平安後宮悪姫伝 蟲愛づる姫は帝に寵愛される

 このごろ、後宮のそこかしこで白い紙包みを手にした者を見かけるようになった。雑色も女孺も例の女房たちも、みな同じようなものを持っている。
 鳳子はそれを横目に渡殿を進んでいた。己の懐にも同じ紙包みが一つ、そっと納めてある。
 やがて辿り着いた清涼殿の東廂。御簾にほど近いところに腰を据えた。薄幕を一枚隔てた向こう側には黎月帝がいる。
 待つことしばし。やがて東廂に左大臣・大伴磐貞の姿がやってきた。鳳子の方をちらりと見てから、いつものように裁可が必要な書類の束を抱えてどっかと座り込む。
「主上。例の国より、また文が届きましたぞ。蔵を開けて穀物を分けてほしいと性懲りもなく……」
 磐貞は文を広げ、さも煩わしげに目を走らせた。届いたばかりの嘆願を、もう読む価値もないと決めてかかっている。
「説明は不要ですな。前と同じように、否とお答えくださ——」
「是、と伝えよ」
 帝の声が、磐貞を遮った。
 磐貞はぽかんと口を開けた。何を言われたのか分からぬ、といった顔だ。
「聞こえたか、左大臣。蔵を開く。民が飢えておるのだ」
 御簾の内から、黎月帝が念を押す。
 途端、磐貞の眉間に皺が寄った。
「ここは否、と答えるべきですぞ。失礼ながら、主上はまつりごとの何たるかをまだご存じない。面倒なことはすべて、我にお任せください」
 鋭い眼差しには怒りの色が浮いている。声には侮りが滲んでいた。
 磐貞の言葉を要約するならこうなるだろう――つなぎの帝は黙っていろ。
 だが、帝は今度は口を噤まなかった。御簾の内で居住まいを正し、鳳子の方に顔を向ける。
 鳳子はこくりと一つ頷いて見せた。黎月帝は再び磐貞に目をやり、静かに語り出す。
「確かに私は、まつりごとのことなど分からぬかもしれぬ」
「でしょう。ならば我が……」
 磐貞はにやりと口角を上げたが、黎月帝は手にしていた蘇芳扇で床をとん、と打ち鳴らした。
「だが、あの仮の蔵のからくりなら、知っている」
「からくり――とは」
 ごくり。磐貞が喉を鳴らしたのが鳳子にも分かった。
「先ごろ、あの蔵に羽蟻が湧いた。その様を后がしかと見ている」
 黎月帝の話を聞きながら、鳳子は奥の壁が黒く染まるほど群れていた羽蟻の様子を思い出し、ほうっと溜息を吐いた。
「ふんっ。あんなものをわざわざ見に行くとは。蟲狂いの女御め」
 磐貞はぼそりと呟く。
 聞こえているわよ、と口に出さずに言い返し、鳳子は黎月帝の声に耳を澄ませた。
「后の話によれば、外の壁は何ともなかった。だが蔵の内に踏み混むと、壁の外から羽蟻が湧いて出てくるように見えた、とのことだ。これは一体どういうことか――」
「羽蟻? 主上は何の話をなさっておいでですか。まさか、女御さまの好みが移ってしまわれたか」
 磐貞はにやにやと笑みを浮かべている。子供の遊びに付き合ってやっている……そんな顔だ。
 だが、黎月帝は一歩も引かない。
「あの仮の蔵の奥は、二重壁になっているのだ。一番奥に見える壁の向こうに、実は幾許かの空間があると考えられる。羽蟻はその空間で涌いた。だから外の壁には何もいなかった」
 帝はそこで一旦話を止めた。
 御簾の内から、じっと見つめられている気がした。鳳子は再びこくりと頷いてみせてから、御簾を巻き上げる。
「なっ……主上」
 黎月帝自ら、姿を現す形となった。すっかりくつろいだ様子で座っていた磐貞も、さすがに背筋を伸ばす。
 帝はそんな左大臣を、蘇芳扇の先で指し示した。
「——あの蔵の普請を命じたのは、左大臣。そなただったな」
「左様ですが……」
 その答えを聞いて、ずっと黙って話を聞いていた鳳子は磐貞の方に身体を向けた。
「先日、蔵人たちに調べさせました。実際、あの仮の蔵の壁は二重になっていました。主上がおっしゃったように、奥の壁の向こうにもう一つ、小部屋がありましたの。外の壁の目立たぬところに、その小部屋に出入りできる隠し戸が設けられていました」
 早朝の蟲壺で語り合ったあの日、黎月帝は蔵人たちに密かに蔵の調査を命じた。板の継ぎ目を上手く使って見た目を馴染ませてあり、捜すのに難儀したが、隠し戸が見つかった。
「二重壁でできた小部屋に踏み込んでみたら、上布や塩、そして砂金の粒が少し置いてありました」
 鳳子に続けて、黎月帝が厳しい口ぶりで言った。
「あれらは各国からの献上品の一部だな。それを二重壁の間の小部屋に避けておいて、のちに隠し戸から密かに運び出し、どこかへ流した……横流しで得た富は、己の懐に入れた。違うか、大伴磐貞」
 名指しされた磐貞は、ぐっと息を呑んだ。
 だが、すぐさま口角を引き上げ、ふてぶてしい顔つきになった。
「なんと。主上と梨壺の女御さまは、我が横流しをしていたとおっしゃるのですかな」
「ええ、そうよ。だって、仮の蔵の不振を命じたのは左大臣さまです。なら、二重壁のからくりも知っていたことになるわ」
「女御さま。それはいささか話が飛躍すぎですぞ。壁が二重であろうと、そこに何があろうと、我の与り知らぬこと。普請を命じたとて、何の証になりましょう」
 磐貞は完全に居直っている。だが言う通り、普請しろと指示したからといって、横流しをしていたとまでは言い切れない。
 帝は磐貞を見据えた。
「調べたのは二重壁のことだけではない。蔵に収められていた献上品そのものも検めた。結論から言えば、諸国から届いた目録に記されていた数と、蔵に納めた品の数が合っておらぬ」
「目録に記されていた数? それなら合っているはずですぞ。それに主上は、御裁可の際その目録を一度ご覧になったきりだ。目録自体は我がしかと管理していて、最近は誰も閲覧をしておりませぬゆえ、主上も確かめていないはず。なのに、なぜそこに記されていた数が分かるのか」
 蔵の調べは、磐貞には伏せて行った。左大臣の監視下にあった献上品の目録を閲覧すれば、事が本人に露見してしまう。だから鳳子も帝も、目録は見ていない。
 しかし。
「見ていなくても、分かるのですよ」
 鳳子はふふっと笑って、黎月帝を振り返った。
「但馬国、布五十疋。美濃国、米八十束。讃岐国、塩二百籠……」
 黎月帝の口から、国の名と献上品とその数が次々と飛び出す。淡々と言葉が連なっていくうちに、磐貞の顔が強張っていくのが分かった。
「——以上だ。どこかに間違いがあるか、左大臣」
 磐貞はつかの間、言葉を失った。だがすぐに目を眇め、首を横に振る。
「お見事なものでございますな。されど、それが正しいという証はどこに。主上のお頭の中にあるものが、真とは限りますまい。確か、但馬国からは布を三十疋しか献上されていないはずですぞ。公に保管されている目録にも三十と書かれている。なんなら、今ここに目録を持参したっていい」
 ものすごい自信だった。実際、但馬国布三十疋、と記された目録は存在するのだろう。それが今、公の書類として保管されている……。
 磐貞は嘲笑うような目で黎月帝を眺めていた。いつもなら帝は背を丸め、唯々諾々従っていただろう。
 だが今日の黎月帝は身を竦めない。眼差しに、力がある。
「保管してある目録は――貴殿が書き換えたものだろう。磐貞」
 帝のきっぱりとした口ぶりに、初めて磐貞の片方の眉が下がった。
「え……?」
「私が見た目録には確かに五十疋と書かれていた。裁可のあと、貴殿が少ない数字を書いた偽物の目録とすり替え、本物は捨てたのだ」
 磐貞はそこで声を荒らげた。
「……憶測でものを仰せられるな! 捨てたという本物が、どこにございます。ないものを、どうして証に立てられましょう」
 捨てたという本物が今ここにない以上、いくらでも言い逃れができると踏んだらしい。つかの間下がった磐貞の眉が、またきゅっと吊り上がる。
「そもそも——我は献上の品に指一本触れてはおりませぬ。目録を保管しておっただけですぞ。仮の蔵に品々を運び込んだのは蔵人所の雑色たちだ。ゆえに我は、あの仮の蔵に立ち入ったことすら、ただの一度もない」
 ただの一度もない。磐貞はそう言い切った。自信にみなぎった口ぶりで。
 その言葉を、帝と鳳子は待っていた。
「ならば、安心した」
「安心しましたわ」
 帝と鳳子の声が、ほとんど重なる。
 磐貞は、虚を衝かれた顔をした。
「……は?」
「先ほども言ったが、あの仮の蔵に羽蟻が涌いたのだ」
 帝は、静かに続けた。たった今まで数を諳んじていたのと、寸分変わらぬ調子で。
 磐貞はしきりに首を傾げている。
「羽蟻……蟲のことなら、我が后に話をさせた方が早いだろうな。——鳳子」
 黎月帝は鳳子の名を呼んだ。
 鳳子は「お任せください」と答えてから、磐貞に向かって笑いかけた。
「実は、仮の蔵に涌いたあの羽蟻は、羽の付け根に毒を持っております。飛び立つたびに、あたりへ毒を撒き散らすのです。目に見えぬほど細やかな毒ゆえ、浴びてもすぐには何も起こりませぬ。でも……」
「でも……?」
 磐貞の顔が引きつっている。鳳子はそこに、楔を打ち込んだ。
「その毒は腹の内に少しずつ溜まってまいります。そしてある日ふいに、身体のあちこちで悪さを始めるのです。それはそれは、ひどいことに」
「ひ、ひどいこと、とは」
「初めは、手や足の先に水ぶくれができるだけ。けれどそれはやがて瘤となり——身体じゅうがぼこぼこと腫れ上がるそうですわ。七転八倒するほどの痛みも出て、最後は……」
 それ以上はあえて濁した。
 帝が、後を引き取る。
「ゆえに、あの蔵によく立ち入った者には、解毒の薬を渡しているのだ」
 磐貞ははっと息を呑んだ。
「最近、みなが手にしておるあの紙包み。あれがその薬か……!」
「ええ、そうですわ。わたくし、羽蟻の毒を取り除く薬の作り方を知っておりましたの。典薬寮の者たちの力を借りてそれを拵えたのです。何せわたくしは、蟲愛づる女御でございますから」
 言いながら、鳳子は懐へ手を入れた。取り出したのは、白い紙包みだ。
 磐貞の目が、吸い寄せられるようにそれを追う。
「だが、左大臣。そなたには薬を渡さなくてよさそうだな」
 帝がさらりと言い放つと、磐貞は引きつった顔で「えぇ?!」と叫んだ。
 鳳子がすかさずとどめを刺す。
「あら、なぜそんなお顔をなさっているの? お薬(これ)は必要ないでしょう。だって左大臣さまは、仮の蔵にお入りになっていないのですもの」
 鳳子はひらひらと、手にした紙包みを振ってみせる。
 その刹那、磐貞が動いた。裁可待ちだった文の束を投げ捨て、鳳子の方へ手を伸ばしてくる。
 だが指が触れるより僅かに早く、鳳子は身を引いた。磐貞の手が空を切る。
「ええい、薬を寄越せ」
「あら。なぜ必要なのですか。仮の蔵にはお入りになっていないのでしょう。それとも、立ち入ったのですか。献上の品を、横流しするために」
「おのれ……蟲ばかりにかまけておる、悪姫の分際で……っ!」
 絞り出した声に、品位はもうなかった。
 磐貞は膝立ちになり、拳を振り上げた。あまりに突然で、さしもの鳳子も身をかわせない。
 痛みを覚悟して目を閉じかけたそのとき、長身が眼前へ滑り込んできた。
 鳳子の前に立ったのは、黎月帝だった。今にも振り下ろされようとしていた磐貞の腕は、あっけなく捻り上げられている。
「ぐっ……!」
 磐貞が、苦悶の声とともに床へ伏せた。
 見上げたその目にあるのは、捻られた腕の痛みより、驚きだった。
「主上……な、なぜ、かような身のこなしが……」
 黎月帝は、手の力を緩めぬまま答えた。
「私は寺で育った。日々掃除や水汲みの作務をこなし、滝に打たれて行をした。身体を使うことには、それなりに慣れている」
 鳳子は、床へ組み伏せられた磐貞を見下ろし、言った。
「このお方は、黎月帝にあらせられます。態度を改めなさい」
 磐貞は「はっ」と気の抜けたような声を発した。帝の手が緩むとその身はずるずると床へ崩れ、深く項垂れる。あれほど居丈高だった左大臣の姿は、もうどこにもない。
 朝露に濡れる蟲壺で、あの日、黎月帝は蔵の中の献上品が少ないことを鳳子に告げた。さらに鳳子が見た羽蟻の様子から、壁が二重になっているのでは……と言い出した。
 それから二人で額を寄せ合って考え、蔵人所に今一度蔵を調べさせ……すぐに左大臣の悪事に気が付いた。
 問題は、明確な悪事の証がないことだ。だが、それはたった今、示された。磐貞自身の振る舞いによって。
「大伴磐貞。薬を欲しがるということは、蔵に入っていないというのは嘘だな。貴殿はあそこに秘密裏に小部屋を設け、そこに献上の品の一部を隠して横流ししていた。そのことを認めるか」
 帝は厳しい口ぶりで問いただした。
「認める。だから薬を……羽蟻の、解毒薬を、くれ」
 磐貞は、鳳子の足に縋り付くようにして懇願してきた。
「ああ、これ?」
 鳳子は、背中に回していた紙包みを、顔の傍でひらひらと振った。
「ごめんなさい。わたくし、何か勘違いをしていたようですわ。――羽蟻に、毒などありませぬ」
「……何、だと」
「まあでも、これは飲んでも害のないものです。そんなに欲しいのなら、差し上げましょう」
 磐貞の前で、紙包みをそっと開いてやる。
 中に入っていたのは白い粒。岩塩を砕いたものだ。
「なっ……」
 薬の正体に気付いたのか、磐貞は目を見開いたまま完全に固まった。
 羽蟻の毒などもとよりない。宮中の者には、伊勢で取れたものだと言って、紙に包んだそこらの塩を配った。物忌みのときに飲めば穢れが消えるかもしれない……などと曖昧に伝えると、みなこぞって欲しがった。雅な者たちにとっては、穢れが何よりも恐ろしいのだ。
 鳳子と黎月帝が二人で考えた策。そこに磐貞は嵌った。
 こうして左大臣・大伴磐貞は、献上の品を横流ししていた咎により、その位を解かれた。
 二重壁の仮の蔵はほどなくして取り壊され、品は別の場所へと移された。
 壁の狭間に湧いていた羽蟻たちは、誰に追われるでもなく、思い思いの方へ、ひらひらと飛んでいった。