未来を変える恋、はじめます。

「ふぁぁ……」
 昼休み明けの暖かい日差しに陽生(はるき)は欠伸を噛み殺した。教壇では黒板の前で頭の薄い男性教師が、公式の使い方についての解説をしているが、耳から耳へと声が素通りして、まるで頭に入ってこない。春の心地よい陽気に誘われて、だんだんと瞼が重たくなってくる。
 うと、うと、と陽生が船を漕ぎ始めたとき、窓から入り込んできた風が頬を撫でた。次の季節に移り変わる前の花風は、まだほんの少しだけ冷たさを帯びている。
(っと、危ねえ)
 板書は途中までしか取れていないというのに、いつの間にか黒板に書かれた内容は別なものへと変わっている。あとで朔也に頼んでノートを見せてもらった方が良さそうだ。代わりにジュースの一本くらいは奢らされそうではあるが。
 机の上に転がったシャーペンを握り直すと、陽生は眠い目を擦りながら、黒板に書かれた内容をノートへと写しとりはじめる。ノートの上にはつい十分くらい前の自分が眠気に抗おうとした形跡がぐにゃぐゃとミミズがのたくったような文字として残されていた。
 のろのろと陽生が例題の解説をノートに記し始めたとき、ネイビーのブレザーのポケットの中でスマホが震えた。なんだろう。教師の注意がこちらに向いていないことを確かめると、陽生はスマホをポケットから引っ張り出し、スポーツブランドのロゴが型押しされたカーキのPUレザーのカバーを開く。
 放課後、体育館裏へ行け。ロック画面の通知にはそう表示されていた。
(一体誰からだ……?)
 陽生は机の下で惰性でスマホの画面に指を滑らせ、画面のロックを解除する。そして、メッセージの差出人の名前を確認して――陽生は思わず目を瞠った。ごくりと喉が鳴った。
 貴嶋陽生(きじまはるき)。差出人の表示名にはそうあった。それは陽生のフルネームと同じである。貴嶋という名字は全国を探しても珍しいほうだ。この名字にこの名前の組み合わせなど、この世に自分しかいないのではないかと思う。
(あ……れ?)
 メッセージの送信日時に違和感を覚えて、陽生は目を瞬いた。二〇三五年四月十五日、十四時二分。この日時を信じるならば、このメッセージはきっかり十年後の自分から送られてきたことになる。
 一体どんなタチの悪い冗談だろうか。もしかして、スマホがウイルスに感染でもしてしまったのだろうか。そういえば、昨夜、SNSを見ているときに妙な広告を踏んでしまったような覚えがある。
 朔也(さくや)に相談してみようか。しかし、うっかりしてエロ広告を踏んでしまったなど、いじられる未来しか見えない。
「――ま、貴嶋!」
 うーんと陽生が唸っていると、目の前で教師が自分の顔を覗き込んでいた。「うわっ」思わずのけぞると同時に、手の中のスマホが床の上に放り出される。教師は陽生のスマホを拾い上げると、彼へとこう言った。
「貴嶋、前に出て問四を解け。それと、授業中のスマホは禁止だ。預かっておくから、放課後に職員室に取りに来なさい」
「はーい……」
 陽生は返事をすると、教科書を手にのろのろと立ち上がった。彼が黒板の前に立つと、壁際の席の女子二人がくすくすと笑う声が聞こえた。げんなりとした気分になりながら、陽生は白いチョークを手に取ると、教科書に書かれた公式を使いながら、解答を黒板に書き殴り始めた。

 午後四時八分。職員室を出ると、陽生は溜息をついた。自分も悪かったとはいえ、入学早々に教師から説教など、とんだ目にあった。
 教室に戻ると、クラスメイトはほとんど部活に行ってしまったか、下校してしまったかした後だった。陽生は机の横に下げていたリュックを背負うと、まだなんとなくよそよそしい感じがする教室を後にする。窓辺から入り込む日差しは夕方の気配を纏い始めていた。
 陽生は廊下を抜け、階段を降りていく。ぺたぺたと真新しい上履きの靴音が響いた。グラウンドからは部活動に精を出す運動部の声が聞こえていた。どこからか、吹奏楽部の楽器の音や合唱部の歌声がうっすらと聞こえてくる。
 昇降口前の壁には新入生に向けた部員募集のポスターがこれでもかというくらいに貼られている。陽生はそれに一瞥をくれると、自分の下駄箱を開ける。すのこの上で上履きを脱いでローファーに履き替えると、下駄箱を閉め、陽生は昇降口を出た。
(そういえば、体育館裏だったっけ……)
 ふいに五限目の途中に受信したメッセージのことが思い出された。未来の自分からの呼び出しだなんて馬鹿らしい。そう思うものの、一抹の好奇心を覚えないでいられない自分がいた。
(行くだけ……行ってみるか? 誰かからの嫌がらせにしては、手が込みすぎてるし……)
 未来の自分からを装ったメッセージを送信するなど、その辺りの高校生にそうそうできることではない。陽生は校門へと向けていたローファーの爪先を体育館の方角へと向け直した。
 体育館からはボールが奏でる重低音が聞こえてくる。植え込みのツツジの間を横切って、体育館裏へと回り込もうとしたとき、陽生は一人の男子生徒とすれ違った。
(あれ、あいつ、確かC組の……)
 金髪のロングヘア。ジャラジャラと鳴る耳のピアス。制服のシャツはズボンからルーズに出され、ネクタイも最大限まで緩められている。影のようにその背中を追いかけていくムスクの香水の残り香。
 彼は何から何まで校則を破っていることで今年の新入生の間で噂になっている男だった。確か、佐倉(さくら)とかいったはずだ。
 体育館裏の芝生へと足を踏み入れると、一人の女子生徒がそこにいた。夕陽を受けて目元で水の珠がきらりと光る。陽生はその女子生徒に何だか見覚えがあるような気がした。
(……あ)
 ハーフアップにした髪。色素の薄い二重の双眸。色付きリップクリームのコーラルピンクが薄い唇をほのかに染めている。
 彼女は五限の数学の授業のときに陽生のことを笑っていた女子生徒の一人だった。壁際の席ということは、出席番号が若いはずだ。陽生はうろ覚えのクラス名簿を頭から繰っていく。
「ええと……もしかしてお前、芦屋(あしや)茉莉(まつり)?」
「貴嶋……くん?」
 声をかけられた茉莉は慌てて制服の袖口で涙を拭った。しかし、夕陽に照らされてなお、わかるほどに彼女の目は赤く、泣き腫らされていた。殴られたのか、熱を帯びたように頬も赤く染まっている。
「お前、何があったの? さっき、C組の佐倉とすれ違ったけど、もしかしてあいつになんかされた?」
「ちょっとね……瑠音(りゅうと)と喧嘩しちゃって。でも……わたしが悪いの。全部、全部。瑠音が気に入らないことをわたしがしちゃったから。わたしが瑠音の気持ちをちゃんと考えられなかったから」
 瑠音というのが佐倉のことであるのを理解するのに陽生は数秒かかった。しかし、瑠音の側にどんな理由があろうと、女子に暴力を振るうのはいかがなものだろうか。
 陽生はその場にリュックを下ろすと、オフホワイトとグレーのストライプ柄のタオルハンカチを引っ張り出す。そして、彼はほれ、とそれを茉莉のほうへと放った。
「それ使っとけ」
 そう言って、陽生はリュックをそのままに踵を返す。どこへ行くの、という弱々しい茉莉の声が背中を追いかけてきた。
「ちょっと野暮用。すぐ戻るから」
「まさか、瑠音に何かする気じゃ……?」
「そんなんじゃねえよ。心配すんな」
 そう言い置くと、陽生はその場を後にする。体育館の入り口脇の自動販売機まで行くと、陽生はスマホ決済でペットボトルの水を買った。それを手に彼は茉莉の元に戻っていく。
「ほら、その顔。ちゃんと冷やしておけよ。そのままの顔じゃ帰れねえだろ」
 ぶっきらぼうに陽生は茉莉に水のペットボトルを押し付ける。ありがとう、と茉莉はそれを受け取ると淡く微笑んだ。無理をしている笑顔だと陽生は思った。
 自分と茉莉は偶然、今日ここで出会っただけだ。きっとあの謎のメッセージとは何の関係もない。
 明日になれば、茉莉と自分は関わりのないクラスメイトへと戻る。このときの陽生は、自分はこの先の日々を朔也や他の男友達とそれなりに楽しく過ごしていくのだと信じて疑っていなかった。