連れて行くと、陽生は彼女を保健教諭の高田に預けた。「プログラムナンバー五番、スウェーデンリレーに出場する方は集まってください」隣のテントで放送委員がアナウンスする声が聞こえてくる。
 それじゃ、と踵を返しかけた陽生の腕を引き止めるように茉莉の指が掴んだ。
「貴嶋くん、迷惑かけてごめんね」
「別に迷惑とか思ってねえよ。さくっと終わらせて、また後で様子見にくるよ」
「さくっとって、貴嶋くんがそんなに体育得意なイメージないんだけど……氷上くんじゃあるまいし」
「言ってくれるなあ、お前。まあ見とけって」
 じゃあな、と今後こそ陽生は救護テントを後にする。頑張って、という茉莉の声が追いかけてきた。
 陽生はスウェーデンリレーの集合場所へ向かうと、クラスメイトに茉莉が出られなくなったことと、彼女の代走を自分が務めることを伝えた。一つ前の障害物競争が終わると、陽生は他の参加者たちとともにスタート位置へと向かう。陽生は第三走のスタート位置に着くと、開始のホイッスルが鳴るのを待った。
 ピーっとホイッスルの高い音が昊を劈いた。同時に第一走の選手たちが、弾かれたようにスタートラインを飛び出した。
(うちのクラスは……三位か)
 若干出遅れたクラスメイトがコーナーを曲がり、第二走へとバトンを受け渡す。第二走のクラスメイトが走り出すと、次は自分の番だと陽生は気を引き締めた。
 だんだんと第二走のクラスメイトが近づいてくる。助走をつけて、陽生は最下位でバトンを受け取ると走り出した。
(芦屋にああ言った手前……たまには本気を出すか)
 ギアが入ったかのように、陽生は徐々に加速していく。視界の隅に、一人、二人と追い抜かした他の組の選手の顔が残像のように映る。
「A組、ここに来ての巻き返しか! だが、まだアンカーが控えている! さあ、この勝負、どこのクラスが勝つかわからなくなってきました!」
 ハイテンションな放送委員のアナウンスが遠くに聞こえた気がした。しかし、陽生はそれを無視して、全速力で走り続ける。右足が本来自分がスタートするはずだった、アンカーのスタートラインを踏む。まだまだ勝負はここからだと、陽生は数メートル先を走るB組のアンカーを追いかける。
――貴嶋くん、頑張って!
 ふいに茉莉の声が聞こえた気がした。ふっと陽生の口元が無意識に緩む。そして、陽生の脚は自身の限界を超え、前を走る選手に肉薄する。
(悪いけど、負けてやるわけにはいかない)
 陽生はB組のアンカーを追い越すと、徐々に距離を離していく。残るはトラック半周だ。
「おお、A組、遂にB組を追い越したー! 三走から走り続けるA組の選手は陸上部のエースか!? えっ、陸上部どころかどこの運動部でもない!? これは体育祭後に運動部からのスカウトが殺到しそうですねー!」
 残り百メートル。五十メートル。背後から近づいてくる足音を聞きながら、陽生は走り続ける。走るのは得意な部類ではあったが、七百メートルもぶっ通しで全力疾走し続けたこともあってはあはあと息は上がっていた。
 ゆらゆらと視界に陽炎が揺れる。負けてやらない。――自分自身には、絶対に。
 視界にゴールテープが映る。陽生は最後の気力を振り絞る。残り三十メートル。二十、十。
 陽生の身体がゴールテープを切った。トラックの中に入ると、陽生ははあはあと肩で息をしながら地面に膝をつく。
 ふいに救護テントにいる茉莉と視線が交錯した気がした。陽生は彼女へと向かって、親指を立ててみせた。――だから言っただろ、と。
 他のクラスのアンカーたちも続々とゴールラインを踏む。屋上から吊るされた得点板の数字が得点係の生徒によって変えられ始めていた。

「いやー、スウェーデンリレーのときの陽生すごかったなー!」
 午前の部が終わり、グラウンドで四人で弁当を食べていると、朔也がそう言った。彼は陽生に耳を寄せるとこんなことを宣った。
「何ー、陽生は芦屋のために本気出しちゃった感じ?」
「そんなんじゃねえよ。くっつくな。汗臭い」
「えー、さっき制汗剤したのに?」
 えーじゃねえ、と陽生は嫌そうに朔也を引き剥がす。何で男にくっつかれなければいけないんだ。別に茉莉ならいいとかそんなことは考えていないけれども。それにしても、と心羽は陽生を見る。
「貴嶋くん、普段から体育の授業でも本気出せばいいのに。もったいなあい」
「あのな、天沢、さっきみたいに運動部の勧誘が死ぬほど来るのわかってるから、おれは普段は適当にやりすごしてんの。せっかくの高校生活、汗まみれの泥まみれになるくらいなら、悠々自適にだらだら過ごしてえの、おれは」
「貴嶋くん、何その高校生っぽくない台詞」
 茉莉がくすっと笑った。午前中よりはだいぶ顔色が良くなり、箸の進みは良くないとはいえ食事も取れている。
「あ、そういえば、芦屋に渡すもんがあるんだった」
 陽生は箸を置くと、リュックの中から近くのコンビニのロゴが入ったビニール袋を取り出した。ほら、と明後日の方向に視線を逸らしながら、陽生はそれを茉莉に押し付ける。
「あ……貴嶋くん、ありがとう。……これは?」
 茉莉は袋の中身をレジャーシートの上へと広げていく。塩飴に一リットルのスポドリのペットボトル。冷却シートに冷感タオル。ネッククーラーに冷感スプレー。
「陽生……芦屋の体調が心配なのはわかるけど、お前は芦屋のオカンか」
 呆れたように朔也は肩をすくめた。オカンじゃねえよ、とぶっきらぼうに陽生は反論する。
「貴嶋くん、こんなにどうしたの? それにこんなにもらえないよ、お金払うよ」
「さっき、学校抜け出してそこのコンビニ行ってきた。それにまあ……これは要するにおれの自己満足だ、黙って受け取っととけ」
「何ていうか、貴嶋くんって素直じゃないよねえ。普通に茉莉が心配だって言えばよくない?」
「心羽ちゃん、そこは陽生も思春期だから……素直になれないお年頃っていうのがあるんだよ」
「うるせえぞそこ二人」
 こそこそと話す心羽と朔也に半眼で陽生は突っ込んだ。善意の押し売りをしておいて、心配だなんてどの口が言えるんだ。
「あっ、そろそろ行かなきゃ。午後イチの競技出るんだった」
 そう言うと弁当箱をバッグに片付け、心羽は立ち上がった。それじゃまた後で、と彼女は踵を返した。校舎の時計は十二時五十分を指している。
「なあ、午後イチの競技って何だっけ?」
「さあ……芦屋、体育祭のプログラム持ってねえか?」
 あるよ、と茉莉はバッグの中からきちんと折り畳まれた体育祭のプログラムを取り出して開いた。陽生と朔也は逆側からそれを覗き込む。
「「「借り物競走……」」」
 三人は互いに顔を見合わせた。この学校の借り物競走は無理難題を課してくることで有名だ。
「心羽は一体何を借りることになるのかな……?」
「だよなあ。理科室の骨格標本の左腕とかだったらまだマシだけど……」
「ああ、過去にはトイレの花子さんを連れてこいなんてお題が出たこともあるって聞くしな……」
「校長室の盆栽くらいで済むといいね……」
 三人は心羽が借りるものが無難なものであるようにと祈る。そんな三人の願いをよそに、テンション高く放送部のアナウンスの声が響く。
「まもなく、プログラムナンバー十三番、借り物競走が始まります! 選手の皆さんはスタートラインについてください! 今年はお題にどんなものが飛び出すのか、乞うご期待!」
 髪の毛にハチマキを編み込んだ心羽がスタートラインに立っているのが遠目に見えた。彼女はこちらの視線に気づくと手を振る。「心羽ちゃん、頑張れー!」手を振り返しながらそう叫ぶ朔也を陽生は少し羨ましく思った。――だって、自分にはそんなことは絶対にできないから。
 校舎の時計が十三時を指し示すと、ピィーっとホイッスルが雲を切り裂いて鳴り響いた。借り物競走に参加している生徒たちは五十メートル先にあるテーブルを目指して走り出す。
 二番目にテーブルに辿り着いた心羽は目の前にあったカードを引いた。そして、カードに書かれた内容を確認した心羽は――心臓がどくりと鳴るのを感じた。
(べ、別にこんなのただの余興だし……相手なんて誰でもいいんだけど……でも、心羽は――)
 その言葉から連想されるのは明るい笑顔のあの人。邪険にしても、懲りずに絡んでくる、あの人。軽そうな言動とは裏腹に、友達想いで優しいあの人を――選びたい。
「……あれ? 何か心羽ちゃん、こっち来てないか?」
 心羽がトラックを横切ってこちらに近づいてきていることに真っ先に気がついたのは朔也だった。「どうしたんだろうな?」「わたしたちで貸せるものならいいんだけど……」陽生と茉莉も顔を見合わせる。
「氷上くん……心羽と一緒に来て」
 そう言った心羽の顔はいつになく真剣だった。一体何を引いたんだ、と朔也は心羽の手からカードを奪い取った。朔也の目が見開かれていく。
「いいの? オレで」
「心羽は氷上くんがいいと思ったの。――それで、一緒に来てくれる?」
「いいよ。だけど、これが終わったらオレの話を聞いてくれる?」
 わかった、と心羽は頷いた。それじゃ行くか、と朔也は立ち上がると、心羽の手を引いて走り出した。
「……天沢は一体何を引いて、朔也を連れていったんだ? 一番新しい友達とか?」
「すぐにわかると思うよ。……それにしても、貴嶋くんって鈍感だよね」
 悪かったな、と憮然として陽生は言い返す。ゴールへ辿り着いた心羽と朔也はカードを判定係の教師へと渡す。放送部のアナウンスが響き、先ほどの陽生の疑問への答えが明かされる。
「おっ、A組早くもゴールか!? お題は何と、『好きな人』!? 今年も体育祭カップルの誕生か!?」
 ヒューヒューと二人を囃し立てる声がグラウンドに響き渡る。朔也は観衆に見せつけるように、心羽をお姫様抱っこしてみせる。沸き立つ全校生徒たちをよそに、唖然として陽生は茉莉へと耳打ちした。
「なあ、朔也が天沢好きなのは知ってたけど、天沢もだったの? おれらの知らないところであいつらデキてたの?」
「そういうところが貴嶋くんは鈍感なんだよ。ちょっと前からあの二人は両想いだったよ。ただ、前に進むきっかけがなかっただけ」
「あっ、そう……」
 朔也に彼女。そう思うと何だか陽生は置いていかれた気分だった。気の置けない親友はいつまでも一緒にふざけ合ってつるむ仲のままだと思っていたのに、朔也は確実に大人への道を進んでいる。
 陽生は茉莉にちらりと視線をやる。彼女にはあんなのとはいえ彼氏がいるし、仲間内で恋人がいないのは自分だけになってしまった。
「ねえ、貴嶋くんは好きな人とかいないの?」
「どうせ、おれは初恋もまだなお子様だよ……」
「もう、何で拗ねてるの。――じゃあ、好みのタイプは?」
 髪が長くて、危なっかしくて、放っておけなくて。優等生なのにサボりぐせがあって。意外と変な飲み物が好きで、可愛くて。
「ねえよ、そんなこと考えたこともない」
 その特徴を満たす人物が誰であるか答えを出したくなくて、陽生はそう言った。――自分にそう言い聞かせたかったのかもしれない。
「まあ、そういうことにしておいてあげる――今は」
「今はって何だ、今はって」
 陽生の視界ではD組の生徒が重そうに体育倉庫の扉を引き摺りながらゴールを目指していた。一体あれ、どうやって持ってきたんだ。
 ブォォォンとエンジンを吹かしながら、陽生でも車種のわかるスーパーカーがグラウンドへと姿を現した。この学校の借り物競走ははちゃめちゃだと聞いていたが、本当に前評判通りだったなと陽生は肩をすくめる。
 見て、と茉莉が体育館の方から走ってきたB組の生徒を指さす。その生徒は体育館のステージの緞帳を引きずっていた。あんなに砂まみれにしてしまって、クリーニングとかできるのか、あれ。
 ふいに茉莉の肩が陽生の二の腕に触れる。柄にもなく、この温もりがずっとここにあればいいのにと陽生は思ってしまった。――未だ、その感情の正体を知ることはなく。

 体育祭で陽生たちA組は優勝という戦績を勝ち取り、担任の岸野の奢りでファミレスを貸し切った打ち上げを行なっていた。ジュースで乾杯を済ませるなり、朔也は口火を切った。
「それでさ、陽生と芦屋に報告があるんだけど」
「朔也、よかったな。わざわざ報告されなくても、内容はさすがに想像つくぞ」
「そう言わずに聞いてって。っていうか、オレが言いたい」
 はいはい、と陽生は受け流す。すると、朔也はジュースのグラスを手に立ち上がると、大声でこう宣言した。
「オレと心羽ちゃん、付き合うことになりましたー! オレ、心羽ちゃん大好きだから超大事にしちゃうー!」
「ちょっと、さっくん、恥ずかしいよ」
 朔也の横に座った心羽が、彼のワイシャツの袖を引っ張った。というか、さっくんとは一体。
「うるせえぞバカップルー! 末長く爆発しろー!」
 他の席のクラスメイトたちから野次が飛んでくる。そうだそうだと同意する声が響く。何だか聞いているこっちが恥ずかしくなってくる。
「こらお前ら静かにしろ、店に迷惑だ! 氷上も浮かれるのも大概にしろ! あと、今言った言葉絶対守れよ!」
 ぎゃあぎゃあと喧しい店内に岸野の怒号が響く。「先生が一番うるさいと思いまーす」「そう思いまーす」クラスメイトが口々に反論する。「静かにしないと奢らねえぞ!」何だかもうはちゃめちゃ過ぎて頭が痛くなりそうだ。陽生は真っ暗な窓の外に視線をやりながら、アイスコーヒーを啜る。――窓ガラスに映った茉莉と視線が交錯して、一瞬、どきりと心臓が跳ねた。
「……えっと、芦屋。何見てんの?」
「何でもないよ。後は貴嶋くんが誰か好きな人見つけて幸せになれたらいいなあって思ってただけ」
「……」
 お前が言うな、とは陽生には言えなかった。端から見て、茉莉はどう考えても健全とは言い難い恋愛をしているが、彼女自身がそれに疑問を覚えていない時点で何をどう伝えればいいのかわからなかった。
(芦屋のこと、どうにかしてやりてえな……)
 未来の自分は茉莉に関して何かとメッセージを送ってくるが、肝心なことは何も教えてくれない。それが歯痒くて仕方がなかった。
「とりあえず、芦屋。スープバー行ってきたらどうだ?」
「スープバー? 何で?」
「熱中症の後には水分とビタミンとミネラルが不足しがちなんだよ。そういうのは野菜スープで大概解決できる」
「貴嶋くんって、何故か家庭科だけは詳しいよね……」
 確かに、と心羽も同意する。おいちょっと、と不満そうに朔也が唇を尖らせる。くすくすと笑いながら、茉莉は席を立った。
 今の自分が茉莉のためにしてやれるのはそのくらいのことしかない。けれど、今はこうやってできることを少しずつ積み重ねていくほかなかった。
 いつか、彼女が自分を卑下することなく、心から笑えるようになるといい。ハーフアップに結った髪が翻る、華奢なニットカーディガンの背を見送りながら、陽生はそう思った。