平安後宮悪姫伝 蟲愛づる姫は帝に寵愛される

 桐箱の中の白い蟲たちが繭になった。
 鳳子は無論、その繭を生糸にするつもりなどはなかった。あの蠢く稚児たちが懸命に作り上げたものは清廉で、神々しささえ感じる。
 ほうっと溜息を吐きながら白い繭玉を眺めていると、夕菊が息を弾ませながら几帳の内に飛び込んできた。
「鳳子さま、鳳子さま!」
「どうしたの。そんなに慌てて」
 鳳子が顔を上げると、夕菊は胸に手を当てて息を整えた。
「蔵に……蔵に、蟲が湧いていると、みなが騒いでおります」
「蟲ですって!」
 鳳子はぴくりと肩を揺らした。
 夕菊の話はこうだ。
 清涼殿の西南、蔵人所にほど近い雑舎の一つを、今、諸国から届いた献上品を収める仮の蔵としている。本来の蔵……進物所は別にあるが、目録と帳簿を整理する間、一時的にそこに置いておくのだ。
 その仮の蔵に、羽蟻が湧いた。出入りした蔵人所の雑色がそれを見つけて気味悪がり、ちょっとした騒ぎになっているという。
「鳳子さまのお耳に入れたら、お喜びになるかと思いまして。……あの、余計なことでしたでしょうか」
 羽蟻の話を早く伝えるために、よほど急いでここまで来たのだろう。夕菊はまだ息が上がっている。
「上出来よ。よく知らせてくれました」
 鳳子は立ち上がって夕菊の手を取り、しかと労ってから纏っていた袿をするりと脱いだ。
「た、鳳子さま。何を……」
「夕菊、何をしているの。手を貸してちょうだい。着替えるわよ」
 鳳子は夕菊に手伝ってもらいながら長くて重い衣を解き、切袴姿になった。
 羽蟻はあちこち飛び回る。長い裾を引きずっていては蟲を追うのが難しい。実家にいたころはいつも、このような出で立ちだった。
 着替えが終わるころ、夕菊がおずおずと口を挟んできた。
「よくお似合いです。ですが、梨壺の女御さまともあろうお方が、そのような短い袴で内裏をお歩きになるのは……」
 切袴の裾からは、白い足先が少し見えている。高貴な身分の女性が足首から下を晒すことはそうそうない。
 しかし鳳子は夕菊の懸念を「行くわよ」の一言であっさりとかわし、履物を携えて梨壺を飛び出した。
 早く蟲が見たくて、どうしても急ぎ足になる。あとをついてきている夕菊は、長袴を穿いているせいか随分と遅れを取っているようだ。
 梨壺と呼ばれている昭陽舎から出て、蔵人所の方を目指す。
 すると、途中の渡殿で数人の女房たちが話し込んでいた。女房たちは鳳子の姿に目を留めると、一斉に眉をしかめる。
「まあ、はしたない」
「あれが噂の、蟲愛づる……」
 鳳子は自分を指さしながら忍び笑いをする女房たちの傍を、黙って通り抜けようとした。
「後ろから来るのは后付きの女房かしら。あちらもみすぼらしいわね」
「田舎の貧しいお家の出だそうよ。本当なら、後宮(ここ)にはとてもとても……」
 しかしそんな声が聞こえてきて、ぴたりと足を止めた。まだ何やらにやにやしている女房たちの方へ、ゆっくりと顔を向ける。
「そこのお方。足元に蟲がおりますわよ」
 そう言って、平然と舌を指さしてやった。
 女房たちは途端に「きゃあっ」と悲鳴を上げた。
 一人がその場から飛びのくような仕草を見せ、つられて他の者も逃げようとする。だが、長袴の裾や後ろに引きずった裳が邪魔をして、身体の向きを変えることすらままならない。みな揃って己の裾を踏み、隣の袴を踏みつけ……結局女房たちは渡殿で折り重なって転んでいた。
 鳳子はそれを見下ろしながら、きゅっと口角を上げる。
「ごめんなさいね、蟲なんていなかったわ。見間違えました」
 夕菊がそこでやっと追いついてきて「あらあら」と倒れ込んでいる女房たちを助け起こした。
「鳳子さま、何かあったのですか?」
 夕菊ははて、と首を傾げている。先ほどの、女房たちの悪口は聞こえなかったようだ。
 鳳子は相変わらず口角を上げたまま答えた。
「何も起こってはいないわよ、夕菊。その方たちは勝手に転んだだけ。儀式でもないのに、そんな動きにくいものを着ているからよ」
 派手に転んでしまったことが応えているのか、なんとか起き上がった女房たちはみな茫然としている。
 鳳子はそれを尻目に、くるりと身体の向きを変え、再び渡殿を進み始めた。
 問題の蔵に行くには一度庭に降りる必要があるので、渡殿に設けられていた(きざはし)のところで履物に足を入れる。
 やがて鳳子と夕菊は、清涼殿の西南、蔵人所の近くまで来た。
 問題の蔵は、その傍に建てられていた。まだ普請したばかりのようで、僅かに木の香りがする。
 正式な納殿ではないからか、さほど大きな蔵ではなかった。鳳子はまず、建物の周りをぐるりと回る。
 羽蟻が湧いたと聞いていたから、てっきり外を群れ飛んでいるものと思っていたが、それらしい姿はない。
 木を食う蟲もいなければ、何かが巣を作っている様子もなかった。床下を軽く覗き込んでみても、まだ新しいせいか蜘蛛の糸すら張られていない有様だ。
 羽蟻たちはどこかしら……鳳子は首を傾げながら、仮の蔵の正面に回り込む。
 扉は開いていて、蔵人所の雑色たちが忙しなく出入りしていた。
 みな羽蟻がどうのと口にしており、どうやら涌いた蟲たちを外に追い出そうとしているようだ。
 鳳子は急いで蔵の中に足を踏み入れた。
 並んでいる布の包みや木箱の周りを、羽蟻が飛び交っている。それらがどこから飛んでくるのか目で追うと、奥の壁が黒くなっているのに気付いた。
 壁の色が変わっているのではない。多くの羽蟻が、そこに固まっているのだ。
「まぁ……!」
 鳳子は自分でも分かるほど顔を綻ばせて、その壁に駆け寄った。奥に行くにつれ飛び交う蟲たちが多くなる。
「た、鳳子さまぁ~」
 蔵の入り口では夕菊が泣きそうになっていた。以前ほどではないにせよ、やはりまだ蟲は苦手なようだ。
 こんなに美しいのに。
 蟲の透き通った羽が、きらきらと輝いている。鳳子にとっては、どんな宝玉よりも綺麗なものに思えた。
 一人、朽ち果てていく実家でじっとしていたとき、飛び込んでくる蟲の羽の輝きが救いだった。
 落ちぶれ、誰も相手にしなくなった鳳子に、蟲だけが綺麗なものを見せてくれた。
 どんなにみすぼらしくても生きていていい。ありのままでそこにいるだけでいいのだと、鳳子は蟲を見て思った。
 でも、どうしてこの内壁だけに蟲が……。外側は綺麗だったのに。
 しばらくして首を傾げたとき、ふと人気(ひとけ)を感じた。
「おっ、主上!」
 振り返ると同時に、夕菊が素っ頓狂な声を上げてその場に膝をついた。
 現れた黎月帝は、今日も緑がかった衣を身に着けていた。背を丸め、蔵の中を覗き込んでいる。
 後ろには蔵人が何人か控えていた。蔵に蟲が湧いているという話が耳に届き、わざわざ覗きに来たのだろうか。
 帝は、壁の前で佇んでいた鳳子に目を留めた。
 それだけだった。后が――自分の妻がそこにいるというのに、何も言わない。
「あの……」
 鳳子の方から声をかけようとしたが、帝は僅かに首を傾けて、すぐさま踵を返した。そのまま供を連れ、清涼殿の方へ歩き去っていく。
「お声を、おかけにならなくて、よろしかったのでございますか」
 夕菊はそろそろと立ち上がり、黎月帝が去った方を見つめた。それから、最近ふっくらとしてきた頬を少しだけ膨らませる。
「鳳子さまを后としてお迎えになったのに一言もないなんて、主上は少し冷たすぎます。御渡りもないし、何をお考えになっていらっしゃるのか」
 鳳子は羽蟻の飛び交う蔵からゆっくりと出て、きゅっと口角を上げた。
「わたくしは気にしていないわよ、夕菊。――もとより、こんなものです」
 そう。体裁だけの妻など、所詮は『こんなもの』だ。
「こんなもの、よ」
 鳳子は今一度、そっと呟いた。己に言い聞かせるように。

 こんなもの、こんなもの……。
 心の中でそう唱えているうちに、幾日か過ぎた。三月(みつき)前、入内したときはまだ冬の気配が漂っていたのに、内裏はもう深緑の季節を迎えている。
 その日、白い月がまだ空の端に残る早朝、鳳子は橘の木の下にいた。
 桐箱の白い稚児たちはもう、みな繭になっている。ならば『この子たち』もそろそろ――そう思って枝先を見たが、緑の葉の上では鳥毛虫たちが相変わらず元気に蠢いている。
 のんびり屋なのかしら。鳳子はふっと息を吐き、懸命に葉を食んでいる蟲たちに見入った。
 朝露が蟲たちの身体を濡らしている。毛の間に溜まった水滴は、さながら石英の珠だ。橘の木の爽やかな香りも立ち昇り、鳳子はえもいわれぬ心地に身を委ねる。
 静寂を破ったのは微かな物音だった。
 振り返ると――黎月帝がいた。
 今日は空に残る月と同じ、白の衣に身を包んでいる。腕には新しい漢籍を数冊抱えていた。だが俯きがちで、優しげな細面には翳りがある。
 姿を見ても声をかけてくれなかった。御渡りもない――そんな些細なことなどかなぐり捨て、鳳子は気付けば口を開いていた。
「主上」
 黎月帝は顔を上げた。
 再び俯いてしまわぬうちに、鳳子は続きを切り出す。
「何か、気に病んでいらっしゃることがおありですか」
「……なぜ、そう思った」
 掠れた声が返る。鳳子は答える代わりに、橘の枝の鳥毛虫を一匹、指の先で示してやった。
「わたくしが、この子たちのたかる木を前にして俯いていたら、主上はどうお思いになります」
 帝は僅かに眉を寄せてから、ぽつりと言った。
「それは――一大事だろうな。そなたが蟲を前にして喜ばぬとは、よほどのことだ。何があったのか、聞いてみたくなる」
「同じことですわ。主上は今、大好きな書物を抱えていらっしゃるのにそのお顔。気にならないわけがございません」
「気になる……? 私のことが?」
「はい。とても」
 鳳子が即答すると、帝は虚を突かれたように一旦口を噤んだ。しばらくして、肩からすとんと力を抜く。
「……蟲壺へ行こう」
 帝はそう言って、橘の木の奥――粗末な小屋の方へと歩き出した。鳳子もそのあとに続く。
 木の下を潜るとき、黎月帝はやけに身をかがめていた。
 普段はみなが平伏(ひれふ)すお方が自ら頭を下げる……その理由に、すぐさま思い至る。
 この橘の木には鳥毛虫がたかっている。それらを己の肩や頭で払い落とさぬよう、黎月帝はわざわざ気を使っているのだ。
 その些細な仕草に、鳳子はしばし見惚れた。
 小屋の中に入ると、二人は向かい合って腰を落ち着けた。狭い板敷きに、外から滲み入る朝日がうっすらと差している。
「何かあったのですか」
 鳳子が水を向けると、黎月帝は微かに頷いた。
「まつりごとのことが、少々気になっている。……だが、こんなことを私が悩んだところで、仕方のないことかもしれぬ」
 帝は背を丸め、俯いた。せっかく口にしたものを、自分で押し込めているようだ。
 鳳子は逆に、しゃんと背を伸ばした。
「仕方ない、で片付けておしまいになるの」
 黎月帝は、内向きがちだった顔をはっと上げた。
 その目をまっすぐ見て、鳳子はさらに続ける。
「この間、傍で見ていて思いました。まるで本当の主上が別にいて、あなたさまはお留守番でもしている子供のようだと」
「留守番をする子供、か」
 細面に自嘲めいた笑みが浮かんだ。しばらく鳳子を見つめてから、黎月帝は膝の上で指を組む。
「私は、先帝とは歳の離れた弟でな。幼いころに寺へ預けられた。経を読み、書を写し、そのまま朽ちるものと心を決めていた。まさかこの身が帝位に就くなど、欠片も思っていなかった」
「そのお話は、わたくしも窺っております」
「帝となるための教えなど、何一つ受けておらぬ。後ろ盾もない。ゆえに、何を言っても通るはずがないだろう。黙って座しているほかに、私にできることがあるか」
 黎月帝は、あくまでつなぎの帝。そのつなぎが、まつりごとに関わることなど誰も想定していない。
 宮中では後ろ盾がなく、一人籠もって漢籍を読んでいれば、その小屋は蟲壺などと揶揄される。
 黎月帝は、鳳子と同じなのだ。
 いや、今の鳳子には夕菊がいる分はるかに心強い。後ろ盾がなく、一人でいては、何もできないのか……。
「できることは、ありますわ」
 鳳子はぴしゃりと言い切った。黎月帝は僅かに眉を吊り上げる。
「何を言う。私は、つなぎの帝でしかない……」
「そんなこと、言わないで!」
 鳳子は思わず身を乗り出していた。
 これ以上、下を向いてほしくなかった。黎月帝の目を見ながら、己の胸に両の手を重ねる。
「力がなくても、身体が動かなくても、声を発せなくても、『ここ』があるでしょう! なら、民を思うことならできます。それは主上にとって一番、大切なことではありませんか。そして、主上はそれがすでにできております」
「すでにできている……?」
 帝の喉が小さく動いた。鳳子は大きく頷いた。
「先日、租税の蔵を開くか否か、主上は国司からの文を見て悩んでおいででした。すぐにご決断ができなかったのは、それだけ民のことを考えていたからでしょう? 民に寄り添っていたからこそ、即答できなかった。それに――」
 言いさして、鳳子は戸口の方、霧にけぶる橘の木へと目を投げた。
 あの木の下を、帝がどのようにくぐってきたか。たった今、この目で見たばかりだ。
「鳥毛虫を一匹も潰さぬよう腰を折って、この小屋へお入りになる。あれを優しさと言わずして、何と言いましょう」
「しかし、私はみなに蟲壺の主などと呼ばれていて……」
「あなたは帝です。わたくしの夫です」
「え……?」
 黎月帝はぴくりと肩を揺らした。
「何より、蟲壺の主のどこが悪いのですか。わたくし、蟲は大好きですわ!」
「大好……き?」
「はい」
 蟲は好きだ。そう言っただけなのに、帝の頬がなぜか赤い。
 だがしばらくして、その顔つきがぐっと引き締まった。鳳子はすかさず促す。
「まつりごとが気になっていらっしゃるのですね。詳しくお話くださいますか」
「……私が引っかかったのは、蔵の中の、献上の品についてだ」
 ようやく黎月帝が胸の内を語り始めた。鳳子は水を差さぬよう、頷くだけに留めて耳を傾ける。
「目録には、裁可の折に一度だけ目を通している。たった一度きりだ。だが先日、仮の蔵を覗いたとき、頭にあるものと蔵の中の景色とが、どうにも合わなかった。何が違うのかははっきりせぬが……」
 帝は額に指を当て、目を閉じた。一度しか検めていない目録の文字を、今まさに瞼の裏で追っているような仕草だ。。
 そこで気付いた。
 見た、と一言お声を発してくださるだけでいい――そう言われて渡されたものを、黎月帝はすべて頭の中に叩き込んでいるのだ。
 鳳子はその聡明ぶりに息を呑んだ。白楽天の詩を、いくつも諳んじてみせただけのことはある。
「仮の蔵といえば、わたくしも一つ、気になることが」
 今度は鳳子が膝を進めた。
「何だ。……そういえば、あの蔵には蟲が湧いていたな」
「まさにそのことですわ。あの羽蟻、腑に落ちずにおりました。蔵をぐるりと回りましたが、外の壁には一匹もおりませんでしたので。なのに中へ入れば、奥の内壁にだけあれほどの羽蟻が」
「なるほど。それは確かに妙だ」
「はい。あれだけの羽蟻が、いったいどこから入ってくるのか不思議でございます。外からではないなら内壁の、その奥から湧いて出ているとしか思えませぬ」
「内壁の……奥」
 次の刹那、帝は弾かれたように立ち上がった。白い衣が翻り、低い天井すれすれまで背が伸びる。
「どうなされました」
 尋ねると、黎月帝は鳳子の傍で膝を折り、耳元にそっと唇を寄せた。
 喋るたびにかかる吐息が、少しくすぐったかった。