大伴磐貞が宮中を去ってからしばらく経った。左大臣は今のところ空位になっているが、次の公募として右大臣の名が挙がっている。
もっとも、それですべてが一変したわけではない。黎月帝を『つなぎ』と侮る声はほんの少し小さくなったが、鳥毛虫の群がる橘の木も、その奥にある粗末な小屋も、相変わらず内裏の者たちから遠巻きにされている。
夜も更けたころ、鳳子は一人、梨壺を抜け出した。
降り立った庭には白い月の光が差し込み、柱の影を長く落としている。風が通るたび、袿の袖が柔らかく揺れた。
しばらく進んでいると、前に人影が見えた。細身で背が高く、腕にはいくつか書を抱えている。
「主上」
声をかけると、振り返ったのはやはり黎月帝だった。なぜ鳳子がこのような時刻にいるのかと問いたげに、目を瞬いている。
鳳子はすぐさま歩み寄った。
「ちょうど、お呼びしようと思っておりましたの」
「私を?」
帝が不思議そうに首を傾げる。
鳳子は答える代わりに、その手を取った。
「いらして」
帝は面食らったようだったが、手を振りほどきはしなかった。鳳子に引かれるまま、素直についてくる。
月の光を浴びた草が、二人の衣の裾に触れて揺れていた。
辿り着いたのは内裏の端。目の前にあるのは橘の木と、こぢんまりとした小屋――蟲壺だ。鳳子は木の傍まで来ると、ようやく足を止めた。
「ご覧になって」
葉の上で蠢いているものたちの数は減っている。代わりに、小さな塊がいくつもくっついていた。
「蛹、か」
帝がぽつりと言った。鳳子は「ええ」と頷く。
その蛹の一つに、細い裂け目が走った。内側から、何かがゆっくりと身を押し出してくる。
背には濡れて縮んだ羽があった。頼りない動きで殻から抜け出てきたそれは、細い脚で、それでも枝にしがみつく。
背中に負っていたものは、夜気を含むたび少しずつ広がっていった。やがて現れた真っ白な羽が、月明かりを受けてほのかに光る。
「これは……」
帝の掠れた声が、すぐ傍で聞こえた。
隣の蛹も、そのまた隣の蛹も、待ちかねたように背を割っていく。湿った翅が次々に現れ、橘の葉の下でかすかに震えた。
やがて、最初の一匹が枝を離れた。まだ覚束ない羽ばたきで宙を巡り、月へ向かうように舞い上がる。
それを追って、二匹、三匹と飛び立った。
白い蝶たちは、競うように月夜を舞った。橘の木の周りを巡りながら少しずつ高く昇り、光の柱と化して天高く昇っていく。
鳳子は夢中でその様を見上げた。
「これを、主上に御覧に入れたかったのです」
声が、思いのほか弾んだ。隣を見ると、黎月帝も蝶たちを目で追っている。
数日前から、鳥毛虫たちが次々と蛹になっているのを確かめていた。殻を破って出てくるのがいつか、日ごろから蟲を追っている鳳子には見当がつく。それが、まさに今宵だったのだ。
「鳥毛虫たちはいずれ、蝶になります。あんな風に。飛び立つ様を、一緒に眺めとうございました」
「そのために、私を呼びに行こうとしていたのか」
「はい」
しばし、帝は何も言わなかった。
一匹の蝶が二人の間を横切り、鳳子の髪をかすめて高く舞い上がる。その行方を見送ったあと、帝がぽつりと口を開いた。
「……私は、そなたに嫌われていると思っていた」
思いもよらぬ言葉に、鳳子は蝶から帝へ目を移した。
「なぜ、そのようなことを?」
「なぜって……私は、内気で頼りないだろう。蟲壺などと呼ばれるところに引き籠もり、書ばかり読んでいる。そなたにも……蟲のようだと言われた」
「蟲……?」
鳳子ははて、と首を傾げ、やがて思い至った。以前、稲子麿のようだと口にしたことがある。
「よりにもよって、そこを気にしていらしたの?」
鳳子が思わず言うと、帝はますます眉尻を下げた。
「よりにもよって、とは何だ」
危うく笑いそうになり、鳳子は唇を引き結んだ。
「あの日、主上は若苗のかさねの衣を着こなしておいででした。お手やおみ足もすらりと長く……稲子麿のように、素敵だと思ったのです」
黎月帝は、伏せがちだった顔をはっと上げた。
「ではあれは、私を揶揄したのではなく……」
「当たり前でしよう。蟲を悪いもののたとえになどいたしませんわ。だって、わたくしは、蟲が好きなのですから」
夕菊を蚕のようだと言ったのは、健気な様に胸を打たれたからだ。鳳子にとって蟲は愛おしいものであり、蟲にたとえるのはその気持ちの表れ。。
「嘘を吐かず、己の姿を恥じることもなく、ただ懸命に生きている。これほど愛らしいものはございません。だから主上を、つい、好きな蟲に例えてしまったのですわ」
「……好き?」
帝が首を傾げた。
鳳子は一度、瞬きをした。
自分が何を口にしたのか、その意味が遅れて胸の内へ落ちてくる。
好きな蟲に。好きな――。
たちまち頬が熱くなった。
顔を背けようとしたが、もう遅い。帝は驚いたように鳳子を見つめ、それから、ふっと目元を緩めた。
「そんな顔もするのだな」
今度こそ鳳子は、つんと顎を上げた。
「悪姫は照れたりしないとお思いですか」
言い返しても、頬の熱は引かなかった。
頭上では、生まれたばかりの蝶たちがなおも舞っている。風に乗って低く下りてきた一匹が二人の間を巡り、再び月の方へと昇っていった。
その姿を見送っていると、温かなものが触れた。
黎月帝の手だった。躊躇うようにまず指先から触れ、それから、鳳子の手を静かに包み込む。
鳳子が顔を上げると、帝はもう蝶を見てはいなかった。
「一番綺麗な私の蝶が、ここにいるな」
あなたも、愛おしいものを蟲にたとえるのですか。
そう尋ねる代わりに、鳳子はそっと、己より少し大きな手を握り返した。
もっとも、それですべてが一変したわけではない。黎月帝を『つなぎ』と侮る声はほんの少し小さくなったが、鳥毛虫の群がる橘の木も、その奥にある粗末な小屋も、相変わらず内裏の者たちから遠巻きにされている。
夜も更けたころ、鳳子は一人、梨壺を抜け出した。
降り立った庭には白い月の光が差し込み、柱の影を長く落としている。風が通るたび、袿の袖が柔らかく揺れた。
しばらく進んでいると、前に人影が見えた。細身で背が高く、腕にはいくつか書を抱えている。
「主上」
声をかけると、振り返ったのはやはり黎月帝だった。なぜ鳳子がこのような時刻にいるのかと問いたげに、目を瞬いている。
鳳子はすぐさま歩み寄った。
「ちょうど、お呼びしようと思っておりましたの」
「私を?」
帝が不思議そうに首を傾げる。
鳳子は答える代わりに、その手を取った。
「いらして」
帝は面食らったようだったが、手を振りほどきはしなかった。鳳子に引かれるまま、素直についてくる。
月の光を浴びた草が、二人の衣の裾に触れて揺れていた。
辿り着いたのは内裏の端。目の前にあるのは橘の木と、こぢんまりとした小屋――蟲壺だ。鳳子は木の傍まで来ると、ようやく足を止めた。
「ご覧になって」
葉の上で蠢いているものたちの数は減っている。代わりに、小さな塊がいくつもくっついていた。
「蛹、か」
帝がぽつりと言った。鳳子は「ええ」と頷く。
その蛹の一つに、細い裂け目が走った。内側から、何かがゆっくりと身を押し出してくる。
背には濡れて縮んだ羽があった。頼りない動きで殻から抜け出てきたそれは、細い脚で、それでも枝にしがみつく。
背中に負っていたものは、夜気を含むたび少しずつ広がっていった。やがて現れた真っ白な羽が、月明かりを受けてほのかに光る。
「これは……」
帝の掠れた声が、すぐ傍で聞こえた。
隣の蛹も、そのまた隣の蛹も、待ちかねたように背を割っていく。湿った翅が次々に現れ、橘の葉の下でかすかに震えた。
やがて、最初の一匹が枝を離れた。まだ覚束ない羽ばたきで宙を巡り、月へ向かうように舞い上がる。
それを追って、二匹、三匹と飛び立った。
白い蝶たちは、競うように月夜を舞った。橘の木の周りを巡りながら少しずつ高く昇り、光の柱と化して天高く昇っていく。
鳳子は夢中でその様を見上げた。
「これを、主上に御覧に入れたかったのです」
声が、思いのほか弾んだ。隣を見ると、黎月帝も蝶たちを目で追っている。
数日前から、鳥毛虫たちが次々と蛹になっているのを確かめていた。殻を破って出てくるのがいつか、日ごろから蟲を追っている鳳子には見当がつく。それが、まさに今宵だったのだ。
「鳥毛虫たちはいずれ、蝶になります。あんな風に。飛び立つ様を、一緒に眺めとうございました」
「そのために、私を呼びに行こうとしていたのか」
「はい」
しばし、帝は何も言わなかった。
一匹の蝶が二人の間を横切り、鳳子の髪をかすめて高く舞い上がる。その行方を見送ったあと、帝がぽつりと口を開いた。
「……私は、そなたに嫌われていると思っていた」
思いもよらぬ言葉に、鳳子は蝶から帝へ目を移した。
「なぜ、そのようなことを?」
「なぜって……私は、内気で頼りないだろう。蟲壺などと呼ばれるところに引き籠もり、書ばかり読んでいる。そなたにも……蟲のようだと言われた」
「蟲……?」
鳳子ははて、と首を傾げ、やがて思い至った。以前、稲子麿のようだと口にしたことがある。
「よりにもよって、そこを気にしていらしたの?」
鳳子が思わず言うと、帝はますます眉尻を下げた。
「よりにもよって、とは何だ」
危うく笑いそうになり、鳳子は唇を引き結んだ。
「あの日、主上は若苗のかさねの衣を着こなしておいででした。お手やおみ足もすらりと長く……稲子麿のように、素敵だと思ったのです」
黎月帝は、伏せがちだった顔をはっと上げた。
「ではあれは、私を揶揄したのではなく……」
「当たり前でしよう。蟲を悪いもののたとえになどいたしませんわ。だって、わたくしは、蟲が好きなのですから」
夕菊を蚕のようだと言ったのは、健気な様に胸を打たれたからだ。鳳子にとって蟲は愛おしいものであり、蟲にたとえるのはその気持ちの表れ。。
「嘘を吐かず、己の姿を恥じることもなく、ただ懸命に生きている。これほど愛らしいものはございません。だから主上を、つい、好きな蟲に例えてしまったのですわ」
「……好き?」
帝が首を傾げた。
鳳子は一度、瞬きをした。
自分が何を口にしたのか、その意味が遅れて胸の内へ落ちてくる。
好きな蟲に。好きな――。
たちまち頬が熱くなった。
顔を背けようとしたが、もう遅い。帝は驚いたように鳳子を見つめ、それから、ふっと目元を緩めた。
「そんな顔もするのだな」
今度こそ鳳子は、つんと顎を上げた。
「悪姫は照れたりしないとお思いですか」
言い返しても、頬の熱は引かなかった。
頭上では、生まれたばかりの蝶たちがなおも舞っている。風に乗って低く下りてきた一匹が二人の間を巡り、再び月の方へと昇っていった。
その姿を見送っていると、温かなものが触れた。
黎月帝の手だった。躊躇うようにまず指先から触れ、それから、鳳子の手を静かに包み込む。
鳳子が顔を上げると、帝はもう蝶を見てはいなかった。
「一番綺麗な私の蝶が、ここにいるな」
あなたも、愛おしいものを蟲にたとえるのですか。
そう尋ねる代わりに、鳳子はそっと、己より少し大きな手を握り返した。


