――偶然が何度も重なれば、それは必然となる。
あの日、体育館裏で泣いている茉莉と出会ったのは、偶然だと陽生は思っていた。しかし、未来からのメッセージが届いたのはあの日の一度きりではなかった。
あの三日後に届いたメッセージの内容は「傘を持って、いつもより一本早い電車に乗れ」。すると、一日晴れ予報であったにもかかわらず、電車が学校の最寄り駅に着くころには空模様が怪しくなっていた。そして、陽生は改札口で泣き出した空に戸惑っていた茉莉に出会った。
更にその二日後には「午後十三時に市営図書館へ行け」、五日後には「昼休みの終わりに購買へ行け」というメッセージが未来の自分から届いた。指示された場所に行くと、やはりいつも茉莉がいた。
未来の自分からのメッセージと茉莉の存在。それは偶然の一致ではないと、陽生は思い始めていた。ならば、未来の自分は現在の自分に何をさせたいのか。陽生はそれを疑問に思うようになっていた。――茉莉に対して何かしろというシグナルなのだとしても、その理由がわからない。何しろ、彼女とは数週間前に高校に入学して、たまたま同じクラスになっただけの間柄なのだから。
「うーん……」
英語の教科書と睨み合いながら、陽生が難しい顔で唸っていると、どしたん、と朔也が声をかけてきた。彼は前の席の椅子に逆さまに座ると、陽生の手元を覗き込んでくる。
「陽生、入学早々もう躓いてんの? ゴールデンウィーク明けには中間あるのに、それはまずいだろ。あと、そこスペル間違ってる」
「そういうわけじゃねえんだけどさ……なあ、朔也、この後の昼メシ、外行かねえ?」
「別にいいけど、どうしたん? もしかして、教室で聞かれたくない話でもあんの?――たとえば、女の話とか」
「間違ってはねえかな……たぶん、思ってるのとは違う話だと思うけど」
ほほう、と面白がるように朔也は目元をにやけさせた。陽生は先ほどの授業で出された英語の課題を適当に切り上げると、教科書とノートを机の中にしまう。そして、机の脇に下げたリュックから弁当の包みを取り出し、陽生は席を立った。
「オレ、購買寄ってくー」
わかった、と頷くと陽生は朔也とともに教室を出た。教室からは女子たちが流行りのショート動画の話題で盛り上がっているのが聞こえてくる。
昼の購買は生徒でごった返していた。あちらこちらでパンの取り合いが勃発している。恫喝やら金切り声やらが聞こえてきて、柱に背を預けて様子を見守っていた陽生は小さく肩をすくめた。なんていうかうちの学校の購買は治安が悪い。
「買えた?」
「もっちろん。それじゃ外行くか」
メロンパンとチョココロネを手に戻ってきた朔也とともに、陽生は歩き出した。階段を降り、昇降口で上履きからローファーに履き替えると、二人は中庭へと出た。
二人は中庭で空いているベンチを見つけると、腰を下ろした。四月が終わりかけ、移ろいつつある季節の日差しが暖かかった。
「それで、陽生。女の話だって言ってたけど、何の話? ちなみにオレは天沢|《あまさわ》ちゃんが気になってる」
「朔也の恋愛事情はさておいて……ちょっと、これを見てくれ」
陽生はブレザーのポケットからスマホを取り出すと、メッセージアプリの画面を朔也へと見せた。うん? と怪訝そうに朔也の片眉が上がる。
「これは……陽生自身からのメッセージか? それも、どれも日付が十年後になってる」
ああ、と陽生は重々しく頷いた。ふうむ、と朔也は唸った。
「正直、名前だけならいくらでもなりすませるとオレは思う。……けど、送信日時が十年後っていうのはいくらなんでも妙だな。ちょっと嫌がらせや悪戯にしては手が込みすぎてる」
「おれもそう思ってる。そして、不思議なことはもう一つある。このメッセージの指示に従って行動すると、必ず、芦屋に出くわすんだ」
「芦屋って、うちのクラスの芦屋茉莉? 天沢ちゃんとよく一緒にいる」
「お前のいう天沢ちゃんとやらがどんな子だかいまいち知らねえけど、うちのクラスの芦屋だ」
そう言うと、陽生は弁当の卵焼きを頬張った。それをいいな、と朔也は覗き込む。
「その卵焼き、相変わらず手作りなんだろ? いいなー」
「卵焼きに限らず、弁当のおかずは全部おれの手作りだ。――それで、メッセージの件と芦屋の件、どう思う?」
「普通に考えたら、誰かがお前に芦屋に対して何かをさせたがってるってことなんだろうな。その誰がが誰なのかもわからないし、その背景にあるのが善意なのか悪意なのかもわからないけど」
悪意。その響きに背筋がぞわりとした。陽生は今まで、悪意を持った誰かの意思が介在している可能性を視野に入れていなかった。――もし、誰かが自分を使って茉莉を陥れようとしているのだとしたら。
(最初に体育館裏で会ったときのような……あんな顔は見たくねえな)
唐揚げを齧りながら、陽生はなんとなくそんなことを思った。彼氏との関係でただでさえ苦労の多そうな彼女には、せめてそれ以外のときには笑顔でいてほしいような気がした。
朔也はメロンパンを食べきると、陽生の弁当へと手を伸ばし、たこさんウインナーを指でつまんで掻っ攫って行った。「うめー」「おいこら朔也、お前」「相談料ってことで」これ以上、朔也におかずを取られないようにと、陽生はそそくさと弁当箱の中身を掻き込みはじめる。
桜を散らす風に乗って、予鈴が音を響かせ始める。二人は昼食を終えると、校舎へと戻っていった。
――放課後に音楽室へ行け。
そのメッセージが陽生のスマホに届いたのは六限の途中のことだった。六限の化学が終わると、教科書とノートを机の中に放り込み、陽生はそそくさと教室を後にした。教室に出る間際、ちらりと茉莉の姿を探したが、彼女は視界のどこにも見当たらなかった。
(そういえば、先生が化学の出席取ったとき、いなかったような気がするな)
具合でも悪いのだろうか。だったら、なぜ、メッセージの送り主――未来の自分――は保健室でなく、音楽室に自分を呼び出したのだろうか。
廊下を歩くうちに、遠くからうっすらとピアノの音が聞こえてきた。ぽろりぽろりと鳴る優しく柔らかい旋律に、この先に茉莉がいるような予感がした。
(なんだったかな、この曲……小学生のときに音楽の授業で聞かされた気がすんだけど)
陽生はそんなことを思いながら、廊下を奥へと向かって進んでいく。そして、廊下の突き当たりまでくると、彼は音楽室の扉へと手をかけた。キィ、と蝶番が軋み、扉が開く。
オレンジを帯びた光と共に室内に入り込んでくる、春の終わりの風。ビロードのカーテンが靡き、夕暮れの音楽室の床に影をゆらめかせる。
教室を満たす静謐が、ピアノの音色を際立たせている。壁に貼られた作曲家たちの肖像画が、ピアノを奏でる少女を見守っている。夕陽に照らされた彼女の横顔を綺麗だと、陽生はなんとなく思った。
陽生は音楽室の入り口の壁に背中を預け、鍵盤の上に指を滑らせる茉莉を眺めていた。――この曲は一体何だったかと、記憶の中を探りながら。
悲しみと懐かしさを感じさせる和音の余韻が二人きりの音楽室の中に溶けていく。茉莉は鍵盤から指を離すと、陽生へと視線を向けた。
「――貴嶋くん。また、会ったね」
「……おう。お前は六限サボりか、芦屋」
「そんなとこ」
「中間テスト前に余裕だな」
「だって、わたし、入学直後の実力テスト、クラストップだもん。一回くらい授業サボったからって、どうってことないよ」
優等生め、と陽生は毒づいた。ふふ、と茉莉は微笑むと、陽生へと水を向ける。
「それで、貴嶋くんは何でこんなところに来たの?」
えっと、と陽生は口ごもった。付き合いの長い朔也相手ならともかく、知り合って日の浅い茉莉に未来の自分からのメッセージについて、話す気にはなれなかった。
「ピアノの音がしたから、誰かいんのかなって思って。それでここに来たらお前がいた」
「――嘘だ」
茉莉の色素の薄い目がじっと陽生を見た。彼女の淡く色づいた唇の端がいたずらっぽく釣り上がる。
「貴嶋くん、わたしのストーカーだったりしない? 心羽が言ってたもの、友達でも何でもないのにいろんなところで度々出くわすのはおかしいって。――それで、本当のところはどうなの?」
「そんなんじゃねえし。むしろ、何でおれの行く先々にお前がいるのか、こっちが聞きてえくらいだよ」
ふうん、と茉莉の目が細められる。納得していなさそうな彼女の態度に、陽生は脳みそから無理やり言葉を捻り出した。
「友達でもないのに度々出くわすのがおかしいっていうなら、おれたち今から友達になればよくないか?」
「……貴嶋くん、モテないでしょ? 女子の口説き方が下手」
うるせえよ、と陽生は憮然として言い返す。そんな彼をよそに、茉莉はブレザーのポケットからスマホを取り出すと、椅子から立ち上がった。
「まあいいや。なろうよ、友達。――貴嶋くん、連絡先交換しよ」
茉莉はスマホを操作すると、メッセージアプリのQRコードを表示させる。陽生もポケットからスマホを引っ張り出すと、カメラアプリでQRコードを読み取った。
"まつり"という表示名のユーザが陽生のメッセージアプリの友達リストに追加される。陽生は彼女とのチャット画面を開くと、そっけなく、よろしくの四文字を打ち込んだ。ほどなくして、スマホが短く震え、よろしくと書かれた可愛らしいキャラクターのスタンプが送られてくる。
「そういや、さっき、何の曲弾いてたんだ?」
「あれはね、エリック・サティのジムノペディ第一番。貴嶋くん、知ってるの?」
「何となく聞き覚えはあったんだけど、曲名が思い出せなくて。サンキュ、すっきりしたわ」
「そう。……それはそうと、貴嶋くん、この後って暇だったりする?」
「まあ、帰るだけだから暇っちゃ暇だけど……」
「じゃあ、貴嶋くん、この後、駅前のカフェいかない? 新作出てるんだよね」
「そういうのはお前の友達の……天沢だっけ? あいつと行けよ。それか例の佐倉とかいうあの有名な彼氏と」
ええー、と茉莉は不服そうに頬を膨らませた。
「あのね、友達っていったら、帰りにカフェに行ったりするのが普通なの。心羽とも今度行くけど、わたしは今日は貴嶋くんと行きたい気分。――駄目?」
はあ、と陽生は嘆息した。上目遣いで小首を傾げてみせる茉莉の仕草は、おそらくそれが可愛いとわかっていてやっている計算されたものだ。不覚にもそれを可愛いと思ってしまった自分に対して、陽生は顔を覆いたくなった。
「少しだけだかんな……。っていうか、そういうの、彼氏以外の男の前でやんねーほうがいいんじゃねえのか」
ピュアな男子高校生の心を弄んでくる茉莉に陽生は苦言を呈する。しかし、彼女は意に介したふうもない。
(未来のおれは……芦屋と友達になるために、これまで何回もメッセージを送ってきていた?)
そんな疑問が陽生の脳裏を掠める。彼女に対して、親切に振る舞って。顔を合わせる頻度を増やすことで、単純接触効果を上げていって。
友達になることが単なるゴールだとはなんとなく思えない。「それじゃあ、吹奏楽部が放課後の練習に来ちゃう前に教室戻ろっか」踵を返す茉莉のハーフアップの髪が翻るのを見つめながら、ああ、と陽生は頷く。
音楽室を出ると、まるで水中から出てきた後のようにやけに鮮明に生徒たちの話し声が聴覚に飛び込んできた。未来の自分からのメッセージの意図について考え込む陽生の耳の奥では、先ほどのジムノペディの音色がまだ聞こえていた。
カフェからの帰り道。すっかり日は沈み、残照が空の果てに色づくのみとなっていた。
茉莉の主だった話題は二つ。高校に入ってから仲良くなったという天沢心羽のことと、幼馴染で彼氏の佐倉瑠音のことだ。前者は甘ったるい茶を飲みながらやり過ごしていたが、後者については内心、陽生は面白くなかった。そんなに彼氏のことが好きなら、他の男と茶なんて飲んでるなよ、と。
駅の改札を通り抜け、ホームに立つと夕方の風が電車とともに駆け抜けていった。次の電車は十分後だ。陽生は茉莉とともにベンチに腰を下ろす。
「貴嶋くんは、ゴールデンウィーク何して過ごすの?」
「勉強だよ。ゴールデンウィーク明けたら中間テストだろ」
「ふうん。どこかわからないところとかあるの?」
「まあまあ全体的に。朔也と同じ高校入ろうとして、偏差値的にちょっと背伸びしたところ入っちゃったから、そのツケが今回ってきてるところ」
「朔也って、氷上(ひかみ)くん? よく貴嶋くんといる、ちょっと軽そうな」
そう、とため息混じりに陽生は頷いた。すると、いいこと考えた、と茉莉は口元に笑みを乗せる。
「わたしが勉強教えてあげる。明日から、放課後図書室ね。うちの学校、ゴールデンウィークも図書室開放するらしいから、みっちりやろう」
「お手柔らかに頼む……。というか、お前自身の勉強はいいのか?」
「定期試験くらい、教科書に目を通しておけばわたしは余裕だよ? それに、誰かにものを教えるのって、相手の十倍理解していないとできないっていうから、わたしが貴嶋くんに勉強を教えるのはわたしの勉強にもなる」
「さいですか」
「それで、貴嶋くんは何がわからないの?」
「ええと――」
陽生は自分がだんだんと情けなくなりながらも、自分が勉強で詰まっているところを列挙していく。茉莉の笑顔がだんだんと呆れ顔に変わっていくのを陽生は直視できなかった。
「……失礼だけど、貴嶋くんってよくそれで入試通ったね」
「わからないところは全部鉛筆転がしてた……」
何それ古典的、と茉莉は吹き出した。彼女は笑いながら目元を指先で拭う。
「やだもう、ここ最近で一番笑った。とりあえず、聞いた感じだと貴嶋くんは基礎からしっかりやり直した方が良さそうだね。今やってる部分って、中学の内容とかぶってるところもあるし。重くなければ、中学の教科書も持ってきてもらってもいい? そっちのほうが詳しい解説書いてあると思うよ」
「了解。明日は何の科目やる?」
そうだなあ、と茉莉は口元に手をやり、しばし逡巡する。その横顔をぼんやりと眺めていた陽生は、はっと我にかえると視線を逸らす。人の顔をじろじろ見るなど失礼だ。特に相手が女子ならば。
「どうしたの? 貴嶋くん、もしかしてわたしまだクリームついてた?」
「いや、そんなことはない。目と鼻と口以外特に何もついてない」
「何それ、貴嶋くんって面白いね。――それはそうと、明日は数学にしよう」
「わかった。何年のときの教科書持ってきたらいい?」
「中三のときので」
陽生は頷いた。そのとき、ホームにピンポンパンポンと短いメロディが鳴り響いた。二番線に下り列車が来る旨のアナウンスが録音された男性の声で告げられる。
「それじゃあ、帰るか。そういや、お前、家どこ? おれんちは南雲野(なぐもの)が最寄りなんだけど、前に市営図書館で会ったってことは結構近所?」
「わたしは新南雲台(しんなぐもだい)だから一駅先かな」
南雲野と新南雲台は電車で二、三分の距離だ。少し寄り道をしたところで、十九時半には家に着くだろう。
「もう遅いし、送っていってやるよ」
「大丈夫だよ。一人で帰れるよ」
「さっき、帰りのHRで変質者が相次いでるって言ってただろ。もう暗いのに、女子ひとりで帰せるか」
「じゃあ……お言葉に甘えようかな。でも、わたしを送っていったら貴嶋くんが遠回りにならない?」
「どうせ、おれんちは国道挟んでどっちかっていうと南雲野が近い、くらいのところだからな。大した遠回りじゃねえよ」
「ありがと。……ところで、貴嶋くんは相手が女子だったら、わたし以外にもそんなことをするの? たとえば、心羽とか」
「さあな。……っていうか、お前以外に女子の友達いないからわかんねえ」
春宵の空気を裂いて、電車がホームに滑り込んできた。行くぞ、と茉莉を促すと、陽生はベンチから立ち上がる。
プシューっと、ドアが開くと、電車の中から人が吐き出される。仕事帰りの人々と入れ替わるようにして、陽生たちと同じ制服の学生たちが電車へと乗り込んだ。
ドアが閉まると、列車は揺れを伴いながら、ベッドタウンのほうへと走り始めた。窓の外では、この地に暮らす人々の営みが明かりを灯していた。
陽生はドアの脇にリュックごと背中を預けると、腕を組んだ。視界では脱毛サロンの広告がちらちらと空調で揺れている。
茉莉の最寄り駅までは五駅。その十五分間が、時空が歪んでもう少しだけ長くなればいいのに、と陽生はなんとはなしに思った。
「ああもう、貴嶋くん、そこはそうじゃないでしょ! ここはこっちの公式を使うんだよ」
翌日の放課後、陽生は茉莉に勉強を見てもらっていた。教科書の例題にすら苦戦する陽生は、ことごとく茉莉に指摘を食らっていた。
「ほら、よく見て。ここをこの数字で括った後に、この公式を当てはめれば、綺麗に因数分解できるでしょ」
「あっ……マジだ。ところでさっきから、お前は何をしてるんだ?」
「これは貴嶋くん用の英語の単語帳。英単語とか文法とかいろいろ書いてる」
「あっ……ありがとう」
「どういたしまして。だけど、お礼はテストの結果で返してよね。――あっ、そこまた間違ってるよ」
「あれ、ここはさっきの公式じゃ解けねえの?」
ここはね、と茉莉は自分のバッグから数学の教科書を取り出した。そして、パラパラとページをめくると、そこに記された公式を指で示してみせた。
「似てるけど、ここはエックスが三乗になってるでしょ? だから、ここはこの前授業で習ったこの公式を使うのが正解」
むっず、と陽生は眉根に皺を寄せた。そのとき、ぶーんとスマホのバイブレーションが唸った。陽生はブレザーのポケットからスマホを出すと、通知を確認する。
――芦屋を連れて、三階の自販機へ行け。十五分経つまで図書室には戻るな。
陽生は目を瞬いた。これまで幾度となくメッセージが送られてきていたが、こんなにはっきりと茉莉のことを言及されたのは初めてだ。
「どうしたの、貴嶋くん。氷上くんから? ――とはいえ、勉強中は余所見厳禁だよ」
「まあそんなとこなんだけど……なあ、ちょっと喉渇かねえ? おれ奢るから自販機行こうぜ」
仕方ないなあ、と茉莉は席を立つ。陽生もパイプ椅子を軋ませて立ち上がると、荷物と勉強道具をそのままにその場を後にした。
「貴嶋くん、どこ行くの? 自販機なんて、そこの体育館前のやつで充分じゃあ……」
「この学校、各階でラインナップ微妙に違うんだよ」
そう嘯くと、陽生は茉莉を連れて階段を上がっていく。二階、三階。何かが陽生をせき立てていた。――何となく、あのメッセージに従わなければ、悪いことが起きるような気がして。
三階の廊下の隅に赤い自販機が鎮座していた。陽生は適当に目についたメロンソーダ緑茶なるものをスマホのQR決済で購入すると「芦屋、何がいい?」茉莉にそう聞いた。
「えーと、わたしはミルクティーで。……貴嶋くん、よくそれチャレンジする気になったね……。わたし、よそでそんな変な飲み物見たことない」
「おれもねえな」
陽生は茉莉の分のミルクティーを買う。ゴトン、と商品取り出し口に落ちてきたペットボトルを彼は茉莉へと渡してやった。「ありがと、貴嶋くん。ご馳走になるね」二人は手に持ったペットボトルの蓋を開ける。
「……」
口の中でぱちぱちと弾ける緑茶に陽生は思わず顔を顰めた。しかも、緑茶と銘打っておきながら、後味はどこか人工物めいた酸味がある。陽生の様子に、ミルクティーを飲んでいた茉莉はくすくすと笑う。
「貴嶋くん、やっぱりそれ美味しくないんでしょ。どんな味なの? 一口ちょうだい」
「ん、ああ……」
陽生はねだられるままにメロンソーダ緑茶のペットボトルを茉莉に渡す。彼女はなんてことのない顔で、陽生が口をつけた後のペットボトルに自分の唇を触れさせる。
「わあ……これは、随分と味がぐちゃぐちゃしてるね。メロンソーダなのか緑茶なのかはっきりしろーって感じ」
茉莉は感想を述べながら、陽生にペットボトルを返した。そして、陽生は再びペットボトルを傾けようとして、固まった。
「……お前が口つけた後のやつをどうやって飲めと?」
自分の声がわずかに裏返ったのを、陽生は誤魔化すように咳払いした。ペットボトルの口に残る色付きリップクリームの跡が妙に艶かしく見えた。
「普通に飲めばいいでしょ? 友達同士の回し飲みなんて普通にやるじゃない」
意に介したふうのない茉莉の言葉に陽生は深々と溜息をついた。女子との間接キスなど、恋愛経験のない自分が意識せずにいるのは無理だ。むしろ何で茉莉は気にならないんだ。彼氏がいるからか。
「お前は頭いいんだから、恋愛経験ゼロのいたいけな青少年の心情をちょっとは考えてくれ……」
「貴嶋くんはお子様だなあ。そんなんじゃ、ファーストキスなんかもまだなんでしょ?」
「わりぃかよ……どうせおれはモテねえよ……」
「じゃあ――わたしでファーストキスの練習してみる?」
へ、と間の抜けた声が陽生の喉の奥から漏れた。悪戯っぽい光を宿した茉莉の目が自分の顔を見上げてくる。彼女は息がかかるほどに自分の顔を近づけてくると――ふっ、と破顔した。
「なあんてね。貴嶋くん、ちょっと期待してたでしょ?」
「お前なあ……そうやって男からかってるといつか痛い目見るぞ。というか、自分をそうやって安売りすんなよ」
はあい、と少し不服そうに頬を膨らませてみせながら、茉莉はその場でくるりと一回転してみせた。チェックのスカートが翻る。スカートの裾から覗く脚を見ないように、陽生は目を逸らすと、やけくそのようにメロンソーダ緑茶を一気に飲み干した。――ペットボトルの口に残った、茉莉の色付きリップクリームの淡いサーモンピンクをなるべく意識しないようにしながら。
「……っと、そろそろ戻るか」
空になったペットボトルを自販機横のゴミ箱に投げ捨てると、陽生はそう言った。スマホをちらりと見ると、あのメッセージを受信してから十五分以上が経過している。未来の自分は、茉莉を一体何から遠ざけたかったのか知らないが、もう図書室に戻っても大丈夫だろう。
うん、と頷くと、飲みかけのペットボトルを手にしたまま、茉莉は踵を返した。陽生は頭ひとつ分低いその背中を追いかけて、階段を降りていった。
「なっ……」
図書室に戻ると、茉莉の荷物が荒らされていて、陽生は絶句した。自分の荷物は荒らされた形跡もなく、そのままにされていた。おそらく未来の自分はこれをやった人物と茉莉を出会わせたくなかったのだろうと陽生は悟る。
「あーあ……」
茉莉は自分の荷物の惨状を見ながら苦笑した。雑に破られたノートが辺りに散乱している。彼女が財布の中を確認すると、千円札が何枚か抜き取られていた。――しかし、これもいつものことだ。慣れている。
「芦屋……お前、もしかして誰かにいじめられてんのか?」
そんなんじゃないよ、と茉莉は否定する。しかし、陽生はその言葉に説得力が感じられなかった。
「けど、そんな嫌がらせされてるのって、普通じゃねえだろ。自分で言いたくねえって言うなら、おれから先生に――」
「そんなんじゃないって言ってるでしょ!」
不意に茉莉が大声を上げた。耳を劈くその声に、陽生は何も言えなかった。――茉莉のその言葉は、まるで彼女自身にそう言い聞かせているようで。
周囲の注意が自分に向いたことに気がついた茉莉ははっとしたような顔をした。そして、彼女は小声でこう言った。――その顔はどこか悲しそうに陽生の目には映った。
「わたしが悪いの。こんなところに場所取りみたいに荷物置きっぱなしにしたのもよくなかったし……荒らされたりとかしたって文句は言えないよ」
「それは……」
陽生が二の句を継げずにいるうちに、茉莉は破られたノートをかき集めてバッグへとしまっていく。そそくさと帰り支度を済ますと、彼女は陽生にこう言った。
「勉強教えるって約束だったのにごめんね。わたし、今日はもう帰るね。今日教えたところ、ちゃんと復習しておいて」
そう言い置くと、彼女は陽生に背を向けた。今、彼女を一人にしたくない気がするのに、陽生はその背中を追いかけることができなかった。――今の彼女に、何て言葉をかけてあげればいいのかわからなくて。
どうしてあげるのが正解だったんだろう。その日の晩、夕飯を済ませた後の陽生はベッドに横になりながら、図書室での一件に思いを馳せていた。
茉莉の見せたあの表情。あれは決して大丈夫といっていいものではなかったように思う。
せめて、彼女を気遣う言葉をかけてあげたいと、陽生はずっとメッセージアプリのチャット画面を開いたり閉じたりしていた。何を言ってもきっと、茉莉は「ありがとう。大丈夫」としか言わないだろう。それを言わせるために、何か言葉をかけるのは偽善でしかないような気がしていた。
ふいにスマホがぶうんと唸った。ちょうど茉莉とのチャット画面を開いていたせいで、すぐに既読がついてしまう。なんだかこれでは茉莉からの連絡を待ち構えていたみたいでバツが悪い。
「貴嶋くん、ちゃんと勉強してる? ゴールデンウィークなんだけどさ、一日くらい息抜きにどこか遊びに行かない?」
何も気にしていなさそうな茉莉の言葉に陽生は拍子抜けした。彼女の言葉からは図書室で大声を上げたときのことなど、微塵も感じられなかった。
「別にいいけど……どこ行くんだ? っていうか、天沢とか佐倉じゃなくて、何でおれ?」
「心羽とは別の日に遊ぶからいいの。瑠音は大体毎日うちに出入りしてるから、しょっちゅう顔合わせるし。というか、貴嶋くんだって、わたしの友達でしょ? 遊ぶのがわたしじゃ不満?」
「そんなことはねえけど……佐倉が気を悪くしねえか?」
「瑠音だって、ガールズバンドの子たちとよく遊びに行ってるし、そこはお互い様でしょ。わたしだって、友達と自由に遊ぶくらいの権利はあるよ」
「ああそう……それで、どっか行きたいところとかあるのか?」
すると、茉莉からチャットで何かのリンクが送られてきた。指先でリンクをタップすると、先週末に封切られたばかりの映画のサイトが開かれた。
「これ、観に行きたいって思ってたの! 泣けるって噂だし!」
サイトのあらすじを読んだだけでも砂糖を吐きそうなくらい甘ったるいラブストーリーのようだが、茉莉が行きたいというなら付き合うほかない。それが今日何もできなかった自分ができる、唯一の贖罪であるような気がした。了解、と陽生の指がスマホの液晶の上を滑る。
「何日の何時の回にするんだ? おれのほうで予約取るよ」
「じゃあ、四日の十五時半の回で! 早めに集合して、映画の時間まで、ご飯食べたりショッピングしたりしよ」
わかった、と打ってしまってから、陽生は固まった。それは最早デートではないだろうか。物心ついてから、母親以外の女性と出かけた覚えなんて全くない。
(え、おれ、まともな服とか持ってたっけ)
陽生はベッドの上にスマホを放り投げると、部屋の隅に積まれた衣装ケースの引き出しを開ける。母親が買ってきた謎の英字ロゴのTシャツ。袖が伸びてよれたパーカー。履き古したチノパン。衣装ケースから出てくるのはそんな服ばかりだ。
陽生はベッドの上に放り投げたままだったスマホを拾い上げると、朔也へと電話をかけた。ツーコールの後に、不審げな様子の朔也が電話に出る。
「何、陽生。いきなり電話とか……」
「朔也! 頼む! 明日買い物付き合ってくれ!」
「……はあ?」
「おれにそこそこイケてる服を見繕ってくれ!」
陽生は電話口で思わず叫んだ。うるさい、という母親の声が階下から聞こえてきた。なるほど、と朔也が得心したように言う。
「芦屋関連か……お前ら付き合ってんの?」
「いや、芦屋とは普通に友達だけど、何か四日に出かけることになった! まともな服がないからどうにかしてくれ!」
「へいへい……ただ、交換条件としてひとつ。オレに天沢ちゃん紹介しろよ」
「紹介って、おれは天沢のことなんてよく知らねえぞ?」
「天沢ちゃん、芦屋と仲いいだろ。芦屋経由で紹介してもらってよ」
「芦屋がいいって言ったらな」
よっしゃ、と電話の向こう側で朔也の声が弾む。やれやれと肩をすくめると、陽生は朔也と待ち合わせ時間の相談を始めた。
陽生は改札の前で、茉莉が来るのをそわそわとしながら待ち合わせ時間の一時間前から待っていた。駅ビルのショーウィンドウのガラスに映り込む自分の姿を見ては、どこかおかしなところはないかと髪をいじくり回してばかりいる。端から見たら完全なるナルシシストだ。
ライトグレーの無地のクルーネックのTシャツ。薄手のブラックのカーディガン。黒のテーパードチノに無地のローテクスニーカー。先日一緒に買い物に行った親友の朔也によって、今日の陽生はぎりぎり茉莉と歩ける程度にはアップグレードさせられていた。持つべきものは友だ。
もっとイケイケなコーデも組めると朔也は豪語していたが、敢えて陽生はこのはしゃぎすぎていないラインで留めてもらっていた。”友達”と出かけるのに気合いを入れすぎていては、何だか茉莉のことを意識しているようで気恥ずかしかった。
電車がついたのか、改札を抜ける人の数が一気に膨れ上がった。スマホの時計を確認すると、待ち合わせ時間の十分前を指している。
陽生がショーウィンドウ相手に身だしなみの最終確認をしていると、ふいに聞き慣れた声が彼のことを呼んだ。みっともないところを見られた気がしてぎょっとしながら、背後を振り返ると、茉莉がそこに立っていた。
スカートのプリーツが美しい、淡いミントグリーンのワンピース。ウエストを細い茶のベルトがぐるりと囲み、その細い腰を際立たせていた。ワンピースの上から羽織った七分丈のレースのカーディガンは白で、足元も同じ色のストラップパンプスだ。香水によるものなのか、シトラスのいい匂いがふわりと彼女から漂っている。この季節に住まう妖精のような愛らしさに、陽生は思わず息を呑む。
「貴嶋くん、今日暑いね。いつ来たの?」
「えっと、一本前の電車で」
陽生の舌はたどたどしく嘘をつく。本当のことを茉莉に知られるのは何だか格好がつかない気がした。ふうん、と疑うように茉莉は目を細める。
「それじゃあ、貴嶋くん。行こっか。ちょっと早いけどお昼にしちゃおう」
「おう、どっか行きたい店とかあんのか?」
「ネットで見たパニーニの専門店気になってたの! そこ行こうかと思ってて……いいかな?」
「別にいいけど……パニーニってなんだ?」
「サンドウィッチみたいなやつ! 見た目よりもお腹膨れるから、男子でも満足できるはずだよ」
そんなことを言いながら、二人は歩き出した。陽生は茉莉のヒールの生えた足元にちらりと視線を落とすと、歩く速度をほんの少しだけ落とした。――その変化に気づかれないように、いつもと同じ歩幅を装いながら。
陽生はパニーニを食べ切ると、紙ナプキンで口元の照り焼きソースを拭った。茉莉の言っていた通り、見た目に反して意外とボリュームがある。
目の前に座る茉莉はグレープフルーツとキウイが沈んだティーソーダなるものを機嫌良さげに啜っていた。今日の茉莉はうっすらとメイクをしているようで、陽生は彼女を直視できないでいた。――ともすれば、丁寧にマスカラを塗られた長い睫毛も、瞼を彩るシャンパンベージュのアイシャドウも、まるで陽生自身のためであるかのように錯覚してしまいそうで。
どうしたの、とストローから唇を離すと茉莉は小首を傾げてそう問うた。その仕草がいちいち可愛らしくて、恋愛耐性のない陽生は悶絶してしまいそうになる。――茉莉は他人の彼女だと理解しているのに。
「べ、別に……それよりさ、一個頼みがあんだけど。おれのってわけじゃねえんだけどさ……」
「なあに?」
「芦屋も朔也って知ってるだろ? 氷上朔也」
「貴嶋くんの友達だよね。よく一緒にいる。氷上くんがどうかしたの?」
「朔也が天沢を紹介してほしいってうるせえんだよ」
「心羽を氷上くんにねえ……」
茉莉は逡巡した様子を見せる。一見軽そうに見える朔也に友人を紹介していいか迷っているのだろう。そう察した陽生は朔也のための援護射撃を試みる。そのくらいの借りはある。
「ちょっと軽そうに見えるけど、別に悪い奴じゃねえよ。十年来の付き合いのおれが保証する。何やかんやで友達思いだし、おれも何かとあいつには世話になってる」
ふうん、と茉莉は長いスプーンでグラスの中からキウイを掬い出した。フレッシュな味わいのそれを思いとともに咀嚼すると、彼女はこう言った。
「いいよ。氷上くんが心羽のこと、泣かしたりしないなら」
――泣かしたりしないなら。
その何気ない一言が陽生の胸にはやけに重く響いた。きっと、茉莉が瑠音に泣かされたのは体育館裏で出会ったあのときだけじゃない。だからこそ、出た言葉なのだろうと思った。――せめて、友人には幸せな恋愛をしてほしくて。
「……わかった。朔也にそう伝えとく」
うん、と茉莉は頷く。彼女の目には羨望と諦観が入り混ざって浮かんでいた。その目を見ていられなくて、陽生は咄嗟に話題を逸らした。
「それより、それ飲んだらさっさと行くぞ。何か、買い物したいんだろ?」
「うん、夏物見たいなって思ってて。ゴールデンウィークだからセールもやってるしね」
「もう夏物か? まだ五月だぞ」
「そんなこと言うけど、今日真夏日だよ。さすがに春物じゃそろそろ暑いよ」
茉莉がティーソーダの中のフルーツと格闘しているのを視界の端に捉えながら、陽生はズボンのポケットからスマホを取り出した。そして、メッセージアプリを立ち上げると、先ほどの茉莉の言葉を朔也へと送った。――自分は、茉莉が泣かないで済むために、何ができるのだろうと思いながら。
「ねえ、貴嶋くん。これとこれ、どっちがいいと思う?」
向日葵を思わせる大判の花柄が施されたクリームイエローのスカート。細かな銀の刺繍が刻まれた白いレースのスカート。その二つを手にもった茉莉にそう問われ、陽生はうーんと唸った。この場合、なんて答えるのが正解なんだろうか。
「えーと、どっちもいいんじゃないか……?」
「もう、貴嶋くんってばさっきからそればっかりじゃない!」
それに、と不服そうに茉莉は陽生を見る。
「わたし、まだ今日、一回も貴嶋くんに可愛いって言ってもらえてないんだよねえ。こういう感じ、貴嶋くんの好みじゃない?」
「いや、そういうんじゃねえけど……けど、おれがそういうのを言うのは何か違うんじゃねえか? そういうのは天沢か佐倉にでも言ってもらえよ」
「ええー、わたしは貴嶋くんに言ってもらいたいのに」
そう言って頬を膨らませると、茉莉は試着室へと消えていった。茉莉が着替えるのを待っていると、女性の店員がにこやかに話しかけてきた。
「今日はデートですか? 可愛らしい彼女さんですね」
「いや、そういうんじゃ……あいつはただの友達ですし」
友達。その言葉をしっかりと陽生は自分に言い聞かせる。こんなごっこ遊びのようなやりとりは、自分が知らないだけで、きっと世の中には溢れかえっているものなのだ。
シャラリと音が響き、試着室のカーテンが開かれた。そこには白いノースリーブのブラウスに、花柄のクリームイエローのスカート姿の茉莉が立っていた。麦わら帽子とカゴバッグが映えそうだ。
「貴嶋くん、どう?」
「まあ、悪くねえんじゃねえの。――似合ってる」
もごもごとそう口にすると、陽生は視線をそらした。真正面から茉莉を見ると、余計な言葉まで零れそうだった。
「どうしても、可愛いって言ってくれないんだね。……でも、貴嶋くんにしては上出来かな?」
くすっと笑うと彼女はいたずらっぽくウィンクをした。その様は光る夏の海のように眩しく見えた。
着替えてくる、と茉莉は再び試着室のカーテンの向こう側へと姿を消した。陽生はその場にしゃがみ込むと、茉莉に翻弄され続けている自分に対して深々と溜息をつく。――それは反則だろ、と思いながら。
映画が終わると、十八時を回っていた。辺りが暗くなり始めていたこともあり、陽生は茉莉を送っていくことにした。――それが彼女のために、自分がぎりぎりしてやれることだったから。
「貴嶋くん、今日付き合ってくれてありがとね。楽しかった」
帰りの電車に揺られながら、茉莉は隣に立つ陽生へとそう言った。その楽しかった、は誰と比べてのものなのだろうと思うと、少し複雑だった。
ぶぶっとズボンのポケットの中でスマホが唸った。しかし、夕方の混雑した電車の中では、スマホを取り出すのは難しそうだった。
「今日、色々、わたしのわがままに付き合ってくれてありがとう。こんなに自分のしたいことが全部叶ったのは久しぶり」
「……そうか」
やけに晴々としたふうにそう口にする茉莉の横顔を見ながら、彼女は瑠音に普段どういうふうに接されているのだろうかと思った。もしかして、彼女は普段、自分の行きたいところにも行けず、したいこともできないようなデートしかできていないのではないだろうか。
(芦屋と佐倉の関係性が歪なものであったとしても、他人のおれが介入するべきことじゃない)
けれど、体育館裏で出会ったときのようなことが日常的に起きているのであれば、友達として看過できない気がした。友達が傷ついて泣いているのを見過ごしていられるような人間にはなりたくない。
「――次は新南雲台、新南雲台でございます」
電車内のアナウンスが茉莉の最寄りの駅名を告げた。降りる準備をするべく、陽生は網棚の上からアパレルショップのロゴが入った紙袋を下ろしてやる。
新南雲台駅の一番線に速度を落とした電車が入線し、やがて動きを止めた。ドアが開くと電車内の人波が動き始める。陽生は茉莉の手首を掴むと、彼女とともに電車を降りた。
そのまま、二人はホームの階段を降り、改札を抜ける。改札を出ると、陽生は茉莉の手首を離した。――そのぬくもりが離れていくのを、何故か少し名残惜しく感じながら。
陽生はここ何日かですっかり覚えてしまった道を茉莉とともに歩いた。何となくまだ今日を終わらせてしまいたくなくて、普段よりもゆっくりとした速度で、茉莉の家までの道を辿る。
「ねえ、貴嶋くん。――また、わたしと出掛けてくれる?」
「わざわざおれなんかとだなんて、お前も物好きだな。――まあ、おれでいいなら」
すると、茉莉の顔がぱっと花が咲いたように華やいだ。それくらいでこの笑顔が見られるなら安いものかもしれない。
茉莉の家が視界に入り始めたとき、二人の背に冷たく鋭い声が投げかけられた。黒のメッシュTシャツに同じ色のスキニージーンズ。耳のピアスと同じように、腰にはシルバーのチェーンがじゃらじゃらと幾重にも吊るされている。――瑠音だった。
「おい、茉莉。俺の許可もなく、どこほっつき歩いてやがった? そんな冴えねえ芋男といちゃつきやがってこの腐れビッチが」
「佐倉、お前、仮にも自分の彼女をそんなふうに――」
茉莉を庇おうと陽生が口を挟もうとすると、ふんと瑠音は鼻を鳴らす。そして、彼はこう吐き捨てた。
「外野はすっこんでろよ。クソが」
「なっ……!」
陽生が絶句していると、茉莉が間に割って入った。彼女はアスファルトの上に膝をつくと、額を地面に押し付ける。
「瑠音、わたしが悪いの! 瑠音を不快にさせるようなことをして、ごめんなさい……! この人は――貴嶋くんは何も悪くないの! だから、責めるならわたし一人を責めて……!」
貴嶋? 、と瑠音は眉間の皺を深くする。しかし、陽生の存在に心当たりがなかったのか、彼は小さく肩をすくめる。学年一目立つ男に対して、陽生はその他大勢の地味な非モテ男子だ。無理もない。
「誰だか知んねーけど、次はねえと思えよ。茉莉は俺のもんだ」
「そんな、自分の彼女をモノみたいに……!」
「貴嶋くん! 貴嶋くんは黙ってて! これはわたしと瑠音の問題だから……」
憤慨しかけた陽生を茉莉は鋭く制した。その叫ぶような、懇願するような声に、それ以上陽生は言葉を重ねることはできなかった。――自分がこれ以上口を挟めば、茉莉の首を絞めるだけだとわかったから。
「貴嶋だっけ? さっさと消えてくんない? 目障りなんだけど。俺、このビッチの躾しねーといけねえから忙しいんだよね」
瑠音の言葉に陽生は彼を睨みつけた。「貴嶋くん! いいから行って! 帰って!」茉莉の悲鳴のような声に背を押され、陽生は渋々ながらも踵を返した。
茉莉の家のそばを離れると、陽生はスマホを出した。すると、ロック画面に通知が一件表示されていた。
――新南雲台駅に着いた後、コンビニに寄れ。
それは未来の自分からのメッセージだった。きっと、それは瑠音から茉莉を守るために必要なことだった。
このメッセージに気づいていれば。陽生はきつく唇を噛む。
(未来のおれは、芦屋を佐倉から守ろうとしている……?)
初めて会ったときのこと。そして、今日のこと。点と点を繋ぎ合わせれば、ぼんやりとそんな像が浮かび上がってくる。
十年後の未来では彼女はどうなっているのだろうか。二十六歳の自分がここまで心を砕いているということは、彼女の未来はよいものではないのかもしれない。
友人として、茉莉があんな目にあっているのは見たくない。茉莉と瑠音の関係性は、端から見れば異常なものだ。――その異常性に茉莉が気づいていなさそうなのが問題だが。
(たぶん……おれがやるべきことは、芦屋を佐倉から引き離すことだ)
未来の自分の茉莉の関係性がどうなっているのかはわからなかったが、それだけは確信できた。茉莉のために何もできなかったことを情けなく思いながら、陽生は昼と夜のあわいに滲む空を睨んだ。
あの日、体育館裏で泣いている茉莉と出会ったのは、偶然だと陽生は思っていた。しかし、未来からのメッセージが届いたのはあの日の一度きりではなかった。
あの三日後に届いたメッセージの内容は「傘を持って、いつもより一本早い電車に乗れ」。すると、一日晴れ予報であったにもかかわらず、電車が学校の最寄り駅に着くころには空模様が怪しくなっていた。そして、陽生は改札口で泣き出した空に戸惑っていた茉莉に出会った。
更にその二日後には「午後十三時に市営図書館へ行け」、五日後には「昼休みの終わりに購買へ行け」というメッセージが未来の自分から届いた。指示された場所に行くと、やはりいつも茉莉がいた。
未来の自分からのメッセージと茉莉の存在。それは偶然の一致ではないと、陽生は思い始めていた。ならば、未来の自分は現在の自分に何をさせたいのか。陽生はそれを疑問に思うようになっていた。――茉莉に対して何かしろというシグナルなのだとしても、その理由がわからない。何しろ、彼女とは数週間前に高校に入学して、たまたま同じクラスになっただけの間柄なのだから。
「うーん……」
英語の教科書と睨み合いながら、陽生が難しい顔で唸っていると、どしたん、と朔也が声をかけてきた。彼は前の席の椅子に逆さまに座ると、陽生の手元を覗き込んでくる。
「陽生、入学早々もう躓いてんの? ゴールデンウィーク明けには中間あるのに、それはまずいだろ。あと、そこスペル間違ってる」
「そういうわけじゃねえんだけどさ……なあ、朔也、この後の昼メシ、外行かねえ?」
「別にいいけど、どうしたん? もしかして、教室で聞かれたくない話でもあんの?――たとえば、女の話とか」
「間違ってはねえかな……たぶん、思ってるのとは違う話だと思うけど」
ほほう、と面白がるように朔也は目元をにやけさせた。陽生は先ほどの授業で出された英語の課題を適当に切り上げると、教科書とノートを机の中にしまう。そして、机の脇に下げたリュックから弁当の包みを取り出し、陽生は席を立った。
「オレ、購買寄ってくー」
わかった、と頷くと陽生は朔也とともに教室を出た。教室からは女子たちが流行りのショート動画の話題で盛り上がっているのが聞こえてくる。
昼の購買は生徒でごった返していた。あちらこちらでパンの取り合いが勃発している。恫喝やら金切り声やらが聞こえてきて、柱に背を預けて様子を見守っていた陽生は小さく肩をすくめた。なんていうかうちの学校の購買は治安が悪い。
「買えた?」
「もっちろん。それじゃ外行くか」
メロンパンとチョココロネを手に戻ってきた朔也とともに、陽生は歩き出した。階段を降り、昇降口で上履きからローファーに履き替えると、二人は中庭へと出た。
二人は中庭で空いているベンチを見つけると、腰を下ろした。四月が終わりかけ、移ろいつつある季節の日差しが暖かかった。
「それで、陽生。女の話だって言ってたけど、何の話? ちなみにオレは天沢|《あまさわ》ちゃんが気になってる」
「朔也の恋愛事情はさておいて……ちょっと、これを見てくれ」
陽生はブレザーのポケットからスマホを取り出すと、メッセージアプリの画面を朔也へと見せた。うん? と怪訝そうに朔也の片眉が上がる。
「これは……陽生自身からのメッセージか? それも、どれも日付が十年後になってる」
ああ、と陽生は重々しく頷いた。ふうむ、と朔也は唸った。
「正直、名前だけならいくらでもなりすませるとオレは思う。……けど、送信日時が十年後っていうのはいくらなんでも妙だな。ちょっと嫌がらせや悪戯にしては手が込みすぎてる」
「おれもそう思ってる。そして、不思議なことはもう一つある。このメッセージの指示に従って行動すると、必ず、芦屋に出くわすんだ」
「芦屋って、うちのクラスの芦屋茉莉? 天沢ちゃんとよく一緒にいる」
「お前のいう天沢ちゃんとやらがどんな子だかいまいち知らねえけど、うちのクラスの芦屋だ」
そう言うと、陽生は弁当の卵焼きを頬張った。それをいいな、と朔也は覗き込む。
「その卵焼き、相変わらず手作りなんだろ? いいなー」
「卵焼きに限らず、弁当のおかずは全部おれの手作りだ。――それで、メッセージの件と芦屋の件、どう思う?」
「普通に考えたら、誰かがお前に芦屋に対して何かをさせたがってるってことなんだろうな。その誰がが誰なのかもわからないし、その背景にあるのが善意なのか悪意なのかもわからないけど」
悪意。その響きに背筋がぞわりとした。陽生は今まで、悪意を持った誰かの意思が介在している可能性を視野に入れていなかった。――もし、誰かが自分を使って茉莉を陥れようとしているのだとしたら。
(最初に体育館裏で会ったときのような……あんな顔は見たくねえな)
唐揚げを齧りながら、陽生はなんとなくそんなことを思った。彼氏との関係でただでさえ苦労の多そうな彼女には、せめてそれ以外のときには笑顔でいてほしいような気がした。
朔也はメロンパンを食べきると、陽生の弁当へと手を伸ばし、たこさんウインナーを指でつまんで掻っ攫って行った。「うめー」「おいこら朔也、お前」「相談料ってことで」これ以上、朔也におかずを取られないようにと、陽生はそそくさと弁当箱の中身を掻き込みはじめる。
桜を散らす風に乗って、予鈴が音を響かせ始める。二人は昼食を終えると、校舎へと戻っていった。
――放課後に音楽室へ行け。
そのメッセージが陽生のスマホに届いたのは六限の途中のことだった。六限の化学が終わると、教科書とノートを机の中に放り込み、陽生はそそくさと教室を後にした。教室に出る間際、ちらりと茉莉の姿を探したが、彼女は視界のどこにも見当たらなかった。
(そういえば、先生が化学の出席取ったとき、いなかったような気がするな)
具合でも悪いのだろうか。だったら、なぜ、メッセージの送り主――未来の自分――は保健室でなく、音楽室に自分を呼び出したのだろうか。
廊下を歩くうちに、遠くからうっすらとピアノの音が聞こえてきた。ぽろりぽろりと鳴る優しく柔らかい旋律に、この先に茉莉がいるような予感がした。
(なんだったかな、この曲……小学生のときに音楽の授業で聞かされた気がすんだけど)
陽生はそんなことを思いながら、廊下を奥へと向かって進んでいく。そして、廊下の突き当たりまでくると、彼は音楽室の扉へと手をかけた。キィ、と蝶番が軋み、扉が開く。
オレンジを帯びた光と共に室内に入り込んでくる、春の終わりの風。ビロードのカーテンが靡き、夕暮れの音楽室の床に影をゆらめかせる。
教室を満たす静謐が、ピアノの音色を際立たせている。壁に貼られた作曲家たちの肖像画が、ピアノを奏でる少女を見守っている。夕陽に照らされた彼女の横顔を綺麗だと、陽生はなんとなく思った。
陽生は音楽室の入り口の壁に背中を預け、鍵盤の上に指を滑らせる茉莉を眺めていた。――この曲は一体何だったかと、記憶の中を探りながら。
悲しみと懐かしさを感じさせる和音の余韻が二人きりの音楽室の中に溶けていく。茉莉は鍵盤から指を離すと、陽生へと視線を向けた。
「――貴嶋くん。また、会ったね」
「……おう。お前は六限サボりか、芦屋」
「そんなとこ」
「中間テスト前に余裕だな」
「だって、わたし、入学直後の実力テスト、クラストップだもん。一回くらい授業サボったからって、どうってことないよ」
優等生め、と陽生は毒づいた。ふふ、と茉莉は微笑むと、陽生へと水を向ける。
「それで、貴嶋くんは何でこんなところに来たの?」
えっと、と陽生は口ごもった。付き合いの長い朔也相手ならともかく、知り合って日の浅い茉莉に未来の自分からのメッセージについて、話す気にはなれなかった。
「ピアノの音がしたから、誰かいんのかなって思って。それでここに来たらお前がいた」
「――嘘だ」
茉莉の色素の薄い目がじっと陽生を見た。彼女の淡く色づいた唇の端がいたずらっぽく釣り上がる。
「貴嶋くん、わたしのストーカーだったりしない? 心羽が言ってたもの、友達でも何でもないのにいろんなところで度々出くわすのはおかしいって。――それで、本当のところはどうなの?」
「そんなんじゃねえし。むしろ、何でおれの行く先々にお前がいるのか、こっちが聞きてえくらいだよ」
ふうん、と茉莉の目が細められる。納得していなさそうな彼女の態度に、陽生は脳みそから無理やり言葉を捻り出した。
「友達でもないのに度々出くわすのがおかしいっていうなら、おれたち今から友達になればよくないか?」
「……貴嶋くん、モテないでしょ? 女子の口説き方が下手」
うるせえよ、と陽生は憮然として言い返す。そんな彼をよそに、茉莉はブレザーのポケットからスマホを取り出すと、椅子から立ち上がった。
「まあいいや。なろうよ、友達。――貴嶋くん、連絡先交換しよ」
茉莉はスマホを操作すると、メッセージアプリのQRコードを表示させる。陽生もポケットからスマホを引っ張り出すと、カメラアプリでQRコードを読み取った。
"まつり"という表示名のユーザが陽生のメッセージアプリの友達リストに追加される。陽生は彼女とのチャット画面を開くと、そっけなく、よろしくの四文字を打ち込んだ。ほどなくして、スマホが短く震え、よろしくと書かれた可愛らしいキャラクターのスタンプが送られてくる。
「そういや、さっき、何の曲弾いてたんだ?」
「あれはね、エリック・サティのジムノペディ第一番。貴嶋くん、知ってるの?」
「何となく聞き覚えはあったんだけど、曲名が思い出せなくて。サンキュ、すっきりしたわ」
「そう。……それはそうと、貴嶋くん、この後って暇だったりする?」
「まあ、帰るだけだから暇っちゃ暇だけど……」
「じゃあ、貴嶋くん、この後、駅前のカフェいかない? 新作出てるんだよね」
「そういうのはお前の友達の……天沢だっけ? あいつと行けよ。それか例の佐倉とかいうあの有名な彼氏と」
ええー、と茉莉は不服そうに頬を膨らませた。
「あのね、友達っていったら、帰りにカフェに行ったりするのが普通なの。心羽とも今度行くけど、わたしは今日は貴嶋くんと行きたい気分。――駄目?」
はあ、と陽生は嘆息した。上目遣いで小首を傾げてみせる茉莉の仕草は、おそらくそれが可愛いとわかっていてやっている計算されたものだ。不覚にもそれを可愛いと思ってしまった自分に対して、陽生は顔を覆いたくなった。
「少しだけだかんな……。っていうか、そういうの、彼氏以外の男の前でやんねーほうがいいんじゃねえのか」
ピュアな男子高校生の心を弄んでくる茉莉に陽生は苦言を呈する。しかし、彼女は意に介したふうもない。
(未来のおれは……芦屋と友達になるために、これまで何回もメッセージを送ってきていた?)
そんな疑問が陽生の脳裏を掠める。彼女に対して、親切に振る舞って。顔を合わせる頻度を増やすことで、単純接触効果を上げていって。
友達になることが単なるゴールだとはなんとなく思えない。「それじゃあ、吹奏楽部が放課後の練習に来ちゃう前に教室戻ろっか」踵を返す茉莉のハーフアップの髪が翻るのを見つめながら、ああ、と陽生は頷く。
音楽室を出ると、まるで水中から出てきた後のようにやけに鮮明に生徒たちの話し声が聴覚に飛び込んできた。未来の自分からのメッセージの意図について考え込む陽生の耳の奥では、先ほどのジムノペディの音色がまだ聞こえていた。
カフェからの帰り道。すっかり日は沈み、残照が空の果てに色づくのみとなっていた。
茉莉の主だった話題は二つ。高校に入ってから仲良くなったという天沢心羽のことと、幼馴染で彼氏の佐倉瑠音のことだ。前者は甘ったるい茶を飲みながらやり過ごしていたが、後者については内心、陽生は面白くなかった。そんなに彼氏のことが好きなら、他の男と茶なんて飲んでるなよ、と。
駅の改札を通り抜け、ホームに立つと夕方の風が電車とともに駆け抜けていった。次の電車は十分後だ。陽生は茉莉とともにベンチに腰を下ろす。
「貴嶋くんは、ゴールデンウィーク何して過ごすの?」
「勉強だよ。ゴールデンウィーク明けたら中間テストだろ」
「ふうん。どこかわからないところとかあるの?」
「まあまあ全体的に。朔也と同じ高校入ろうとして、偏差値的にちょっと背伸びしたところ入っちゃったから、そのツケが今回ってきてるところ」
「朔也って、氷上(ひかみ)くん? よく貴嶋くんといる、ちょっと軽そうな」
そう、とため息混じりに陽生は頷いた。すると、いいこと考えた、と茉莉は口元に笑みを乗せる。
「わたしが勉強教えてあげる。明日から、放課後図書室ね。うちの学校、ゴールデンウィークも図書室開放するらしいから、みっちりやろう」
「お手柔らかに頼む……。というか、お前自身の勉強はいいのか?」
「定期試験くらい、教科書に目を通しておけばわたしは余裕だよ? それに、誰かにものを教えるのって、相手の十倍理解していないとできないっていうから、わたしが貴嶋くんに勉強を教えるのはわたしの勉強にもなる」
「さいですか」
「それで、貴嶋くんは何がわからないの?」
「ええと――」
陽生は自分がだんだんと情けなくなりながらも、自分が勉強で詰まっているところを列挙していく。茉莉の笑顔がだんだんと呆れ顔に変わっていくのを陽生は直視できなかった。
「……失礼だけど、貴嶋くんってよくそれで入試通ったね」
「わからないところは全部鉛筆転がしてた……」
何それ古典的、と茉莉は吹き出した。彼女は笑いながら目元を指先で拭う。
「やだもう、ここ最近で一番笑った。とりあえず、聞いた感じだと貴嶋くんは基礎からしっかりやり直した方が良さそうだね。今やってる部分って、中学の内容とかぶってるところもあるし。重くなければ、中学の教科書も持ってきてもらってもいい? そっちのほうが詳しい解説書いてあると思うよ」
「了解。明日は何の科目やる?」
そうだなあ、と茉莉は口元に手をやり、しばし逡巡する。その横顔をぼんやりと眺めていた陽生は、はっと我にかえると視線を逸らす。人の顔をじろじろ見るなど失礼だ。特に相手が女子ならば。
「どうしたの? 貴嶋くん、もしかしてわたしまだクリームついてた?」
「いや、そんなことはない。目と鼻と口以外特に何もついてない」
「何それ、貴嶋くんって面白いね。――それはそうと、明日は数学にしよう」
「わかった。何年のときの教科書持ってきたらいい?」
「中三のときので」
陽生は頷いた。そのとき、ホームにピンポンパンポンと短いメロディが鳴り響いた。二番線に下り列車が来る旨のアナウンスが録音された男性の声で告げられる。
「それじゃあ、帰るか。そういや、お前、家どこ? おれんちは南雲野(なぐもの)が最寄りなんだけど、前に市営図書館で会ったってことは結構近所?」
「わたしは新南雲台(しんなぐもだい)だから一駅先かな」
南雲野と新南雲台は電車で二、三分の距離だ。少し寄り道をしたところで、十九時半には家に着くだろう。
「もう遅いし、送っていってやるよ」
「大丈夫だよ。一人で帰れるよ」
「さっき、帰りのHRで変質者が相次いでるって言ってただろ。もう暗いのに、女子ひとりで帰せるか」
「じゃあ……お言葉に甘えようかな。でも、わたしを送っていったら貴嶋くんが遠回りにならない?」
「どうせ、おれんちは国道挟んでどっちかっていうと南雲野が近い、くらいのところだからな。大した遠回りじゃねえよ」
「ありがと。……ところで、貴嶋くんは相手が女子だったら、わたし以外にもそんなことをするの? たとえば、心羽とか」
「さあな。……っていうか、お前以外に女子の友達いないからわかんねえ」
春宵の空気を裂いて、電車がホームに滑り込んできた。行くぞ、と茉莉を促すと、陽生はベンチから立ち上がる。
プシューっと、ドアが開くと、電車の中から人が吐き出される。仕事帰りの人々と入れ替わるようにして、陽生たちと同じ制服の学生たちが電車へと乗り込んだ。
ドアが閉まると、列車は揺れを伴いながら、ベッドタウンのほうへと走り始めた。窓の外では、この地に暮らす人々の営みが明かりを灯していた。
陽生はドアの脇にリュックごと背中を預けると、腕を組んだ。視界では脱毛サロンの広告がちらちらと空調で揺れている。
茉莉の最寄り駅までは五駅。その十五分間が、時空が歪んでもう少しだけ長くなればいいのに、と陽生はなんとはなしに思った。
「ああもう、貴嶋くん、そこはそうじゃないでしょ! ここはこっちの公式を使うんだよ」
翌日の放課後、陽生は茉莉に勉強を見てもらっていた。教科書の例題にすら苦戦する陽生は、ことごとく茉莉に指摘を食らっていた。
「ほら、よく見て。ここをこの数字で括った後に、この公式を当てはめれば、綺麗に因数分解できるでしょ」
「あっ……マジだ。ところでさっきから、お前は何をしてるんだ?」
「これは貴嶋くん用の英語の単語帳。英単語とか文法とかいろいろ書いてる」
「あっ……ありがとう」
「どういたしまして。だけど、お礼はテストの結果で返してよね。――あっ、そこまた間違ってるよ」
「あれ、ここはさっきの公式じゃ解けねえの?」
ここはね、と茉莉は自分のバッグから数学の教科書を取り出した。そして、パラパラとページをめくると、そこに記された公式を指で示してみせた。
「似てるけど、ここはエックスが三乗になってるでしょ? だから、ここはこの前授業で習ったこの公式を使うのが正解」
むっず、と陽生は眉根に皺を寄せた。そのとき、ぶーんとスマホのバイブレーションが唸った。陽生はブレザーのポケットからスマホを出すと、通知を確認する。
――芦屋を連れて、三階の自販機へ行け。十五分経つまで図書室には戻るな。
陽生は目を瞬いた。これまで幾度となくメッセージが送られてきていたが、こんなにはっきりと茉莉のことを言及されたのは初めてだ。
「どうしたの、貴嶋くん。氷上くんから? ――とはいえ、勉強中は余所見厳禁だよ」
「まあそんなとこなんだけど……なあ、ちょっと喉渇かねえ? おれ奢るから自販機行こうぜ」
仕方ないなあ、と茉莉は席を立つ。陽生もパイプ椅子を軋ませて立ち上がると、荷物と勉強道具をそのままにその場を後にした。
「貴嶋くん、どこ行くの? 自販機なんて、そこの体育館前のやつで充分じゃあ……」
「この学校、各階でラインナップ微妙に違うんだよ」
そう嘯くと、陽生は茉莉を連れて階段を上がっていく。二階、三階。何かが陽生をせき立てていた。――何となく、あのメッセージに従わなければ、悪いことが起きるような気がして。
三階の廊下の隅に赤い自販機が鎮座していた。陽生は適当に目についたメロンソーダ緑茶なるものをスマホのQR決済で購入すると「芦屋、何がいい?」茉莉にそう聞いた。
「えーと、わたしはミルクティーで。……貴嶋くん、よくそれチャレンジする気になったね……。わたし、よそでそんな変な飲み物見たことない」
「おれもねえな」
陽生は茉莉の分のミルクティーを買う。ゴトン、と商品取り出し口に落ちてきたペットボトルを彼は茉莉へと渡してやった。「ありがと、貴嶋くん。ご馳走になるね」二人は手に持ったペットボトルの蓋を開ける。
「……」
口の中でぱちぱちと弾ける緑茶に陽生は思わず顔を顰めた。しかも、緑茶と銘打っておきながら、後味はどこか人工物めいた酸味がある。陽生の様子に、ミルクティーを飲んでいた茉莉はくすくすと笑う。
「貴嶋くん、やっぱりそれ美味しくないんでしょ。どんな味なの? 一口ちょうだい」
「ん、ああ……」
陽生はねだられるままにメロンソーダ緑茶のペットボトルを茉莉に渡す。彼女はなんてことのない顔で、陽生が口をつけた後のペットボトルに自分の唇を触れさせる。
「わあ……これは、随分と味がぐちゃぐちゃしてるね。メロンソーダなのか緑茶なのかはっきりしろーって感じ」
茉莉は感想を述べながら、陽生にペットボトルを返した。そして、陽生は再びペットボトルを傾けようとして、固まった。
「……お前が口つけた後のやつをどうやって飲めと?」
自分の声がわずかに裏返ったのを、陽生は誤魔化すように咳払いした。ペットボトルの口に残る色付きリップクリームの跡が妙に艶かしく見えた。
「普通に飲めばいいでしょ? 友達同士の回し飲みなんて普通にやるじゃない」
意に介したふうのない茉莉の言葉に陽生は深々と溜息をついた。女子との間接キスなど、恋愛経験のない自分が意識せずにいるのは無理だ。むしろ何で茉莉は気にならないんだ。彼氏がいるからか。
「お前は頭いいんだから、恋愛経験ゼロのいたいけな青少年の心情をちょっとは考えてくれ……」
「貴嶋くんはお子様だなあ。そんなんじゃ、ファーストキスなんかもまだなんでしょ?」
「わりぃかよ……どうせおれはモテねえよ……」
「じゃあ――わたしでファーストキスの練習してみる?」
へ、と間の抜けた声が陽生の喉の奥から漏れた。悪戯っぽい光を宿した茉莉の目が自分の顔を見上げてくる。彼女は息がかかるほどに自分の顔を近づけてくると――ふっ、と破顔した。
「なあんてね。貴嶋くん、ちょっと期待してたでしょ?」
「お前なあ……そうやって男からかってるといつか痛い目見るぞ。というか、自分をそうやって安売りすんなよ」
はあい、と少し不服そうに頬を膨らませてみせながら、茉莉はその場でくるりと一回転してみせた。チェックのスカートが翻る。スカートの裾から覗く脚を見ないように、陽生は目を逸らすと、やけくそのようにメロンソーダ緑茶を一気に飲み干した。――ペットボトルの口に残った、茉莉の色付きリップクリームの淡いサーモンピンクをなるべく意識しないようにしながら。
「……っと、そろそろ戻るか」
空になったペットボトルを自販機横のゴミ箱に投げ捨てると、陽生はそう言った。スマホをちらりと見ると、あのメッセージを受信してから十五分以上が経過している。未来の自分は、茉莉を一体何から遠ざけたかったのか知らないが、もう図書室に戻っても大丈夫だろう。
うん、と頷くと、飲みかけのペットボトルを手にしたまま、茉莉は踵を返した。陽生は頭ひとつ分低いその背中を追いかけて、階段を降りていった。
「なっ……」
図書室に戻ると、茉莉の荷物が荒らされていて、陽生は絶句した。自分の荷物は荒らされた形跡もなく、そのままにされていた。おそらく未来の自分はこれをやった人物と茉莉を出会わせたくなかったのだろうと陽生は悟る。
「あーあ……」
茉莉は自分の荷物の惨状を見ながら苦笑した。雑に破られたノートが辺りに散乱している。彼女が財布の中を確認すると、千円札が何枚か抜き取られていた。――しかし、これもいつものことだ。慣れている。
「芦屋……お前、もしかして誰かにいじめられてんのか?」
そんなんじゃないよ、と茉莉は否定する。しかし、陽生はその言葉に説得力が感じられなかった。
「けど、そんな嫌がらせされてるのって、普通じゃねえだろ。自分で言いたくねえって言うなら、おれから先生に――」
「そんなんじゃないって言ってるでしょ!」
不意に茉莉が大声を上げた。耳を劈くその声に、陽生は何も言えなかった。――茉莉のその言葉は、まるで彼女自身にそう言い聞かせているようで。
周囲の注意が自分に向いたことに気がついた茉莉ははっとしたような顔をした。そして、彼女は小声でこう言った。――その顔はどこか悲しそうに陽生の目には映った。
「わたしが悪いの。こんなところに場所取りみたいに荷物置きっぱなしにしたのもよくなかったし……荒らされたりとかしたって文句は言えないよ」
「それは……」
陽生が二の句を継げずにいるうちに、茉莉は破られたノートをかき集めてバッグへとしまっていく。そそくさと帰り支度を済ますと、彼女は陽生にこう言った。
「勉強教えるって約束だったのにごめんね。わたし、今日はもう帰るね。今日教えたところ、ちゃんと復習しておいて」
そう言い置くと、彼女は陽生に背を向けた。今、彼女を一人にしたくない気がするのに、陽生はその背中を追いかけることができなかった。――今の彼女に、何て言葉をかけてあげればいいのかわからなくて。
どうしてあげるのが正解だったんだろう。その日の晩、夕飯を済ませた後の陽生はベッドに横になりながら、図書室での一件に思いを馳せていた。
茉莉の見せたあの表情。あれは決して大丈夫といっていいものではなかったように思う。
せめて、彼女を気遣う言葉をかけてあげたいと、陽生はずっとメッセージアプリのチャット画面を開いたり閉じたりしていた。何を言ってもきっと、茉莉は「ありがとう。大丈夫」としか言わないだろう。それを言わせるために、何か言葉をかけるのは偽善でしかないような気がしていた。
ふいにスマホがぶうんと唸った。ちょうど茉莉とのチャット画面を開いていたせいで、すぐに既読がついてしまう。なんだかこれでは茉莉からの連絡を待ち構えていたみたいでバツが悪い。
「貴嶋くん、ちゃんと勉強してる? ゴールデンウィークなんだけどさ、一日くらい息抜きにどこか遊びに行かない?」
何も気にしていなさそうな茉莉の言葉に陽生は拍子抜けした。彼女の言葉からは図書室で大声を上げたときのことなど、微塵も感じられなかった。
「別にいいけど……どこ行くんだ? っていうか、天沢とか佐倉じゃなくて、何でおれ?」
「心羽とは別の日に遊ぶからいいの。瑠音は大体毎日うちに出入りしてるから、しょっちゅう顔合わせるし。というか、貴嶋くんだって、わたしの友達でしょ? 遊ぶのがわたしじゃ不満?」
「そんなことはねえけど……佐倉が気を悪くしねえか?」
「瑠音だって、ガールズバンドの子たちとよく遊びに行ってるし、そこはお互い様でしょ。わたしだって、友達と自由に遊ぶくらいの権利はあるよ」
「ああそう……それで、どっか行きたいところとかあるのか?」
すると、茉莉からチャットで何かのリンクが送られてきた。指先でリンクをタップすると、先週末に封切られたばかりの映画のサイトが開かれた。
「これ、観に行きたいって思ってたの! 泣けるって噂だし!」
サイトのあらすじを読んだだけでも砂糖を吐きそうなくらい甘ったるいラブストーリーのようだが、茉莉が行きたいというなら付き合うほかない。それが今日何もできなかった自分ができる、唯一の贖罪であるような気がした。了解、と陽生の指がスマホの液晶の上を滑る。
「何日の何時の回にするんだ? おれのほうで予約取るよ」
「じゃあ、四日の十五時半の回で! 早めに集合して、映画の時間まで、ご飯食べたりショッピングしたりしよ」
わかった、と打ってしまってから、陽生は固まった。それは最早デートではないだろうか。物心ついてから、母親以外の女性と出かけた覚えなんて全くない。
(え、おれ、まともな服とか持ってたっけ)
陽生はベッドの上にスマホを放り投げると、部屋の隅に積まれた衣装ケースの引き出しを開ける。母親が買ってきた謎の英字ロゴのTシャツ。袖が伸びてよれたパーカー。履き古したチノパン。衣装ケースから出てくるのはそんな服ばかりだ。
陽生はベッドの上に放り投げたままだったスマホを拾い上げると、朔也へと電話をかけた。ツーコールの後に、不審げな様子の朔也が電話に出る。
「何、陽生。いきなり電話とか……」
「朔也! 頼む! 明日買い物付き合ってくれ!」
「……はあ?」
「おれにそこそこイケてる服を見繕ってくれ!」
陽生は電話口で思わず叫んだ。うるさい、という母親の声が階下から聞こえてきた。なるほど、と朔也が得心したように言う。
「芦屋関連か……お前ら付き合ってんの?」
「いや、芦屋とは普通に友達だけど、何か四日に出かけることになった! まともな服がないからどうにかしてくれ!」
「へいへい……ただ、交換条件としてひとつ。オレに天沢ちゃん紹介しろよ」
「紹介って、おれは天沢のことなんてよく知らねえぞ?」
「天沢ちゃん、芦屋と仲いいだろ。芦屋経由で紹介してもらってよ」
「芦屋がいいって言ったらな」
よっしゃ、と電話の向こう側で朔也の声が弾む。やれやれと肩をすくめると、陽生は朔也と待ち合わせ時間の相談を始めた。
陽生は改札の前で、茉莉が来るのをそわそわとしながら待ち合わせ時間の一時間前から待っていた。駅ビルのショーウィンドウのガラスに映り込む自分の姿を見ては、どこかおかしなところはないかと髪をいじくり回してばかりいる。端から見たら完全なるナルシシストだ。
ライトグレーの無地のクルーネックのTシャツ。薄手のブラックのカーディガン。黒のテーパードチノに無地のローテクスニーカー。先日一緒に買い物に行った親友の朔也によって、今日の陽生はぎりぎり茉莉と歩ける程度にはアップグレードさせられていた。持つべきものは友だ。
もっとイケイケなコーデも組めると朔也は豪語していたが、敢えて陽生はこのはしゃぎすぎていないラインで留めてもらっていた。”友達”と出かけるのに気合いを入れすぎていては、何だか茉莉のことを意識しているようで気恥ずかしかった。
電車がついたのか、改札を抜ける人の数が一気に膨れ上がった。スマホの時計を確認すると、待ち合わせ時間の十分前を指している。
陽生がショーウィンドウ相手に身だしなみの最終確認をしていると、ふいに聞き慣れた声が彼のことを呼んだ。みっともないところを見られた気がしてぎょっとしながら、背後を振り返ると、茉莉がそこに立っていた。
スカートのプリーツが美しい、淡いミントグリーンのワンピース。ウエストを細い茶のベルトがぐるりと囲み、その細い腰を際立たせていた。ワンピースの上から羽織った七分丈のレースのカーディガンは白で、足元も同じ色のストラップパンプスだ。香水によるものなのか、シトラスのいい匂いがふわりと彼女から漂っている。この季節に住まう妖精のような愛らしさに、陽生は思わず息を呑む。
「貴嶋くん、今日暑いね。いつ来たの?」
「えっと、一本前の電車で」
陽生の舌はたどたどしく嘘をつく。本当のことを茉莉に知られるのは何だか格好がつかない気がした。ふうん、と疑うように茉莉は目を細める。
「それじゃあ、貴嶋くん。行こっか。ちょっと早いけどお昼にしちゃおう」
「おう、どっか行きたい店とかあんのか?」
「ネットで見たパニーニの専門店気になってたの! そこ行こうかと思ってて……いいかな?」
「別にいいけど……パニーニってなんだ?」
「サンドウィッチみたいなやつ! 見た目よりもお腹膨れるから、男子でも満足できるはずだよ」
そんなことを言いながら、二人は歩き出した。陽生は茉莉のヒールの生えた足元にちらりと視線を落とすと、歩く速度をほんの少しだけ落とした。――その変化に気づかれないように、いつもと同じ歩幅を装いながら。
陽生はパニーニを食べ切ると、紙ナプキンで口元の照り焼きソースを拭った。茉莉の言っていた通り、見た目に反して意外とボリュームがある。
目の前に座る茉莉はグレープフルーツとキウイが沈んだティーソーダなるものを機嫌良さげに啜っていた。今日の茉莉はうっすらとメイクをしているようで、陽生は彼女を直視できないでいた。――ともすれば、丁寧にマスカラを塗られた長い睫毛も、瞼を彩るシャンパンベージュのアイシャドウも、まるで陽生自身のためであるかのように錯覚してしまいそうで。
どうしたの、とストローから唇を離すと茉莉は小首を傾げてそう問うた。その仕草がいちいち可愛らしくて、恋愛耐性のない陽生は悶絶してしまいそうになる。――茉莉は他人の彼女だと理解しているのに。
「べ、別に……それよりさ、一個頼みがあんだけど。おれのってわけじゃねえんだけどさ……」
「なあに?」
「芦屋も朔也って知ってるだろ? 氷上朔也」
「貴嶋くんの友達だよね。よく一緒にいる。氷上くんがどうかしたの?」
「朔也が天沢を紹介してほしいってうるせえんだよ」
「心羽を氷上くんにねえ……」
茉莉は逡巡した様子を見せる。一見軽そうに見える朔也に友人を紹介していいか迷っているのだろう。そう察した陽生は朔也のための援護射撃を試みる。そのくらいの借りはある。
「ちょっと軽そうに見えるけど、別に悪い奴じゃねえよ。十年来の付き合いのおれが保証する。何やかんやで友達思いだし、おれも何かとあいつには世話になってる」
ふうん、と茉莉は長いスプーンでグラスの中からキウイを掬い出した。フレッシュな味わいのそれを思いとともに咀嚼すると、彼女はこう言った。
「いいよ。氷上くんが心羽のこと、泣かしたりしないなら」
――泣かしたりしないなら。
その何気ない一言が陽生の胸にはやけに重く響いた。きっと、茉莉が瑠音に泣かされたのは体育館裏で出会ったあのときだけじゃない。だからこそ、出た言葉なのだろうと思った。――せめて、友人には幸せな恋愛をしてほしくて。
「……わかった。朔也にそう伝えとく」
うん、と茉莉は頷く。彼女の目には羨望と諦観が入り混ざって浮かんでいた。その目を見ていられなくて、陽生は咄嗟に話題を逸らした。
「それより、それ飲んだらさっさと行くぞ。何か、買い物したいんだろ?」
「うん、夏物見たいなって思ってて。ゴールデンウィークだからセールもやってるしね」
「もう夏物か? まだ五月だぞ」
「そんなこと言うけど、今日真夏日だよ。さすがに春物じゃそろそろ暑いよ」
茉莉がティーソーダの中のフルーツと格闘しているのを視界の端に捉えながら、陽生はズボンのポケットからスマホを取り出した。そして、メッセージアプリを立ち上げると、先ほどの茉莉の言葉を朔也へと送った。――自分は、茉莉が泣かないで済むために、何ができるのだろうと思いながら。
「ねえ、貴嶋くん。これとこれ、どっちがいいと思う?」
向日葵を思わせる大判の花柄が施されたクリームイエローのスカート。細かな銀の刺繍が刻まれた白いレースのスカート。その二つを手にもった茉莉にそう問われ、陽生はうーんと唸った。この場合、なんて答えるのが正解なんだろうか。
「えーと、どっちもいいんじゃないか……?」
「もう、貴嶋くんってばさっきからそればっかりじゃない!」
それに、と不服そうに茉莉は陽生を見る。
「わたし、まだ今日、一回も貴嶋くんに可愛いって言ってもらえてないんだよねえ。こういう感じ、貴嶋くんの好みじゃない?」
「いや、そういうんじゃねえけど……けど、おれがそういうのを言うのは何か違うんじゃねえか? そういうのは天沢か佐倉にでも言ってもらえよ」
「ええー、わたしは貴嶋くんに言ってもらいたいのに」
そう言って頬を膨らませると、茉莉は試着室へと消えていった。茉莉が着替えるのを待っていると、女性の店員がにこやかに話しかけてきた。
「今日はデートですか? 可愛らしい彼女さんですね」
「いや、そういうんじゃ……あいつはただの友達ですし」
友達。その言葉をしっかりと陽生は自分に言い聞かせる。こんなごっこ遊びのようなやりとりは、自分が知らないだけで、きっと世の中には溢れかえっているものなのだ。
シャラリと音が響き、試着室のカーテンが開かれた。そこには白いノースリーブのブラウスに、花柄のクリームイエローのスカート姿の茉莉が立っていた。麦わら帽子とカゴバッグが映えそうだ。
「貴嶋くん、どう?」
「まあ、悪くねえんじゃねえの。――似合ってる」
もごもごとそう口にすると、陽生は視線をそらした。真正面から茉莉を見ると、余計な言葉まで零れそうだった。
「どうしても、可愛いって言ってくれないんだね。……でも、貴嶋くんにしては上出来かな?」
くすっと笑うと彼女はいたずらっぽくウィンクをした。その様は光る夏の海のように眩しく見えた。
着替えてくる、と茉莉は再び試着室のカーテンの向こう側へと姿を消した。陽生はその場にしゃがみ込むと、茉莉に翻弄され続けている自分に対して深々と溜息をつく。――それは反則だろ、と思いながら。
映画が終わると、十八時を回っていた。辺りが暗くなり始めていたこともあり、陽生は茉莉を送っていくことにした。――それが彼女のために、自分がぎりぎりしてやれることだったから。
「貴嶋くん、今日付き合ってくれてありがとね。楽しかった」
帰りの電車に揺られながら、茉莉は隣に立つ陽生へとそう言った。その楽しかった、は誰と比べてのものなのだろうと思うと、少し複雑だった。
ぶぶっとズボンのポケットの中でスマホが唸った。しかし、夕方の混雑した電車の中では、スマホを取り出すのは難しそうだった。
「今日、色々、わたしのわがままに付き合ってくれてありがとう。こんなに自分のしたいことが全部叶ったのは久しぶり」
「……そうか」
やけに晴々としたふうにそう口にする茉莉の横顔を見ながら、彼女は瑠音に普段どういうふうに接されているのだろうかと思った。もしかして、彼女は普段、自分の行きたいところにも行けず、したいこともできないようなデートしかできていないのではないだろうか。
(芦屋と佐倉の関係性が歪なものであったとしても、他人のおれが介入するべきことじゃない)
けれど、体育館裏で出会ったときのようなことが日常的に起きているのであれば、友達として看過できない気がした。友達が傷ついて泣いているのを見過ごしていられるような人間にはなりたくない。
「――次は新南雲台、新南雲台でございます」
電車内のアナウンスが茉莉の最寄りの駅名を告げた。降りる準備をするべく、陽生は網棚の上からアパレルショップのロゴが入った紙袋を下ろしてやる。
新南雲台駅の一番線に速度を落とした電車が入線し、やがて動きを止めた。ドアが開くと電車内の人波が動き始める。陽生は茉莉の手首を掴むと、彼女とともに電車を降りた。
そのまま、二人はホームの階段を降り、改札を抜ける。改札を出ると、陽生は茉莉の手首を離した。――そのぬくもりが離れていくのを、何故か少し名残惜しく感じながら。
陽生はここ何日かですっかり覚えてしまった道を茉莉とともに歩いた。何となくまだ今日を終わらせてしまいたくなくて、普段よりもゆっくりとした速度で、茉莉の家までの道を辿る。
「ねえ、貴嶋くん。――また、わたしと出掛けてくれる?」
「わざわざおれなんかとだなんて、お前も物好きだな。――まあ、おれでいいなら」
すると、茉莉の顔がぱっと花が咲いたように華やいだ。それくらいでこの笑顔が見られるなら安いものかもしれない。
茉莉の家が視界に入り始めたとき、二人の背に冷たく鋭い声が投げかけられた。黒のメッシュTシャツに同じ色のスキニージーンズ。耳のピアスと同じように、腰にはシルバーのチェーンがじゃらじゃらと幾重にも吊るされている。――瑠音だった。
「おい、茉莉。俺の許可もなく、どこほっつき歩いてやがった? そんな冴えねえ芋男といちゃつきやがってこの腐れビッチが」
「佐倉、お前、仮にも自分の彼女をそんなふうに――」
茉莉を庇おうと陽生が口を挟もうとすると、ふんと瑠音は鼻を鳴らす。そして、彼はこう吐き捨てた。
「外野はすっこんでろよ。クソが」
「なっ……!」
陽生が絶句していると、茉莉が間に割って入った。彼女はアスファルトの上に膝をつくと、額を地面に押し付ける。
「瑠音、わたしが悪いの! 瑠音を不快にさせるようなことをして、ごめんなさい……! この人は――貴嶋くんは何も悪くないの! だから、責めるならわたし一人を責めて……!」
貴嶋? 、と瑠音は眉間の皺を深くする。しかし、陽生の存在に心当たりがなかったのか、彼は小さく肩をすくめる。学年一目立つ男に対して、陽生はその他大勢の地味な非モテ男子だ。無理もない。
「誰だか知んねーけど、次はねえと思えよ。茉莉は俺のもんだ」
「そんな、自分の彼女をモノみたいに……!」
「貴嶋くん! 貴嶋くんは黙ってて! これはわたしと瑠音の問題だから……」
憤慨しかけた陽生を茉莉は鋭く制した。その叫ぶような、懇願するような声に、それ以上陽生は言葉を重ねることはできなかった。――自分がこれ以上口を挟めば、茉莉の首を絞めるだけだとわかったから。
「貴嶋だっけ? さっさと消えてくんない? 目障りなんだけど。俺、このビッチの躾しねーといけねえから忙しいんだよね」
瑠音の言葉に陽生は彼を睨みつけた。「貴嶋くん! いいから行って! 帰って!」茉莉の悲鳴のような声に背を押され、陽生は渋々ながらも踵を返した。
茉莉の家のそばを離れると、陽生はスマホを出した。すると、ロック画面に通知が一件表示されていた。
――新南雲台駅に着いた後、コンビニに寄れ。
それは未来の自分からのメッセージだった。きっと、それは瑠音から茉莉を守るために必要なことだった。
このメッセージに気づいていれば。陽生はきつく唇を噛む。
(未来のおれは、芦屋を佐倉から守ろうとしている……?)
初めて会ったときのこと。そして、今日のこと。点と点を繋ぎ合わせれば、ぼんやりとそんな像が浮かび上がってくる。
十年後の未来では彼女はどうなっているのだろうか。二十六歳の自分がここまで心を砕いているということは、彼女の未来はよいものではないのかもしれない。
友人として、茉莉があんな目にあっているのは見たくない。茉莉と瑠音の関係性は、端から見れば異常なものだ。――その異常性に茉莉が気づいていなさそうなのが問題だが。
(たぶん……おれがやるべきことは、芦屋を佐倉から引き離すことだ)
未来の自分の茉莉の関係性がどうなっているのかはわからなかったが、それだけは確信できた。茉莉のために何もできなかったことを情けなく思いながら、陽生は昼と夜のあわいに滲む空を睨んだ。



